今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『あら野』から〔第38回/巻之四~第361句~370句〕」をご紹介する。
361隣(となり)なるあさがほ竹(たけ)にうつしけり 鴎歩(注1)
【意】垣一つ隔てた隣家の庭で綺麗に咲いている朝顔
/ 隣家に頼み込んで、其の朝顔の一つを竹に巻き付かせて我家の庭に迎え入れた
【解説】季語:あさがほ=初秋
/「竹(たけ)にうつしけり」と仔細に詠む処が俳諧
(注1)鴎歩(おうほ(生没年不詳)):美濃国岐阜の人
/『あら野』に入句
362
あさがほやひくみ(注1)の水(みづ)に残(のこ)る月(つき) 胡及(注2)
【意】夏の残月のある早朝
/ 残月が朝顔の垣根の足許に溜まった水溜りに映っている
【解説】季語:あさがほ=初秋
/(注1)ひくみ(低み):低い所
(注2)胡及(こきゅう(生没年不詳)):尾張国名古屋の人 /『あら野』などに入句
363
葉(は)より葉(は)にものいふやうや露(つゆ)の音(おと) 鼠彈(注1)
【意】葉の上の露がそれより下の葉にしたたり落ちていく様子は、伝言をしている様で、実際に耳には聞こえないが「露の音」がする様な気さえして来る
【解説】季語:露=三秋
/ 歌語にも「露のかごと」「露のことのは」がある(注1)鼠弾(そだん(生没年不詳)):尾張国名古屋の浄土寺僧侶 /『あら野』・『あら野後集』・『其袋』等に入句
364
秋風(あきかぜ)やしらきの弓(ゆみ)(注1)に弦(つる)はらん 去来(注2)
【意】「『秋風』の『爽やかさ』」と、「『新涼』に対して『やゝ身構える思いという心の在り方』を弓に弦を張るという行為にて具現化」を対比した
【解説】季語:秋風=三秋
/ 此の句は、三秋の季語「『秋風』=【素風(そふう)】」と「『しらき』=【素木(しらき)】」の【素】をかけて一ひねりした去来ならではの秀句!(注1)しらきの弓:漆を塗り籐を巻く等の細工を施していない弓
(注2)向井去来(むかい きょらい(1651-1704)):肥前長崎に儒医向井玄升の次男として誕生 / 本名:向井平次郎 / 父は後に京に上り宮中儒医として名声を博す / 去来も、当初医者を志す / 兄元端も宮中の儒医 / 去来と芭蕉の出会いは、貞亨元年、上方旅行の途中に京都生まれの江戸俳人和田蚊足(ぶんそく)が仲立ちし、去来と其角が先ず出会い、その其角の紹介で始まったという /「西国三十三ヶ国の俳諧奉行」とあだ名された様に京都以西の蕉門を束ねた / 嵯峨野に別邸落柿舎を持ち、芭蕉は此処で『嵯峨日記』を執筆 /『去来抄』は芭蕉研究の最高の書とされる
365
涼(すず)しさは座敷(ざしき)より釣(つる)鱸(すずき)かな 昌長(注1)
【意】川辺の楼閣から川鱸を釣るのは秋の爽やかな一情景
/ 貞門俳句に「座敷にて鱸を釣るや屋形舟」(音頭集) /「座敷デ鱸ヲ釣ル」という諺語(げんご)があった
【解説】季語:釣鱸=仲秋〔←・鱸の旬は秋
/ 鱸は年中つれるが、水温の下がって来る秋の落釣りを季語とする〕(注1)昌長(しょうちょう):人物については不明
366
畦道(あぜみち)に乗物(のりもの)すゆる(注1)いなば(注2)かな 鷺汀(注3)
【意】高貴な人物の野遊
/ 田の畦道に駕籠(かご)を停めて、秋風にそよぐ稲葉に見入っている
【解説】季語:いなば(稲場)= /「賤(しづ)のをの門田の稲のかりに来て飽かでも今日をくらしつるかな」(新勅撰集・田家秋興)の趣 /(注1)すゆる:「すうる」で「据える」こと
(注2)いなば(稲場):田圃のこと
(注3)鷺汀(ろてい(生没年不詳)):尾張国鳴海の人 /『あら野』等に入句
367
まつむしは通(とほ)る跡(あと)より鳴(なき)にけり 一髪(注1)
【意】マツムシが鳴いている
/ 近づくと鳴き止むが、通り過ぎると又直ぐに鳴き始める
【解説】季語:まつむし=初秋
/(注1)一髪(いっぱつ(生没年不詳)):美濃国の人 /『あら野』等に多数入句しているが、人物について詳細不明
368
きりぎりす(注1)燈臺(とうだい)(注2)消(きえ)て鳴(なき)にけり 素秋(注3)
【意】部屋の燭台の灯(あか)りを消した途端に蟋蟀(こおろぎ)は直ぐに鳴き始めた
【解説】季語:きりぎりす=初秋
/ 白居易の五言絶句『夜雨』の起句と承句を俳句にしたもの
夜雨 / 白居易
早蛩啼復歇 / 殘燈滅又明隔窗知夜雨 / 芭蕉先有聲
早蛩(そうきょう)啼いて復た歇(や)み /
殘燈滅して又明らかなり
窗(まど)を隔てて夜雨を知り / 芭蕉先ず聲(こゑ)あり
《意》早くからコオロギが鳴いては歇(や)み /
油の残り少ない灯火は細くなっては明るくなる
窓越しでも夜雨が降るのは分かる / 雨が芭蕉の葉を弾(はじ)く音が聞こえるからだ
(注1)きりぎりす(螽斯):蟋蟀(コオロギ)のこと
(注2)燈臺(灯台):部屋の照明用の灯り(←・海の灯台ではない)(注3)素秋(そしゅう(生没年不詳)):美濃国岐阜の人 /『あら野』に入句
369 あの雲(くも)は稲妻(いなづま)を待(まつ)たより哉(かな) 芭蕉
【意】あの雲は、やがて稲妻を呼んで雨を招く雲なのであろう〔←・裏側に、男を待つ宵の間の女という古典的面影が浮かび上がる仕掛けになった句〕
【解説】季語:稲妻=三秋
/1688(貞亨05)年秋 /『笈の小文』の旅の後、『更科紀行』の直前三河辺りで詠んだ句か
/ 「稲妻」は、古くから稲は稲妻をうけて結実すると信じられていた /「稲の夫(=つま)」という語源から、「女の許に通う男」として歌に詠まれて来た / 此の句は、此の歴史的背景を言外に隠しつつも、実景を素直に詠んだ
370
いなづまやきのふは東(ひがし)けふは西(にし) 其角(注1)
【意】此処数日間不安定な天候が続いている
/ 日に日に東西のあちこちで稲妻が光り、雷鳴が轟いている〔←・此の句の裏側にも、我が宿へ来てくれぬ男を恨む女の面影を置いている〕
【解説】季語:いなづま=三秋
/(注1)宝井其角(たからい きかく(寛文元年07月17日(1661.08.11)~宝永04年02月29日(1707.02.29))):江戸下町堀江町(=お玉が池説あり)に、近江国膳所藩御殿医者竹下東順の長男として生まれる / 医者を志す傍ら、文芸・四書五経等にも精通 / 延宝年間(1673-81)の初めの頃、父の紹介で蕉門に入門 / 長ずるに及び、蕉門第一の門弟となる / 早くから華街に足を踏み入れて、蕉門きっての放蕩児でもあった /「赤穂事件」では、浪士側に立って彼等を支援 / 芭蕉(1644-94)との関係も、ambivalentな面が多く、尊敬し合う関係と同時にrivalとしての感情も強く持ち合わせていた /「古池」の句の考案中、芭蕉は「蛙飛び込む水の音」と中七・座五は出来たが上五に苦心していた時、其れを其角に話すと、其角は即座に「山吹や」と付けたと言う芭蕉と其角の芸風の相違を良く表す逸話が残っている / 近江国出身の父親の影響もあり、其角は上方文化にも精通 / 屡々関西を訪問、其の際知り合った向井去来(1651-1704)を蕉門に誘うこともした / 上方旅行中に芭蕉の危篤を知り、江戸蕉門の中で唯一芭蕉の死に立ち会った / 彼自身も47歳の若さで早逝
【小生 comment】
次回は、俳諧七部集『あら野』から〔第39回/第371句~380句〕をご紹介する。お楽しみに!
■続いては、07月12日(日)に、『虎渓山/永保寺』→『可児市戦国山城ミュージアム』→『美濃金山城跡』→『久々利城跡』→土岐市美濃陶磁歴史館『光秀の源流/土岐明智氏と妻木氏』展を巡って来たのでお伝えする。
其の日は、以下の通り行動した。
04時45分 起床→腹筋2,000回
05時40分 2.5kg木刀素振り60分06時40分 入浴→朝食→
07時10分 拙宅発→一般道→東名・音羽IC→豊田JCT→東海環状→土岐JCT→中央道・多治見IC〔料金 \1,580〕→一般道 70分 97.5km→
08時20分 永保寺近隣駐車場着→徒歩03分→
09時27分 永保寺入口着
【虎渓山/永保寺】
[01]永保寺 航空写真 map
[02]同【国宝】観音堂
[03]同 開山 仏徳禅師(1332年没)お手植えの樹齢700年の銀杏
[04]同 同所にて
[05]同【国宝】観音堂 解説板
[06]同【国宝】観音堂を back に
[07]同【国指定名勝】永保寺庭園
[08]同 同所を back に
[09]同 光明天皇勅願所 石碑にて
[10]同 六角堂 解説板
[11]同【国宝】開山堂
[12]同 同上 解説板
[13]同 同所前にて1
[14]同 同上2
[15]同 大雨で増水した泳法寺東隣の土岐川の流れ
09時49分 可児市戦国山城ミュージアム着
【可児市戦国山城ミュージアム】
[16]可児市戦国山城ミュージアム前にて1
[17]同上2
[18]同上3
[19]森氏一族解説板
[20]森忠政(1570-1634)が貴船神社へ奉納した刀剣〔刀:銘「国光」/脇差:銘「無名」〕
森可成の6男に生まれる
/ 森長可(ながよし(1558-84))・蘭丸はじめ5人の兄は悉く戦死したが、末っ子の彼は江戸時代迄生きて、美作国津山藩18万6,500石を立藩した
10時31分 可児市戦国山城ミュージアム発→一般道8分 1.8㎞/113.7km→
10時39分 美濃金山城跡着
【美濃金山城跡】
[21]『可児市戦国山城ミュージアム』→『美濃金山城跡 本丸』航空写真 map
[22]美濃金山城跡 登り口
[23]同 二の丸跡
[24]同「大手桝型」と同解説板
[25]同「天守台西南隅石」
[26]同 本丸「美濃金山城―興亡の歴史―」解説板
[27]同 同 同所にて
[28]同 同 美濃金山城趾 石碑
[29]同 同 同所にて
[30]同 同 本丸にて
11時31分 美濃金山城跡発→一般道23分8.9km/122.6km→
11時54分 久々利城跡着
【久々利城跡】
[31]久々利城跡 航空写真
map
[32]同 登り口にある久々利城跡石碑
[33]同 同上横の「久々利城」解説板
[34]同 同所にて1
[35]同 登り口
[36]同 登り口横にある久々利城跡看板前にて
[37]同 三の丸へ向かう登り道
[38]同 三の丸
[39]同 二の丸
[40]同 本丸入口
[41]同 本丸
[42]同 同所にて1
[43]同 同上2
[44]同 二重堀切へ向かう途中にある土橋
[45]同 二重堀切
[46]玉虫1
[47]同上2
[48]同上3
13時07分土岐市美濃陶磁歴史館着
【土岐市美濃陶磁歴史館『光秀の源流/土岐明智氏と妻木氏』展】
[49]土岐市美濃陶磁歴史館 航空写真 map
[50]同『光秀の源流/土岐明智氏と妻木氏』展看板横にて
[51]同 本企画展 看板前にて
[52]同 同 leaflet(表)
[53]同 同 leaflet(裏)
15時17分 帰宅(走行距離計 222.2km)〔了〕
【小生 comment 】
美濃金山城主の森一族、土岐・明智・妻木の各氏の興亡の歴史を垣間見ることが出来た、大変有意義な一日だった。4氏の興亡を話し出すと、かなりの volume になるので、今回は写真だけにする。
■今日最後の話題は、07月03日の Facebook に松尾芭蕉『奥の細道』〔第8回《後編》〕から『最上川』を up したのでご覧頂きたい。
前《会報》で、〔第8回《前編》〕『立石寺』と共に2015年7月12日(日)付【時習26回3-7の会0556】に掲載されている。↓↓ 此処を click して下さい
http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/260556263758070.html
前〔第8回《前編》〕では、元禄二(1689)年 五月二十七日(新暦07月13日)『立石寺』を訪れた処の話である。
今回は、翌五月二十八日からの話である。
同
二十八~三十日( 同 07月14~16日) 大石田〔高野一栄宅〕に3泊す
〔‥【曽良旅日記】 13~14両日 共に危うくして雨降らず/15日 夜に入り小雨す/16日 朝曇、辰刻(午前08時頃)晴‥〕
六月一~二日(新暦07月17~18日)新庄〔渋谷風流宅〕に2泊す
〔‥【曽良旅日記】 17~18両日 共に天候記載なし‥〕
同 三~五日・七~九日( 同 07月19~21日・23~25日)羽黒山 南谷〔南谷別院〕に
計6泊す
〔‥【曽良旅日記】 19~20両日 共に天気吉(よし)/
21日 朝の間小雨す、昼より晴れる
23日 天候記載なし/24日 朝の間小雨す、昼時より晴/25日 天気吉、折々曇‥〕
同 六日( 同 07月22日)月山〔角兵衛小屋〕に1泊す
〔‥【曽良旅日記】 22日 天気吉(よし)‥〕
[54]芭蕉と曾良の行程『立石寺』~『最上川』
[55]芭蕉乗船の地【本合海(もとあいかい)】の芭蕉と曾良の像
[56]「五月雨をあつめて早し『最上川』」1
[57]同上2
[58]同上3~【白糸の滝】〔←・正面鳥居の奥〕
《原文》最上川(注1)のらんと、大石田(おほいしだ)(注2)と云所に日和(ひより)(注3)を待(まつ)。
爰(ここ)に古き誹諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、芦角一声(ろかくいっせい)の心(注4)をやはらげ、此(この)道にさぐりあしゝて(注5)、新古ふた道にふみまよふといへども(注6)、
みちしるべする人(注7)しなければとわりなき一巻(注8)残しぬ。
このたびの風流爰(ここ)に至れり(注9)。
最上川はみちのくより出(いで)て(注10)、山形を水上とす。
ごてん(注11)・はやぶさ(注12)など云(いふ)おそろしき難所(なんじょ)有(あり)。板敷山(いたじきやま)(注13)の北を流て、果は酒田の海に入(いる)。
左右山覆ひ(注14)、茂みの中に船を下す。
是に稲つみたるをや、いな船といふならし(注15)。
白糸の瀧(注16)は青葉の隙隙に落て仙人堂(注17)岸に臨て立。
水みなぎつて舟あやうし。
五月雨をあつめて早し最上川
《現代語訳》最上川(注1)を舟に乗って下ろうと、大石田(注2)というところで晴天(注3)になるのを待っていた。
かつて、この土地には古くから俳諧文化が伝えられ、今も忘れずに昔の盛んだった頃の風流を懐かしみ、葦笛の響きのような田舎沁みみた心(注4)を、俳諧が慰めてくれるのだが、これから先の(俳諧の)進路について(新・古のいずれへ進むべきか)決め兼ね(注5)、古風俳諧を継承していくか、或は新風の蕉風俳諧を会得すべきか、迷っていて(注6)、 指導・舵取りしてくれる人(注7)がいないのでと頼まれたので、止むを得ず歌仙(=俳句の連句)一巻を巻いて(注8)残した。今回の『奥の細道』での風流は、此処大石田にて「蕉風俳諧の種をこぼす(=指導を乞われて歌仙一巻を残す)」迄になったのである(注9)。
最上川は、みちのくから流れ出て(注10)、山形辺(あた)りを上流としている。
途中、碁点(注11)、隼(注12)等という恐ろしい難所がある。
この先で、板敷山(注13)の北を流れ、果ては酒田の海に流れ込んでいる。
川の両岸は山が覆い被さる様に迫り(注14)、草木の茂っている中に船を漕ぎ出す。
この船に稲を積んだのを、稲船というのだろう(注15)。
白糸の滝(注16)は、青葉の隙間から流れ落ちるのが見え、この上流にあるある仙人堂(注17)は、川に面して建っている。
水流が満ち溢れ、舟は危険を感じる程だ。
【意】数々の山野から降り注ぐ五月雨を一つに集めてきた様に漫々と水が漲っている‥
此の最上川は、急流となって凄まじい勢いで流れていく
(注1)最上川:球磨川、富士川と並ぶ日本三大急流の一つ
(注2)大石田:現・山形県北村山郡大石田町(人口7,386人:2015.05.01現在)尾花沢の南西約4km
俳人として、尾花沢の鈴木清風の連衆、高野一栄、高桑川水がいた
(注3)日和(ひより):単に天気でなく、海上の天気を特に「日和」という
此処では最上川であるが、川に舟を出す為に風や流れの様子を見た
(注4)芦角一声の心:「芦角」とは「芦笛(あしぶえ)」(←芭蕉の造語と思われる)
(芦笛を一吹き吹き鳴らして楽しむ様な)片田舎の人々の風流心
(注5)さぐりあしゝて:「探り足」とは、闇夜等に足で行く先を探り乍ら進むこと
(注6)新古ふた道にふみまよふといふ:新風・古風の、とちらの俳風を選んで進むべきか
に迷っている
当時、貞門・談林の古風から蕉門の新風への移行期の渦中にあり、俳人達が自らの
進むべき方向を模索し悩んでいた
【貞門】江戸前期の俳諧流派・俳風
松永貞徳(ていとく(1571-1653))の俳門の意から【貞門(ていもん)】と言う
【談林】伝統的な貞門俳諧に対抗し延宝期(1670年代)に流行した俳諧の流派
解放的・遊戯的な趣を特徴とする / 大坂天満宮の連歌所宗匠西山宗因が盟主
宗因流、梅翁(ばいおう)流と称した /『談林』とは僧侶の学寮のこと
(注7)みちしるべする人:道案内する人=俳諧の道の指導者
(注8)わりなき一巻:「わりなし」は、道理をこえた切実な心情を表す場合、芭蕉がよく
用いた慣用語
(注9)このたびの風流爰(ここ)に至れり:「爰(ここ)」は「わりなき一巻を残した」こと
をいう
(注10)みちのくより出て:最上川の水源は、実際には出羽と陸奥の国境の吾妻山、出羽
と越後の国境の飯豊(いいで)山に源を発する
(注11)ごてん(碁点):大石田の上流、楯岡の西4km程の所で、河中に碁石の様に岩が点在
していた最上川三難所の一つ
(注12)はやぶさ(隼):大石田の上流で「碁点」より下流にあり、富並川が最上川と合流
する辺りの急流で「早房の瀬」とも言い、最上川三難所の一つ
(注13)板敷山(いたじきやま):「歌枕」‥
陸奥(みちのく)にちかき出羽(いでは)のいたじきの山に年ふる我ぞ侘しき(夫木抄)
陸羽西線高屋駅の南西に聳える山(海抜630m)
(注14)山覆ひ:左右の山が、最上川を下る自分が乗っている船に覆い被さって来る様な
感じがすることをいう
(注15)いな船といふならし:「稲船」は、刈り取った稲を積んで運ぶ船
「ならし」は「なるらし」が約(つづま)った形で「‥であるらしい」の意
(注16)白糸の瀧:最上四十八滝の中で最も有名な滝
「最上川落(おち)まふ滝の白糸のまゆよりくるにぞ有りける/源重之(源重之集)」
(注17)仙人堂:源義経の臣、常陸坊海尊(かいそん)を祀る小社(『義経記(巻七)』)
陸羽西線高屋駅より約1km上流、最上川北岸にある
【後記】07月11日(土)、市内向山にあるアート・エイジ(art age & gallery)とは別で同じく向山にある『ギャラリー・サンセリテ(Gallery SINCERITE)』に行って来た。
小生の現
勤務先で絵画教室の先生をやって下さっている画家、田中先生から此の画廊を紹介して貰ったので訪れてみた。そして、ハンガリー(Hungary)人画家、デアク(DEAK. B. Ferenc(1938-2004))『懐かしのブダ』が気に入り、一晩考えて、矢張り購入することにした。
【ギャラリー・サンセリテ】
[59]DEAK.
B. Ferenc(1938-2004)『懐かしのブダ』
[60]同上の横にて
[61]同上の絵の解説
[62]拙宅の応接室1
[63]同上2
[64]同上3
彼が好きな印象派の画家、Sisley、Monet、Pissarro
等の画風を受け継いだ「暮れなずむ Hungary の首都
Budapest のドナウ(Donau)川西岸地区、ブダ(Buda)の街と其の街を行交う人々」を描いた素晴らしい風景画だ。
色合いは、夕暮れに相応しい gray の色調を base に、雑踏の中にあり乍ら落ち着いた雰囲気を醸し出している。遠景では日没間近の残照が、近景では左手前の建物の terrasse de café から路上に零れる光の束が、暗くなりがちな gray の色調に絶妙な balance で歯止めをかけている処が心憎い。
また、構図的にも、perspective は、一点透視図法(one-point perspective)に加え、水墨画のぼかしの様な遠近の技法も見られ、なかなか凝っている。
サイズは25号(60.2cm×80.3cm)と大きい絵だが、拙宅の応接室に丁度収まった。
どうです? なかなかいい絵画でショッ!〔了〕
では、また‥〔了〕
*
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