2019年10月5日土曜日

【時習26回3−7の会 0777】~「松尾芭蕉:俳諧七部集『春の日』から〔第15回 / 夏~全6句&「武蔵坊をとぶらふ / 1句」&「逢坂の夜は笠みゆるほどに明て / 1句」〕」「09月28日:三河城郭史談会日帰り旅行『くるべ古代歴史観』→『長明寺=蒔田城址(=館)』展→『羽津城跡』→『四日市ポートビル』→昼食『福禄寿』→『四日市陣屋跡』→『浜田城跡』→『思案橋』→『潮吹き防波堤』→『臨港橋』を巡って」「09月30日:アクトシティ浜松『エマニュエル・パユ&レリック・ル・サージュ/Duo Recital』を聴いて」

■皆さん、お変わりありませんか?  今泉悟です。今日も【時習26回3−7の会 0777】号をお届けします。
 今日最初の話題は、松尾芭蕉「俳諧七部集」の第二集『春の日』から〔第15回 / 夏~全6句&「武蔵坊をとぶらふ / 1句」&「逢坂の夜は笠みゆるほどに明て / 1句」
 
01(140) ほとゝぎすその山鳥(やまどり)の尾()は長(なが)し  九白(1)
 
【意】「そのかみ山」に鳴くという杜鵑(ホトギス)よ、鳴いてくれないか? / お前(=杜鵑)が鳴いてくれないと、彼の山に住む山鳥の長い尾の様に、私には、夏の夜の短夜も長く感じられるヨ
【解説】柿本人麻呂の歌「あしびきの山鳥の尾のしだり尾の長長し夜をひとりかも寝む」に拠る /
「その山鳥の尾」の「その」は、和歌では「郭公『そのかみ山』の旅まくら」「郭公『そのかみ山』にゆふかけて」等と続ける /
「そのかみ山」は「山城()」の歌枕 /
(1)九白(きゅうはく):詳細不明

02(141) 郭公(ほととぎす)さゆ(1)のみ燒(なき)てぬる夜()(かな)  李風

【意】思いがけなく郭公(=杜鵑=ホトギス=)の鳴く声を聴くことが出来た / 郭公(=杜鵑)の鳴き声を今夜こそ聴こうと、そのために白湯を沸かしていたら、何と早々頭の上を渡る声が聞こえた / だから予想に反して今夜は早く寝られるヨ
【解説】—
(1)さゆ:素湯(=白湯)
 
03(142) かつこ鳥(どり)板屋(いたや)(1)の背戸(せど)(2)の一里塚(いちりづか)(3)  越人
 
【意】夏の昼下り、かっこ鳥(=杜鵑)の声を聴く / 其処は街道筋と言っても山中のあばら家 / 裏手に一里塚も見えるが、人通りの途絶えた頃であった
【解説】季語:かつこ鳥=かんこ鳥=夏 /「閑古鳥」は本来は鳥の郭公(=カッコウ)のことを言う / 一人もいない閑散とした状況を現代でも「閑古鳥が鳴く」と言う
(1)板屋(いたや):あばら屋
(2)背戸(せど):家の裏手
(3)一里塚(いちりづか):街道で一里毎に道の両側に土を盛り、エノキ等を植え、距離を示す目印とした塚 / 江戸幕府により全国に設置 / 里程標(りていひよう)
 
04(143) うれしさは葉()がくれ梅(うめ)の一(ひと)つ哉(かな)  杜國
 
【意】嬉しい気持ちを禁じ難い / 青葉がくれに梅の実一つ見つけて /
【解説】「葉がくれに散りとどまれる花のみぞ忍びし人に逢ふ心地(ここち)する」(西行『山家集』)の様に、葉隠れは、文学的には密やかな恋の表現に使われる /
 
05(144) 若竹(わかたけ)のうらふみたるゝ雀(すずめ)かな  瓶洞

【意】今年生えたばかりの若竹の枝に雀がとまっている / 雀に踏まれて垂れ下がった竹の葉の葉裏が白く見える
【解説】季語:若竹=夏 / 雀が若竹にとまって次に飛ぶ迄の僅かな動的な時間を捉えたもの
 
06(145) (からかさ)をたゝまで螢(ほたる)みる夜()(かな)  舟泉
 
【意】小雨の降る宵 / 傘をさして蛍を見に来た / 雨は既に上がっているが、傘をたたむのは興がそがれるようで、さした儘蛍の光を追っている
【解説】季語:蛍=仲夏 /
 
  武蔵坊(1)とぶらふ
 
(1)武蔵坊:武蔵坊弁慶のこと / 彼は、平泉で文治元年429日死去とされている
 
07(146) すゞかけ(1)やしでゆく空の衣川(ころもがわ)  商露(2)
 
【意】今日は、衣川で立ち往生して討ち死にしたという弁慶の命日 / 鈴掛衣の山伏姿で死んだ弁慶の傍にはスズカケソウも咲いていたか? /
 奥州に落ちのびた義経主従の死に相応しい
【解説】—
(1)すずかけ:一義的には、修験者(しゆげんじや)が衣服の上に着る麻の衣 / 此処では「スズカケソウ」にかけている /
 ソノスズカケソウは、ゴマノハグサ科の多年草 / 江戸時代に園芸植物として知られ、現在は岐阜県の一部に自生状態のものが見られる /
 全体に軟毛があり、茎は細く、長卵形の葉を互生 / 秋、葉腋(ようえき)に球形で濃紫青色の短い花穂をつける
(2)商露(しょうろ):詳細不明

  逢坂の夜は笠みゆるほどに明て
 
08(147) (うま)かへておくれたりけり夏(なつ)の月(つき)  聽雪(1)

【意】あの歌枕の逢坂の関を越えて行くと、先を行く人の旅傘が見えるほどに夜が明けてしまった /
ほんの僅かな時間、馬の取り換えに手間取っていた為に、夏の月と共に此の逢坂の関を越えたいと思っていたのだが、此の願いは叶わなかったヨ
【解説】逢坂は歌枕 / 山城から東国へ出る関所 /
(1)聽雪(ちょうせつ):尾張国名古屋の人 /『笈の小文』の旅の折、芭蕉を出迎えた人々の一人 /『春の日』に入句
 
【小生 comment
 次回は、俳諧七部集『春の日』から〔第16回/夏~「老耼曰知足之足常足 /7句」&「譬喩品ノ三界無安猶如火宅といへる心を / 1句」~〕をご紹介する。お楽しみに!
 
■続いての話題は、0928()に、中嶋【時習263-2】君らと一緒に、「『三河城郭史談会』日帰り旅行~伊勢路を往く」:『くるべ古代歴史館』→『蒔田城址(=長明寺)』→『羽津城跡』→『四日市ポートビル』→『昼食処:福禄寿』→『四日市陣屋跡』→『浜田城跡』→『思案橋』→『潮吹き防波堤』→『臨港橋』を巡って来たことについてお伝えする。

 前夜は、09時半に就寝
0350分 起床→腹筋2,000
0445 2.5kgの木刀の素振り60
0550分 入浴→朝食
0630分 拙宅発→自転車2.3km
0700分 豊橋公園発→一般道→音羽蒲郡IC→伊勢湾岸→東名阪道→四日市IC→一般道→
0900  くるべ古代歴史館 着
0935  同所発→一般道→
 
【久留倍(くるべ)官衙(かんが)遺跡・くるべ古代歴史館】
 此処は、79世紀の伊勢国朝明(あさけ)郡の役所(=官衙)跡。
 正殿・八脚門・高床倉庫群等が発掘調査で発見されている。
 くるべ古代歴史館では、復元模型や壬申の乱等を学ぶことが出来た。
 
[01]くるべ古代歴史館入口にて

[02]同館内にて
                  
[03]同館の外にて中嶋君【時習26 3-2】と

 
0935分 くるべ古代歴史館 発
0947  長明寺着
 
【蒔田城址】住所:四日市市蒔田2(長明寺)
 文治年間(1185-1190)に蒔田(まきたorまいた)宗勝が築城 / 現在の長明寺が城址で、水堀(=)が残る。
 隅部にある鐘突堂が高くなっている / 櫓台かも?
 
[04]同上「蒔田館()」解説板
                  
[05]長明寺にある蒔田館()解説板にて

[06]長明寺山門
                  

1000  長明寺発→一般道→
1030  羽津城跡着
 
【羽津(はづ)城跡】住所:四日市市羽津山町
 15世紀後半、田原盛宗が築城。
 羽津城は、盛宗から近宗まで六代の主の居城となったが、近宗が謀殺されたのを機に合戦に及びついに開城の後、羽柴秀吉と織田信雄の合戦後の和睦により廃城に。
 現在は、本丸跡の保塁と内堀の一部が残る。
 
[07]羽津城跡に一角に咲いていた彼岸花

[08]羽津城跡解説板
                  
[09]羽津城跡石碑前にて『三河城郭史談会』に皆さんと


1050  羽津城跡発→一般道→
1110  四日市ポートビル着
 
【四日市ポートビル】住所:四日市市霞二丁目1番地の1
 1999(平成11) 0805日 四日市港開港100周年を記念し開館。
 14階建 / 13階~14階迄の間は18mの吹き抜け構造になっている / 高さ:地上100m / 三重県内で最高峰のビル。
 展望展示室「うみてらす14(フォーティーン)」があり、14階の展望ロビー(地上90m)からは四日市港の港湾&コンビナートが眺望出来る。
 
[10]四日市ポートビル外観
                  
[11]同ビル入口にて同行の『三河城郭史談会』皆さんと

[12]同ビル14階展望展示室「うみてらす14」にて1
                  
[13]同上2


1141  四日市ポートビル発→一般道→
1212  昼食処 福禄寿着
 
【和食処 福禄寿】にて
 
[14]和食処「福禄寿」入口にて中嶋君と
                  
[15]昼食「トンテキ」セット

[16]観光バスの横にて中嶋君と
                  

1300  和食処 福禄寿 発→一般道→
1323  四日市陣屋跡着
 
【四日市陣屋跡】住所:四日市市北町
 1603(慶長08)年 水谷光勝により築かれた。
 1600(慶長05)年 徳川家康が天領として水谷光勝を四日市の代官に任じ管理させた。
 1724(享保09)年 大和郡山の松平吉里の領地となる。
 1801(享和元)年 再び天領となり、多羅尾氏が代々代官を世襲。
 現在の中部西小学校の辺りが代官所跡だが、正門に案内板があるのみで遺構は残っていない。
 
[17]四日市宿陣屋〔四日市代官所〕の案内看板にて

[18]四日市宿陣屋のあった旧町名「竪町」石碑にて
                  
[19]同陣屋跡があった四日市市立中部西小学校校門


1328  四日市陣屋発→一般道→
1336  浜田城跡着
 
【浜田城跡】住所:四日市市鵜の森1丁目
 15世紀後半、田原美作守忠秀(たはらみまさかのかみただひで)に拠が築城。
 城主の田原氏は、上野国赤堀庄(あかほりのしょう)出身。
 応永年間(13941428)に田原景信(かげのぶ)が伊勢国赤堀に城を構えたとされる。
 田原景信は、長男 盛宗(もりむね)を羽津に、次男 秀宗(ひでむね)を赤堀に、三男 忠秀を浜田に配した。此れを「赤堀三家」と言う。
 浜田城主の田原忠秀は、城の西方にあった東海道を海に近い東に移し交通の便を図った。
 又、市場の整備を行い、四日市という地名も忠秀の頃生まれた模様。
 其の後、「伊勢軍記」によると‥
 1576(天正04)年 田原忠秀の二代後の元網の時代、織田信長の家臣 瀧川一益に攻められ落城 / 現在は、堀・土塁が残っている。
 元網の子の重綱は城を脱出し織田信雄に属していたが、羽柴秀吉と信雄の合戦で討死し、浜田家は滅亡。
 現在、城跡は、茶室を備えた鵜の森公園となり、園内の「鵜の森神社」に、忠秀以下四代の霊が祀られている。
 
[20]浜田城跡案内看板にて
                  
[21]浜田城跡石碑前にて『三河城郭史談会』に皆さんと

[22]同城跡にあった「田原稲荷大明神」赤鳥居の前にて
                  

1336  浜田城跡→一般道→
1402  思案橋着
 
【思案橋】住所:、三重県四日市市浜町&蔵町
 15820621(天正100602) 本能寺の変を知った徳川家康は、堺から家臣30余名と共に岡崎に逃げ帰った。
 其の途次、伊賀越えで四日市迄来たが、此処から海路・陸路のいずれを採るか思案した場所という故事から、此の橋名が付いたとされる。
 
[23]思案橋の由来

[24]思案橋記念碑前にて
                  
[25]同所にて旅行をご一緒した鈴木さんと


1410  思案橋発→一般道→
1412  潮吹き防波堤着
 
【潮吹き防波堤】住所:四日市市高砂町8
 1894(明治27)年に完成した防波堤の高さは3.7m
 此の小堤が波の力を弱め、乗り越えた海水 / 現在は埋め立てられて、単なる岸壁となり、潮は吹かない。
 稲葉翁記念公園に、防波堤のレプリカがある。
 服部長七は、三河産の風化した花崗岩を使った真土と石灰をおよそ73の比率で混ぜたものが水中でも固まることを発見。
 「長七たたき」と称される人造石の技術は、宇品港築港工事(広島県)、熱田港護岸工事(愛知県)等をはじめ全国で利用されている。
 1999年 アンコール遺跡等の復旧工事にも活用された。
 因みに「潮吹き防波堤(四日市港旧港防波堤)」は、経済産業省の「近代化産業遺産群続33」の「海運業隆盛の基礎となった港湾土木技術の自立・発展の歩みを物語る近代化産業遺産群」の一つに認定されている。

[26]石油タンクの下に見える岸壁が「潮吹き防波堤」
                  
[27]波止改築記念碑にて


1423  潮吹き防波発→一般道→
1430  四日市港 臨港橋着
 
【臨港橋】
 海の上にある、日本唯一の信号機。
 
[28]日本に唯一存在する「海の上の信号機」
                  
[29]末広橋梁


1240  臨港橋発→
1534  アクアイグニス にて休憩
 
[30]アクアイグニス に駐車中の観光バスの横にて
                  
[31]同上にて

[32]社内で配られた夕食の弁当
                  

1600分 同所発→一般道→四日市IC→東名阪自動車道→伊勢湾岸自動車道→東名高速道路→音羽蒲郡IC→一般道→
1707  伊勢湾岸道 刈谷SA にて休憩
1906  豊橋公園着(解散)→一般道→自転車→
1925  帰宅〔了〕
 
■今日最後の話題である。0930()は、勤務先から頂いた3日目(=最後)の夏休みを頂いた。
 
0600  起床→腹筋2,000
0700  2.5kgの木刀の素振り
0820  入浴→軽い朝食→
0910  拙宅発→理髪店→
1150  キタムラ〔09/28 三河城郭史談会記念写真の焼き回し〕→郵便局→
1300  軽い昼食
1345  部屋の片付けと掃除
1640  拙宅発→一般道→
1723  豊橋駅発→東海道本線→
1758  浜松駅着→徒歩→
1807  アクトシティ浜松中ホール着
 
エマニュエル・パユ(Fl)&エリック・ル・サージュ(Pf)Duo Recital
 エマニュエル・パユ(Emmanuel Pahud(1970.01.27- )):フランス語圏スイス出身のflute奏者 / Berlin P.O. 首席flute奏者 兼 Soloist
 エリック・ル・サージュ(Eric Le Sage(1964.06.15- )):フランスのpianist
 本演奏会のプログラムは以下の4曲。
 
1. デュティユー(Henri Dutilleux(1916-2013)):ソナチネ(Sonatine)AllegrettoAndanteAnime
2. L.v.Beethoven(1770-1827)Serenade in D Major Op.41
3. 同:Violin Sonata No.8 in G Major Op.30-2 Flute version
4. Sergey Prokofiev(1891-1953)Flute Sonata in D Major Op.94
Encore曲 フォーレ:コンクール用小品(Morceau de concours)
 
 小生、デュティユー(Henri Dutilleux)のソナチネを初めて聴いた。
 何か巻き付く様な音色乍ら、解説で「浮遊する様な調性感を伴う旋律線を透明度の高い和声で支える書式も巧緻極まりない」と巧く表現している。
 一度で好きになった曲だ。
 Beethoven Seranade も原曲 Violin Sonata No.8 Flute version もなかなか良かった。
 しかし、矢張り Prokofiev Flute Sonata in D Major Op.94 が圧巻だった。
 
[33]本演奏会 leaflet ticket

[34]アクトシティ浜松中ホール前にて
                  
[35]ホワイエにて1

[36]同上2
                  
[37]演奏会開演前の会場

[38]同上2
                  
[39]パユとル・サージュの略歴

[40]本演奏会 program
                  
[41]encore 曲案内

[42]サイン会場でのパユ
                  
[43]サイン会場でのパユ()とル・サージュ()1

 パユが小生のCDの解説に sign してくれている場面

[44]同上2
                  
[45]同上3

[46]本演奏会で演奏されたプロコフィエフのフルートソナタが入っているCD
                  

 今日も、至福のひとときを過ごすことが出来て幸せだった。
  では、また‥〔了〕

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