■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。今日も【時習26回3−7の会 0779】号をお届けします。
今日最初の話題は、松尾芭蕉「俳諧七部集」の第二集『春の日』から〔第17回/秋~ 1句&「貧家の玉祭 /全5句」~〕をお届けする。
秋
01(156) 背戸(せど)の畑(はた)なすび黄(き)ばみてきりぎりす 旦藁
【意】秋になり家の裏の畑の茄子も黄色く色づき、コオロギの鳴き声も聞こえて来る様になった
【解説】季語:きりぎりす=初秋 /「きりぎりす」はコオロギのこと / 詩経に「七月ハ野二在り、八月ハ「宇(=大きな屋根の下)」に在り」と季節の進行と共に人家に近づくことを詠う
詩経の「野」を上五・中七で表現したもの
貧家(ひんか)の玉祭(たままつり)(注1)
(注1)玉祭:七月十五日の「盂蘭盆会」のこと / 聖霊棚を飾り供物を並べ祖先の霊を供養する
02(157) 玉(たま)まつり柱(はしら)にむかふ夕(ゆふべ)かな 越人
【意】玉祭の夕べであるが、先祖を祀る棚も仏壇もない / ただ柱に向かい先祖の御霊を祈るばかりだ
【解説】季語:玉祭=魂祭=初秋 / 柱には、版木押しの仏像か、名号・題目の類が貼ってあると思われる
3(158) 雁(かり)きゝてまた一寝入(ひとねいり)する夜(よ)かな 雨桐
【意】夜更けに雁が北に向かって渡って行く鳴き声に目を覚ました / だが、まだ夜明け迄時間があるのでもう一眠りすることとする
【解説】季語:雁=晩秋 / 秋の夜長を「また一寝入」で表現する処が俳諧
04(159) 雲折々(くもをり/\)人をやすむる月見(つきみ)哉(かな) 芭蕉
【意】一般に雲は月の為には邪魔者として嫌われるものだったが、西行は、其れは寧ろ月光を一段と印象付けるものだと詠った /
しかし、私は、雲がなければ終夜の月見に人が疲れ果てて仕舞う / 其処で雲が現われて人を休ませてくれるのだと思う /
【解説】季語:月見=仲秋 / 1685(貞亨02)年『春の日』所収 /『真蹟拾遺』に「西行のうたの心をふまえて」とある /
即ち、西行の「なかなかに時々雲のかかるこそ月をもてなすかぎりなりけれ」や「なかなかに曇ると見えて晴るる夜の月は光の添ふ心地する」(以上、山家集)を踏まえる
05(160) 山寺(やまでら)に米(こめ)つくほどの月夜(つきよ)哉(かな) 越人
【意】今夜は月夜で月光が明るい / 寺男が「鐘をつく」代わりに米搗臼(こめつきうす)を踏んで「米搗き」をしている /
【解説】季語:月夜=三秋 /「山寺」は歌語で、通常「暁の鐘」「入相の鐘」が詠まれる / 「鐘つき」を「米つき」にした処が俳諧の遊び
06(161) 瓦(かはら)ふく家(や)も面白(おもしろ)や秋(あき)の月 野水
【意】古来、秋の月は板野の軒を漏(れ)る月や庵漏(れ)る月が風情があるとして取り上げられて来たが、瓦葺の屋根が照り輝く建物の姿も趣があっていい
【解説】季語:秋の月=三秋 /「瓦ふく」:延喜式「寺ヲ瓦葺ト称ス」
【小生 comment 】
次回は、俳諧七部集『春の日』から〔第18回/秋~「八島をかける屏風の絵をみて」1句 &「待恋」1句 &「閑居増恋 /全2句」~〕をご紹介する。お楽しみに!
■続いての話題は、10月13日(日)に徳川家康関連の史跡3つと、美術館(=博物館)4つ)巡って見て来たことについてお伝えする。
前日10月12日(土)夕刻、伊豆半島に上陸した台風19号が通り過ぎた直後に清水港近くの「久能山東照宮」→「フェルケール博物館」→「静岡県立美術館」→「静岡近代美術館」→「駿府城跡」→「浜松城跡」→「浜松市美術館」と巡って見て来た。
今日は、‥‥
03時25分起床→腹筋2,000回
03時25分起床→腹筋2,000回
04時15分 2.5kgの木刀素振り60分
05時15分 入浴→朝食05時52分 拙宅発→一般道122km 2時間12分→
08時04分 久能山東照宮 参道脇の駐車場着
【久能山東照宮】
[01]参道入口の鳥居前にて
[02]楼門前にて
[03]拝殿前にて
[04]日枝神社(右)にて
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[05]東照宮本殿前にて
[06]徳川家康神廟前にて
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[07]東照宮遺訓
[08]東照宮から遠州灘遠望1
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[09]同上2
[10]同上3
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09時10分 久能山東照宮 参道脇の駐車場発→一般道 8km 25分→
【小生 comment 】
徳川家康を祀った「三大東照宮」の一つ。
「東照宮遺訓」は改めて「いいな」と思った。
09時35分 フェルケール博物館(=一般財団法人清水港湾博物館)着
【フェルケール博物館『曽宮一念(1893-1994)』展】
[11]フェルケール博物館前にて
[12]フェルケール博物館入口前にて
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[13]展示室1~戦艦長門 模型前にて
[14]企画展『曽宮一念』展 leaflet
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[15]曽宮一念『アネモネ』1931年
[16]同『牡丹』1935年頃
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[17]同『てんしんもも』1940年頃
[18]同『麦畑』1946年
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[19]同『すすきと海』1948年
[20]同『桜島』1951年
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[21]同『清水港』1951頃年
[22]同『不尽』1954年頃
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[23]同『うちむらさき(ザボン)』1955年
[24]同『中禅寺湖』1960年
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[25]同『桜島』1964年
[26]同『水郷日没』制作年不詳
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[27]同『蓼科より八ヶ岳』制昨年不詳
[28]同『カンナ』1958年
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【小生 comment 】
美術館の外は、前日の台風19号の影響でゴミが散らばっていて、職員の皆さんが片付けに精を出していた。
当博物館は、清水港の雄、鈴与が実質的な owner。
曽宮一念の絵のすばらしさを、改めて実感出来た。
彼は、此れからきっともっと人気が出て来ると直感した。
展示されていた作品群を見ていて、実に素晴らしい画家だと確信した。
此れからも強い関心を以て follow していきたい。
10時07分 フェルケール博物館発→一般道 8km 36分→
10時43分 静岡県立美術館着
10時43分 静岡県立美術館着
【静岡県立美術館『古代への情熱』展】
[29]静岡県立美術館『古代への情熱』展看板前にて
[30]静岡県立美術館入口にて
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[31]ユベール・ロベール『ユピテル神殿、ナポリ近郊ポッヅオーロ』1761年
[32]ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ『ローマの景観より《フォロ・ロマーノ、カンピドーリオから望む》』1746-51年?
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[33]クロード・ロラン『笛を吹く人物のいる牧歌的風景』1630年代後半
[34]和田英作 (1874-1959)『富士』1918年
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[35]山本森之助『海岸』1912-14年頃
[36]ロダン(1840-1917)『ホイッスラーのためのミューズ(未完)』1903-08年頃の前にて
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[37]ロダン『考える人』の前にて
[38]鳥海青児(1902-72)『張家口(ちょうかこう)』1939年
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[39]アレクサンドル=イアサント・デュヌイ(1757-1841)『パリ、マドレーヌ大通りの窓からの眺め』1798-1805年
[40]『中澤弘光とその周辺』leaflet
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【小生 comment 】
学術的な企画展だった。勉強にはなったが、monotone の版画作品が多い為、小生が絵画展でいつも求めている「美しさ」は物足りない企画展だった。
一方、同時開催の「中澤弘光とその周辺」がなかなか良かった‥中央の絵は、中澤弘光『風景〔秋の湖畔〕』1919年。
11時52分 静岡県立美術館発→一般道 8km 31分→
12時23分 静岡近代美術館 駐車場着
【静岡近代美術館『荻須高徳展・熊谷守一展』】
[41]静岡近代美術館前にて1
[42]同上2
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[43]同美術館入口にて
[44]中川一政『向日葵』制作年不詳
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[45]同『薔薇』制作年不詳
[46]山下充『白雲』2010年
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[47]福本章『朝の光(ヴェニス)』2007年
[48]杉山寧『桃』制作年不詳
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[49]伊藤清永『ばら』制作年不詳
[50]和田英作『早春』1930年
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[51]同『富士』制作年不詳
[52]曽宮一念『八ヶ岳夏雲』1964年
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[53]森田茂『富士』制作年不詳
[54]安井曽太郎『果実図』1937年
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[55]小山敬三『紅浅間』制作年不詳
[56]金山平三『十国峠の富士』制作年不詳
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[57]藤島武二『朝熊山の日の出』1931年
[58]浅井忠『農村納屋』制作年不詳
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[59]荻須高徳『グラン・カナル』1957年
[60]同『ヴァンヴ通り』1928年
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[61]モーリス・ド・ヴラマンク『道端の家』制作年不詳
[62]アルベール・マルケ『セーヌ川』1916年
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[63]熊谷守一『猫』1951年
[64]梅原龍三郎『富士山図』1953年
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【小生 comment 】
当美術館の『荻須高徳展・熊谷守一展』は二度目の訪問になる。
が、ご覧の様に、展示作品が美しい傑作選ばかりなのでもう一度見たくなったのである。
どうですか? ホント、素晴らしい傑作ばかりでしょ!
13時03分 静岡近代美術館→徒歩5分→
13時09分 駿府城跡 坤(=未申)櫓着
【駿府城跡】
[65]坤櫓前にて1
[66]同上2
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[67]駿府城跡のお濠
[68]徳川家康像の前にて
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[69]巽櫓前にて1
[70]同上2
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[71]同上3‥弥次さん・喜多さんと
[72]同上4
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[73]駿府城跡・東門前にて
【小生 comment 】
今日訪れた徳川家康(1543-1616)関連の史跡とは以下の3つ‥
1. 『久能山東照宮』:「家康没後、彼が最初に埋葬された霊廟」
2. 『駿府城』:「家康が浜松城から移り江戸城へ移る迄の1586(天正14)年~90(同18)年と、慶長10年大御所となった家康が1608(慶長13)年~16(元和02)年に亡くなる迄の居城」
3. 『浜松城』:「家康が1570(元亀元)年 桶狭間の戦直後の1560(永禄03)年から10年間の居城だった岡崎城から移り、1586(天正14)年 駿府城に移る迄の17年間の居城」
昔は、信長・秀吉・家康の三英傑の中では一番嫌いだった家康だったが、現在では、260年余り日本を平和な国家とした江戸幕府を開闢した偉人として小生彼を最も尊敬している。
14時14分 静岡近代美術館 駐車場発→一般道77km 1時間29分→
15時43分 浜松市役所 駐車場着
15時43分 浜松市役所 駐車場着
【浜松城跡】
[74]浜松城を back に1
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[75]同上2
[76]若き日の徳川家康公像の前にて
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[77]浜松城天守閣前にて
[78]浜松城跡 解説板
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[79]浜松城の石垣1
[80]同上2
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[81]同上3
【小生 comment 】
江戸時代の歴代浜松藩主の中では有名なのは矢張り天保の改革の水野忠邦(1794-1851)。
ただ小生、昔から彼を評価していない。
15時55分 浜松城跡発→徒歩3分→
15時59分 浜松市美術館着
15時59分 浜松市美術館着
【浜松市美術館『Super Real World』展】
[82]浜松市美術館『Super Real World』展看板前にて
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[83]同館内『Super Real World』展看板前にて
[84]石黒賢一郎(1967- )『存在の在処』制作年不詳
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[85]同『妖しきさそり座の女』2009年
[86]同『MEIDO的な』2018年~制作中
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[87]斎藤雅緒(1947- )『ブルーベリー・ソフトクリーム』1979年
[88]同『ボディペインティング』1976年
【小生 comment 】
Super Realism は写真と同じ level に到達した、っていう感じを実感した。
でも、絵画は Super Real でない方が安心して見ていられる、とも思った。
16時24分 浜松市役所駐車場発→一般道39㎞ 1時間10分→
17時34分 帰宅/走行距離計 263km〔了〕
17時34分 帰宅/走行距離計 263km〔了〕
■今日最後の話題は、10月11日(金)と12日(土)の両日 Facebook に up した「ホトトギス派俳人・富安風生&母校・時習館高校美術科恩師・冨安昌也先生」についてお伝えする。
ホトトギス派の四Sの話をすると、其の四Sの名付け親である山口青邨(1892-1988)(工学部)や、四Sの中の水原秋櫻子(医学部)、高野素十(医学部)、山口誓子(法学部)らと共に「東大俳句会」を再興した富安風生(法学部)の二人も外せない。
とくに富安風生(本名 : 冨安謙次(1885-1979))氏は、四S最年長の水原秋桜子 (1892-1981)より7歳年長になる。
以前から何回もご紹介している様に、我等が時習館高校の前身、愛知県立第四中学校(=愛知四中)の大先輩であるので、此処で「自選自解 富安風生句集」〔白凰社〕より 3句ご紹介したい。
先ず第1句目は‥
みちのくの 伊達(だて)の郡(こほり)の 春田(はるた)かな 富安風生
1931(昭和06)年作『草の花』所収
[89]Facebook に up した富安風生氏と「みちのくの伊達の郡の春田かな」の句を image した田園風景
自選自解二百余句の選択は随意であるが、名の通った句には触れて欲しいという白凰社主の注文である。となると、此の句などあげない訳にはゆかなくなるが、此の句解には少々悩まされる。
『草の花』には昭和7年で出ているが、此の句の懐胎は前年北海道出張の帰途、裏磐梯遊前後の車中の筈である。車中の何処で? とよく訊かれる、其の点全く覚えがない。俳句手帳全部を調べれば解ることだろうが――
"みちのく" "伊達の郡"は美しい語感だけでなく、長い間、詩歌文学殊に戯曲などで広く一般に愛され親しまれ、広く大きい連想の世界を背負っている。其の連想を出来るだけ広くあらせる為に、此の句のゴタつかない棒の様な句法は適当していた。春田は現前の事実であると同時に作者の主観で潤わされておる。一句の調べが流暢で耳に快感を与える。切字の定石も此の場合賢明だった‥‥其れ等の事情が多くの人を喜ばせるのでもあろうか――
【 小生 comment 】
単純明快であり乍ら、気品がある語感がするのは、作者自身が述べている様に「みちのく」「伊達の郡」の語句が古来より詩歌文学の世界で人口に膾炙して来たからであることに違いない。
此の句は、大変覚えやすい句で、小生、第2句目の「まさをなる空よりしだれざくらかな」や「菜の花といふ平凡を愛しけり」の3句はいつも思い出しては口ずさんでいる。
第2句目は‥
まさをなる 空よりしだれざくらかな 富安風生
1937(昭和12)年作『松籟』所収
[90]「まさをなる 空よりしだれざくらかな」の句は、真間弘法寺の枝垂桜(=写真)を見て詠んだもの
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真間(まま)弘法(ぐほうじ)境内の(=小生【注】「伏姫桜」)枝垂桜である。弘法寺へは度々吟行したが、此の句は武蔵野探勝会の作であった筈だ。ただ一翳(いちえい)もない真っ青な空から、天蓋の如く八方に枝垂れた彼岸桜を、昨日のことの様に瞼の奥に画くことは出来る。周囲の風景、雑物一切を鄭却(ほうりだ)して一面に青く塗りつぶした生地(きじ)に目的の糸桜だけを大うつしにした構図、上五、中七、下五と流暢な調べに整えた――糸桜の条(えだ)の様に詠い流した句法に成功があったと見えて、人にも喜ばれた様だと自分でも愛好している。
色紙短冊等に書きちらした数の多いことで、恐らく一、二を争う此の句であろう。そのくせ、"し" が難しい為に、気持ちよく出来たと思ったためしが殆どない。此の句をかいていると、傍から妻が「"し" の字ばかりを長くか?‥‥」と言って笑う。何でも源氏物語の末摘花が字がへたで、「しの字ばかりを長く‥‥」云々という一節があるとかいうのである。
【 小生 comment 】
小生、飯田蛇笏の「をりとりて はらりとおもき すすきかな」とよく似た感じの此の句が大好きだ。
夫々がひらがなで「すすき」と「しだれざくら」という秋と春の名花を歌い上げた稀代の傑作だ。
最後、第3句目は‥
夕顔(ゆふがほ)の 一(ひと)つの花(はな)に 夫婦(ふうふ)かな 富安風生
1944(昭和19)年作『村住』所収
[91]「夕顔の一つの花に夫婦かな」を image した「夕顔」の花
普通に夕顔というものに色々ある様だが、此の夕顔は観賞用で実を結ばない鉢ものだった。夫婦は無論子供を持たぬ私たち夫婦である。素焼の鉢を縁側に上げて、今夜は此れが咲いた、明日は此の蕾が咲く、などと一つの鉢に二人顔を寄せて楽しんだものだった。此の句と並んで "夕顔に浮世話(うきよばなし)は灯(ひとも)さず" が遺っており、又ほぼ同じ頃の作に "しみじみと妻(つま)といふもの虫(むし)の秋(あき)"
(『母子草』所載)がある。ずっと前の "走馬燈へだてなければ話(はなし)なし" (『草の花』所載)に系統をひいて、還暦前後の夫婦生活(‥妻は私より11歳年下だが‥)の消息を洩らす一連の作品である。私は先年、小平霊園の一隅に墓を建てた時、墓地に繞(めぐ)らす石塀の一とこまに頭書の一句を書いて嵌(は)め込んだ。墓石の下には、生家の父母の山墓の土(=小生【注】: 冨安謙次氏は愛知県八名郡金澤村(旧・一宮町金澤=現・豊川市金沢町)出身)が一と篦(くし)埋められている。
「夫婦とは互に扶(たす)けあう二つの孤独だ」というリルケの詩があるそうだ。詩人でない私は、まだそういう孤独感に徹する迄には到り得ないけれど‥‥
【 小生 comment 】
此の句は夫婦の温かなぬくもりが伝わって来る / 富安風生夫妻の鴛鴦ぶりが‥‥〔了〕
【 冨安昌也著『続・草木虫魚』から 4-1 】
今日は、今夕〜今晩にかけて大型の台風19号が静岡県~神奈川県に上陸するということで、当初予定していた、静岡市~浜松市にかけての史跡&美術館巡りは明日に順延した。
時間が空いたので、我等が母校・時習館高校の元美術科教諭で、東三河を代表する西洋(=油彩・水彩)画家である冨安昌也(1918-2013) 先生の著書『続・草木虫魚』から「随筆三篇」と「オマケ1つ」をご紹介する。
因みに、氏の大叔父が、昨日ご紹介した富安風生(1885-1979)である。
氏の略歴は、以下の通り‥
《冨安昌也先生の略歴》
1918年 11月07日 豊橋市関屋町に生まる
1941年 東京美術学校油画科卒業(藤島教室)
1951年 第39回日本水彩展三宅氏賞 / 日本水彩画会会員推挙
1979年 豊橋市美術博物館協議会委員
1990年 豊橋文化協会副会長
1991年 『モスタルの道具屋』で、第79回日本水彩展内閣総理大臣賞
1992年 日本水彩画会評議員
1993年 豊橋文化賞
1994年 日本水彩画会理事
2013年 10月 逝去(享年94歳)
冨安先生は、小生が去る6月迄勤務していた会社の関係で、亡くなられた2013年迄三河港の産業基地・建築審査会の座長を長年務められていた。
小生も其の審査会の委員を務めていたので、其の関係から冨安先生と仕事上のお付き合いをさせて頂いた。
更には、冨安先生が此れも長年日本水彩画会豊橋支部の支部長を務められていた関係から、先生の晩年の水彩画の愛弟子が小生の叔父兄であることもあって叔父兄経由でのご縁も頂いた。
そんなご縁から或る時、先生から平成18年7月に上梓されたご著書『続・草木虫魚』を頂戴した。
此の本は、小生の蔵書の1冊になっている。
因みに、此の後順次ご紹介するが、冨安先生は我等が母校・時習館高等学校の徽章(写真[92](上)ご参照)を発案された方でもある。
[92]Facebook に up した写真
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・(上)母校・愛知県立時習館高校 東門近くに掲示されている「校名と徽章(=校章)」
・(下左)在りし日・晩年の冨安昌也先生・(下右)冨安昌也著『続・草木虫魚』
其処で先ず「随筆1篇」目は‥【校章】(平成10年1月1日) ‥である。
「〔前略〕学校には校章がある。此れは必ず生徒が、体の何処かに付けているものだからなければならない。
新しい学校でも出来て、校章を決めるとなると大変だ。
一見して其の学校と解るものという先入観があって、其れを絵や文字で証言しようとするから、ややこしくなる。〔中略〕
徽章は単なる符号である。其れが見た目に感じよければ、今でいう design 的に出来ていればそれでいい。
私は経験がある。
私は1947(昭和22)年01月(小生【注】:冨安先生28歳(当時))に豊橋中学校(現・時習館高校)の教師になった。
当時は、「愛知県豊橋中学校」という校名だったが、翌23年04月、学校教育法施行に伴い「愛知県立豊橋高等学校」と改称した。
さて困ったのは、生徒の徽章である。今迄は昔から使っていた「中学」という徽章を帽子につけていたが、学校が高等学校になっていて、中学の徽章はおかしいということで、早速新しい徽章を考えることになった。
一般募集することにして、職員、生徒から公募した。
沢山集まったが中々いいのがない。職員の私たちも考えた。
結果絞り込んで、二つの傾向に要約された。
一つは、昔から徽章というものは、symmetry な形に決っている。例えば一高(=旧制第一高等学校)〔中略〕は桑の葉、高等師範は桐の葉っぱだという説と、私をはじめ若い連中は、豊橋高等学校ならトヨハシのトとヨを綺麗に形良く組み合わせて(= monogram =2つの文字や書記素を組み合わせた記号)単なる mark とすればいい、という此の二派に分かれた。〔中略〕
投票で決を採ることになり、34対7 で、私の design に賛成多数という今の徽章に決定した。
「こんなものがどこの学校か解るか」
という年配の教師もいたが、私は千人の生徒が此れを帽子に付けて」、街の中を歩けば、三日もすれば徹底しますよと言った。
珍しい、斬新な design だと言ってくれる市民が多かった。
其の後、県条例が縷々変って、校名が愛知県立豊橋時習館高等学校から愛知県立時習館高等学校になったが、誰も徽章の変更を言う人はなかった。〔了〕
【小生 comment 】
我等が母校・時習館高等学校の校章が決まったいきさつについて、製作者本人である冨安先生が思い出話としてお話しして下さったので確り理解出来た。
冨安先生が亡くなられる迄の数年間、先生にお近づき出来て小生、大変光栄で嬉しかった。
【 冨安昌也著『続・草木虫魚』から 4-2 】
「随筆2篇」目に入る前に「オマケ1つ」をお伝えする。
其れは、冨安昌也先生が、晩年の愛弟子として可愛がった小生の叔父貴 今泉勇(1930-
)が小生にしてくれた episode だ。
叔父貴は、先生が「富士山が見たい」と言えば、先生を車に乗せて富士山に連れて行き一緒に絵を描き、「中国・敦煌の莫高窟の絵を描きたい」と仰れば一緒に敦煌迄随行する、と言った具合だった。
其の叔父貴が、或る時、小生に話してくれた冨安先生との思い出話を一つ‥
1995年2月or 3月に、名古屋市の愛知県美術館にて開催された『アンドリュー・ワイエス』展に冨安先生と二人で見に行った時の話は次の様だった。
「先生が「ワイエスの絵はいい、こういう絵を描かなきゃいかんゾ。(時習館高校の)教え子は沢山いるが、俺を越えたのは野田弘志(1936.06.11- )だけだ!」と言っていたナァ」と。
[93]Facebook に up した写真
・(上左)アンドリュー・ワイエス(Andrew Wyeth
(1917.07.12-2009.01.16))
・(上右)ワイエス『亡霊(The Revenant)』1949年
・(左下)野田弘志『娘の和香子』1983年‥加賀乙彦著「湿原」の挿画
・(下中)同『掌を組む』
・(下右)同『アナスタシア』
【小生 comment 】
野田弘志の絵画技術力の高さを証明している Super Realism の絵は、写真と見紛う極めて精緻な絵画であるので、小生いつも見る度に驚かされる。
【 冨安昌也著『続・草木虫魚』から 4-3 】
続いて冨安昌也著『続・草木虫魚』「随筆2篇」目は‥【「風生文庫」について】(平成12年5月1日) ‥である。
[94]Facebook に up した写真
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
・(左)【富安風生文庫】(愛知県立時習館高等学校内)
・(右上)晩年の富安風生
・(右下)風生句碑「松の芯 若ささながら 立ちそろふ」(時習館高等学校の一隅)
「萬歳の三河の国へ帰省かな 風生」と刻まれた此の句碑は、昭和51年11月、文協が主唱して豊橋公園の内堀の横に建立したものだ。
此の吉田城趾から北を見ると、豊川を臨み遠く弓張山系や風生の郷里の照山や本宮山も見える。
先年先生も此処に来られて所縁(ゆかり)の此の地に句碑の建つのを大変楽しみにしておられた。〔中略〕
昭和53年5月に、時習館の庭に「松の芯若ささながら立ちそろふ 風生」(小生【注】:添付写真[11])の句碑も建立された。〔中略〕
私は、晩年の先生にお目にかヽる機会は数多くあった。
そんな或る時先生から「昌也君、僕の蔵書を時習館で貰ってくれるかね」
と相談を持ち掛けられた。私は躊躇することなく即断で
「是非お願いします。願ってもない」とお応えした。〔中略〕
時を限定せずに私たちが運びますよということにした。
時習館の朝倉君や同窓会の三浦君にも手伝って貰って、豊橋と東京を自分達の車で往復した。〔中略〕
結果〔中略〕計五回戴(いただき)に上った。冊数は〔中略〕2,501冊になった。
此れを「時習館創立80周年記念事業」の一環として創設した「時習文庫」の中の corner に、新たに『風生文庫』として置くことにした。
処が昨(平成11)年秋、池袋のご遺族から電話があって、〔中略〕「一部の著作物を除いて残り一切を時習館に譲りたい」というお申出があった。
亡くなられてから既に20年経つが、本は相当量あった。〔中略〕
最晩年迄手元に置かれた豪華本や珍貴なもの、此れが全部俳句に関するものばかりだから凄い。特に俳人たちの出された本は、私家版で部数が限定されているから他に探してもないだろう。〔中略〕
段ボールに59梱包あった。
今回分の冊数は1,906冊、前回分2,501冊を合計すると4,407冊。此れが時習館図書館で保管する『風生文庫』の全容である。
【小生 comennt 】
小生、恥ずかし乍ら、「萬歳の三河の国へ帰省かな 風生」「松の芯若ささながら立ちそろふ 風生」のいずれの句碑もまだ見ていない。
近々是非訪ねて直(じか)に見てみたい。
【 冨安昌也著『続・草木虫魚』から 4-4(完) 】
続いて冨安昌也著『続・草木虫魚』今回最後の「随筆3篇」目は‥【二人の師】(平成12年8月1日) ‥についてである。
〔前略〕運命と言えば、私の生涯で最も大きな影響を受けた二人の良き師に巡り合えたことである。此のことが私の今日を決定づけた。
私は小学校時代から絵が好きだった。絵の選手として学校から色々な競技会へ出された。
不景気のドン底の昭和06年、私は豊橋中学校に入り、一年の甲組だったが、其の甲組の担任が細島昇一(1895-1961)先生だった。〔中略〕
先生から教わったことは絵に関することは云う迄もないが、一般常識的な広い分野様々な人間としての在り方だった。
吸収力の強い柔らかな頭脳は骨の髄迄感化を受けた。例を挙げれば先生の字の書き方迄真似をしたものだった。
三年頃進学の話が出たが、先生は具体的には何も云われなかった。家で父に美術学校へゆきたい希望を打ち明けた時、父は反対も賛成もせず「ふーん」と云っただけだった。
父は開業医で、男の子は私だけ。父は今迄の私の育ってきた状況や、自分が養子で医者になったのも、岳父(私(=冨安昌也)の祖父)の云われる儘で自分の意に反したことなどひっくるめての全ての結論で、半ば諦めていたのかも知れない。
1936(昭和11)年豊中を卒業して東京美術学校を受験したが、勿論 straight では入れなかったので川端画学校へ入った。
此処での厳しい訓練で朝から晩迄毎日木炭で画く石膏 dessin を叩き込まれた。
此れはどの画学生も通る宿命みたいな道で本当に此れは身の為になった。
翌1937(昭和12)年04月、入学出来た時の上野の桜の美しかったことは忘れられない。
美校では予科一年を過すと本科四年があって、自分が希望する教授の教室を選ぶことになる。
私は文句なしに憧れの藤島武二(1867.10.15-1943.03.19)教室を選んだ。
先生は週二回、火、金の二日教室に来られた。寡黙でしゃべらない。それだけに先生の一挙手一投足に注意し、生徒の絵を直す先生の筆先を見据えたものだ。
筆はどんなものがいいか、絵具は何を使ったらいいか何も云われない。
そんな抹消なことよりも、「絵描きは正直でなければいかん」と言った。
何故か。自然が如何に美しくとも、絵描きの心が曲がっていれば曲がって映る。
だから心を磨けと云うことだ。其の時は真意が悟れなかった。
【小生 comment 】
画家の道を選び、悔いのない生涯を全うされた冨安昌也先生が語られた、先生の人生の出発点である青春期の思い出を強い共感をもって通読した。
謹厳実直なお人柄は、冨安家のご両親の躾だけでなく、東京美術学校の藤島武二教授からの薫陶もあったことを従前此の本を読んで知った。
因みに藤島武二は、日本画家で京都画壇の雄 竹内栖鳳 (1864.12.20-1942.08.23)、同じく日本画家で日本美術院の第一人者で巨匠の 横山大観(1868.11.02-1958.02.26)、藤島武二と同じ東京美術学校教授で肥前国佐賀出身の西洋画家の泰斗 岡田三郎助 (1869.01.22-1939.09.23)ら3人と一緒に、1937(昭和12)年に第1回文化勲章を受賞した日本の洋画界草創期の巨匠で、小生も大好きな洋画家である。因みに、藤島は、黒田清輝 (1866.08.09-1924.07.15)より一年年少で、二人は共に薩摩国鹿児島出身。
冨安先生は、更に篤実で humor を持った心根の温かな人格者でもいらっしゃった。
其の事は、以下にご紹介する先生の作品 [12]『家族』~[17]『立春』をご覧頂ければ実感頂けると思う。
[95]Facebook に up した冨安昌也画伯の代表作品群
[96]冨安昌也『家族』1988年
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
[97]同『ドブロブニクの昼下り』1989年
[98]同『モスタルの道具屋(ユーゴスラビア)』1991年
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
第79回日本水彩展「内閣総理大臣賞」受賞作品
[99]同『ラ・アルベルカの路地(スペイン)』1997年
[100]同『ユーゴ―像と書籍』1999年
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
[101]同『立春』2000年
此の絵は、我等が母校・時習館高等学校正門と玄関の間にある中庭に咲いた山茶花を描いたもの〔了〕
【後記】此れも10月10日(木)時習26回【1-4】の classmate 花井君が Facebook に up した話題をお伝えして締め括ることにする。
花井君の Facebook の記事(添付写真[102])に以外の様に comment した。
[102]花井君が Facebook に up した古関裕而を描いた2020年春からの朝の連続ドラマ「エール」
古関裕而は、日本人なら誰でも知っている名曲が数多い作曲家として有名。
戦中には、1943(昭和18)年作曲「海軍の予科練」の歌「若鷲の歌」がある。
戦後になり、1948(昭和23)年に、甲子園の入場行進曲となっている「栄冠は君に輝く」は現代でも古さを感じさせない素晴らしい名曲だ。
https://www.youtube.com/watch?v=xor2BmFEzFY
翌1949(昭和24)年には、NHK スポーツ中継 テーマ曲「スポーツショー行進曲」が作曲された。此の曲も誰もが知っているメロディーだ。
此の年には、藤山一郎が歌った「長崎の鐘」や、
伊藤久男が歌った「イヨマンテの夜」が作曲されている。
1954(昭和29)年には、高校の教科書にも載った「高原列車は行く」
‥此れも彼の作品だ。
圧巻は、何といっても1964(昭和39)年の東京五輪の「オリンピックマーチ」だ。
では、また‥〔了〕
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