■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。今日も【時習26回3−7の会 0843】号をお届けします。
今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『あら野』から〔第61回/巻之七~第591句~600句〕」をご紹介する。
591天龍(てんりゅう)でたゝかれたまへ雪(ゆき)の暮(くれ) 越人(注1)
【意】此の冬景色の中を旅ゆくあなたは、余程堅固な、旅を修行とする志をお持ちなのでしょうナ
/ 西行法師が天竜川で船頭に叩かれた話はご存知でしょうネ / あなたも天竜の渡船場そういう経験をされら立派な旅人になれることでしょう
【解説】季語:雪の暮=晩冬 / 東海道の天竜川の渡し場で、西行が頭を叩かれて船から降ろされたが、此れが修行の旅なのだ、と少しも怒らなかった、という故事〔西行物語〕を踏まえる
(注1)北越の人 / 越智十蔵 / 別号:負山子、槿花翁など /『春の日』の連衆の一人、尾張蕉門の重鎮 /『更科紀行』に同行、其の儘江戸まで同道
/ 一月後の作品『芭蕉庵十三夜』にも登場/『鵲尾冠』・『猫の耳』等 / 芭蕉は、越人に対して実に好感を持っていた /『笈の小文』で伊良子岬に隠れている杜国を尋ねた時にも越人が同行している
592 から尻(じり)の馬(うま)(注1)にみてゆく千鳥(ちどり)哉(かな) 傘下(注2)
【意】海道の風景 / から尻馬の背に揺られ、冬の海辺を行く / 寒さを堪え乍ら所在なく、浜の千鳥を眺めるばかり‥
【解説】季語:千鳥=三冬 /
(注1)から尻馬:人ひとりと荷物5貫目程度迄を乗せる格安料金の馬 / 料金は本馬(ほんま)の6割強
(注2)加藤傘下(かとう さんか(生没年不詳)):尾張国名古屋の人 / 通称:治助 /『あら野』、『曠野後集』等に入句
593 里人(さとびと)のわたり候(さうらふ)かはしの霜(しも) 宗因(注1)
【意】橋の上降りた真っ白な霜に足跡が着いている / 此れは此の辺り(あたり=わたり)の(村)人がこの橋を渡ったからだろう
一句は、謡曲(『景清』)の有名な節回しをもじったもので、句の意味は無いのだが‥
【解説】季語:はしの霜=三冬 /「里人(さとびと)のわたり候(さうらふ)か」:謡曲『景清』の詞章「わたり」は「あたり」の尊敬語
/「はしの霜」:歌語 / 元来の意を転じて「わたり」を「渡」として、其の縁語「はし」を出した / 万治03(1660)年刊の懐子(ふところご)、境海草(さかいぐさ)に出る句 / 軽妙な洒落が人気を呼び宗因流・謡曲調の俳諧が流行するきっかけとなった句
(注1)西山宗因(1605-82(慶長10年-天和02年):江戸時代の連歌師、俳人
/ 通称:次郎作 / 名:豊一 / 宗因は連歌に於ける号 / 俳号:一幽、西翁、梅翁等 / 肥後国八代の人 / 15歳の頃肥後藩加藤忠広の家老八代城主加藤正方に出仕
/ 1632年 加藤家改易で浪人に / 43歳の時、大阪天満宮の連歌師の宗匠となる
/ 談林俳諧の祖 / 門下に井原西鶴 / 墓所は大阪天満西寺町西福寺 / 法名「実省院円斎宗因居士」/連歌の著作:、『両吟千句』はじめ多数 / 紀行文:『肥後之記』・『津山紀行』・『松島紀行』等
/ 俳諧書:『蚊柱百韻』他
越人と吉田の驛(えき)(注1)にて
(注1)吉田の駅:東海道の宿駅「現・愛知県豊橋市」
594 寒けれど二人(ふたり)旅(たび)ねぞたのもしき 芭蕉
【解説】季語:寒けれど=三冬 / 1687(貞享04)11月、笈の小文の旅の途次、杜國を訪ねる折の作
595 旅寐(たびね)して見(み)しや浮世(うきよ)の煤拂(すすはらひ) 同
【意】師走の煤払いの時節 / まだ旅の途次だ / 普通ならは我家の煤払いをする処であるが、自分は旅の途中である為、家々の煤払いを見ていく立場である
【解説】季語:煤拂(すすはらひ)=暮 / 1687(貞享04)12、笈の小文の旅の途次、杜國を訪ねる折の作
述懐(じゅつくわい)
艸庵(さうあん)を捨(すて)て出(いづ)る時(とき)
596 きゆる時(とき)は氷(こほり)もきえてはしる也(なり) 路通(注1)
【意】冬の氷も春になると消えて水流となって下っていく / 私も行雲流水の身となって暫く行脚に出てみようと思っている
【解説】季語:氷消ゆ=仲春 /
(注1)八十村路通(やそむら ろつう(1649(?)-1738(元文03年)(享年90歳))):露通とも / 近江国大津の人 / 三井寺に生まれ、古典や仏典に精通 / 蕉門の奇人と称される / 放浪行脚の乞食僧侶で詩人
/ 後に還俗 / 1685(貞亨02)年春に入門 /
1688(貞亨05)年頃より深川芭蕉庵近くに居住したと伝わる / 1689(元禄02)年 『奥の細道』では当初同行者だったが、曾良に変わった
/ 路通は、芭蕉に同道出来なかったが、敦賀で芭蕉を出迎え大垣まで同道 / 其の後暫く芭蕉に同行し1690.02.11(元禄03年01月03日)迄、京・大坂での生活を共にしている
597 子(こ)を獨(ひとり)守(も)りて田(た)を打(うつ)孀(やもめ)(注1)かな 快宣(注2)
【意】夫に死別したのであろう / 寡婦の農婦が其の忘れ形見の子供を田の畦の籠に入れて母は田を耕す
【解説】季語:田を打(うつ)=田打(たうち)=晩春 /
(注1)孀(やもも):寡婦のこと
(注2)快宣(かいせん):尾張国名古屋の人
/ 人物について詳細不詳
598 餘所(よそ)の田(た)の蛙(かはづ)入(いれ)ぬも浮世(うきよ)かな 落梧(注1)
【意】田の畦を歩いていると他家の田の蛙が我が家の田に入ろうとしていたので入り込まない様にした
/ 此れが現実の世界の煩悩・強欲だろうか / 思わず反省も‥
【解説】季語:蛙(かはづ)=三春 /
(注1)安川落梧(やすかわ らくご((1652(?)-1691)元禄04年05月(享年40歳))):1688(貞亨05)年以来の美濃国の門人 / 通称:助右衛門 / 呉服商を営む萬屋(よろずや)の主人 /『笈日記』等に入集 /『瓜畠集』を編集するも病魔に倒れ未完に / 長良川に近い稲場山城の山陰に別邸を持ち、『笈の小文』の旅の途次、芭蕉は此処へ立ち寄っている
/「奥の細道」に出立する直前の元禄02年03月23日(1689.05.12)に、芭蕉は落梧宛に紙一束受贈の礼状を書いており、これが「奥の細道」出発の日付確定に貢献したという「功績」がある
高野(注1)にて
(注1)高野:紀伊国高野山金剛嶺寺 / 1688(貞享05)年、笈の小文の旅の途次の作
599 散(ちる)花(はな)にたぶさ(注1)恥(はぢ)けり奥(おく)の院(いん)(注2) 杜國(注3)
【意】落花の時節 / 彼の刈萱道心(かるかやどうしん)は、落花を見て出家したそうだが、此処桜の散る高野山では髻(もとどり=(丁髷(ちょんまげ)))をつけた俗人の姿が恥ずかしいほど神聖な気分になった
【解説】季語:散(ちる)花=晩春 /
因みに「苅萱道心石童丸御親子御絵伝」のあらすじは以下の通り‥
今からおよそ800年前、九州6ヵ国の国守加藤左衛門尉重氏は、世の無常を悟り、京の黒谷に登って法然上人の弟子となり13年
ある夜、延命地蔵尊のお告げを受け、高野山へと入山
国に残された千里御前は、男児を出産、「石童丸」と命名
石童丸13歳の春の頃、父恋しさを募らせ、母と共に父を尋ねて上京し黒谷へ、更に高野山への長旅に出た
山中を彷徨うこと三日三晩の後、奥の院無明の橋で花桶を下げた僧に出逢った
此の僧こそ父・苅萱道心だった
/ 道心は、石童丸が我が子であると悟るが、今は仏に捧げた身の上、名乗らなかった
「尋ねし父は、既に此の世にない」と石童丸に告げ、下山を論した
下山してみると、母は、長旅の疲れからもはや帰らぬ人となっていた
悲嘆にくれ帰郷すれば、姉千代鶴姫も既に亡くなっていた
其処で、石童丸は再度高野山に登り、苅萱上人を父と確信しつつも、師僧と仰ぎ、弟子となり、信照坊道念と名乗り、34年間共に修行された
或る日、苅萱道心は、善光寺如来に導かれて信濃の地に下り、草庵(現・苅萱山西光寺)を営み、日々善光寺に参龍なさること14年、一刀三礼の地蔵尊を刻まれ、83歳で大往生を遂げらた
道念は、父苅萱の往生したことを悟り、西光寺へ移り住み、父の菩提を弔う為苅萱塚を建立
道念自身も一刀三礼の地蔵尊を刻み念仏に励まれ、苅萱道心入寂2年後に63歳で極楽浄土に赴かれた〔「かるかや山 西光寺」縁起より引用〕
(注1)たぶさ:」丁髷(ちょんまで)の「もとどり」のこと
(注2)奥の院:高野山の広大な墓地の奥にある弘法大師廟のある一帯
(注3)坪井杜国(つぼい とこく(?-元禄03年02月20日(1690/03/30)):本名坪井庄兵衛 / 尾張国名古屋の蕉門の有力者 / 芭蕉が特に目を掛けた門人の一人(真偽のほどは不明だが師弟間に男色説がある) / 杜国は名古屋御薗町の町代
/ 富裕な米穀商だったが、空米売買の詐欺罪(=延べ取引)で、貞亨02(1685)年08月19日
畠村(現田原市福江町保美)に追放・流罪になり4年半同地で没した / しかし、監視もない流刑の身で、南彦左衛門、俳号野人または野仁と称して芭蕉と共に『笈の小文』の旅に随行した
/ 田原市福江の隣江山潮音寺に墓がある
600 櫻(さくら)見(み)て行(ゆき)あたりたる乞食(こじき)哉(かな) 梅舌(注1)
【意】花見に出たら乞食に会った / 花は見て楽しむもの / 乞食は人に物乞いするもの /
桜見る人、乞食する人、正に此の世は人は様々だ
【解説】季語:櫻=晩春 /
(注1)梅舌(ばいぜつ(生没年不詳)):尾張国の人
/『あら野』などに入句 / 俳諧の天才少年
【小生 comment】
次回は、俳諧七部集『あら野』から〔第62回/巻之七~第601句~610句〕をご紹介する。お楽しみに!
■続いては、12月19日(土)は、旧東海道「宮宿〔七里の渡し〕」→佐屋街道「道標」3.5km→尾頭橋→「五女子一里塚(≒「津島街道一里塚」)」→「岩塚宿〔岩塚城跡〕」→「万場宿〔万場大橋〕」を巡って歩いて来た模様についてお伝えする
小生、前回「鳴海宿」→「宮宿」をお伝えした際、旧行同期の梶原君から、「江戸時代は、『七里の渡し』より「佐屋街道(と三里の渡し)」の方が利用されていたので歩いてみたらどう?」とsuggestion を貰った
其処で、調べてみて、彼の助言に従うことにした
梶原君! 教えてくれてありがとう!
「佐屋路」は32㎞程なので、3回に分けて踏破することにした
今日はその第1回目で、「七里の渡し」→「佐屋街道道標」→「岩塚宿」→「万場宿」18.9㎞を踏破したことについてご紹介する
02時35分 起床→腹筋2,000回→
03時30分 2.5kg木刀素振り60分
04時30分 入浴→朝食→
05時10分 拙宅発→一般道1時間35分 86㎞→
06時45分 JR関西本線「春田」駅近隣駐車場着
07時05分 春田駅発→関西本線「名古屋」ゆき→
07時15分 名古屋駅着
【JR春田駅→名古屋・名鉄名古屋→神宮前駅】
[01][左上]JR春田駅をbackに
[右上]同上 platformにて
[左下]JR名古屋駅関西本線platform
[中下]名鉄名古屋にて
[右下]名古屋市営バス 神宮東門バス停にて
【七里の渡し】
[02][左上]名古屋市営バス「七里の渡し」バス停にて
[右上]七里の渡し常夜灯にて1
[左下]同上2
[中下]同上3
[右下]同上4
【七里の渡し→佐屋街道道標への途次】
[03][左上]宮の渡し公園入口にて
[右上]宮の渡し公園(七里の渡し)→佐屋街道道標への Google 航空 map
[左下]朝の堀川1
[中下]同上2
[右下]堀川沿いにある白鳥庭園脇の紅葉を back に
【佐屋街道道標】
[04][左上]佐屋街道道標 解説板
[右上]同 同上横にて