今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『あら野』から〔第62回/巻之七~第601句~610句〕」をご紹介する。
高野にて
601 父(ちち)母(はは)のしきりに恋(こひ)し雉子(きじ)の聲(こゑ) 芭蕉
【意】両親よ! 今は此の世では会うことが出来ない / 故に一層会いたい思いは募る / 雉の聲が恰も両親の聲の様に感じられた
【解説】季語:雉子=三春 / 行基の吉野山における詠歌「山鳥のほろほろと鳴く声聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」(玉葉和歌集)を踏まえている / 2句前の杜國の「散花にたぶさ恥けり奥の院」と同じ折の作
602 あやめ(注1)さす軒(のき)さへよそのついで哉(かな) 荷兮(注2)
【意】世俗に疎い我が身は、端午の節句に際しても、近隣の家々が菖蒲(あやめ)を軒端に挿すついでに、其の余りを貰い受けて真似事をするばかりだ
【解説】季語:あやめさす=仲夏 / 作者は無精者で、菖蒲を取りに行ったりせず、隣家で取って来たものをお裾分けして貰って軒端に挿したことを詠んだ
(注1)あやめ:端午の節句の前日にあやめ・蓬(よもぎ)を軒端に挿して邪気を祓った
(注2)山本荷兮(やまもと かけい(1648(?)-1716.10.10(享保元年08月25日(享年69歳))):本名:山本周知 / 尾張国名古屋の医者 / 通称:武右衛門・太一・太市 / 別号:橿木堂・加慶 / 1684(貞亨元)年以来の尾張国名古屋蕉門の重鎮 / 後年、内紛に撚り芭蕉と袖を分かつ / 荷兮のstanceは保守的で、芭蕉の唱導した俳諧革新、中でも「軽み」には迎合出来なかった / 離反前は、『冬の日』、『春の日』、『阿羅野』等の句集を編纂 /芭蕉が『更科紀行』出立に際しては、奴僕を提供する等、旅の安全も支援している
603 さうぶ(=しょうぶ)入(いる)湯(ゆ)(注1)をもらひけり一盥(ひとたらひ) 同
【意】世俗の営みに疎い作者は、あの菖蒲湯迄も、隣家から盥一杯のお湯を貰い受けて真似事をするばかりだ
【解説】季語:さうぶ入湯=仲夏 / 作者は無精で隣家から菖蒲湯のお湯を盥(たらい)に一盃貰って来て、其れを以って菖蒲湯とすることにしていた様だ
(注1)さうぶ入湯=菖蒲湯:端午の節句の五月五日に風呂に菖蒲の根や葉を刻んで入れて風呂に入り邪気を祓う慣習のこと
604 一本(ひともと=いっぽん)のなすびもあまる住ゐ(すま)かな 杏雨(注1)
【意】独り身の住(すま)いでは、ナスの木が一本あればその盛りには食べ切れない程だ
【解説】季語:なすび=晩夏 /
(注1)杏雨(きょうう(生没年不詳)):美濃国岐阜の人 /『あら野』等に入句
605 肩衣(かたぎぬ)(注1)は戻子(もぢ)(注2)にてゆるせ老(おい)の夏(なつ) 杉風(注3)
【意】夏の暑さは老人には堪(こた)える / 肩衣として戻子でいいことにしてくれないか
【解説】季語:老の夏=三夏 /
(注1)肩衣:肩と背を被う袖無しの上衣で仏事などに用いられた
(注2)戻子(もじ):麻糸で目を粗く織った布 / 夏の衣、蚊帳等に使う
(注3)杉山杉風(1647-1732):江戸幕府出入りの魚問屋主人 / 1647(正保04)年生れ / 蕉門の代表的人物 / 豊かな経済力で芭蕉の生活を支えた / 人格的にも温厚篤実で芭蕉が最も心を許していた人物の一人 / 芭蕉庵の殆どは杉風の出資か、杉風の持ち家を改築したものであった / 特に奥の細道の出発に先立って芭蕉が越した杉風の別墅は、現江東区平野に跡が残っている採荼庵(さいとあん) / 早春の寒さを気遣った杉風の勧めで旅の出発が遅れたという / 第5大代将軍綱吉による生類憐の令発令後、商いが停滞した時期もあったが、総じて温和で豊かな一生を全うした / 師の没後、蕉門の高弟嵐雪一派と対立したとも伝わる / 1732(享保17)年死去(享年86歳)
606 似(にあ=につか)はしや白髪(しらが)にかつぐ麻木(をがら)(注1)賣(うり) 龜洞(注2)
【意】麻木(をがら)売りがやって来たが、見れば白髪の老人だ / 此れは軽くて老人の商売にはうってつけだ
【解説】季語:麻木売=初秋 /
(注1)麻木(をがら):盆に迎え火や送り火を焚くのに使う燃料 / 麻の茎の皮を剥いだもので、盂蘭盆会の精霊の迎え火に焚く / お供えの膳の箸にも作る
(注2)武井亀洞(たけい きどう(?-貞亨04(1687)年11月):尾張国名古屋の人 /『春の日』に初出 / 越人の弟子と伝わる /『あら野』・『庭竈集』等に入句
九月(くぐわつ)十日(とをか)(注1)素堂(そだう)の亭(てい)(注2)にて
(注1)九月十日:重陽の節句の翌日 / 宮中では、此の日又は十一日残菊の宴を催す
(注2)素堂(そだう)の亭:江戸の郊外葛飾の阿武にあった / 素堂は菊を愛したことで有名 / 此の「残菊の宴」は、貞享05年09月10日に、芭蕉・其角等7名で催されたもの
607 かくれ家(が)やよめ菜(な)(注1)の中(なか)に残(のこ)る菊(きく) 嵐雪(注2)
【意】素堂の隠れ家には、菊好きの素堂にはよめ菜が植えてあり、その中に菊が混じっているという風情である
【解説】季語:残る菊=晩秋 / 1688.10.03(貞亨05年09月10日)の「残菊の宴」の折の句 /『更科紀行』の旅から帰った芭蕉を迎えて素堂の別邸に集まった時詠まれたもの
(注1)よめ菜(な):野菊に似るが葉は食用、淡紫色の花をつける
(注2)服部嵐雪(承応03(1654)年-宝永04年(1707.10.13)):下級武士服部喜太夫高治の長男として江戸湯島に生まれる / 貞亨03年仕官の道を諦め俳諧師に転身 / 貞亨04年春宗匠として立机 / 若い頃は相当な不良青年で悪所通いは日常茶飯事であったと伝わる / 蕉門入門は古く、嵐雪21歳頃、蕉門では最古参の一人 / 芭蕉は、嵐雪の才能を高く評価し元禄05年03月03日の桃の節句に「草庵に桃桜あり。門人に其角嵐雪あり」と称え、「両の手に桃と桜や草の餅」と詠んだりした程であった / 元禄07年10月22日、嵐雪は江戸にあってはじめて師の訃報を聞いた。その日のうちに一門を参集して芭蕉追悼句会を開いたばかりでなく、桃隣と一緒に膳所の義仲寺に向かった / 義仲寺で嵐雪が詠んだ句は、「この下にかくねむるらん雪仏」であった
608 かり家(いえ)を貪(むさぼ)るきくの垣穂(かきほ)かな 暁鼯(注1)
【意】我が家は借家であるが、せめて一時の贅沢をと、垣根には菊を植えて楽しんでいる
【解説】季語:きく(菊)=三秋 /
(注1)暁鼯(ぎょうご(生没年不詳)):尾張国名古屋の人 /『あら野』に二句入集
人(ひと)のいほり(注1)をたづねて
(注1)人のいほり:貞享04年冬、芭蕉が尾張から国外追放されて、三河国保美に隠棲中の杜國を訪ねた折の作
609 さればこそあれたきまゝの霜(しも)の宿(やど) 芭蕉
【意】思う儘に茂った雑草が、霜枯れて、正に荒涼の極みである / よくぞ此処迄の境遇に耐えていることヨ / 流石、あなたなればこそだ
【解説】季語:霜=三冬 /
旧里(きうり=(きゅうり))(注1)の人(ひと)に云(いひ)つかはす
(注1)旧里(きうり):杜國の故郷、尾張国名古屋
610 こがらしの落葉(おちば)にやぶる小(こ)ゆび哉(かな) 杜國(注1)
【意】昔、中国の苑宜は、小指を傷つけて泣いたという / 其の理由は痛さではなく、身体髪膚の全てを与えて下さった親への親不孝に当たると悲しんだのだと言います / 私(杜國)も今日木枯らしで落ちた落ち葉を拾っていて小指を傷つけたのですが、流罪の身となった私は故郷の皆さんにご迷惑・ご心配をおかけしたことを此の小指の傷と同様、言葉もありません
【解説】季語:こがらし=初冬 / 落葉=三冬 /
(注1)坪井杜国(つぼい とこく(?-元禄03年02月20日(1690/03/30)):本名坪井庄兵衛 / 尾張国名古屋の蕉門の有力者 / 芭蕉が特に目を掛けた門人の一人(真偽のほどは不明だが師弟間に男色説がある) / 杜国は名古屋御薗町の町代 / 富裕な米穀商だったが、空米売買の詐欺罪(=延べ取引)で、貞亨02(1685)年08月19日 畠村(現田原市福江町保美)に追放・流罪になり4年半同地で没した / しかし、監視もない流刑の身で、南彦左衛門、俳号野人または野仁と称して芭蕉と共に『笈の小文』の旅に随行した / 田原市福江の隣江山潮音寺に墓がある
【小生 comment】
次回は、俳諧七部集『あら野』から〔第63回/巻之七~第611句~620句〕をご紹介する。お楽しみに!
■続いては、12月29日(火)は、佐屋街道「万場宿〔万場大橋〕」→「加守一里塚」→「津島一里塚」→「津島神社」を巡って歩いて来た模様についてお伝えする
今日(2020年12月29日)は、佐屋街道「万場宿」→「神守一里塚」→「津島一里塚跡」→「津島神社」を巡って来た
05時00分 起床→腹筋2,000回→
05時50分 2.5kg木刀素振り60分
06時50分 入浴→朝食→
07時40分 拙宅発→一般道1時間35分 97㎞→
09時35分 名鉄津島駅東口近隣 coin park 着
09時57分 名鉄津島駅→名鉄名古屋→
10時45分 JR名古屋→関西本線→
10時57分 JR春田駅着〔‥忘れ物に気付き、名鉄名古屋駅迄一往復した‥〕
12時02分 JR春田駅発→徒歩→
【名鉄「津島」→名鉄「名古屋」→JR「名古屋」→JR「春田」】
[01][左上] 名鉄「津島駅」platformにて
[右上]名鉄「名古屋駅」前にて
[右上]JR「名古屋駅」platformにて
[右中]JR「春田駅」platformにて
[右下]JR「春田駅」前にて
12時02分 JR春田駅発→一般道→徒歩→
12時35分 光圓寺着
【JR春田駅→万場宿→佐屋街道→砂子橋】
[02][左上]JR春田駅→万場宿→神守一里塚への Google 航空 map
[左下]万場川東公園
[右上]万場宿「光圓寺・三重塔」前にて
[右中]同「光圓寺・山門」
[右下]同 砂子橋へ向かう佐屋街道
12時52分 砂子橋着
【佐屋街道「砂子橋」】
[03][左上]光圓寺→砂子橋への佐屋街道 Google 航空 map
[右上]同上 佐屋街道
[左下]同 砂子橋欄干
[中下]同 同上にて
[右下]同 JR春田駅→万場宿光圓寺→神守一里塚への Google 航空 map
13時07分 佐屋街道「高札場」跡着13時19分 七所社 神社着
13時45分 海部郡大治町・西條「狐海道東」交差点通過
【佐屋街道「高札場」跡→「七所社 神社」】
[04][左上] 佐屋街道「高札場」跡
[右上]七所社 神社前にて1
[左下]同 同上2
[中下]同 同所境内にて
[右下]海部郡大治町・西條「狐海道東」交差点 面白い地名だ!
13時55分 あま市七宝町秋竹通過
13時58分 七宝焼き原産地道標着
【七宝焼き原産地道標】
[05][左上]あま市七宝町秋竹「佐屋街道の民家」
[右上]同 七宝焼き原産地道標
[左下]同 同所にて
[中下]同 七宝焼き原産地道標・解説板
[右下]同 同所脇に咲いていた山茶花
14時34分 神守一里塚着
【神守(かもり)一里塚】
[06][左上]神守一里塚 同塚前にて
[右上]同 同塚にて1
[左下]同 同上2
[中下]同 同上3
[右下]同 神守ふるさと散歩道・解説板
【「神守一里塚」→「津島一里塚」跡への途次】
[07][左上]神守一里塚→津島一里塚→名鉄津島駅への Google 航空 map
[右上]同 津島市神守町標識
[左下]同 津島市神守町の佐屋街道にて
[中下]同 佐屋街道の日光川に架かる日光橋
[右下]同 同上 欄干
16時04分 津島一里塚跡着
【津島一里塚】
[08][左上]津島一里塚跡 同所にて1
[右上]同 同上2
[左下]同 同上3
[中下]同 同所標識
[右下]同 同所標識のある清光院
16時25分 津島神社着
【津島神社】
[09][左上]津島神社 拝殿前にて
[右上]同 東門近くにて
[左下]同 東門前にて1
[中下]同 同上2
[右下]同 同上3
16時47分 津島神社東駐車場→一般道97㎞→
19時05分 帰宅〔走行距離計 194km〕(了)
【後記1】今日01月03日は、令和三年正月最後の休日
翌日から仕事が始まるが、今大流行しているコロナ禍が一日も早く退散して安心して暮らせる日で到来することを切に願っている
其の幸せな日々の到来を祈りつつ、小生がもっている名画の肉筆画 4点と、作者承認の lithograph 3点+作者の財団保証の木版画 1枚の計 8点をご紹介する
【日本画・油彩画(洋画)原画の名画 4点】
[10]森緑翠(1917-99)『俤(おもかげ)や姥(おば)ひとりなく月の夜』〔日本画肉筆画〕
[11]DEAK B. Ferenc(1938-2004)『懐かしのブダ』〔油彩画〕
1938年 Hungary プダペスト生まれの画家
[12]DEAK B. Ferenc(1938-2004)『懐かしのブダ』の絵の裏面に貼付してあった業者による作者略歴と紹介文
[13]渡辺直人(1824- )『『静物画/卓上の林檎』〔油彩画〕
渡辺直人氏は、亡父の浜松師範学校時代の美術部以来の親友で、中学校長を勤め上げ奥浜名湖在住
もう今から 5年前になるが、父が亡くなった時、父の死を渡辺直人さんに手紙で知らせた際、長文のお手紙を頂戴して以来音信不通だ / ご存命なら満95歳である
渡辺直人氏は、絵画に造詣の深い父が尊敬していた方
父が亡くなる半年程前に突然「今日、(渡辺)直人(なおんど)君の個展があるので連れて行け」と言われ、舘山寺だったか、奥浜名湖の美術展会場に連れて行ったら「悟! なおんど君からOKを貰った!
なおんど君が一つ present してくれると言うから、悟はどの作品がいい?」と急に尋ねて来た
小生、お世辞ではなく本当にそう思ったから三十数点ある作品群を見乍ら「みんな素晴らしいです♪ お父さんは?」と聞き返したら、父は即座に「俺かァ、俺は此れだ!️」と指差した作品が此の静物画『卓上の林檎』だった
ポール・セザンヌ(仏:Paul Cézanne 1839.01.19 - 1906.10.22(23?))とはまた違う趣き豊かな傑作で、小生大好きな作品で、ずっと拙宅の応接間に飾ってある
[14]栗原幸彦(1951- )『春の景』〔日本画肉筆画〕
【日本画の名画(小倉遊亀・堀文子・橋本明治の lithograph と 橋本関雪の 木版画) 4点】
[15]小倉遊亀 (1895.03.01-2000.07.23)『寒椿』2000年〔原画 1981年〕
[16]堀文子 (1918.07.02-2019.02.05 )『名もなき草たち』
[17]橋本明治 (1904.08.05-1991.03.25)『卓上の静物』 以上 3点 lithograph
[18]橋本関雪 (1883.11.10-1945.02.26)『玄猿』
ホント、名画っていいですネェッ!
【後記2】今日は、週一回の平日の公休‥
小生、【時習26回】同期の金子君【3-4】が院長を務める病院で彼に主治医になって貰って術後 6年経つのだが 、3カ月に 1度の経過検診に行って来た
CEAという腫瘍マーカーの一つが、0-5.0が正常の処、5.98とHighだったのがチト気になったが、毎回5.0±1.0を行ったり来たりしているので、金子君も「そう心配することはないけど、好きなお酒も程々にナ!(笑)」と言ってくれた
帰宅後【今泉美術館(笑)】の廊下に、先日ご紹介した亡父の親友の渡辺直人さんが父と長年葉書にお互い絵を描いて遣り取りしている中の一枚を飾ってあるのに偶然目が止まったので今日ご紹介する
親友とこうして好きで得意な絵画をスケッチして文通するなんていいナ!と改めて感じた
葉書の消印を見ると 22/6.17とあり、渡辺直人さんの自筆で6/16とあるので、今から10年半あまり前の平成22年06月16日のものだが、スケッチは、渡辺さんの母校、奥山小学校の様だ
此の絵(添付写真[19])を見ていると、高野辰之(1876-1947)作詞、岡野貞一(1878-1941)作曲の唱歌「故郷」の歌詞が浮かんだ
1 兎(うさぎ)追ひし彼(か)の山
小鮒(こぶな)釣りし彼の川(かは)
夢は今も巡りて
忘れ難(がた)き故郷(ふるさと)
2 如何(いか)にいます父母(ちちはは)
恙無(つつがな)しや友(とも)がき
雨に風につけても
思ひ出(い)づる故郷
[19]渡辺直人さんから亡父への葉書の絵
[20]同上〔表書〕渡辺さんから父への言葉
窓から見た故里の山、 こゝに育って この地に死す
ありがたい山なり
白い建物はわが母校
奥山小学校なり
高野にて
601 父(ちち)母(はは)のしきりに恋(こひ)し雉子(きじ)の聲(こゑ) 芭蕉
【意】両親よ! 今は此の世では会うことが出来ない / 故に一層会いたい思いは募る / 雉の聲が恰も両親の聲の様に感じられた
【解説】季語:雉子=三春 / 行基の吉野山における詠歌「山鳥のほろほろと鳴く声聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」(玉葉和歌集)を踏まえている / 2句前の杜國の「散花にたぶさ恥けり奥の院」と同じ折の作
602 あやめ(注1)さす軒(のき)さへよそのついで哉(かな) 荷兮(注2)
【意】世俗に疎い我が身は、端午の節句に際しても、近隣の家々が菖蒲(あやめ)を軒端に挿すついでに、其の余りを貰い受けて真似事をするばかりだ
【解説】季語:あやめさす=仲夏 / 作者は無精者で、菖蒲を取りに行ったりせず、隣家で取って来たものをお裾分けして貰って軒端に挿したことを詠んだ
(注1)あやめ:端午の節句の前日にあやめ・蓬(よもぎ)を軒端に挿して邪気を祓った
(注2)山本荷兮(やまもと かけい(1648(?)-1716.10.10(享保元年08月25日(享年69歳))):本名:山本周知 / 尾張国名古屋の医者 / 通称:武右衛門・太一・太市 / 別号:橿木堂・加慶 / 1684(貞亨元)年以来の尾張国名古屋蕉門の重鎮 / 後年、内紛に撚り芭蕉と袖を分かつ / 荷兮のstanceは保守的で、芭蕉の唱導した俳諧革新、中でも「軽み」には迎合出来なかった / 離反前は、『冬の日』、『春の日』、『阿羅野』等の句集を編纂 /芭蕉が『更科紀行』出立に際しては、奴僕を提供する等、旅の安全も支援している
603 さうぶ(=しょうぶ)入(いる)湯(ゆ)(注1)をもらひけり一盥(ひとたらひ) 同
【意】世俗の営みに疎い作者は、あの菖蒲湯迄も、隣家から盥一杯のお湯を貰い受けて真似事をするばかりだ
【解説】季語:さうぶ入湯=仲夏 / 作者は無精で隣家から菖蒲湯のお湯を盥(たらい)に一盃貰って来て、其れを以って菖蒲湯とすることにしていた様だ
(注1)さうぶ入湯=菖蒲湯:端午の節句の五月五日に風呂に菖蒲の根や葉を刻んで入れて風呂に入り邪気を祓う慣習のこと
604 一本(ひともと=いっぽん)のなすびもあまる住ゐ(すま)かな 杏雨(注1)
【意】独り身の住(すま)いでは、ナスの木が一本あればその盛りには食べ切れない程だ
【解説】季語:なすび=晩夏 /
(注1)杏雨(きょうう(生没年不詳)):美濃国岐阜の人 /『あら野』等に入句
605 肩衣(かたぎぬ)(注1)は戻子(もぢ)(注2)にてゆるせ老(おい)の夏(なつ) 杉風(注3)
【意】夏の暑さは老人には堪(こた)える / 肩衣として戻子でいいことにしてくれないか
【解説】季語:老の夏=三夏 /
(注1)肩衣:肩と背を被う袖無しの上衣で仏事などに用いられた
(注2)戻子(もじ):麻糸で目を粗く織った布 / 夏の衣、蚊帳等に使う
(注3)杉山杉風(1647-1732):江戸幕府出入りの魚問屋主人 / 1647(正保04)年生れ / 蕉門の代表的人物 / 豊かな経済力で芭蕉の生活を支えた / 人格的にも温厚篤実で芭蕉が最も心を許していた人物の一人 / 芭蕉庵の殆どは杉風の出資か、杉風の持ち家を改築したものであった / 特に奥の細道の出発に先立って芭蕉が越した杉風の別墅は、現江東区平野に跡が残っている採荼庵(さいとあん) / 早春の寒さを気遣った杉風の勧めで旅の出発が遅れたという / 第5大代将軍綱吉による生類憐の令発令後、商いが停滞した時期もあったが、総じて温和で豊かな一生を全うした / 師の没後、蕉門の高弟嵐雪一派と対立したとも伝わる / 1732(享保17)年死去(享年86歳)
606 似(にあ=につか)はしや白髪(しらが)にかつぐ麻木(をがら)(注1)賣(うり) 龜洞(注2)
【意】麻木(をがら)売りがやって来たが、見れば白髪の老人だ / 此れは軽くて老人の商売にはうってつけだ
【解説】季語:麻木売=初秋 /
(注1)麻木(をがら):盆に迎え火や送り火を焚くのに使う燃料 / 麻の茎の皮を剥いだもので、盂蘭盆会の精霊の迎え火に焚く / お供えの膳の箸にも作る
(注2)武井亀洞(たけい きどう(?-貞亨04(1687)年11月):尾張国名古屋の人 /『春の日』に初出 / 越人の弟子と伝わる /『あら野』・『庭竈集』等に入句
九月(くぐわつ)十日(とをか)(注1)素堂(そだう)の亭(てい)(注2)にて
(注1)九月十日:重陽の節句の翌日 / 宮中では、此の日又は十一日残菊の宴を催す
(注2)素堂(そだう)の亭:江戸の郊外葛飾の阿武にあった / 素堂は菊を愛したことで有名 / 此の「残菊の宴」は、貞享05年09月10日に、芭蕉・其角等7名で催されたもの
607 かくれ家(が)やよめ菜(な)(注1)の中(なか)に残(のこ)る菊(きく) 嵐雪(注2)
【意】素堂の隠れ家には、菊好きの素堂にはよめ菜が植えてあり、その中に菊が混じっているという風情である
【解説】季語:残る菊=晩秋 / 1688.10.03(貞亨05年09月10日)の「残菊の宴」の折の句 /『更科紀行』の旅から帰った芭蕉を迎えて素堂の別邸に集まった時詠まれたもの
(注1)よめ菜(な):野菊に似るが葉は食用、淡紫色の花をつける
(注2)服部嵐雪(承応03(1654)年-宝永04年(1707.10.13)):下級武士服部喜太夫高治の長男として江戸湯島に生まれる / 貞亨03年仕官の道を諦め俳諧師に転身 / 貞亨04年春宗匠として立机 / 若い頃は相当な不良青年で悪所通いは日常茶飯事であったと伝わる / 蕉門入門は古く、嵐雪21歳頃、蕉門では最古参の一人 / 芭蕉は、嵐雪の才能を高く評価し元禄05年03月03日の桃の節句に「草庵に桃桜あり。門人に其角嵐雪あり」と称え、「両の手に桃と桜や草の餅」と詠んだりした程であった / 元禄07年10月22日、嵐雪は江戸にあってはじめて師の訃報を聞いた。その日のうちに一門を参集して芭蕉追悼句会を開いたばかりでなく、桃隣と一緒に膳所の義仲寺に向かった / 義仲寺で嵐雪が詠んだ句は、「この下にかくねむるらん雪仏」であった
608 かり家(いえ)を貪(むさぼ)るきくの垣穂(かきほ)かな 暁鼯(注1)
【意】我が家は借家であるが、せめて一時の贅沢をと、垣根には菊を植えて楽しんでいる
【解説】季語:きく(菊)=三秋 /
(注1)暁鼯(ぎょうご(生没年不詳)):尾張国名古屋の人 /『あら野』に二句入集
人(ひと)のいほり(注1)をたづねて
(注1)人のいほり:貞享04年冬、芭蕉が尾張から国外追放されて、三河国保美に隠棲中の杜國を訪ねた折の作
609 さればこそあれたきまゝの霜(しも)の宿(やど) 芭蕉
【意】思う儘に茂った雑草が、霜枯れて、正に荒涼の極みである / よくぞ此処迄の境遇に耐えていることヨ / 流石、あなたなればこそだ
【解説】季語:霜=三冬 /
旧里(きうり=(きゅうり))(注1)の人(ひと)に云(いひ)つかはす
(注1)旧里(きうり):杜國の故郷、尾張国名古屋
610 こがらしの落葉(おちば)にやぶる小(こ)ゆび哉(かな) 杜國(注1)
【意】昔、中国の苑宜は、小指を傷つけて泣いたという / 其の理由は痛さではなく、身体髪膚の全てを与えて下さった親への親不孝に当たると悲しんだのだと言います / 私(杜國)も今日木枯らしで落ちた落ち葉を拾っていて小指を傷つけたのですが、流罪の身となった私は故郷の皆さんにご迷惑・ご心配をおかけしたことを此の小指の傷と同様、言葉もありません
【解説】季語:こがらし=初冬 / 落葉=三冬 /
(注1)坪井杜国(つぼい とこく(?-元禄03年02月20日(1690/03/30)):本名坪井庄兵衛 / 尾張国名古屋の蕉門の有力者 / 芭蕉が特に目を掛けた門人の一人(真偽のほどは不明だが師弟間に男色説がある) / 杜国は名古屋御薗町の町代 / 富裕な米穀商だったが、空米売買の詐欺罪(=延べ取引)で、貞亨02(1685)年08月19日 畠村(現田原市福江町保美)に追放・流罪になり4年半同地で没した / しかし、監視もない流刑の身で、南彦左衛門、俳号野人または野仁と称して芭蕉と共に『笈の小文』の旅に随行した / 田原市福江の隣江山潮音寺に墓がある
【小生 comment】
次回は、俳諧七部集『あら野』から〔第63回/巻之七~第611句~620句〕をご紹介する。お楽しみに!
■続いては、12月29日(火)は、佐屋街道「万場宿〔万場大橋〕」→「加守一里塚」→「津島一里塚」→「津島神社」を巡って歩いて来た模様についてお伝えする
今日(2020年12月29日)は、佐屋街道「万場宿」→「神守一里塚」→「津島一里塚跡」→「津島神社」を巡って来た
05時00分 起床→腹筋2,000回→
05時50分 2.5kg木刀素振り60分
06時50分 入浴→朝食→
07時40分 拙宅発→一般道1時間35分 97㎞→
09時35分 名鉄津島駅東口近隣 coin park 着
09時57分 名鉄津島駅→名鉄名古屋→
10時45分 JR名古屋→関西本線→
10時57分 JR春田駅着〔‥忘れ物に気付き、名鉄名古屋駅迄一往復した‥〕
12時02分 JR春田駅発→徒歩→
【名鉄「津島」→名鉄「名古屋」→JR「名古屋」→JR「春田」】
[01][左上] 名鉄「津島駅」platformにて
[右上]名鉄「名古屋駅」前にて
[右上]JR「名古屋駅」platformにて
[右中]JR「春田駅」platformにて
[右下]JR「春田駅」前にて
12時02分 JR春田駅発→一般道→徒歩→
12時35分 光圓寺着
【JR春田駅→万場宿→佐屋街道→砂子橋】
[02][左上]JR春田駅→万場宿→神守一里塚への Google 航空 map
[左下]万場川東公園
[右上]万場宿「光圓寺・三重塔」前にて
[右中]同「光圓寺・山門」
[右下]同 砂子橋へ向かう佐屋街道
12時52分 砂子橋着
【佐屋街道「砂子橋」】
[03][左上]光圓寺→砂子橋への佐屋街道 Google 航空 map
[右上]同上 佐屋街道
[左下]同 砂子橋欄干
[中下]同 同上にて
[右下]同 JR春田駅→万場宿光圓寺→神守一里塚への Google 航空 map
13時07分 佐屋街道「高札場」跡着13時19分 七所社 神社着
13時45分 海部郡大治町・西條「狐海道東」交差点通過
【佐屋街道「高札場」跡→「七所社 神社」】
[04][左上] 佐屋街道「高札場」跡
[右上]七所社 神社前にて1
[左下]同 同上2
[中下]同 同所境内にて
[右下]海部郡大治町・西條「狐海道東」交差点 面白い地名だ!
13時55分 あま市七宝町秋竹通過
13時58分 七宝焼き原産地道標着
【七宝焼き原産地道標】
[05][左上]あま市七宝町秋竹「佐屋街道の民家」
[右上]同 七宝焼き原産地道標
[左下]同 同所にて
[中下]同 七宝焼き原産地道標・解説板
[右下]同 同所脇に咲いていた山茶花
14時34分 神守一里塚着
【神守(かもり)一里塚】
[06][左上]神守一里塚 同塚前にて
[右上]同 同塚にて1
[左下]同 同上2
[中下]同 同上3
[右下]同 神守ふるさと散歩道・解説板
【「神守一里塚」→「津島一里塚」跡への途次】
[07][左上]神守一里塚→津島一里塚→名鉄津島駅への Google 航空 map
[右上]同 津島市神守町標識
[左下]同 津島市神守町の佐屋街道にて
[中下]同 佐屋街道の日光川に架かる日光橋
[右下]同 同上 欄干
16時04分 津島一里塚跡着
【津島一里塚】
[08][左上]津島一里塚跡 同所にて1
[右上]同 同上2
[左下]同 同上3
[中下]同 同所標識
[右下]同 同所標識のある清光院
16時25分 津島神社着
【津島神社】
[09][左上]津島神社 拝殿前にて
[右上]同 東門近くにて
[左下]同 東門前にて1
[中下]同 同上2
[右下]同 同上3
16時47分 津島神社東駐車場→一般道97㎞→
19時05分 帰宅〔走行距離計 194km〕(了)
【後記1】今日01月03日は、令和三年正月最後の休日
翌日から仕事が始まるが、今大流行しているコロナ禍が一日も早く退散して安心して暮らせる日で到来することを切に願っている
其の幸せな日々の到来を祈りつつ、小生がもっている名画の肉筆画 4点と、作者承認の lithograph 3点+作者の財団保証の木版画 1枚の計 8点をご紹介する
【日本画・油彩画(洋画)原画の名画 4点】
[10]森緑翠(1917-99)『俤(おもかげ)や姥(おば)ひとりなく月の夜』〔日本画肉筆画〕
[11]DEAK B. Ferenc(1938-2004)『懐かしのブダ』〔油彩画〕
1938年 Hungary プダペスト生まれの画家
[12]DEAK B. Ferenc(1938-2004)『懐かしのブダ』の絵の裏面に貼付してあった業者による作者略歴と紹介文
[13]渡辺直人(1824- )『『静物画/卓上の林檎』〔油彩画〕
渡辺直人氏は、亡父の浜松師範学校時代の美術部以来の親友で、中学校長を勤め上げ奥浜名湖在住
もう今から 5年前になるが、父が亡くなった時、父の死を渡辺直人さんに手紙で知らせた際、長文のお手紙を頂戴して以来音信不通だ / ご存命なら満95歳である
渡辺直人氏は、絵画に造詣の深い父が尊敬していた方
父が亡くなる半年程前に突然「今日、(渡辺)直人(なおんど)君の個展があるので連れて行け」と言われ、舘山寺だったか、奥浜名湖の美術展会場に連れて行ったら「悟! なおんど君からOKを貰った!
なおんど君が一つ present してくれると言うから、悟はどの作品がいい?」と急に尋ねて来た
小生、お世辞ではなく本当にそう思ったから三十数点ある作品群を見乍ら「みんな素晴らしいです♪ お父さんは?」と聞き返したら、父は即座に「俺かァ、俺は此れだ!️」と指差した作品が此の静物画『卓上の林檎』だった
ポール・セザンヌ(仏:Paul Cézanne 1839.01.19 - 1906.10.22(23?))とはまた違う趣き豊かな傑作で、小生大好きな作品で、ずっと拙宅の応接間に飾ってある
[14]栗原幸彦(1951- )『春の景』〔日本画肉筆画〕
【日本画の名画(小倉遊亀・堀文子・橋本明治の lithograph と 橋本関雪の 木版画) 4点】
[15]小倉遊亀 (1895.03.01-2000.07.23)『寒椿』2000年〔原画 1981年〕
[16]堀文子 (1918.07.02-2019.02.05 )『名もなき草たち』
[17]橋本明治 (1904.08.05-1991.03.25)『卓上の静物』 以上 3点 lithograph
[18]橋本関雪 (1883.11.10-1945.02.26)『玄猿』
ホント、名画っていいですネェッ!
【後記2】今日は、週一回の平日の公休‥
小生、【時習26回】同期の金子君【3-4】が院長を務める病院で彼に主治医になって貰って術後 6年経つのだが 、3カ月に 1度の経過検診に行って来た
CEAという腫瘍マーカーの一つが、0-5.0が正常の処、5.98とHighだったのがチト気になったが、毎回5.0±1.0を行ったり来たりしているので、金子君も「そう心配することはないけど、好きなお酒も程々にナ!(笑)」と言ってくれた
帰宅後【今泉美術館(笑)】の廊下に、先日ご紹介した亡父の親友の渡辺直人さんが父と長年葉書にお互い絵を描いて遣り取りしている中の一枚を飾ってあるのに偶然目が止まったので今日ご紹介する
親友とこうして好きで得意な絵画をスケッチして文通するなんていいナ!と改めて感じた
葉書の消印を見ると 22/6.17とあり、渡辺直人さんの自筆で6/16とあるので、今から10年半あまり前の平成22年06月16日のものだが、スケッチは、渡辺さんの母校、奥山小学校の様だ
此の絵(添付写真[19])を見ていると、高野辰之(1876-1947)作詞、岡野貞一(1878-1941)作曲の唱歌「故郷」の歌詞が浮かんだ
1 兎(うさぎ)追ひし彼(か)の山
小鮒(こぶな)釣りし彼の川(かは)
夢は今も巡りて
忘れ難(がた)き故郷(ふるさと)
2 如何(いか)にいます父母(ちちはは)
恙無(つつがな)しや友(とも)がき
雨に風につけても
思ひ出(い)づる故郷
[19]渡辺直人さんから亡父への葉書の絵
[20]同上〔表書〕渡辺さんから父への言葉
窓から見た故里の山、 こゝに育って この地に死す
ありがたい山なり
白い建物はわが母校
奥山小学校なり
あゝ山の稜線は変らず
昔のまゝなり
渡辺直人さんの絵の添書きより
【後記3】昨年12月暮に遣って来てくれた長男・長女の孫たち
[21]孫たちとのsnap shots
[22]同上2
[23]長男の長女の名筆家ぶり
[24]長女の長女の名violinistぶり
では、また‥〔了〕
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