2020年12月18日金曜日

【時習26回3−7の会 0842】~「松尾芭蕉:俳諧七部集『あら野』から巻之七〔第60回/第581句~590句〕」「12月11日(金):旧東海道「有松」→旧東海道「鳴海宿」→「有松一里塚」→「笠寺一里塚」→「伝馬町一里塚(辺り)」→「宮宿〔七里の渡し〕」18.3km(うち2.4kmは「有松」→「鳴海宿」は先週に引き続き(但し、別ルートを)歩いた)を巡って

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。今日も【時習26回37の会 0842】号をお届けします。
 今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『あら野』から〔第60回/巻之七~第581句~590句〕」をご紹介する。

  
狩野桶(かのをけ)(1)といふ物(もの)、其角(きかく)のはなむけにおくるとて

(1)狩野桶:意味不明 / 曲物細工の小桶、巡礼・僧等が用いたものけはないか、という

5
81 狩野桶(かのをけ)に鹿(しか)をなつけよ秋(あき)の山(やま)  荷兮(1)

【意】秋の山路に鹿と出逢うこともあろう / 其の時は、此の器に蓄えた食べ物を与え、共に秋の哀れを味わおう
【解説】季語:鹿=三春 / 秋の山=三秋 「狩野」に「鹿()の」或いは「狩(かり)」を掛けるか
(1)山本荷兮(やまもと かけい(1648(?)-1716.10.10(享保元年0825(享年69))):本名:山本周知 / 尾張国名古屋の医者 / 通称:武右衛門・太一・太市 / 別号:橿木堂・加慶 / 1684(貞亨元)年以来の尾張国名古屋蕉門の重鎮 / 後年、内紛に撚り芭蕉と袖を分かつ / 荷兮のstanceは保守的で、芭蕉の唱導した俳諧革新、中でも「軽み」には迎合出来なかった / 離反前は、『冬の日』、『春の日』、『阿羅野』等の句集を編纂 /芭蕉が『更科紀行』出立に際しては、奴僕を提供する等、旅の安全も支援している

582 とまりとまり稲(いね)すり歌(うた)も替(かはり)けり  京 ちね(1)

【意】宿駅を重ねて旅を続けていくと、時節柄、刈入れた稲を臼にかけて歌い乍ら脱穀している / 所変われば歌も夫々変わっているのが面白い
【解説】季語:稲すり歌=晩秋
(1)千子(ちね(?-1688.06.12(貞亨050515))):向井去来の妹 / 清水藤右衛門に嫁すも若くして没 / 多才の女性だったらしく、去来はこの妹を慈しんだ / 著作に『伊勢紀行』/ 此れは、貞亨3年に兄弟で伊勢を旅したときの記録

583 (いる)(つき)に今(いま)しばし行(ゆく)とまり哉(かな)  玄寮()(1)

【意】秋の夕暮 / 西空に三日月が掛かっている / 澄んだ秋の夜空の美しい三日月に惹かれ、今宵の宿は一つ先迄延ばして歩いて行くことにしよう
【解説】季語:月=三秋 /
(1) 玄寮(察?):人物についえは不詳

584 (よく)きけば親舟(おやぶね)に打(うつ)(きぬた)かな  一井(1)

【意】海辺の宿駅 / 砧を打つ音が澄み切った空気を伝わり聞こえてくる / 其れも其の筈だ / 沖に浮かぶ大舟で砧を打つ音だったのだ
【解説】季語:碪(きぬた)=三秋 /
(1)一井(いっせい(生没年不詳)):尾張国名古屋の門人 /芭蕉は、1688.01.11(貞亨04129)、『笈の小文』の旅の途次、一井宅に招かれ、「旅寝よし宿は師走の夕月夜」を発句に熱田の蕉門らと七吟半歌仙(熱田三歌仙)巻いた

  
品川(しながは)にて人(ひと)にわかるゝとて

585 澤庵(たくあん)(1)の墓(はか)をわかれの秋の暮(くれ)  文鱗(2)

【意】一切の虚飾を排した沢庵和尚の墓は、別離の寂寥感を感じさせる / 晩秋の夕暮に其の和尚の墓前でお別れするのは一層の哀しさを誘う
 一句は、秋に旅立つあなたとの悲しい別れをここ品川の東海寺の沢庵の墓の前でするとは、かえって一層悲しくなります
【解説】季語:秋の暮=晩秋 /
(1)沢庵宗彭(たくあん そうほう(1573,12.24-1646.1.27(正保021211)):宮本武蔵の禅の師として有名その墓は東京品川東海寺にある / 此処が沢庵の開山禅寺である / 沢庵禅師の墓は東海寺方丈の西北の方にあり、自然の巨石を置いたもの
(2)鳥居文鱗(とりい ぶんりん(生没年不詳)):和泉国堺の人 / 虚無斎とも /『続の原句会』・『あら野』・『初懐紙評註』等に入句 / 文鱗は、1683(天和03)年、芭蕉が第二次芭蕉庵に入った頃、出山の釈迦像を贈った / 芭蕉は此れを大事に手許に置き、大坂で死ぬ際、支考に与えると遺書に書き留める程だった

586 草枕(くさまくら)(1)犬もしぐるゝ(2)か夜()るの聲(こゑ)(3)  芭蕉

【意】旅寝の辛さ / 其の上に時雨の音が一段と侘しさを深める / 聞こえて来る犬の鳴き声は、自分の心を其の儘映し出した様に感じられ、哀しく身に染みる /
【解説】季語:しぐるヽ=初冬 / 1684(貞享元)年「野ざらし紀行」の折の作
(1)草枕:辛い旅寝
(2)しぐるゝ:「寝ざめする人の心をわびしめてしぐるる音は悲しかりけり/西行〔山家集〕」
(3)()るの聲(こゑ):「鳴く鶴の思ふ心は知らねども夜の声こそ身にはしみけれ/〔新続古今和歌集〕」

587 (たび)なれぬ刀(かたな)うたて(1)や村(むら)しぐれ  津島 常秀(2)

【意】生憎、急に時雨が強く降りかかって来る / 雨宿りする先を見つけて走ろうしたのだが、此の刀が邪魔になって巧く走れない / 全くしゃくな刀だ
【解説】季語:村しぐれ=初冬 /
(
1)うたて:酷(ひど)い / 情けない / 不愉快等、物事が上手く行かない状態で使われる副詞
(2)常秀(じょうしゅう)については津島の人という以外は詳細不明

  
鳴海(1)にて芭蕉子に逢ふ(=)

(1)鳴海:尾張国の歌枕 / 当時は、東海道の宿駅

588いく落葉(おちば)それほど袖(そで)もほころびず  荷兮

【意】3年ぶりですネ / あれから歳月、どれ程辛い旅寝を重ねて来られたのでしょうか? / お見受けした処では、お元気そうで何よりでございます
【解説】季語:落葉=三冬 / 1687.12.21(貞亨041117) / 芭蕉は『笈の小文』の旅の途次、鳴海の知足亭に戻り、1120日迄滞在 / 17日、七人歌仙を巻いている / 此の句は、此の時の荷兮の作品

589(ゆめ)に見()し羽織(はおり)は綿(わた)の入(いり)にけり  野水(1)

【意】冬の旅の辛さよ / 矢張り何と言っても寒さは遣り切れない / だから夢の中で、綿入れの羽織を着て歩いている自分を見て仕舞った
【解説】季語:綿入=三冬 /
(1)岡田野水(おかだ やすい(1658(?)-1743.04.16(寛保030322))):埜水とも / 尾張国名古屋の呉服豪商で町役人 / 通称:佐右次衛門 / 本名:岡田行胤 / 芭蕉が『野ざらし紀行』の旅の途次、名古屋逗留(1684)時の『冬の日』同人で、当時彼は27歳の男盛り / 近江蕉門や去来等、上方の門人とも親交を重ねた

  
其角(きかく)にわかるゝとき

590 あゝたつた(1)ひとりたつたる冬の旅  荷兮

【意】彼の貞徳は、新年の目出度さを赤ん坊が初めて立ち上がった喜びに譬えて寿いだが、今、私は、あなたが旅立つ寂しさを一人冬の宿で噛み締めています
【解説】季語:冬の旅=三冬 / 貞徳の句は、子供が初めて立った喜びを詠ったもの / 此れに対して、此の句は、別離を「発()った」として、旅に発った其角との別離を悲しんだ様子を詠んだもの
(
1)あヽたつた:「ありたつた ひとりたつたる 今年かな/貞徳〔犬子集〕」に拠る

【小生 comment
 次回は、俳諧七部集『あら野』から〔第61回/巻之七~第591句~600句〕をご紹介する。お楽しみに!

■続いては、1211()は、2020122回目の小生の平日公休日だったので、旧東海道「鳴海宿」→「宮宿」18.3km(うち2.4kmは「有松」→「鳴海宿」は先週に引き続き(但し、別ルートを)歩いた)を巡って来た模様をお伝えする
 全部で162枚の写真は多いですが、ご笑覧頂けたら幸いです

0245分 起床→腹筋2,000回→
0345 2.5kg木刀素振り60
0445分 入浴→朝食→
0530分 拙宅発→一般道1時間54 76㎞→
0724分 名鉄神宮駅近隣駐車場着
0749分 神宮前駅発→名鉄本線「豊明」ゆき→
0811分 有松駅着

【熱田神宮→名鉄・神宮前駅】

[01][左上]熱田神宮 境内に咲いた四季桜前にて1

[左下]同 同上2
[右上]同 同上3
[右中]同 境内に咲いた四季桜
[右下]名鉄神宮前駅 熱田神宮側入口

【名鉄・神宮前駅→有松駅】

[02][左上]名鉄・神宮前駅 platform にて1

[右上]同上2
[左下]名鉄・有松駅 同駅 platformにて
[中下]同 同駅南口にある日本遺産「有松(旧街並)めぐり」看板前にて
[右下]同 同駅南口を出た所にある「有松めぐり」案内看板

【旧東海道 有松旧街並】1

 先週、有松を通過した時は「有松一里塚」だけ見て、旧市街〔=旧東海道〕は見ることが出来なかった
 後日調べて解ったことだが、桶狭間古戦場への案内看板のある「中京競馬場前」辺りの旧東海道と現・国道1号線が重なっている所から西進して、有松駅との中間地点にある「大将ヶ根」交差点から、名鉄本線寄りにある旧東海道に入らなければならなかったことを知らず、国道一号線を其の儘西進して仕舞ったのだった
 其処で、折角だからと、今回は「有松駅」迄戻り、旧東海道を踏破出来るので2.4㎞程「有松」⇔「鳴海」間は前回と重複するが、訪ねてみることにした
 そして、其の判断が「大正解」だったことが、「有松旧街並」を訪れてみて解った
 舞坂宿から1か月半かけて「舞坂」「新居」「白須賀」「二川」「吉田」「御油」「赤坂」「藤川」「岡崎」「池鯉鮒」「鳴海」と130㎞余り踏破したが、「有松」の旧町並が最も充実して美しく感動した
 なので今回は、以下に[03][17]5枚ずつ計75枚と枚数が多くなって仕舞うが素晴らしい「有松の街並み」を堪能して頂きたい

[03][左上]名鉄・有松駅から旧東海道有松旧街並への道と堀1

[右上]同上2
[左下]同上3にて
[中下]同上4
[右下]同上5

【旧東海道 有松旧街並】2

[04][左上]旧東海道 有松旧街並風景1

[右上]同上2にて
[左下]同上3
[中下]同上4にて
[右下]同上5

【旧東海道 有松旧街並】3

[05][左上]旧東海道 有松旧街並風景6にて

[
右上]同上7
[左下]同上8にて
[中下]同上9にて
[右下]同上10にて

【旧東海道 有松旧街並】4

[06][左上]旧東海道 有松旧街並風景11「服部家住宅」

[右上]同 同上解説板
[左下]同 同上12
[中下]同 昭和611110日 皇太子殿下・同妃殿下行啓記念碑前にて
[右下]同 旧知多郡有松街役場跡地石碑前にて

【旧東海道 有松旧街並】5

[07][左上]旧東海道 有松旧街並風景13にて

[左下]同 同上14
[右上]同 同上15にて
[右中]同 同上16にて
[右下]同 同上17

【旧東海道 有松旧街並】6

[08][左上]旧東海道 有松旧街並風景18

[左下]同 同上19
[右上]同 同上20 路傍の花1
[右中]同 同上21
[右下]同 同上22

【旧東海道 有松旧街並】7

[09][左上]旧東海道 有松旧街並風景23「竹田家住宅」1

[左下]同 同上解説板
[右上]同 有松旧街並風景23 同上2
[右中]同 同上23 同所前にて
[右下]同 同上23 同上3

【旧東海道 有松旧街並】8

[10][左上]旧東海道 有松旧街並風景24

[左下]同 同上25
[右上]同 同上26にて‥道を隔てた対面が「岡家住宅」
[右中]同 同上27「岡家住宅」内部1
[
右下]同 同上27 同上2

【旧東海道 有松旧街並】9

[11][左上]旧東海道 有松旧街並風景27「岡家住宅」内部3

[左下]同 同 同上4
[右上]同 同 同上5
[右中]同 同 同上6
[右下]同 同 同上7

【旧東海道 有松旧街並】10

[12][左上]旧東海道 有松旧街並風景27「岡家住宅」内部8

[左下]同 同「岡家住宅」解説板
[右上]同 同 同上にて
[右中]同 同「岡家住宅」前の街道
[右下]同「有松の町並み」leaflet

【旧東海道 有松旧街並】11

[13][左上]旧東海道 有松旧街並風景28

[
右上]同 同上29
[左下]同 同上30「小塚家住宅」解説板
[中下]同 同上30「小塚家住宅」外観
[右下]同 同上31

【旧東海道 有松旧街並】12()

[14][左上]旧東海道 有松旧街並風景32

[右上]同 同上33
[左下]同 同上34
[中下]同 有松旧町並西端「梅屋鶴壽『狂歌』石碑」
[右下]同 同上解説板

 あり松の柳しぼりの見世にこそ しばしと人の立ちとまりけれ 梅屋鶴壽

【旧東海道 有松旧街並西端→有松一里塚→鳴海宿へ】

0958分 梅屋鶴壽「狂歌」石碑発→徒歩→
1010分 有松一里塚着

[15][左上]旧東海道 有松旧街並西端の梅屋鶴壽『狂歌』石碑から東方面の東海道を振り返る

[右上]同 同上から Google 航空 map を見る/「岡家住宅→有松一里塚」の表示が見える
[左下]同 有松一里塚にて
[中下]同 有松一里塚→鳴海宿本陣跡への Google 航空 map
[右下]同 鳴海宿本陣手前徒歩10分程の所の風景

【旧東海道 鳴海宿本陣跡→鳴海宿高札場】

1108分 旧東海道鳴海宿本陣跡着
1115分 旧行鳴海支店着

[16][左上]旧東海道 鳴海宿本陣跡 解説板にて

[右上]同 同 解説板
[左下]同 同 同所より北方の「鳴海宿高札場」「鳴海城跡」公園を表示する Google 航空 map
[中下]同 鳴海宿本陣跡から北東200m程の所にある旧行鳴海支店()1
[右下]同 同上2

 旧行鳴海支店というと想い出がある
 小生が堀田支店でretail業務の責任者だった平成11年当時、旧行はまだ2度に亘る合併前で、ブロック店構想が進んでいた時だった
 当時は、名古屋南東areaを「堀田・鳴海ブロック」として、法人業務は堀田支店、retail 業務は鳴海支店が head になって業務推進した
 其処で、小職(当時)は、retail 業務については鳴海支店長の補佐という形で、堀田・鳴海支店の他、瑞穂通・新瑞橋(旧・桜本町)・野並・有松・豊明・柴田・笠寺の各支店と co-work して、鳴海支店を会場に毎月1回会議を持った / 其の際、司会を担当した想い出だ

【旧東海道 鳴海宿高札場→鳴海城跡公園】

1130分 同所発→徒歩→
1133分 鳴海城跡公園着

[17][左上]旧東海道「鳴海宿高札場〔復元〕」‥旧行鳴海支店前にある‥

[左下]同 鳴海宿高札場〔復元〕解説板
[右上]同 同所にて1
[右中]同 同所にて2
[右下]同「鳴海宿高札場」から西方「円道寺」を望む

【旧東海道 鳴海城跡公園】

[18][左上]旧行鳴海支店外観

[右上]旧東海道 鳴海城跡公園 Google 航空 map
[左下]同 同 石碑にて1
[中下]同 同 石碑脇の樹々
[右下]同 同 同所から鳴海の街並遠望

1143分 鳴海城跡公園発→徒歩→

【旧東海道 鳴海宿本陣跡→笠寺一里塚へ】

[19][左上]「鳴海宿本陣跡」出発数分後→「笠寺一里塚」へ向かう旧東海道風景1

[右上]同 同上2
[左下]同「鳴海宿本陣跡」→「笠寺一里塚」への Google 航空 map
[中下]同 路傍の花2
[右下]同 路傍の南天の実

1201分 旧東海道 丹下町常夜灯着

【旧東海道 丹下町常夜灯】

[20][左上]丹下町常夜灯

 寛政04(1792)年、鳴海宿の西の入口丹下町に、篤志家の寄贈により建立された
[右上]同 同所にて
[左下]同 解説板
[中下]同 鳴海宿から丹下町常夜灯へ至る数分手前の街道風景1
[右下]同 同上1より更に2分程歩いた路傍にて

1500分 旧東海道 阿野一里塚発→徒歩→
1544分 桶狭間着
1616分 旧東海道 有松一里塚着

【旧東海道 天白川と天白橋(てんぱくばし)

1229分 天白橋着

[21][左上]旧東海道 天白橋欄干にて1

[右上]同 同上2
[左下]同 天白川
[中下]同 路傍の花3
[右下]同 笠寺一里塚手前の路傍の南天の実

【旧東海道 笠寺一里塚】

1247分 笠寺一里塚着
1257分 同所発→徒歩→

[22][左上]旧東海道 笠寺一里塚 至近の交差点案内看板

[右上]同 同 同所にて1
[左下]同 同 同上2
[中下]同 同 解説石碑
[右下]同 同 同所を出発して同所を振り返る

1309分 天林山笠覆寺着

【旧東海道 笠寺一里塚→笠寺観音〔天林山・笠覆寺〕】

 旧東海道を、笠寺一里塚から北北西へ400m程の笠寺観音を目指す

[23][左上]旧東海道 笠寺一里塚→笠寺観音への街道脇の旧家前にて1

[右上]同 同上2にて
[左下]同 同上 路傍の花4
[中下]同 同上 笠寺一里塚方面を振り返った風景
[右下]天林山笠覆寺「笠寺観音」山門1

【笠寺観音〔天林山・笠覆寺〕】

[24][左上]天林山笠覆寺 山門を back

[右上]同 山門2
[左下]同 同上の仁王門像
[中下]同 多宝塔
[右下]同 西門前にて

1320分 笠寺観音発→徒歩→
1338分 桜本町を通過

【笠寺観音→伝馬町一里塚へ】

 国道222号線になっている旧東海道を笠寺→桜本町→呼続→山崎川渡河→堀田→伝馬町2丁目4附近の伝馬町一里塚があった場所を目指した
 しかし、伝馬町一里塚は現在では「伝馬町2丁目4附近」ということだけ解っていて、正確な所在は不明になって仕舞っている

[25][左上]笠寺観音西門

[右上]笠寺観音を出発して23分後の旧東海道風景
[左下]笠寺観音→伝馬町一里塚への Google 航空 map
[中下]旧東海道 桜本町界隈の路傍の紅葉した銀杏と山茶花の花1
[右下]同上2

1400分 呼続町内を通る旧鎌倉街道と旧東海道の石碑着
1425分 堀田周辺に到着

【呼続→堀田→伝馬町一里塚へ】

[26][左上]旧東海道 桜本町界隈の路傍の紅葉した銀杏と山茶花の花
[右上]呼続町内を走る名鉄本線急行豊橋ゆき
[左下]呼続町内を通る旧鎌倉街道と旧東海道石碑
[中下]同所にて
[右下]パロマ本社(瑞穂区桃園町)back

1438分 新堀川にかかる「あつたばし」を通過

【新堀川熱田橋】
 暫く国道1号線と合流していた旧東海道は、パロマ本社の南辺りから南側に分かれて伝馬町一里塚のあった伝馬町2丁目4辺りへと続く
 熱田橋は、新堀川を横切る国道1号線の直ぐ南側に架かっている

[27][左上]熱田橋から見た新堀川の南側河口方面の風景

[右上]同橋欄干に「新堀川」と書いてあった
[左下]同橋近くになった旧東海道の看板
[中下]同橋欄干にて
[右下]伝馬町一里塚のあった伝馬町2丁目4界隈の風景1

1448分 熱田区伝馬町2丁目辺りに到着
1507分『裁断橋跡』石碑→徒歩→18分→
1527分「七里の渡し跡」着

【伝馬町一里塚のあった伝馬町2丁目4界隈】

[28][左上]同所にあった「水と緑の歴史のまち 宮地区」案内看板

[右上]伝馬町一里塚のあった伝馬町2丁目4界隈2
[左下]市バス停留所「熱田伝馬町」看板
[中下]『裁断橋跡』石碑にて
[右下]「水と緑の歴史のまち 宮地区」案内看板前にて

 此の橋は、「宮の宿の東端を流れる精進川の東海道筋に架かっていて、現在の姥堂の東側にあった橋で、天正18(1590)年に18歳の我が子を小田原の陣で亡くした母がその菩提を弔う為に橋の建て替えを行ったことで知られる」と書いてあった

【伝馬町一里塚→七里の渡し跡へ】

[29] [左上]宮宿「七里の渡し跡」Google 航空 map

[右上] 伝馬町一里塚のあった伝馬町2丁目4界隈の路傍の花1
[左下]同上2〔キダチダリアか‥〕
[右下]内田橋北交差点歩道橋の「七里の渡し跡→」を示す看板
[
右下]同歩道橋から「七里の渡し公園」を望む

【七里の渡し跡】

[30][左上]「松尾芭蕉と七里の渡し」解説板

[
右上]七里の渡し公園にて1
[左下]同上2
[右下]同上3

 

[31][]七里の渡し公園「熱田湊常夜灯」

[左下]同 解説板
[中下]七里の渡し跡石碑にて1
[右下]同上2

[32][左上]七里の渡し跡にて1


[右上]同上2
[左下]七里の渡し船着場跡にて
[右下]宮の渡し公園石碑にて

【七里の渡し跡→熱田神宮】

[33][左上]熱田神宮拝殿前にて1


[右上]同上2
[左下]熱田神宮御朱印
[中下]「七里の渡し」→「熱田神宮」迄のナビゲーション map
[右下]其の日の有松から七里の渡し跡を出発する所迄の歩行距離と歩数累計

 今日は、内容の充実した「旧東海道「有松」→「鳴海宿」→「笠寺一里塚」→「天林山笠覆寺〔笠寺観音〕」→「伝馬町一里塚〔辺り〕」→「七里の渡し跡」→「熱田神宮」巡りが出来、大変納得・満足した一日、約24,000歩/18.3㎞ だった

1624分 神宮前近隣駐車場発→一般道2時間04 77㎞→
1828分 帰宅〔走行距離計 153km()

 では、また‥〔了〕

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