今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『あら野』から〔第26回/第241句~250句〕」をご紹介する。
241 松明(たいまつ)にやま吹(ぶき)うすし夜(よる)のいろ 野水(注1)
【意】山吹の鮮やかな黄色も、夜の松明(たいまつ)の光では、色褪せて見える / 矢張り山吹は清流と緑の中にあってこそだ
【解説】季語:やま吹=晩春
/(注1)岡田野水(おかだ やすい((?)-1743.04.16(寛保03.03.22):埜水とも / 尾張国名古屋の呉服豪商で町役人 / 通称:佐右次衛門 / 本名:岡田行胤 / 芭蕉が『野ざらし紀行』の旅で名古屋に逗留した(1684年)際の『冬の日』同人 / 其の頃、野水は27歳の男盛り / 又、彼は近江蕉門や向井去来等上方の門人との親交も厚かった
242 山吹(やまぶき)とてふのまぎれぬあらし哉(かな) 卜枝(注1)
【意】春の嵐に、山吹の黄色の花弁が風に舞い、喋は翻弄されつつ飛んでいく
/ 花弁と蝶が一緒に風に吹き上げられ、山吹なのか蝶なのか見分けがつかない
【解説】季語:山吹=晩春、てふ=三春
/「まぎれぬ」が、「殆ど紛れるばかりだ」という意(注1)卜枝(ぼくし(生没年不詳)):近江国の人 / 後に尾張国津島の蓮花寺に寓居していた伝わる / 貞門に入門後、蕉門に / 俳号は遠方とも /『あら野』などに入句
243 一重(ひとへ)かと山吹(やまぶき)のぞくゆふべ哉(かな) 岐阜 襟雪(注1)
【意】夕闇迫る中、鮮やかに黄色い山吹の一叢(ひとむら)が咲いているのが見える / 恐らく八重だろうと思い近付いてみると、一重だった
/ 其れ程に輝いて見えたのだ /
【解説】季語:山吹=晩春
/(注1) 作者襟雪((きんせつ)生没年不詳):美濃国岐阜の人という以上に詳細不詳
244 とりつきてやまぶきのぞくいはね哉 同 蓬雨(注1)
【意】山吹が咲く場所は、滝等の水辺と崖が一般的
/ 崖の岩に取り付き、眼下の山吹の花を見降ろす /
【解説】季語:やまぶき=晩春
/「のぞく」は、元来、上から下を見下ろす意味を持つ(注1)蓬雨((ほうう)生没年不詳):美濃国岐阜の人という以上に詳細不詳
245 あそぶともゆくともしらぬ燕(つばめ)かな 去来(注1)
【意】燕があんちにこっちにスイスイ飛んでいる
/ 遊んでいるのか、餌を獲っているの解らない /
【解説】季語:燕=仲春
/ 燕が素早く飛び、往復している様子を詠んだ(注1)向井去来(むかい きょらい(1651-1704)):肥前長崎に儒医向井玄升の次男として誕生 / 本名:向井平次郎 / 父は後に京に上り宮中儒医として名声を博す / 去来も、当初医者を志す / 兄元端も宮中の儒医 / 去来と芭蕉の出会いは、貞亨元年、上方旅行の途中に京都生まれの江戸俳人和田蚊足(ぶんそく)が仲立ちし、去来と其角が先ず出会い、その其角の紹介で始まったという /「西国三十三ヶ国の俳諧奉行」とあだ名された様に京都以西の蕉門を束ねた / 嵯峨野に別邸落柿舎を持ち、芭蕉は此処で『嵯峨日記』を執筆 /『去来抄』は芭蕉研究の最高の書とされる
246
去年(こぞ)の巣(す)の土(つち)ぬり直(なほ)す燕(つばめ)かな 俊似(注1)
【意】今年も戻って来た燕が、泥を運んで来ては去年の古巣を塗り直して繕っている
【解説】季語:燕=仲春 /「土ぬり直す」という擬人法的表現が此の句の工夫 /
杜甫の五言律詩『春日梓州登楼 二首~其一』の尾聯【双双新燕子 / 依旧已銜泥】の趣 / 以下、参照
春日梓州登楼 二首~其一 / 杜甫(712-770)〔五言律詩〕
行路難如此 / 登楼望欲迷
身無却少壮 / 跡有但羈棲
江水流城郭 / 春風入鼓鼙
【双双新燕子 / 依旧已銜泥】
春日梓州にて楼(ろう)に登る
行路 難きこと此(か)くの如し(注1) / 楼に登れば 望(なが)めは迷わんと欲す
身には 却(かえ)って少壮(注2)なること無く / 跡には 但(た)だ羈棲(きせい)(注3)する有るのみ
江水(注4)は城郭(じょうかく)に流れ / 春風は鼓鼙(こへい)(注5)に入(い)る
【双双たる新燕子(しんえんし) / 旧に依(よ)りて已(すで)に泥(どろ)を銜(ついば)む】
《意》
世の中を渡ってゆくことはかくも難しい / 高楼に登ると、眼前に見晴るかす風景に彷徨って仕舞いそうだ
翻って、我身にはもう血気盛りの頃の元気はなく / 足跡をくらませてただ異郷に身を寄せるばかりだ
涪江の水は梓州の城郭の傍らを流れ / 春風は攻め太鼓の音に入り混じって吹いて来る
【遣って来たばかりの番(つがい)の燕が / 昔と変わらず已に泥を銜(くわ)えて巣作りを始めた処だ】
《語句》
(注1)行路難如此(行路 難(かた)きこと此(か)くの如し):人生行路の困難さを歌う
(注2)少壮(しょうそう):三十歳位迄の若くて威勢の良い時代 / 血気盛り
(注3)羈棲(きせい):異郷に滞留すること
(注4)江水(かう(=こう)すい):梓州の直ぐ東を流れる涪江の水
(注5)鼓鼙(こへい):太鼓と小鼓 / 攻め太鼓のことで、戦乱が完全には収束していない様子を示唆している
※ ※ ※
247 いまきたといはぬばかりの燕(つばめ)かな 長之(注1)
(注1)長之((ちょうし)生没年不詳):人物については詳細不詳
248 燕(つばくら)の巣を覗(のぞき)行(ゆく)すゞめかな 長虹(注1)
(注1)長虹(ちょうこう(生没年不詳)):尾張国名古屋城北(名古屋市東区杉村町西杉)、杉の薬師堂住職(現・解脱寺) / 芭蕉が『笈の小文』を終え、『更科紀行』に旅立つ間名古屋に滞在した1688.06.15(貞亨05年07月20日)、此処で歌仙興行 /「粟稗にとぼしくもあらず草の庵」等を詠んだ
249 黄昏(たそかれ)にたてだされたる燕(つばめ)哉(かな) 鼠彈(注1)
(注1)鼠弾(そだん(生没年不詳)):尾張国名古屋浄土寺の僧侶 /『あら野』・『あら野後集』・『其袋』等に入句
250 友(とも)減(へり)て鳴(なく)音(ね)かい(=ひ)なや夜(よる)の鴈(かり) 且藁(注1)
(注1)杉田旦藁(すぎた たんこう(生没年不詳)):尾張国名古屋の人 / 名古屋海老屋町で「ゑびや」の商号で菓子商を営んでいた /『春の日』に入集
【小生 comment】
次回は、俳諧七部集『あら野』から〔第27回/第251句~260句〕をご紹介する。お楽しみに!
■続いては、04月19日(日)に実施した walking の話題である。
今日は、当初予定では、月一回の歯科健診に名古屋へ行き、美術館巡りを3つする予定であったが、コロナウィルス禍の為断念。
代わりに『旧吉田街逍遥』を以下の通り行った。
05時00分 起床→腹筋2,000回
06時00分 2.5kg木刀素振り60分
07時10分 入浴→朝食→
08時20分 拙宅発→徒歩32分 2.8km→
[01]出発直前に撮影した拙宅中庭の若楓
[02]八町小学校南門にて所在確認した航空地図
【山田宗徧邸址】
[06]豊橋公園「山田宗徧邸址」石碑にて所在確認した航空地図
平成12年に記された亀山琢道の解説の概略を以下に記す。
「山田宗徧(1627-1708)は、茶道宗徧流の開祖。小堀遠州に師事。
吉田城主小笠原忠知(1599-1663)は、千宗旦(1578-1658)を吉田に招聘するも高齢を理由に固辞し、愛弟子宗徧を推挙。
山田宗徧は、29歳で小笠原家の茶頭になり、忠知・長矩・長祐・長重((1650-1732)1697年 岩槻藩に移封)に仕えた。」
【小生comment】
1702(元禄15)年12月の赤穂事件の際は、本所に屋敷替えになった高家・吉良上野介義央(よしひさ・よしなか(彼も千宗旦の弟子の一人))から、折に触れ吉良邸茶会に招聘されていた。
赤穂浪士・大高忠雄(1672-1703.03.20(元禄16年2月4日))が宗徧に弟子入りし、宗徧から「12月14日に吉良邸で茶会」の情報を入手、討入日を決定した。
山田宗徧は、脇屋新兵衛の正体を知りつつ赤穂浪士を思い遣り吉良邸茶会の日を教えたと伝わる。
此の豊橋に住んだ山田宗徧が、赤穂浪士の討入日を教えた……とは、歴史は実に興味深いものである。以上は余談!
09時10分 山田宗徧邸址石碑発→徒歩08分 400m→
次の訪問地、豊橋ハリストス正教会へ向かう途中に、Facebookの友達で、八町小・豊城中・時習館高・N大学と同窓同期のI君の実家の前を通った。
[10]岩瀬君【時習26回 3-4】の実家のあった所の建物にあった表札
09時18分 豊橋ハリストス正教会着
【【重文】豊橋ハリストス正教会】
[14]豊橋ハリストス正教会 北側より1
此の聖堂は、豊橋ハリストス正教昇天教会が、1913(大正02)年12月に建築したもの。
此の聖堂は、同教会建築物としては、愛知県下平成20年06月09日 国の【重要文化財】に指定された。
09時38分 豊橋ハリストス正教会発→徒歩3分 100m→
09時41分 豊橋公園入口(吉田城三の丸口門址/旧陸軍歩兵第十八連隊屯所入口)着
【豊橋公園入口】
[20]豊橋公園入口 にて
09時48分 同所発→50m 徒歩1分→
09時50分 豊橋市公会堂着
【豊橋市公会堂】
[23]同所にて所在確認した航空地図
10時00分 豊橋市公会堂発→徒歩1分50m→
10時02分 豊橋市役所前着
【豊橋市役所→豊城中学校へ】
[28]豊橋市役所前にて
小生と共に【時習26回 1-4】classmate の飯田君【同 3-2】はN大学も同窓で、亜由子ちゃんが高三の時、彼女の副担任だったそうだ。
彼の話によると、亜由子ちゃんは其の時怪我をしていて走ることが出来なかった分、勉強に勤しんで、N大学経済学部に推薦入学したそうだ。
因みに、【同 1-4】classmatesは、我等3人のほか7人がN大学に入っている。
10時24分 吉田城址着
【吉田城鐵櫓(くろがねやぐら)】
[34]吉田城 鐵櫓(くろがねやぐら)をbackに1
10時40分 吉田城址発→豊川沿いに「湊神明社」徒歩700m 13分→
10時53分 湊神明社着
[41]吉田城址から豊川沿い湊神明社へ向かう〔Backの橋は「吉田大橋」〕
【湊神明社『築島弁天社』~芭蕉句碑~】1
[42]「湊神明社」庭園1
. 湊神明社の築島弁天社は、旧吉田城から豊川沿いを約500m下った湊町公園内の池の中の島にある。
湊神明社は白鳳時代の創建だが、築島弁天社は戦国時代に琵琶湖の竹生島(ちくぶしま)から弁財天を勧請。
1683(天和03)年 神明社境内に創建された。
現存する弁天社は1795(寛政07)年の建造。
[43]築島弁天社入口脇に立つ「芭蕉碑」
芭蕉碑には「芭蕉(1644-94)翁貞享04(1687)年 芳野紀行の途次、越智越人(1656-(?))を伴い、保美(田原市保美(ほみ)町)に坪井
杜國((?)-1690.04.26(元禄03年03月20日))を訪れんと11月10日 吉田に泊まる
句は、其の夜の感慨を『 寒けれど 二人旅ねぞ たのもしき 』と詠じたもの」とあった
[45]築島弁天社前にて
11時00分 湊神明社発→徒歩13分 700m→
【とよばしの下での蜆漁】
[50]「とよばし」の欄干
豊川の水は、こんな河口近くでこんなに澄んでいる。
豊川のもっと下流の河口の 六条潟 では、アサリの稚貝が大量に採れ、全国に出荷されているのは有名な話だ。
愛知県のアサリ漁獲量は全国の6割を占め、全国アサリ生産量の約7割が、この六条潟の稚貝だそうだ。
大切にしていかないといけない。
‥ホント豊川は綺麗な川だ! 豊橋・東三河の宝・誇りだ!‥
[54]「とよばし」と「六畳潟」のlocationが解る地図
11時13分 聖眼寺(しょうげんじ)着
【聖眼寺~芭蕉句碑~】
[55]聖眼寺 山門脇の「親鸞聖人御舊跡」石碑
[60]「聖眼寺」芭蕉碑前にて所在確認した航空地図
【意】今年も戻って来た燕が、泥を運んで来ては去年の古巣を塗り直して繕っている
【解説】季語:燕=仲春 /「土ぬり直す」という擬人法的表現が此の句の工夫 /
杜甫の五言律詩『春日梓州登楼 二首~其一』の尾聯【双双新燕子 / 依旧已銜泥】の趣 / 以下、参照
春日梓州登楼 二首~其一 / 杜甫(712-770)〔五言律詩〕
行路難如此 / 登楼望欲迷
身無却少壮 / 跡有但羈棲
江水流城郭 / 春風入鼓鼙
【双双新燕子 / 依旧已銜泥】
春日梓州にて楼(ろう)に登る
行路 難きこと此(か)くの如し(注1) / 楼に登れば 望(なが)めは迷わんと欲す
身には 却(かえ)って少壮(注2)なること無く / 跡には 但(た)だ羈棲(きせい)(注3)する有るのみ
江水(注4)は城郭(じょうかく)に流れ / 春風は鼓鼙(こへい)(注5)に入(い)る
【双双たる新燕子(しんえんし) / 旧に依(よ)りて已(すで)に泥(どろ)を銜(ついば)む】
《意》
世の中を渡ってゆくことはかくも難しい / 高楼に登ると、眼前に見晴るかす風景に彷徨って仕舞いそうだ
翻って、我身にはもう血気盛りの頃の元気はなく / 足跡をくらませてただ異郷に身を寄せるばかりだ
涪江の水は梓州の城郭の傍らを流れ / 春風は攻め太鼓の音に入り混じって吹いて来る
【遣って来たばかりの番(つがい)の燕が / 昔と変わらず已に泥を銜(くわ)えて巣作りを始めた処だ】
《語句》
(注1)行路難如此(行路 難(かた)きこと此(か)くの如し):人生行路の困難さを歌う
(注2)少壮(しょうそう):三十歳位迄の若くて威勢の良い時代 / 血気盛り
(注3)羈棲(きせい):異郷に滞留すること
(注4)江水(かう(=こう)すい):梓州の直ぐ東を流れる涪江の水
(注5)鼓鼙(こへい):太鼓と小鼓 / 攻め太鼓のことで、戦乱が完全には収束していない様子を示唆している
※ ※ ※
(注1)伊藤俊似(いとう しゅんじ(生没年不詳)):尾張国津島の人
/『あら野』に多数入句
247 いまきたといはぬばかりの燕(つばめ)かな 長之(注1)
【意】春に帰って来た燕は、巣作りが完成する迄の暫くの間、忙しそうに飛び回っている
/ 其の様子が、恰も「今着いたばかりで忙しい」と言っている様だ /
【解説】季語:燕=仲春
/(注1)長之((ちょうし)生没年不詳):人物については詳細不詳
248 燕(つばくら)の巣を覗(のぞき)行(ゆく)すゞめかな 長虹(注1)
【意】一年中家の周り住んでいる雀には、久しぶりに遣って来る燕がどんな奴だろうと、いった感じで一軒/\覗いて歩く
/
【解説】季語:燕(つばくら)=仲春 / 燕の巣は人家の軒先等にあるので此の様な観察表現の句となったか(注1)長虹(ちょうこう(生没年不詳)):尾張国名古屋城北(名古屋市東区杉村町西杉)、杉の薬師堂住職(現・解脱寺) / 芭蕉が『笈の小文』を終え、『更科紀行』に旅立つ間名古屋に滞在した1688.06.15(貞亨05年07月20日)、此処で歌仙興行 /「粟稗にとぼしくもあらず草の庵」等を詠んだ
249 黄昏(たそかれ)にたてだされたる燕(つばめ)哉(かな) 鼠彈(注1)
【意】燕は、人家の中に巣があるので、黄昏時に時々閉め出されて仕舞うことがある
/ 家人は気付いて入れてやるが‥
【解説】季語:燕=仲春
/「たてだされたる」という擬人法が俳諧(注1)鼠弾(そだん(生没年不詳)):尾張国名古屋浄土寺の僧侶 /『あら野』・『あら野後集』・『其袋』等に入句
250 友(とも)減(へり)て鳴(なく)音(ね)かい(=ひ)なや夜(よる)の鴈(かり) 且藁(注1)
【意】春になって北に帰って行く雁
/ 日毎数が減っていく仲間の雁を気にして、鳴き声も何処か頼りなさそうだ
【解説】季語:帰鴈(=帰雁)=仲春 /(注1)杉田旦藁(すぎた たんこう(生没年不詳)):尾張国名古屋の人 / 名古屋海老屋町で「ゑびや」の商号で菓子商を営んでいた /『春の日』に入集
【小生 comment】
次回は、俳諧七部集『あら野』から〔第27回/第251句~260句〕をご紹介する。お楽しみに!
■続いては、04月19日(日)に実施した walking の話題である。
今日は、当初予定では、月一回の歯科健診に名古屋へ行き、美術館巡りを3つする予定であったが、コロナウィルス禍の為断念。
代わりに『旧吉田街逍遥』を以下の通り行った。
05時00分 起床→腹筋2,000回
06時00分 2.5kg木刀素振り60分
07時10分 入浴→朝食→
08時20分 拙宅発→徒歩32分 2.8km→
[01]出発直前に撮影した拙宅中庭の若楓
【我が母校〜八町小学校】
[02]八町小学校南門にて所在確認した航空地図
[03]同校南門傍の「みんななかよく力いっぱい」像の傍らにて1
[04]同上2
[05]同校南門前にて
09時00分 八町小学校南門発→徒歩5分→
09時05分 山田宗徧
邸址 石碑着【山田宗徧邸址】
[06]豊橋公園「山田宗徧邸址」石碑にて所在確認した航空地図
[07]山田宗徧邸址石碑にて1
[08]同上の石碑裏面にて
[09]同上 石碑裏面に刻まれた臨済寺住職 亀山琢道氏の解説
平成12年に記された亀山琢道の解説の概略を以下に記す。
「山田宗徧(1627-1708)は、茶道宗徧流の開祖。小堀遠州に師事。
吉田城主小笠原忠知(1599-1663)は、千宗旦(1578-1658)を吉田に招聘するも高齢を理由に固辞し、愛弟子宗徧を推挙。
山田宗徧は、29歳で小笠原家の茶頭になり、忠知・長矩・長祐・長重((1650-1732)1697年 岩槻藩に移封)に仕えた。」
【小生comment】
山田宗徧は、藩主小笠原長重が岩槻へ移封した1697(元禄10)年、43年間在住した吉田藩茶頭職を2代山田宗引に引き継ぎ江戸・本所へ移った。
宗徧は、宗徧流茶道を興した。1702(元禄15)年12月の赤穂事件の際は、本所に屋敷替えになった高家・吉良上野介義央(よしひさ・よしなか(彼も千宗旦の弟子の一人))から、折に触れ吉良邸茶会に招聘されていた。
赤穂浪士・大高忠雄(1672-1703.03.20(元禄16年2月4日))が宗徧に弟子入りし、宗徧から「12月14日に吉良邸で茶会」の情報を入手、討入日を決定した。
山田宗徧は、脇屋新兵衛の正体を知りつつ赤穂浪士を思い遣り吉良邸茶会の日を教えたと伝わる。
此の豊橋に住んだ山田宗徧が、赤穂浪士の討入日を教えた……とは、歴史は実に興味深いものである。以上は余談!
09時10分 山田宗徧邸址石碑発→徒歩08分 400m→
次の訪問地、豊橋ハリストス正教会へ向かう途中に、Facebookの友達で、八町小・豊城中・時習館高・N大学と同窓同期のI君の実家の前を通った。
[10]岩瀬君【時習26回 3-4】の実家のあった所の建物にあった表札
[11]豊橋ハリストス正教会へ行く道
[12]同上 途上の北側に見える豊橋市美術博物館
[13]豊橋ハリストス正教会に到着した時の豊橋市美術博物館を示した航空写真
09時18分 豊橋ハリストス正教会着
【【重文】豊橋ハリストス正教会】
[14]豊橋ハリストス正教会 北側より1
[15]同上2
[16]豊橋ハリストス正教会 南側より1
[17]同上2
[18]同上 解説版
[19]同上にて
此の聖堂は、豊橋ハリストス正教昇天教会が、1913(大正02)年12月に建築したもの。
此の聖堂は、同教会建築物としては、愛知県下平成20年06月09日 国の【重要文化財】に指定された。
09時38分 豊橋ハリストス正教会発→徒歩3分 100m→
09時41分 豊橋公園入口(吉田城三の丸口門址/旧陸軍歩兵第十八連隊屯所入口)着
【豊橋公園入口】
[20]豊橋公園入口 にて
[21]同【旧陸軍 歩兵第十八聯隊】『歩哨BOX』にて
[22]豊橋公園から西へ100弱にある豊橋市役所をbackに
09時48分 同所発→50m 徒歩1分→
09時50分 豊橋市公会堂着
【豊橋市公会堂】
[23]同所にて所在確認した航空地図
[24]同所にて1
[25]同上2
[26]豊橋市公会堂南西端にある旧吉田藩「藩校時習館址」石碑にて
[27]同所の花々に囲まれて
10時00分 豊橋市公会堂発→徒歩1分50m→
10時02分 豊橋市役所前着
【豊橋市役所→豊城中学校へ】
[28]豊橋市役所前にて
[29]豊橋市役所北西端にある「歩兵第十八連隊西門」
[30]同所にて
[31]母校「豊城中学校」正門横の「鈴木亜由子ちゃん2020年東京五輪女子マラソン出場祝 横断幕」前にて
[32]母校「豊城中学校」正門 にて
[33]豊城中学校から吉田城へ向かう豊川沿いの遊歩道
小生と共に【時習26回 1-4】classmate の飯田君【同 3-2】はN大学も同窓で、亜由子ちゃんが高三の時、彼女の副担任だったそうだ。
彼の話によると、亜由子ちゃんは其の時怪我をしていて走ることが出来なかった分、勉強に勤しんで、N大学経済学部に推薦入学したそうだ。
因みに、【同 1-4】classmatesは、我等3人のほか7人がN大学に入っている。
10時24分 吉田城址着
【吉田城鐵櫓(くろがねやぐら)】
[34]吉田城 鐵櫓(くろがねやぐら)をbackに1
[35]同 鐵櫓
[36]同 轍櫓をbackに2
[37]吉田城解説版
[38]吉田城址掘割1
[39]同上2
[40]豊橋公園にて所在確認した航空地図
10時40分 吉田城址発→豊川沿いに「湊神明社」徒歩700m 13分→
10時53分 湊神明社着
[41]吉田城址から豊川沿い湊神明社へ向かう〔Backの橋は「吉田大橋」〕
【湊神明社『築島弁天社』~芭蕉句碑~】1
[42]「湊神明社」庭園1
. 湊神明社の築島弁天社は、旧吉田城から豊川沿いを約500m下った湊町公園内の池の中の島にある。
湊神明社は白鳳時代の創建だが、築島弁天社は戦国時代に琵琶湖の竹生島(ちくぶしま)から弁財天を勧請。
1683(天和03)年 神明社境内に創建された。
現存する弁天社は1795(寛政07)年の建造。
[43]築島弁天社入口脇に立つ「芭蕉碑」
[44]同所にて
芭蕉碑には「芭蕉(1644-94)翁貞享04(1687)年 芳野紀行の途次、越智越人(1656-(?))を伴い、保美(田原市保美(ほみ)町)に坪井
杜國((?)-1690.04.26(元禄03年03月20日))を訪れんと11月10日 吉田に泊まる
句は、其の夜の感慨を『 寒けれど 二人旅ねぞ たのもしき 』と詠じたもの」とあった
[45]築島弁天社前にて
[46]湊神明社庭園2
[47]同上3
[48]「港神明社」由緒
[49]「港神明社」にて所在確認した航空地図
11時00分 湊神明社発→徒歩13分 700m→
【とよばしの下での蜆漁】
[50]「とよばし」の欄干
[51]「とよばし」東側の豊川での「蜆漁」風景
[52]「とよばし」西側の豊川での「蜆漁」風景
[53]「とよばし」欄干下で「蜆漁」を採っている女性
【小生comment】
一級河川 豊川の河口近くなのに、ご覧の様に川筋の真ん中でも人が立った儘シジミが採れる‥水深が思ったより浅い。豊川の水は、こんな河口近くでこんなに澄んでいる。
豊川のもっと下流の河口の 六条潟 では、アサリの稚貝が大量に採れ、全国に出荷されているのは有名な話だ。
愛知県のアサリ漁獲量は全国の6割を占め、全国アサリ生産量の約7割が、この六条潟の稚貝だそうだ。
大切にしていかないといけない。
‥ホント豊川は綺麗な川だ! 豊橋・東三河の宝・誇りだ!‥
[54]「とよばし」と「六畳潟」のlocationが解る地図
11時13分 聖眼寺(しょうげんじ)着
【聖眼寺~芭蕉句碑~】
[55]聖眼寺 山門脇の「親鸞聖人御舊跡」石碑
[56]同 山門の山号「聖霊山」
[57]松尾芭蕉「松葉塚」
[58]松尾芭蕉「松葉塚」解説板
[59]同所にて
[60]「聖眼寺」芭蕉碑前にて所在確認した航空地図
[61]同 境内
[62]同「芭蕉碑」前にて
[63]「聖眼寺」「芭蕉碑」
こ(ご(=松葉))を焼(=焚(たい))て 手拭(てぬぐひ)あぶる 寒さ哉 芭蕉
【小生comment】
此の句は、先述の築島弁天社の芭蕉句碑と同じ貞享4(1687)年11月10日頃、芭蕉が愛弟子坪井杜國の身を案じて渥美郡保美の里を訪れる途中、聖眼寺に立ち寄り、詠んだもの。
蕉門十哲の一人、各務支考(1665-1731)の『笈日記』に掲載されている。
[65]「聖眼寺」山門にて
【聖眼寺→拙宅への途次の風景】
[66]「とよばし」傍らに立つ「旧東海道・船町と高札場」解説板にて
囀りをこぼじと抱く大樹かな 星野立子(1903-84)
[69]路傍に咲いていた可憐な「ヒメシャガ」の花
「ヒメシャガ」というと‥
此の花は、松尾芭蕉が「奥の細道」みちのく「十八 花かつみ」で、
「等窮(とうきゅう)が宅(たく)を出(いで)て五里斗(ばかり)、檜皮(ひはだ)の宿(しゅく)を離れてあさか山(やま)有(あり)。
道(みち)より近し。此(この)あたり沼多し。
かつみ刈(かる)比(ころ)も、やゝ近(ちか)うなれば、いづれの草を【花かつみ】とは云(いふ)ぞと、人々に尋(たづね)侍(はべ)れども更(さらに)知(しる)人(ひと)なし。
沼を尋(たづね)、人にとひ、かつみかつみと尋(たづね)ありきて、日は山の端(は)にかゝりぬ。
二本松より右にきれて、黒塚(くろづか)の岩屋(いはや)一見(いつけん)し 福嶋に泊(とま)る」と言っていた「花かつみ」だと云われている。
12時47分 帰宅〔歩行距離:13.3km 17,340歩〕〔了〕
[64]同 同「句碑解説板」
こ(ご(=松葉))を焼(=焚(たい))て 手拭(てぬぐひ)あぶる 寒さ哉 芭蕉
【小生comment】
此の句は、先述の築島弁天社の芭蕉句碑と同じ貞享4(1687)年11月10日頃、芭蕉が愛弟子坪井杜國の身を案じて渥美郡保美の里を訪れる途中、聖眼寺に立ち寄り、詠んだもの。
蕉門十哲の一人、各務支考(1665-1731)の『笈日記』に掲載されている。
[65]「聖眼寺」山門にて
11時27分 聖眼寺発→徒歩80分 5.4㎞→
【聖眼寺→拙宅への途次の風景】
[66]「とよばし」傍らに立つ「旧東海道・船町と高札場」解説板にて
[67]「湊公園」の片隅に立つ「豊橋空襲犠牲者 追悼の碑(1945.06.19-20)」
[68]豊橋公園の新緑
囀りをこぼじと抱く大樹かな 星野立子(1903-84)
[69]路傍に咲いていた可憐な「ヒメシャガ」の花
「ヒメシャガ」というと‥
此の花は、松尾芭蕉が「奥の細道」みちのく「十八 花かつみ」で、
「等窮(とうきゅう)が宅(たく)を出(いで)て五里斗(ばかり)、檜皮(ひはだ)の宿(しゅく)を離れてあさか山(やま)有(あり)。
道(みち)より近し。此(この)あたり沼多し。
かつみ刈(かる)比(ころ)も、やゝ近(ちか)うなれば、いづれの草を【花かつみ】とは云(いふ)ぞと、人々に尋(たづね)侍(はべ)れども更(さらに)知(しる)人(ひと)なし。
沼を尋(たづね)、人にとひ、かつみかつみと尋(たづね)ありきて、日は山の端(は)にかゝりぬ。
二本松より右にきれて、黒塚(くろづか)の岩屋(いはや)一見(いつけん)し 福嶋に泊(とま)る」と言っていた「花かつみ」だと云われている。
12時47分 帰宅〔歩行距離:13.3km 17,340歩〕〔了〕
[70]Walking
距離と歩数
[71]Walking 経路
【 春江花月夜 / 張若虚】〔七言古詩〕
【13】人生代代無窮已 /【14】江月年年祗相似
【15】不知江月待何人 /【16】但見長江送流水
【17】白雲一片去悠悠 /【18】青楓浦上不勝愁
【19】誰家今夜扁舟子 /【20】何處相思明月樓
【21】可憐樓上月裴回 /【22】應照離人妝鏡臺
【23】玉戸簾中卷不去 /【24】擣衣砧上拂還來
【 春江(しゅんこう)花月(かげつ)の夜(よ) / 張若虚(660-720) 】
[71]Walking 経路
■続いては、『春に因んだ唐詩』の張若虚(660-720)『春江花月夜』の第2回目をお伝えする。
【 春江花月夜 / 張若虚】〔七言古詩〕
【13】人生代代無窮已 /【14】江月年年祗相似
【15】不知江月待何人 /【16】但見長江送流水
【17】白雲一片去悠悠 /【18】青楓浦上不勝愁
【19】誰家今夜扁舟子 /【20】何處相思明月樓
【21】可憐樓上月裴回 /【22】應照離人妝鏡臺
【23】玉戸簾中卷不去 /【24】擣衣砧上拂還來
【 春江(しゅんこう)花月(かげつ)の夜(よ) / 張若虚(660-720) 】
【13】人生 代々 窮(きはま)りて已むこと無く
【14】江月(かうげつ) 年年(ねんねん) 祗(た)だ相(あひ)似(に)たり
【15】知らず 江月 何人(なんぴと)をか待つ
【16】但(た)だ見る 長江の 流水を送るを
【17】白雲(はくうん) 一片(いっぺん) 去りて悠悠(いういう)
【18】青楓(せいふう) 浦(ほ)(注7)上(じゃう) 愁(うれ)ひに勝(た)へず
【19】誰(た)が家(注8)ぞ 今夜 扁舟(へんしう)(注9)の子(こ)
【20】何(いづれ)の處(ところ)ぞ 相(あひ)思ふ 明月の樓(ろう)(注10)
【21】憐(あは)れむ可(べ)し 樓(ろうじゃう)上に月(つき)裴回(はいくゎい)(注11)し
【22】應(まさ)(注12)に照らすべし 離人(りじん)(注13)の粧鏡臺(しょうきょうだい)(注14)を
【23】玉戸(ぎょくこ)(注15) 簾中(れんちゅう)(注16) 卷(ま)けども去らず
【24】擣衣(たうい)の砧上(ちんじゃう)(注17) 拂(はら)へども還(ま)た來(き)たる
【14】江月(かうげつ) 年年(ねんねん) 祗(た)だ相(あひ)似(に)たり
【15】知らず 江月 何人(なんぴと)をか待つ
【16】但(た)だ見る 長江の 流水を送るを
【17】白雲(はくうん) 一片(いっぺん) 去りて悠悠(いういう)
【18】青楓(せいふう) 浦(ほ)(注7)上(じゃう) 愁(うれ)ひに勝(た)へず
【19】誰(た)が家(注8)ぞ 今夜 扁舟(へんしう)(注9)の子(こ)
【20】何(いづれ)の處(ところ)ぞ 相(あひ)思ふ 明月の樓(ろう)(注10)
【21】憐(あは)れむ可(べ)し 樓(ろうじゃう)上に月(つき)裴回(はいくゎい)(注11)し
【22】應(まさ)(注12)に照らすべし 離人(りじん)(注13)の粧鏡臺(しょうきょうだい)(注14)を
【23】玉戸(ぎょくこ)(注15) 簾中(れんちゅう)(注16) 卷(ま)けども去らず
【24】擣衣(たうい)の砧上(ちんじゃう)(注17) 拂(はら)へども還(ま)た來(き)たる
《意》
【13】人(の生命)は代代(だいだい)(生まれ変わり)、尽きて消え去るということは無いし
【14】河辺を照らす月は、年々同様な姿を見せるのだ
【15】河辺を照らす月は、誰を照らして来たかは知る由(よし)もなく
【16】ただ、眼前に映るのは、不尽の長江が流れる水を送り続ける姿だけだ
【17】白雲が一片(ひら)、悠悠と去って行き
【18】青い楓(かえで)が茂る岸辺に立てば、愁いが愈々募(つの)る
【19】今宵、此の小舟に乗って来た者は誰だろう?
【20】明月に照らされた楼上で、恋するひとを思い慕っているのは何処の女性だろう?
【21】ああ! その楼上に、月光は去り難く煌めいているだろう
【22】(月光は)遠く離れた(妻)の化粧台を(やるせなく)照らしているだろう
【23】玉の様な美しい建物に入り、窓の簾の中から巻いても、(月の光は)巻き取ることが出来ず
【24】衣をうつ砧(きぬた)の上を払っても(払っても)(月の光は)矢張り降り注ぐ
(注8)誰家(たがいえ):だれ /「家」は助字
(注9)扁舟(へんしう):小舟(こぶね)
(注10)明月楼(めいげつのろう):魏の曹植((そうしょく・そうち)192-232)の「七哀」詩全16句から第1句・2句「【明月】照高【樓】/ 流光正徘徊:明るく清らかな月が(女の居る)高殿を照らしている / 過ぎ行く時は其の時と共に茫然と左右に心は揺れ動く」を踏まえる
(注11)徘徊(はいくゎい):裴回(はいくゎい) / 行ったり来たりする / うろつく / 此処では、月光があちこち照らす様(さま)
(注12)應(まさ)に:きっと…だろう / まさに…べし
(注13)離人(りじん):夫と離れて住む妻
(注14)妝鏡臺(しょうきょうだい):粧鏡臺(しょうきょうだい) / 化粧台
(注15)玉戸(ぎょくこ):玉の様に美しい建物
(注16)簾中(れんちゅう):簾(すだれ)の中
(注17)擣衣(たうい)砧上(ちんじょう):衣(ころも)を擣(う)つ砧(きぬた)の台の上
[72]張若虚『春江花月夜』第13句~第16句を image した画像
【14】「江月年年祗相似」を image した画像
【15】「不知江月待何人」を image した画像
【16】「但見長江送流水」を image した画像
[73]張若虚『春江花月夜』第17句~第20句を image した画像
【18】「青楓浦上不勝愁」を image した画像
【19】「誰家今夜扁舟子」を image した画像
【20】「何處相思明月樓」を image した画像
[74]張若虚『春江花月夜』第21句~第24句を image した画像
【22】「應照離人妝鏡臺」を image した画像
【23】「玉戸簾中卷不去」を image した画像
【24】「擣衣砧上拂還來」を image した画像
【13】人(の生命)は代代(だいだい)(生まれ変わり)、尽きて消え去るということは無いし
【14】河辺を照らす月は、年々同様な姿を見せるのだ
【15】河辺を照らす月は、誰を照らして来たかは知る由(よし)もなく
【16】ただ、眼前に映るのは、不尽の長江が流れる水を送り続ける姿だけだ
【17】白雲が一片(ひら)、悠悠と去って行き
【18】青い楓(かえで)が茂る岸辺に立てば、愁いが愈々募(つの)る
【19】今宵、此の小舟に乗って来た者は誰だろう?
【20】明月に照らされた楼上で、恋するひとを思い慕っているのは何処の女性だろう?
【21】ああ! その楼上に、月光は去り難く煌めいているだろう
【22】(月光は)遠く離れた(妻)の化粧台を(やるせなく)照らしているだろう
【23】玉の様な美しい建物に入り、窓の簾の中から巻いても、(月の光は)巻き取ることが出来ず
【24】衣をうつ砧(きぬた)の上を払っても(払っても)(月の光は)矢張り降り注ぐ
《語句》
(注7)浦(ほ):水辺(みずべ)(注8)誰家(たがいえ):だれ /「家」は助字
(注9)扁舟(へんしう):小舟(こぶね)
(注10)明月楼(めいげつのろう):魏の曹植((そうしょく・そうち)192-232)の「七哀」詩全16句から第1句・2句「【明月】照高【樓】/ 流光正徘徊:明るく清らかな月が(女の居る)高殿を照らしている / 過ぎ行く時は其の時と共に茫然と左右に心は揺れ動く」を踏まえる
(注11)徘徊(はいくゎい):裴回(はいくゎい) / 行ったり来たりする / うろつく / 此処では、月光があちこち照らす様(さま)
(注12)應(まさ)に:きっと…だろう / まさに…べし
(注13)離人(りじん):夫と離れて住む妻
(注14)妝鏡臺(しょうきょうだい):粧鏡臺(しょうきょうだい) / 化粧台
(注15)玉戸(ぎょくこ):玉の様に美しい建物
(注16)簾中(れんちゅう):簾(すだれ)の中
(注17)擣衣(たうい)砧上(ちんじょう):衣(ころも)を擣(う)つ砧(きぬた)の台の上
[72]張若虚『春江花月夜』第13句~第16句を image した画像
↑↑上記添付写真は、左上(13)から時計回りに(14)(15)(16)の順
【13】「人生代代無窮已」を image した画像【14】「江月年年祗相似」を image した画像
【15】「不知江月待何人」を image した画像
【16】「但見長江送流水」を image した画像
[73]張若虚『春江花月夜』第17句~第20句を image した画像
↑↑上記添付写真は、左上(17)から時計回りに(18)(19)(20)の順
【17】「白雲一片去悠悠」を image した画像【18】「青楓浦上不勝愁」を image した画像
【19】「誰家今夜扁舟子」を image した画像
【20】「何處相思明月樓」を image した画像
[74]張若虚『春江花月夜』第21句~第24句を image した画像
↑↑上記添付写真は、左上(21)から時計回りに(22)(23)(24)の順
【21】「可憐樓上月裴回」を image した画像【22】「應照離人妝鏡臺」を image した画像
【23】「玉戸簾中卷不去」を image した画像
【24】「擣衣砧上拂還來」を image した画像
【後記:その1】04月28日(火)夕方でのこと‥、勤務先の施設の脇をふと見ると、今の季節の花、可憐な満天星の花が咲いていた。
【前書】仕事を終、勤務先出し時、庭先に満天星(=灯台躑躅(ドウダンツツジ))花見つけぬ。馬酔木・ 鈴蘭乃花に似、いと可憐なり。其時、初恋のひと想ひ出しぬ。
【馬酔木】:「再び幸せが訪れる」「純粋」「純潔」「謙遜」
【鈴蘭】:「犠牲」「献身」「あなたと二人で旅をしよう」
【鈴蘭】:「初夏」
【前書】仕事を終、勤務先出し時、庭先に満天星(=灯台躑躅(ドウダンツツジ))花見つけぬ。馬酔木・ 鈴蘭乃花に似、いと可憐なり。其時、初恋のひと想ひ出しぬ。
《花言葉》
【満天星の花】: 「上品」「節制」【馬酔木】:「再び幸せが訪れる」「純粋」「純潔」「謙遜」
【鈴蘭】:「犠牲」「献身」「あなたと二人で旅をしよう」
《季語》
【満天星の花】&【馬酔木】:「晩春」【鈴蘭】:「初夏」
[75] 【満天星の花(灯台躑躅)】【馬酔木】【鈴蘭】
↑↑上記添付写真は、上段から時計周りに、【満天星の花(灯台躑躅)】→【馬酔木】→【鈴蘭】
満天星花(ドウダン)や 馬酔木(アセビ)・鈴蘭(スズラン) 君恋し 悟空
【後記:その2】今回も、前《会報》に続いて、茨木のり子の作品を更に一つご紹介して締め括ることとする。
【 自分の感受性くらい 】
[76]茨城のり子
「自分の【感受性】くらい / 自分で守れ / ばかものよ」という叱られ方に、小生、脳天に「ガーン!」と一発喰らわされた shock の後に、何故か不思議な爽快感を感じたものだ。
「ひと(他人)」「友人」「近親」「暮らし」「時代」のせい(所為)にはするな‥という甘えを戒める言葉が、日々を生温く生きて来た我々に箴言として小気味良く耳許に残る。
此れ等の箴言に従えば、コロナウィルスを確りと退散させることが出来るゾと思わせる程の迫力を感じる。
そして、一日も早い「コロナウィルス禍の終息」を祈る🤞。
※ ※ ※ ※ ※
『 自分の感受性くらい 』 茨木のり子
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
詩集「自分の感受性くらい」所収 1977年刊〔了〕
ブログへは【0626】号迄のback numberはURL:http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog←此処をclickして下さい
↑↑上記添付写真は、上段から時計周りに、【満天星の花(灯台躑躅)】→【馬酔木】→【鈴蘭】
満天星花(ドウダン)や 馬酔木(アセビ)・鈴蘭(スズラン) 君恋し 悟空
【後記:その2】今回も、前《会報》に続いて、茨木のり子の作品を更に一つご紹介して締め括ることとする。
【 自分の感受性くらい 】
[76]茨城のり子
茨木のり子の作品というと、一昨日ご紹介した「わたしが一番きれいだったとき」と共に此の作品も忘れられない。
此の詩を詠むと‥‥「自分の【感受性】くらい / 自分で守れ / ばかものよ」という叱られ方に、小生、脳天に「ガーン!」と一発喰らわされた shock の後に、何故か不思議な爽快感を感じたものだ。
「ひと(他人)」「友人」「近親」「暮らし」「時代」のせい(所為)にはするな‥という甘えを戒める言葉が、日々を生温く生きて来た我々に箴言として小気味良く耳許に残る。
此れ等の箴言に従えば、コロナウィルスを確りと退散させることが出来るゾと思わせる程の迫力を感じる。
そして、一日も早い「コロナウィルス禍の終息」を祈る🤞。
※ ※ ※ ※ ※
『 自分の感受性くらい 』 茨木のり子
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
詩集「自分の感受性くらい」所収 1977年刊〔了〕
では、また‥〔了〕
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