今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『あら野』から〔第24回/第221句~230句〕」をご紹介する。
221 手をついて歌(うた)申(まうし)あぐる蛙(かはづ)かな 山崎宗鑑(注1)
【意】蛙が鳴いている姿をみると、成程「畏まって手をついて御詠歌を奏上している姿」だと納得出来る
(注1)山崎宗鑑(やまざき そうかん(1465(?)-1553(?)):志那弥三郎範重 / 彼の伝記は殆ど知られていない / 足利義尚(あしかが よしひさ(1465-89):室町幕府第9代将軍(在職:1473-1489))に仕えたが、後に剃髪 / 山城国山崎に移り油売りを生業としたと云う /荒木田守武(あらきだ もりたけ(1473-1549):戦国時代の伊勢神宮祠官・連歌師)と並び「俳諧の祖」と云われている / 辞世歌:「宗鑑はいづこへと人の問うならば / ちとようありてあの世へといえ」
222鳴立(なきたて)ていりあひ聞(きか)ぬかはづかな 落梧(注1)
【意】蛙たちは、鳴き立てて入相の鐘の音を聞くまいとしているかの様だ
/ 情緒ある鐘の音に単に興味がないだけなのか、それとも寂しさを想像させる鐘の音を敢えて聞きたくなくて鳴き立てているのか?
【解説】季語:かはづ=三春
/(注1)安川落梧(やすかわ らくご(1651(?)-1692(元禄04年05月)(享年40歳))):1688(貞亨05)年以来の美濃国の門人 / 通称:助右衛門 / 呉服商を営む萬屋(よろずや)の主人 /『笈日記』などに入集 / 長良川に近い稲場山城の山陰に別邸を持ち、『笈の小文』の旅の途次、芭蕉は此処に立ち寄った /「奥の細道」に出立する直前の1689.05.12(元禄02年3月23日) 芭蕉は落梧宛に紙一束受贈の礼状を書いており、此れが「奥の細道」出発の日付確定に貢献
223あかつきをむつかしさうに鳴(なく)蛙(かはづ) 越人(注1)
【意】古来、和歌題に「夕蛙」というのはあるが、「暁蛙」というのは聞いたことがない
/ 夜明け前に鳴く蛙の声は何処か「むつかしそうに」聞こえると言った処が俳諧の面白さ
【解説】季語:蛙=三春
/(注1)越智越人(おち えつじん(1656(明暦02)-1739(元文04(?)):江戸時代前期の俳諧師 / 別号:槿花翁(きんかおう) / 越後に生まれ、尾張国名古屋にて紺屋(こうや・こんや=染物屋)を営む / 1684(貞享元)年 芭蕉に会い蕉門に入門 / 尾張蕉門の重鎮で蕉門十哲の一人 / 1688(貞享05)年「更科紀行」の旅に同行 / 名古屋に縁のある越人の墓所は、浄土真宗本願寺派「転輪山長円寺(名古屋市中区栄二丁目4-23)」/ 墓石には「負山氏越人叟之墓」とある
224いくすべり骨(ほね)お(=を)る岸(きし)のかはづ哉(かな) 去来(注1)
【意】岸辺の蛙
/ 幾度も滑っては池の中に落ちている /
【解説】季語:かはづ=三春
/ 苦心する様を「骨折(を)る」と詠んだ処が俳諧(注1)向井去来(むかい きょらい(1651-1704)(慶安04年-宝永元年):肥前国長崎の儒医向井玄升の次男 / 本名:向井平次郎 / 父は当時著名な医学者で、宮中儒医も務めた / 当初去来も医者を志す / 兄元端も宮中の儒医 / 1684(貞享元)年、去来は其角の紹介に撚り芭蕉と出会った / 嵯峨野に別邸「落柿舎」を所有 / 芭蕉は此処で『嵯峨日記』を執筆 /『猿蓑』同人 /『去来抄』を執筆
225飛入(とびいり)てしばし水(みづ)ゆく蛙(かはづ)かな 落梧
【意】水の中に飛び込んだ蛙
/ 其の儘四肢を投げ出して伸ばした儘水上を進んでいく
【解説】季語:蛙=三春
/ 蛙を観察していて、意外な処の滑稽さが発見された場面を詠んだ処が俳諧
226不図(ふと)とびて後(のち)に居(ゐ)なを(=ほ)る(注1)蛙(かはづ)哉(かな) 津島 松下(注2)
【意】陸上の蛙 / ぴょんと飛んだ蛙 / 続けて飛び跳ねて行くのかと思いきや、もう飛ばず、後足をもそもそさせて居ずまいを正しているだけだ / 此の拍子抜けした滑稽さが俳諧
(注1)居なほる:坐り直す
(注2)松下(しょうか(生年不詳)):尾張国津島の人 /
227 ゆふやみの唐網(たうあみ)(注1)にいる蛙(かはづ)かな 一井(注2)
【意】夕暮れ時に川で投網を打っていると、網に蛙が混じっている
/ 其の蛙の動きに鈍重さが窺われる /
【解説】季語:蛙=三春
/(注1)唐網(とうあみ):池や川で用いる投網 / 別名:打網(うちあみ) /
(注2)一井(いっせい(生没年不詳)):尾張国名古屋の蕉門 / 芭蕉は、1688.01.11(貞享40年12月9日)『笈の小文』の旅の途中、一井宅に招かれ、「旅寝よし宿は師走の夕月夜」を発句に熱田の蕉門等と七吟半歌仙(『熱田三歌仙』)を巻いた
228 はつ蝶(てふ)を兒(ちご)の見(み)出(いだ)す笑(わら)ひ哉(かな) 柳風(注1)
【意】「初蝶」は、「鶯や時鳥の初音」の様に初物を喜ぶ中には含まれていないので、大人は気づかない
/ 幼子が「蝶々だ!」と「初蝶」を見つけて燥(はしゃ)出して大人たちも其の出現を知る
/ 其処で「子供たちに教えられたネ」と笑いになる
【解説】季語:はつ蝶(初蝶)=初春 /(注1)柳風(りゅうふう(生没年不詳)):人物について詳細未詳 /『あら野』等に入句
229 椶櫚(しゅろ)の葉(は)にとまらで過(すぐ)る胡蝶(こてふ)哉(かな) 梅餌(注1)
【意】椶櫚の樹の前を蝶が飛んでいる / 椶櫚で羽を休めるかと思って見ていたら、其の儘過ぎて行って仕舞った
【解説】季語:胡蝶=三春 /
(注1)梅餌(ばいじ(生没年不詳)):美濃国岐阜の人 /『あら野』に2句入句
230 かやはら(注1)の中(なか)を出(で)かぬるこてふかな 炊玉(注2)
【意】荒々しい草原の茅原の中に迷い込んだ嫋(たお)やかな蝶は中々出て来られない /
【解説】季語:こてふ(胡蝶)=三春 /(注1)かやはら:茅原・萱原
(注2)炊(すいぎょく(生年不詳)):美濃国岐阜の人 /『あら野』に2句入句
【小生 comment】
次回は、俳諧七部集『あら野』から〔第25回/第231句~240句〕をご紹介する。お楽しみに!
■続いての話題である。
04月11日(土)は、いい天気だった。
最近の花冷えで、ソメイヨシノがなかなか散らないので春の雰囲気を長く楽しませてくれている。
コロナウィルス禍の影響で、小生の趣味である、美術館巡りとコンサートホールでの Classical Music 鑑賞が全て臨時休館・休演となり、計画が4月に入ってからの予定は全てオジャン!
其処で其の日は、先週に引き続き、拙宅附近を walking することにした。
今日は、以下の通り行動した。
07時15分 起床
07時25分 腹筋2,000回(所要時間:1時間)
08時40分 2.5kg木刀素振り120分
11時10分 入浴→ brunch →
12時45分 昼寝(90分)
15時33分 拙宅〔中庭の花海棠を撮影〕発→
15時45分 愛知県立豊橋東高等学校着
【拙宅の花海棠/豊橋東高等学校】
[01]拙宅中庭の満開の花海棠1
[02]同上2
[03]豊橋東高等学校校門 前にて1
[04]豊橋東高等学校校門
[05]同 前にて2
15時54分 大池着
【大池の満開の桜】
[06]大池の畔にて1
[07]同上2
[08]大池畔の満開の桜花
[09]大池の畔にて3
[10]同上4
16時40分 時習館高等学校着
【母校・時習館高等学校】
【詞書】我等が母校時習館高等学校南門にて~甘い想い出とは無縁だった母校、されど懐かしき母校‥
行く春の母校時習の丘に立ち 想ひ起こすは青春の日々 悟空〔了〕
[11]時習館高等学校正門前にて
[12]時習館高校運動場に掲示されている、時習館高校62回生の後輩 鈴木亜由子ちゃん 2020東京五輪出場祝いの看板
[13]時習館高等学校南門にて
[14]同校 南門
[15]同校 運動場
17時05分 時習館高等学校発→
【山田町の花々/柳生川の菜の花】
[16]帰途、山田町の山田橋
[17]同所にて1
[18]同所の花桃の花1
[19]同所にて2
[20]同所の花桃の花2
[21]山田町の山田橋近くの花々‥花桃の花
[22]同上‥名前不明1
[23]同上‥椿花
[24]佐藤町の柳生川の菜の花
[25]今日の walking
: 距離と歩数
[26]同 : route
Walking : 歩行距離 11.1km / 14,520歩
菜の花といふ平凡を愛しけり 富安風生
行く春に 豊橋の良さ 噛み締めむ 悟空〔了〕
【後記】今日も、『春に因んだ唐詩』の詩聖杜甫(7120770)の五言絶句二首と七言絶句一首の傑作全3作品をご紹介して締め括ることにする。
【 絶句二首 其一 / 杜甫】〔五言絶句〕
遲日江山麗 / 春風花草香
泥融飛燕子 / 沙暖睡鴛鴦
遅日(ちじつ)(注1) 江山(こうざん)(注2)麗(うるわ)しく /
春風(しゅんぷう) 花草(かそう)香(かんば)し
泥(どろ)融(と)けて(注3) 燕子(えんし)(注4)飛び /
沙(すな)(注5)暖(あたた)かにして 鴛鴦(えんおう)(注6)睡(ねむ)る
《意》
日が伸び暮れるのが遅くなった春の日、川も山も麗しく見え /
春風が草花の芳(かぐわ)しい香りを運んで来る
泥が融(と)ける季節となり、燕(ツバメ)は巣作りの為に飛び交(か)い /
川辺の暖まった砂の上には、番(つがい)の鴛鴦(おしどり)が眠っている
《語句》
(注1)遅日:春の日 / 春は日が長く、なかなか日が暮れないのでこのようにいう
(注2)江山:川と山 /「江」は杜甫草堂のすぐ近くを流れる浣花渓(錦江の支流)を指す
(注3)泥融:凍りついていた泥が春の日差しで融ける
(注4)燕子:燕(つばめ)
(注5)沙:川辺の砂
(注6)鴛鴦:オシドリ /「鴛」はオシドリの雄、「鴦」は雌 / つがいの仲が睦まじく、いつも一緒にいるとされる
[27]杜甫『絶句二首/其一』を image した画像
↑↑上記添付写真は、左上(01)から時計回りに(02)(03)(04)の順
(01)「遲日江山麗」を
image した画像(02)「春風花草香」を image した画像
(03)「泥融飛燕子」を image した画像
(04)「沙暖睡鴛鴦」を image した画像
【小生 comment 】
758(乾元元)年 皇帝粛宗の怒りを買った杜甫は、華州(現在の陝西省渭南市)の司功参軍に左遷された
759(乾元02)年 杜甫は、官を捨て、家族を引き連れ、親戚を頼り秦州(現・甘粛省天水市)へ赴いた
杜甫は、秦州に馴染めず、同谷(現・甘粛省隴南市成県)に移るも、飢えに苦しみ、同年12月成都に辿り着いた
760(上元元)年 成都の浣花渓の畔に「杜甫草堂」を建て暫しの定住をした
764(広徳02)年 杜甫(53歳)は、成都にて本作品を二首連作で制作した
成都での生活は、杜甫の生涯で最も平穏な日々だったが、望郷の念は強くなる一方だった
765(永泰元)年 4月 支援者であった厳武が急逝した為、翌5月 家族を引き連れ、長江を下り漂流の旅に出た
【 絶句二首 其二 / 杜甫】〔五言絶句〕
江碧鳥逾白 / 山青花欲然
今春看又過 / 何日是帰年
江(こう)(注1) 碧(みどり)(注2)にして 鳥 逾(いよいよ)(注3)白く /
山 青くして 花 然(も)えん(注4)と欲す(注5)
今春(こんしゅん) 看(みすみす)(注6)又(また)過(す)ぐ /
何(いず)れの日か(注7) 是(こ)れ帰年(きねん)(注8)ならん
《意》
深みのある緑色に澄んだ錦江 / 川の水が青々と流れ、其の水面に水鳥の白さが一層映えて見える /
山は木々の緑に染まり、花は燃え出さんばかりに鮮やかな色彩を放っている
今年の春も、こうしてみるみるうちに過ぎ去っていく /
故郷(の洛陽)に帰る年は、いったい何時(いつ)のことだろう
《語句》
(注1)江(こう):長江の支流、錦江
(注2)碧(みどり):深緑色
(注3)逾(いよいよ):「愈」と同じ / 益々(ますます)、一層(いっそう)
(注4)然(も)えん:「燃」と同じ / 燃えるように赤い /『全唐詩』等では「燃」にて収録されている
(注5)欲(ほっ)す:今にも~しようとする
(注6)看(みすみす):みるみるうちに / 旧訓で「みすみす」、新訓で「看(ま)のあたり」と読む
(注7)何日(いずれのひ)か:いつになったら
(注8)帰年(きねん):故郷(の洛陽)に帰る年
[28]杜甫『絶句二首/其二』を image した画像
↑↑上記添付写真は、左上(01)から時計回りに(02)(03)(04)の順
(01)「江碧鳥逾白」を
image した画像(02)「山青花欲然」を image した画像
(03)「今春看又過」を image した画像
(04)「何日是帰年」を image した画像
【小生 comment 】
本作品は、杜甫の絶句の中で最も有名なものである
因みに、此の詩は『唐詩選』では単に「絶句」と題しているが、『全唐詩』他、殆どのテキストでは「絶句二首 其二」となっている
【 絶句 / 杜甫】〔七言絶句〕
両箇黄鸝鳴翠柳 / 一行白鷺上青天
窗含西嶺千秋雪 / 門泊東呉万里船
両箇(りょうこ)の黄鸝(こうり) 翠柳(すいりゅう)に鳴き /
一行(いっこう)の白鷺(はくろ) 青天(せいてん)に上(のぼ)る
窓に含む 西嶺(せいれい)千秋(せんしゅう)の雪 /
門(かど)に泊(はく)す 東呉(とうご)万里(ばんり)の船
《意》
二羽の鶯が緑の柳の木で鳴き /
一列になって白鷺(しらさぎ)が青空を飛んでいく
窓からは、西嶺の万年雪が見え /
門前には、東方の呉の地から遥々万里の航海をして来た船が停泊している
《語句》
(注1)両箇(りょうこ):二羽
(注2)黄鸝:鶯の一種 / 高麗鶯(こうらいうぐいす)
(注3)門:杜甫草堂の前
(注4)東呉:東の地にある呉の地方
[29]杜甫『絶句/其一』を image した画像
↑↑上記添付写真は、左上(01)から時計回りに(02)(03)(04)の順
(01)「両箇黄鸝鳴翠柳」を
image した画像(02)「一行白鷺上青天」を image した画像
(03)「窗含西嶺千秋雪」を image した画像
(04)「門泊東呉万里船」を image した画像
【小生 comment 】
本作品は、杜甫が成都を旅立つ前年764(広徳02)年の作品
上述の「絶句二首/其二」を作成した晩春を少し過ぎた夏の頃の作品と伝わる
成都郊外の「杜甫(=浣花(かんか))草堂」の近くを錦江が流れ、其処には大きな船着場もあった
此の詩も、前出の五言絶句二首と同じ時期に制作された、杜甫が平穏に暮らしていた頃の作品である
「起句:近景」v.s.「承句:遠景」、「転句:遠景」v.s.「結句:近景」の全対格(ぜんついかく)が絶妙だ
極めて写実的で絵画的な情景に、dynamicな立体感が加わり、此の詩に一層明るい印象を与えてくれている
恐らく、束の間の平穏を与えてくれた成都の想い出として残すべく杜甫が此の詩を作成したものとみられる
杜甫は、此の詩を作った翌年、成都を去り、舟で長江を東方の呉の方向へ下って行った
起・承・転の三句で成都の懐かしい思い出を、結句で、成都を離れる近未来を描いた、と捉えることも出来る
此の詩も実に味わい深い、いい詩である
では、また‥〔了〕
*
ブログへは【0626】号迄のback numberはURL:http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog←此処をclickして下さい
*
0 件のコメント:
コメントを投稿