■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。今日も【時習26回3−7の会 0834】号をお届けします。
今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『あら野』から〔第52回/巻之六~第501句~510句〕」をご紹介する。
(注1)禅閣(ぜんかふ):一条兼良(いちじょう かねひら(1402-1481)) / 室町中期の政治家・学者 / 関白太政大臣 / 有職故実・古典に通じた当代随一の学者 / 著書に「花鳥余情」・「古今集童蒙抄」・「樵談治要(しようだんちよう)」・「東斎随筆」・「尺素往来(せきそおうらい)」等 / 以下は、彼が遺したという歌のパロディだが、此の句を詠んだ背景や意図は不明
(注2)永田舟泉(ながた しゅうせん(?-元文02(1737)年10月27日(享年84歳))):三河国挙母(コロモ)(現・豊田市挙母町)生まれの尾張国名古屋の人 / 通称:六兵衛 / 1687(貞亨04)年に蕉門に入る /『あら野』・『曠野後集』等に入句
(注3)鋸銷目立(のこぎりのめたて):ノコギリの刃がつぶれて鈍くなったものを修理する職人
501 かげろうふの夕日(ゆふひ)にいたきつぶり(注4)哉(かな)
【意】終日、紺を詰めて、鋸(のこぎり)の歯の一つひとつにやすりを掛けて矯(た)めつ眇(すが)めつの作業 / 目立ては目を酷使し、鋸の歯研ぎは緊張の連続だ / 故に夕暮、遠方を眺めると、ゆらゆら陽炎がゆれている /
本当の陽炎なのか、疲労の所為なのか頭痛もする
【解説】季語:かげろふ=三春 /
(注4)つぶり:頭のこと
(注1)附木突(つけぎつき):火付け木は檜を長さ5寸程の薄片に削り、硫黄を塗る/「削る」ことを「突く」という
502 五月闇(さつきやみ)(注2)水鶏(くひな)ではなし人(ひと)の家(いへ)
【意】五月の闇の夜、何処からか水鶏の叩く様な鳴き声が聞こえて来る / と思いきや、附木作り屋が檜(ヒノキ)を突き削る音だった
【解説】季語:五月闇=仲夏、水鶏(くひな)=三夏 /
(注2)五月闇(さつきやみ):五月雨の降る頃の空の暗い様
(注1)鉤(=釣)瓶縄打(つるべなはうち):井戸の縄をなう職人のこと / 車井戸の釣瓶縄は、棕櫚(シュロ)の皮の繊維を編んで作る / 夫々の井戸の深さに合わせて長さを決めるので、出向いた先で仕事をする
503 かへるさ(注2)や酒(さけ)のみによる秋の里
【意】釣瓶職人が、終日、出先の井戸端での仕事を終えた帰るさ(=帰る時)、里の酒屋で一杯引っ掛けていく / / 此のしがない職人の日常の振る舞いが、しみじみとした里の秋の夕暮れの静寂の中に溶け込んでいく
【解説】季語:秋の里=三秋 /
(注2)帰(かへ)るさ:帰る時のこと
/ かへさ /
(注1)糊賣(のりうり):洗濯用の姫糊(=米で作った糊)を売り歩く人 / 当時は老婆の生業が多かった
504 あさ露(つゆ)のぎぼう(注2)折(をり)けむつくもがみ(注3)
【意】糊売りは、洗濯の出来る晴天の日が商売の書入れ時 / 夏の早朝から起き出して、天気の具合を見て、朝露のしとどに(=確りと)降りたギボウシの葉を折り、売りに出る
【解説】季語:ぎぼう=仲夏 /
(注2)ぎぼう:擬宝珠 / 玉簪 / ギボウシのこと / 全国の山野に自生しているユリ科の植物 / 夏に白、薄紫、紫などの細い筒形の花を咲かせる
/ 一説に、其の広い葉を糊を包むのに用いた、という
[01]ギボウシ
(注3)つくもがみ(=髪):老女の白髪をいう
/ 伊勢物語の歌「百年(ももとせ)に一年(ひととせ)足らぬ九十九髪(つくもがみ) 我を恋ふらしおもかげに見ゆ(【意】百歳に一年足りぬ年寄りの白髪の老婆が私を恋しく思っている様だ
/ 幻になって見える)」から、「つくも」は「つぐもも(次百)」の略で、百に一つ足らぬ九十九の意と見、其れを「百」の字に1画足らぬ「白」の字とし、白髪に譬えた
馬糞掻
(注1)馬糞掻(ばふんかき):道路に落ちた馬糞や牛糞をかき集める仕事
/ 主として孤児などの少年の仕事
505 こがらしの松の葉(は)かきとつれ立(だち)て
【意】「馬糞掻き」と「松葉掻き」の少年が連れ立っていく‥/ 凩の福時節は、松の落葉も増えるので、其れを掻き集めて小銭を稼ぐ「松葉掻き」少年は、時節到来とばかりに寒風の中へ出かけていく
/ 一方、街道の「馬糞掻き」少年は時節に関係なく年中変わらぬ調子で馬糞を集めていく
【解説】季語:こがらし(凩)=初冬 /
李夫人(注1) 越人(注2)
(注1)李夫人:漢の武帝(前159-前87)の寵姫 / 以下の5句は中国の5人の美女を題とする
(注2)越智越人(おち えつじん(明暦02(1656)年-?):北越の人 / 越智十蔵 / 別号:負山子・槿花翁等
/『春の日』の連衆の一人、尾張蕉門の重鎮 /『更科紀行』に同行し、其の儘江戸迄同道、一箇月後の作品『芭蕉庵十三夜』にも登場 /『鵲尾冠』・『猫の耳』等 / 芭蕉は、越人のことを、『庭竈集』「二人見し雪は今年も降りけるか」の句の詞書に、「尾張の十蔵、越人と号す。越後の人なればなり。粟飯・柴薪のたよりに市中に隠れ、二日勤めて二日遊び、三日勤めて三日遊ぶ。性、酒を好み、酔和する時は平家を謡ふ。これ我が友なり」と好感を持って評していた
/『笈の小文』でも、伊良子岬に隠れている杜国を尋ねた芭蕉に同行している
魂在何許香煙引到焚(香)處(注1)
(注1)魂在何許香煙引到焚處(たましひはいずれのもとにかある かうのけぶりにひかれてかうをたくところにいたる):漢の武帝が、寵姫李夫人の死を悼み、反魂香を焚くと、線香の煙の中に李夫人の姿が現れた、の意 /「白氏文集『李夫人』」の詩より
/ 底本は、「焚(香)處」の「香」の字を脱す
506 かげろふの抱(だき)つけばわがころも哉(かな)
【意】陽炎の如き儚い幻影 / 煙ではなく陽炎だったが、其の陽炎の中に愛する人の幻影に思わず抱きつくと、我が身を抱いていた
【解説】季語:かげろふ=三春 /
楊貴妃(注1)
雲髩 半偏新睡覺 花冠不整下堂(來)(注2)
(注1)楊貴妃(ようきひ):唐の6代皇帝玄宗(685-762)の愛妾
(注2)雲髩 半偏新睡覺 花冠不整下堂(來)(くものびんづらなかばみだれてあらたにねむりさめたり はなのかんむりととへずだうよりくだりきたれり):白氏文集『長恨歌』の中の一節 / 玄宗皇帝の命を受けて、方士が蓬莱宮に赴き死後の楊貴妃に対面した / 其の時の楊貴妃は、髪の毛も乱れた儘、眠りから覚めたばかりの出立(いでた)ちで堂上から降りてきたという /「(來)」は底本に脱
507 はる風(かぜ)に帯(おび)ゆるみたる寐貌(ねがほ)哉(かな)
【意】春風の中に立つ美人 / いま睡りから覚めたばかりという様に、帯はしどけなく寝起きの力ない表情が顔にあらわれている
/ 仙界の楊貴妃の縹渺たる(=仄かに見える)美しさを、春風の中に置いた処が此の句の工夫
【解説】季語:はる風=三春 /
昭陽人(注1)
小頭鞋履窄衣裳 靑黛点眉々細長 外人不見々應笑(注2)
(注1)昭陽人:上陽人 / 唐の玄宗皇帝の後宮に16歳で入った人 / 玄宗の愛が楊貴妃に独占された為、彼女はむなしく後宮で年老いたという
/ しかし、年老いてからも16歳の頃の姿を守り通した
(注2)小頭鞋履窄衣裳 靑黛点眉々細長 外人不見々應笑(せう(しょう)とうのけいりすぼきいしやうあり あをきまゆずみまゆをてんじまゆほそくながし うときひとにはまみえずまみえなばわらふべし):鞋(くつ)は先の小さなものを履き、黛(まゆずみ)で描く眉の形は細く長く引いている / よその人に出逢うことはないが、もし逢えば、誰も笑い出すことだろう「白氏文集『上陽白髪人』」からの引用
508 もの數寄(ずき)やむかしの春の儘(まま)ならん
【意】若くして後宮に入り、其の儘隔絶された世界で過ごした此の悲しい女性は、最も希望に満ちた16歳の春の嗜好を、気の毒にも其の儘老境に至る迄保ち続けたのであろう
【解説】季語:春 /
西施(注1)
(注1)西施:越王勾踐の愛妾 / 勾踐はこの女におぼれ国の存亡の危機と認識した臣下の笵蠡(はんれい)は彼女を敵国の呉王夫差に与えた / 呉王は彼女に耽溺し国は乱れた / 其の機に乗じて越は呉を攻めて陥落させ、西施は取り戻されたが、彼女がいると国難を齎すと考えた笵蠡は西施を暗殺した
(注2)宮中拾得娥眉斧 不獻吾君是愛君(きゅうちゅうがびがをのをひろひえて わがきみにたてまつらざるはこれきみをあいするなり):敵国の城中で、娥眉の美人西施を拾い(=助け)乍ら、彼女はやがて国を亡ぼす斧になると考え、彼女を主君・越王勾践に献上しなかったのは不忠の心があったのではなく、其れが主君を思えばこそだと、の意
509 花(はな)ながら植(うゑ)かへらるゝ牡丹(ぼたん)かな
【意】美女西施は、呉の軍師笵蠡の策略に拠って、越の宮廷から、呉の宮廷に贈られた / 此れは花に譬えれば、百花の王たる牡丹を、美しく咲き誇る姿其の儘に、移植した様なものだ
【解説】季語:牡丹=初夏(四月) /
王照(=昭)君(注1)
(注1)王昭君(わうせう(おうしょう)くん):底本「王昭君」を「王照君」と誤記
(注2)玉貌風沙膝(勝)畫圖(ぎょくぼうふうさにもがとにまされり):美しい顔は砂漠の風に汚れても、画かれた美女より美しかった、の意 / 底本「膝」は「勝」の誤り / 前漢元帝の代、宮中の女の中から一人を胡の国の王妃に差し出すこととなった
/ 其の際、女たちの肖像画を贈って選ばせることとした / 其処で女たちは画工に賄賂を贈って自分を美しく描かせたが、王昭君だけは賄賂を贈らなかった為、画工は醜女の絵を描いた
/ 元帝は醜女の絵の王昭君を選んだ
510 よの木(き)にもまぎれぬ冬(ふゆ)の柳(やなぎ)哉(かな)
【意】冬の枯れ柳と言っても、流石は柳の美しさ / 矢張り辺りの木々とは風情が違う
【解説】季語:冬の柳(=枯柳)=三冬 /
【小生 comment】
次回は、俳諧七部集『あら野』から〔第53回/巻之六~第511句~520句〕をご紹介する。お楽しみに!
■続いては、10月11日(日)に、02時30分に起床して、三重県津市の「阿漕塚」→「阿漕浦」→「結城神社」→「JR阿漕駅」→「津城跡」→「三重県立美術館『=高砂コレクション=香りの器』展・『榊莫山』展・『柳原義達』展」→「石水博物館『数寄者・村山龍平の茶の湯』展・『川喜田半泥子』展」→「高田山
専修寺」→菰野町の「パラミタ・ミュージアム『須田剋太』展」と巡って来たので、順次お伝えしていく
行程は以下の通り‥
02時30分 起床
02時40分 腹筋2,000回→
03時25分 2.5kg木刀素振り50分→
04時15分 入浴→朝食→
04時56分 拙宅発→一般道 2時間18分 137km→
07時14分 阿漕塚〔津市柳山津興622〕着
【阿漕塚】1
[02][左上]阿漕塚 航空map
[左下]同 塚の前にて1
[中下]同 同上2
[右下]同 同上3
[03][左上]阿漕塚 阿漕塚の由来 解説板にて
[左下]同 同上3
[中下]同 芭蕉句碑「月の夜の何を阿古木に啼く千鳥」の前にて1
[右下]同 同上2
07時41分 阿漕塚発→一般道5分
1km/138㎞→
07時47分 阿漕浦着
【阿漕塚⇒阿漕浦】
[04][左上]阿漕塚 塚の由来
[左下]阿漕浦 同所にて1
[中下]同 同上2
[右下]同 同上3
【阿漕塚】&【阿漕浦】については、白洲正子著『西行』~「あこぎの浦」に次の様に紹介されている
【白洲正子『西行』~「あこぎの浦」】
〔前略〕西行の出家の原因は、親友の佐藤範康(のりやす)の急死にあると、『西行物語』は伝えるているが、この世を厭う気持ちは、それよりずっと以前から、心の奥にかもされていたようである。
いつなげき
いつおもふべきことなれば 後の世しらで 人のすぐらん
いつの世に
ながきねぶりの 夢さめて おどろく事の あらんとすらん
なにごとに
とまる心のありければ さらにしもまた 世のいとはしき
その頃の詠として、西行物語はこの三首をあげているが、物語の作者は、西行の歌を適当にアレンジして載せているので、出家以前の詠んだものかどうか定かでない。
〔中略〕
ともあれ、妻子のある前途有望の武士が、出家遁世するということは、余程の覚悟を要した筈で、長年かかって積み重なった思いが、親友の死に拠って爆発したとみるのがしぜんである。
〔中略‥佐藤義清(のりきよ:西行の俗名)が出家する前日の夜でのこと‥〕
同じ北面の武士(で親友)の佐藤範康と共に退出し、〔中略〕翌朝範康の家へ行くと、〔中略〕殿(=範康)は今宵亡くなりましたと、十九になる若妻と八十を越えた老母が、身も世もあらず嘆き哀しんでいる。
義清は夢みる心地がして、人の命の儚さを痛切に思い知らされるのであった。
〔中略〕
年月をいかで我が身におくりけん 昨日の人も今日は亡き世に
〔中略〕山家集に載っている此の歌は、新古今にも入っており、正に此の時の実感であったに違いない。
範康は、義清より二歳年上であったというから、とても他人事(ひとごと)とは思えなかったであろう。
※
其れを機に義清は出家に踏み切るのであるが、『源平盛衰記』は、全然別の物語を伝えている。
さても西行発心のおこりを尋ぬれば、源は恋故とぞ承る。
申すも恐れある上臈(じゃうらふ)女房を思懸(おもひかけ)進(まゐ)らせたりけるを、【あこぎの浦】ぞと云ふ仰(おほせ)を蒙りて、思ひ切り、官位(つかさくらゐ)は春の夜見はてぬ夢と思ひなし、楽み栄えは秋の夜の月西へと准(なぞら)へて、有為(うゐ)の夜の契(ちぎり)を逃れつつ、無為(むゐ)の道にぞ入りにける。
西行の発心の起こりは、実は恋の為で口にするのも畏れ多い高貴の女性に思いをかけていたのを、「あこぎの浦ぞ」といわれて思い切り、出家を決心したというのである。
「あこぎの浦ぞ」というのは、
伊勢の海「あこぎが浦」に引く網も たびかさなれば人もこそ知れ
という古歌に拠っており、逢うことが重なれば、やがて人の噂にものぼるであろうと、注意されたのである。
「あこぎの浦」は、伊勢大神宮へ捧げる神饌の漁場で、現在の三重県津市阿漕町の海岸一帯を「阿漕が浦」「阿漕が島」とも言い、殺生禁断の地になっていた。
其処で夜な夜な密かに網を引いていた漁師が、発覚して海へ沈められたという哀話が元にあって、此の恋歌は生まれたのだと思う。
〔中略〕
猶、源平盛衰記には、其の後に続けて一つの歌を挙げている。
思ひきや 富士の高根にひと夜ねて 雲の上なる月を見んとは
此歌の心を思ふには、ひと夜の御契は有りけるにやと。
私(=白洲正子)の知る範囲では、此の歌はどの歌集にも見えないから、盛衰記の作者の創作かもしれない。
が、やんごとない女性と儚い契りを結んだことは次の様な歌から推察することは出来るのである。
知らざりき 雲ゐのよそに 見し月の かげを袂(たもと)に 宿すべしとは
月のみや うはの空なる 形見にて 思ひも出(い)でば 心通はん
〔後略〕
08時12分 阿漕浦発→一般道5分
1km/139km→
【結城神社】
[右上]同 紙本墨書 結城神社文書46通 解説板
[左下]同 本殿前にて1
[中下]同 同上2
[右下]同 同上3
08時36分 結城神社発→一般道8分
1km/140km→
08時47分 JR阿漕駅着
【JR阿漕駅】
[06][左上]JR阿漕駅 同駅をbackに1
[右上]同 同上3
[右中]同 駅の風景1
[右下]同 同上2
08時56分 JR阿漕駅発→一般道8分 3km/143km→
09時05分 津城跡隣市営駐車場着
【津城跡】
[07][左上]津城跡 丑寅櫓をbackに1
[左下]同 藤堂高虎像を back に
[中下]同 藤堂高虎公解説板の横にて
[右下]同 津城跡解説板の横にて
09時19分 津城跡隣市営駐車場発→一般道3分
3km/146km→
09時26分 三重県立美術館駐車場着
【三重県立美術館『=高砂コレクション=香りの器』展】
[右上]同 同上2
[左下]同 ルネ・ラリック『香水瓶』他
[中下]藤田嗣治『「イザベイ社 モン・スール・アミ」の広告ポスター』1928年
[右下]『「メディチ・ローション」ポスター』France
【三重県立美術館『柳原義達』展】
[09][左上] 柳原義達『山本恪二さんの首』1940年
[左下]同『道標・鳩』1973年
[中下]同『道標・鳩』1973年
[右下]同『道標・鳩』1994年
【三重県立美術館『榊莫山』展】
[10][左上] 榊莫山『東大寺ノ松林(大和八景)』1984年
[右上]同『赤門(崇廣堂)(伊賀八景)』1994年
[右中]同『天平ノ首飾Ⅱ』1994年
[右下]同『城ノ石垣(伊賀八景)』1994年
10時42分 三重県立美術館駐車場発→一般道22分 5km/151km→
11時04分 石水博物館着
【石水博物館『川喜田半泥子』展】
[11][左上]石水(せきすい)博物館入口にて1
[左下]同『数寄者・村山龍平の茶の湯』展leaflet
[中下]川喜田半泥子『黒茶碗 銘「すず虫」』制作年不詳
[右下]同『粉引茶碗 銘「雪の曙」』
【石水博物館『数寄者・村山龍平の茶の湯』展】1
[12][左上]吉州窯『梅花天目』
[左下]美濃『志野茶碗 銘 朝日影』
[右下]本阿弥光悦筆、俵屋宗達画『詩歌巻巻末断簡』江戸時代
[13][左上]野々村仁清『銹絵染付鴨形香炉』
[左下]尾形乾山/尾形光琳絵付『銹絵枯芦小禽図角皿』
[右下]尾形乾山『色絵立葵文透鉢』
11時37分 石水博物館発→一般道
12時04分 高田山 専修寺(せんじゅじ)着
【高田山 専修寺】
[14][左上]一身田 寺内町 看板にて
[左下]同 高田山 専修寺山門を back に1
[中下]同 同上2
[右下]同 高田山 専修寺山門
[15][左上]高田山 専修寺 御影堂を back に
[右上]高田本山 境内案内図
[右中]同 如来堂前にて
[右下]同 御影堂前にて
[16][左上]高田山 専修寺 御影堂内 仏壇
[右上]同 同 御影堂から山門を望む
[右中]同 同 唐門を back に
[右下]同 同「如来堂」「御影堂」御朱印
12時50分 高田山 専修寺発→徒歩64分
36km/187㎞→
13時54分 パラミタ・ミュージアム駐車場着
【パラミタ・ミュージアム『須田剋太』展】
[17][左上]パラミタ・ミュージアム:入口内部の本企画『須田剋太』展看板横にて
[左下]同 本企画展leaflet
[右下]同 本企画展入口にて
[右上]同『ピンクのターバン』1947年
[左下]同『ゴビ砂漠』
[中下]同『愛蘭土紀行 ビートルズの街』
[右下]同『万博』1970年
14時41分 パラミタ・ミュージアム駐車場発→一般道137㎞/324㎞
17時37分 帰宅〔走行距離計324㎞〕〔了〕
では、また‥〔了〕
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