今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『あら野』から〔第50回/巻之六~第481句~490句〕」をご紹介する。
撰虫(むしえらび)(注1)
(注1)撰虫:昔、殿上人たちが嵯峨野などへ出向き、虫合わせの虫を選んで虫籠(むしかご)に入れ宮中に奉ること / 選虫 / 虫えらみ
481 草(くさ)の葉(は)や足(あし)のお(=を)れたるきりぎりす
【意】虫取りは不慣れな宮廷人なものだから、折角捕まえたキリギリスの足は折れて仕舞っている
【解説】季語:きりぎりす=初秋 / 細かく虫の足について記述する処が俳諧
十月衣更(ころもがへ)(注1)
(注1)十月衣更:10月朔日(1日)から翌三月晦日迄、宮中では冬の袍(うわぎ・わたいれ)を着す
482 玉(たま)しきの衣(ころも)かへよとかへり花(ばな)(注1)
【意】秋の衣更えになると宮中では、また玉の様に美しい衣装の着替える / 其れは、かへり花の様な美しさだ
【解説】季語:かへり花(帰り花)=初冬
(注1)かへり花:小春日和の暖かさで、本来の花期ではないのに咲いた花のこと
五節(ごせち)(注1)
(注1)五節(ごせち):奈良時代以後、毎年新嘗祭(しんじようさい(=にひなめさい))・大嘗祭(だいじようさい)の折に、その前後四日(11月中(なか)の丑(うし)・寅(とら)・卯(う)・辰(たつ)の日)に亘って行われた、五節の舞を中心とする儀式行事 / 丑の日は舞姫が参入し、夜、帳台の試みが行われ、寅の日は清涼殿で殿上(てんじよう)の淵酔(えんすい)および夜は常寧(じようねい)殿で御前の試み、卯の日は舞姫の介添えの少女たちを御前に召す童女(わらわ)御覧、辰の日は豊楽殿(ぶらくでん)の前で、豊明(とよのあかり)の節会(せちえ)が催され、五節の舞が舞われる。天武天皇の代に始まるといわれ、平安時代には盛大に行われたが、のち大嘗祭の時のみとなり、室町時代には廃止された
483 舞姫(まひひめ)に幾(いく)たび指(ゆび)を折(をり)にけり
【意】華麗な舞で舞姫は何度袖(そで)を返したのかな?
【解説】季語:舞姫(=五節の舞)=仲冬 /
追儺(ついな)(注1)
(注1)追儺(ついな):悪鬼・疫癘(えきれい)を追い払う行事
/ 平安時代、宮中に於いて大晦日(おおみそか)に盛大に行われ、その後、諸国の社寺でも行われるようになった
/ 古代中国に始まり、日本へは文武天皇の頃に伝来したと云う / 節分に除災招福の為に行われる豆撒(ま)きは「追儺」に由来する / 鬼やらい
484 おはれてや脇(わき)にはづるゝ鬼(おに)の面(めん)
【意】鬼役の者が追われて逃げるに懸命になっているうちに、面がはずれて正体を現して仕舞う
【解説】季語:鬼おふ(=追儺)=晩冬 /
詩題(しだい)十六句(注1) 野水(注2)
(注1)詩題十六句:以下の16句は、『白氏文集』の詩句に題材を求めて野水が作句した作品群
(注2)岡田野水(おかだ やすい((?)-1743.04.16(寛保03.03.22):埜水とも / 尾張国名古屋の呉服豪商で町役人 / 通称:佐右次衛門 / 本名:岡田行胤 / 芭蕉が『野ざらし紀行』の旅で名古屋に逗留した(1684年)際の『冬の日』同人 / 其の頃、野水は27歳の男盛り / 又、彼は近江蕉門や向井去来等上方の門人との親交も厚かった今日不知誰計會(きょうしらずたれかけいかいせん)
春風春水一時来(しゅんぷうしゅんすい(=はるのかぜはるのみづ)いつしにきたる)
485 氷(こほり)ゐし添水(そふづ)(注1)またなる春(はる)の風(かぜ)
【意】今日立春の日に、春風と春水が一緒になるように計算したのであろう。今迄凍りついて動かなかった「ししおどし」の「添水」が春風に溶けて再び動き始め、鋭い音をたて初めた
/ 正に「春風春水一時来」だ
【解説】季語:春の風=三春 /
(注1)添水(そふづ):懸け桶(ひ)等で水を引いて竹筒に注ぎ入れ、一杯になると重みで反転して水を吐き、元に戻るときに石などを打って音を発するようにした仕掛け
/ もと農家で猪(いのしし)や鹿(しか)を脅(おど)すのに用いられた /「ししおどし」のこと / 添水唐臼(そうずからうす)
[01]添水(=ししをどし)
白片落梅浮澗水(注1)
(注1)白片落梅浮澗水(はくへんのらくばいかんすいにうかぶ):梅の花が落花して谷川の水に浮かぶ意 /「澗」は谷川の意で、拠って「澗水」は「谷川の水」のこと
486 水鳥(みづとり)のはし(注1)に付(つき)たる梅(うめ)白(しろ)し
【意】川中を泳ぐ水鳥の、嘴(くちばし)に、梅の花びらがへばり付いている / 上流に花弁を散らせた梅木があるに違いない
【解説】季語:梅=初春 /
(注1)はし:嘴(くちばし)のこと
春来無伴閑遊少(注1)
(注1)春来無伴閑遊少(はるきたれどもともなくしてかんゆうまれなり):春は来たものの同伴する友もいないのでのんびり春を愛で遊び暮らすことも稀(まれ)である、の意
487 花賣(はなうり)に留主(るす)たのまるゝ隣(となり)哉(かな)
【意】隣人は花売りを業とする者なので春は書入れ時だ / 今日も「留守を宜しく」と頼み出かけた
/ どうやら私は垂れ籠め(=家に籠(こも)っ)て此の春を過ごすことになりそうだ
【解説】季語:花賣(=花売り(はなうり))=晩春 /
花下忘歸因美景(注1)
(注1)花下忘歸因美景(はなのもとにかへらんことを忘れるはびけいのゆゑなり):(桜の)花の下で帰ることも忘れて歓を尽くす / 此れも偏(ひとえ)に此の美しい景色故(ゆゑ)である、の意
488 寝入(ねいり)なばもの引(ひき)きよせよ花(はな)の下(もと)
【意】終日(桜の)花の下に過ごしたが尚(なほ)興は尽きない、とばかりに横になっている人がいる
/ が、寝込んで風邪をひいたら気の毒だ / 何か上から掛けてやったらどうだ
【解説】季語:花=晩春 /
留春春不留 春歸人寂莫(注1)
(注1) 留春春不留 春歸人寂莫(はるをとどめてはるとどまらず はるかへりてひとせきばくたり):春が去るのを止めようとしても留まることは無い / やがて春は去って、人々は寂しい想いをする
【意】此の野末の古寺も桜の季節にはいっとき賑わったが今はもとの静寂に戻った / 此れこそが、此の寺の本領、其の静寂が相応しく思われるのだ
【解説】季語:行春(ゆくはる)=晩春 /
微風吹袂衣 不寒復不熱
(注1)微風吹袂衣 不寒復不熱(びふうあはせをふいて さむからずまたあつからず):そよ風が袷(あわせ)の着物を吹きつけて、寒くもなく暑くもなく丁度いい季節だ
■【『奥の細道』最終回【大垣】】
今日は、「松尾芭蕉『奥の細道』の第20回目、最終回をお届けする
足掛け5か月の旅を擬似体験された感想は如何ですか?
終に『奥の細道』も最終回【大垣】を迎えた
この『奥の細道』【大垣】本文末尾をご覧頂ければお解りになる様に、元禄二(1689)年の八月二十一日、即ち今から331年前の丁度今日、芭蕉は【大垣】到着した
そして、「長月六日になれば伊勢の遷宮拝まんと‥」とある様に新暦10月18日に伊勢長島へ発つ処で終わっている
八月ニ十一日(新暦10月04日)「大垣」在
九月六日(新暦10月18日)「大垣」発
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【大垣】
《原文》
露通(ろつう)(注1)も此(この)みなとまで出(いで)むかひて、みのゝ国へと伴(ともな)ふ。
駒にたすけられて大垣(注2)の庄(しやう)に入(いれ)ば、曾良(注3)も伊勢より来(きた)り合(あひ)、越人(ゑつじん)(注4)も馬をとばせて、如行(じよかう)(注5)が家に入(いり)集(あつま)る。
前川子(ぜんせんし)(注6)・荊口(注7)父子(けいこうふし)、其外(そのほか)したしき人々(注8)日夜とぶらひて、蘇生のもの(注9)にあふがごとく、且(かつ)悦び、且(かつ)いたはる。
旅の物うさ(注10)もいまだやまざるに、長月六日(注11)になれば、伊勢の遷宮(注12)おがまんと、又舟にのりて(注13)、
蛤の ふたみにわかれ 行秋ぞ
《現代語訳》
八十村路通(注1)もこの敦賀の港まで出迎えに出て来て、美濃国へ同行してくれた。
馬に乗り徒歩の労苦を助けられ大垣(注2)の庄に入ると、曾良(注3)も伊勢から来て合流して、越智越人(注4)も馬を飛ばして来て、近藤如行(注5)の家に集合した。
津田前川子(注6)や宮崎荊口(注7)父子を始め、その他親しい人々(注8)が日夜訪ねて来て、まるで生き返った人(注9)にでも会うかの様に、私の無事を喜んでくれたり、旅の疲れを労ってくれたりした。
長旅のから来る億劫な気分(注10)がまだ取れない儘に、九月六日(注11)になったので、伊勢の遷宮(注12)を拝もうと、又舟に乗り(注13)旅立つに際して‥
蛤のふたみにわかれ行(ゆく)秋ぞ
【意】離れ難い蛤の蓋(ふた)と身とに別れてられるが如く辛いお別れの時が来た‥
私は「二見が浦」へ旅立つ
今はもう晩秋である‥
季語「行く秋」=秋九月
「ふたみ」は、地名の「二見」に、蛤の「蓋(ふた)と身(み)」を掛けて、更に「み」には「見る」の意味も含まれている。
「行(ゆく)秋」は、冬が近づく『晩秋』を動的に捉え、且つ、「行(ゆく)」は「別れ行く」と「行く秋」と掛け詞になっている。
即ち、芭蕉を歓待してくれた大垣の親しい人々との別れの辛さを、蛤の「蓋(ふた)と身(み)」の別れに例える一方、
「行く秋ぞ」で、深まって行く秋の動的な面を芭蕉のこれからの人生に重ね「これから旅立つ『人生』への決意」を表していると言えよう。
[02][左]水門川と住吉燈台傍の船町港跡 2020/10/03撮影
[右上]同上 2013/03/30撮影
[右中]同上 2016/04/02撮影
[右下]同上 2019/08/31撮影
(注1)露通:八十村路通/近江大津の人/貞享02(1685)年頃、大津で芭蕉に認められ入門/当初『奥の細道』同伴者に予定されていた様である
一時、芭蕉の勘気を蒙るも後に許されている/元文03(1738)年没(享年90歳)
(注2)大垣:現・岐阜県大垣市/戸田氏定(とだ うじさだ(1657-33))十万石の城下町
美濃大垣藩の第4代藩主〔戸田家第5代(・初代 一西(1543-1604)→第2代 氏鉄(1576-1655)→第3代 氏信→第4代 氏西(うじあき)→第5代 氏定)
戸田家初代一西は、吉田(現・豊橋)生まれ、渥美郡多米(現・豊橋市多米町)の領主で、吉田城攻めに際して徳川家康の配下となり、以後三河譜代となる
天正18(1590)年 小田原征伐/伊豆国山中城攻略に参戦/同年、家康の関東入りに従い、武蔵国鯨井(現・埼玉県川越市鯨井)5千石を賜う
慶長05(1600)年 関ヶ原戦では徳川秀忠軍に従う/信濃上田城の真田昌幸攻めの際、これに唯一人反対/後に家康に賞さる
慶長06(1601)年 2月、家康の命に拠り近江国膳所の築城を成し遂げ、膳所藩3万石を立藩/藩政安定のため、紅しじみ漁を奨励したという
慶長09(1604)年 死去(享年62歳)/跡を長男の氏鉄が継ぐ
慶長19(1614)年~同20(1615)年 大坂の陣では居城の膳所城の守備に徹す
元和02(1616)年 摂津尼崎5万石へ移封
寛永12(1635)年 07月28日、美濃大垣10万石へ移封、大垣藩初代藩主となる
以後、明治維新(第11代 氏共(うじたか(1854-1936)))迄戸田氏が大垣藩10万石の藩主を代々務めた
(注3)曾良:曾良の大垣到着は九月三日(新暦10月15日)(「曾良旅日記」拠り)
芭蕉は八月二十一日(新暦10月04日拠り大垣在(「荊口句帳」拠り))
(注4)越人:越智越人(おちえつじん)/名:十蔵/名古屋の染物問屋/別号に槿花翁(きんかおう)
貞享年間~元禄初年(1684~88年)にかけて尾張の蕉風を開拓‥→尾張蕉門の重鎮
蕉門十哲の一人/元禄元(1688)年「更級紀行」の旅に随伴/元文04(1739)年前後没(享年84歳)
(注5)如行:近藤如行(じょこう)/名:源太夫、如行は俳号/元大垣藩士/禄位を返上し僧侶になった/宝永年間(1704-11年)頃没
(注6)前川子:津田氏、通称:荘兵衛、前川(ぜんせん)は俳号/「子」は敬称/大垣藩士で詰頭(つめがしら)の職にあった
大垣蕉門の一人/『奥の細道』旅行前、江戸勤番中、芭蕉、曽良と俳交があった
(注7)荊口:宮崎氏、通称:太左衛門/荊口は俳号/大垣藩士、御広間番を務めた
此筋(しきん)・千川(せんきん)・文鳥(ぶんちょう)の三人の子と共に芭門に入る
(注8)其外したしき人々:谷木因(ぼくいん)・高岡斜嶺・浅井左柳・深田残香・高岡怒風といった大垣蕉門の人々
(注9)蘇生のもの:「蘇生」は死者が生き返ること
(注10)旅の物うさ:旅の疲労から来る、物事が億劫に感じられる状態のこと
(注11)長月六日:陰暦九月六日(新暦10月18日)
(注12)伊勢の遷宮:21年目毎に行われる伊勢神宮の改築遷座式(=式年遷宮)のことで、元禄02(1689)年がその年に当たった
内宮は9月10日、外宮が9月13日に行われたが、芭蕉は内宮には間に合わず、外宮だけ間に合ったという
皇大神宮(こうたい)神宮(=内宮)と豊受大(とようけだい)神宮(=外宮)を中心とした大小の社群の総称
天武天皇が定め、持統天皇04(690)の第1回が起源
戦国時代に120年余りの中断期間があったものの、2013(平成25)年〔第62回式年遷宮〕迄、1300年以上続いている
(注13)舟にのりて:芭蕉は、回船問屋で、芭蕉の俳友の谷木因宅から、水門(すいもん)川を経て、大垣の東を流れる揖斐川、更に長良川を下って行った
谷木因宅は、現在の大垣市船町「奥の細道むすびの地」公園になっている
伊勢湾に出た芭蕉は、伊勢の二見が浦に再上陸して伊勢神宮へ向かった
『奥の細道』【千住】の章/「舟に乗りて送る」「船をあがれば」に対応する言葉
【跋(ばつ)(注1)】
《原文》
からびたる(注2)も艶(えん)なる(注3)も、たくましきもはかなげなるも、おくの細みちみもて行(ゆく)に、おぼえずたちて手たゝき、伏(ふし)て村肝(むらぎも)を刻む(注4)。
一般(ひとたび)は蓑をきるゝゝかゝる旅せまほしと思立(おもひたち)、一(ひと)たびは座してまのあたり奇景をあまんず(注5)。
かくて百般(ひやつぱん)の情(じやう)(注6)に、鮫人(かうじん)が玉(注7)を翰(ふで)にしめしたり。
旅なる哉(かな)、器(うつはもの)(注8)なるかな。
なげかしきは、かうやうの人のいとかよはげにて、眉の霜(注9)のをきそふぞ。
元禄七年初夏(注10) 素龍(注11)書
《現代語訳》