2020年3月9日月曜日

【時習26回3−7の会 0800】~「松尾芭蕉:俳諧七部集『あら野』から〔第18回/第161句~170句〕」「03月07日:「浜松八幡宮」→「浜松城」→「浜松市美術館『新所蔵品』展」→「 art-age Gallery 」を巡って」「春の名詩から」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。今日も【時習26回37の会 0800】号をお届けします。
 今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『あら野』から〔第18回/第161句~170句〕」をご紹介する。

161 あけぼのや鶯(うぐひす)とまるはね釣瓶(つるべ)(1)  伊賀 一桐(2)

【意】春の曙の刻限(=夜明け前)、まだ人の居ない撥()ね釣瓶に鶯がとまって鳴いている
【解説】季語:鶯=三春 / 長閑な一情景を詠む
(1)はね釣瓶(つるべ):梃子の原理で、一端に付けた石の重みで釣瓶の水を汲み上げる様にしたもの
(2)京屋一桐(きょうや いっとう(生没年不詳)):伊賀国上野の人 / 後に京都に出た / 通称:権右衛門

162 (うぐひす)にちい(=ひ)さき藪(やぶ)も捨(すて)られじ  津島 一笑(1)

【意】鶯の住処(すみか)は薮の中にあると聞く / 我が家にある小さな薮も鶯の住処になると思えば見捨て難い/ そっと見守ってやれねばなるまいナ
【解説】季語:鶯=三春 / 作者の動物愛護の気持ちが伝わって来る句
(1)若山一笑(わかやま いっしょう(生没年不詳)):尾張国津島の人 / 貞門の俳人として寛文時代から活躍 /『あら野』に入句

163 うぐひすの声(こゑ)に脱(ぬぎ)たる頭巾(づきん)(かな)  同 市柳(1)

【意】「春告げ鳥」たる鶯の声が聞こえた気がして、冬中使って来た防寒用頭巾を脱いだ / すると、確かに鶯の声が聞こえた / 春の到来だナ
【解説】季語:うぐひす=三春 /
(1)市柳(しりゅう(生没年不詳)):尾張国津島の人 /『あら野』に入句

164 鶯になじみもなきや新屋敷(しんやしき)  同 夢々(1)

【意】去年の春が過ぎて建てられた新家屋敷がある / ふと、今春は鶯が遣って来ないことに気がついた / 鶯達も新屋敷という見慣れぬ様子に警戒している様子だ
【解説】季語:鶯=三春 /
(1)夢々(むむ(生没年不詳)):尾張国津島の人 /『あら野』に2句入句

165 うぐひすに水(みづ)(くみ)こぼすあした哉(かな)  梅舌(1)

【意】朝、井戸端で水を汲んでいると鶯の鳴き声が聞こえた / 声のする方角を探していたら、うっかりと桶の水を溢し足許を濡らして仕舞った
【解説】季語:うぐひす=三春 /
(1)梅舌(ばいぜつ(生没年不詳)):尾張国の人 /『あら野』などに入句 / 俳諧の天才少年

166 さとかすむ夕(ゆふべ)をまつの盛(さかり)かな  野水(1)

【意】早春の夕暮れ / 霞棚引く閑かな一村 / 霞が棚引き松の樹影が朧(おぼろ)に翳り、得も言われぬ美しさだ
【解説】季語:かすむ=三春 /
(1)岡田野水(おかだ やすい((?)-1743.04.16(寛保03.03.22):埜水とも / 尾張国名古屋の呉服豪商で町役人 / 通称:佐右次衛門 / 本名:岡田行胤 / 芭蕉が『野ざらし紀行』の旅で名古屋に逗留した(1684)際の『冬の日』同人 / 其の頃、野水は27歳の男盛り / 又、彼は近江蕉門や向井去来等上方の門人との親交も厚かった

167 行々(ゆきゆき)て程(ほど)のかはらぬ霞(かすみ)(かな)  塵交(1)

【意】深い霞が棚引いている / 行けども行けども春霞の様子は少しも変わらない‥
【解説】季語:霞=三春 /風のない春の長閑な一日
(1)塵交(じんこう(生没年不詳)):尾張国の人 /『あら野』などに入句

168 行人(ゆくひと)の簔(みの)をはなれぬ霞(かすみ)かな  冬文(1)

【意】春霞の中を旅人が歩いて行く / 其の姿は遠く霞に沈んで消えゆく様だ
【解説】季語:霞=三春 /
(1)(山本) 冬文((やまもと) とうぶん(生没年不詳)):一説に荷兮の弟と伝えられるが確かでない / 尾張国名古屋の人 /『あら野』などに入句

169 かれ芝(しば)やまだかげろふの一二寸(いちにすん)  芭蕉

【意】芝草がまだ枯れた儘残っている冬枯れの景色の中、陽炎が地上近く僅か一、二寸の高さに揺らめいている
【解説】季語:かげろふ=三春 / 早春の為に陽炎はまだ確りとは立たないでいる様子を「一、二寸」と具体的に表現した処が俳諧

170 かげろふや馬(うま)の眼(まなこ)のとろとろと  傘下(1)

【意】陽炎の立つ野原は暖かさを感じる / 其の暖かさに、馬迄もが、あの大きな眼(まなこ)を眠そうにとろとろとさせている
【解説】季語:かげろふ=三春 /「陽炎は、春の風たえて長閑な空にもえる」が本意
(1)加藤傘下(かとう さんか(生没年不詳)):尾張国名古屋の人 / 通称:治助 /『あら野』、『曠野後集』等に入句

【小生 comment
 次回は、俳諧七部集『あら野』から〔第19回/第171句~180句〕をご紹介する。お楽しみに!

■続いての話題である。先週末0307()は、3ヶ月に一度の補聴器調整に浜松駅前迄行く日だったので、ついでに「浜松八幡宮」と「浜松城」と「浜松市美術館」を巡って来た。

0500分 起床→腹筋2,000
0600分 木刀素振り60
0710分 入浴→朝食
0800分 拙宅発→一般道50 39km
0850分 浜松駅前駐車場着
0900 R補聴器センター
0945分 同所発→徒歩→
1000分 アクトシティ浜松ticket Center
1020分 浜松駅前駐車場発→一般道51.5km/40.5km
1025分 浜松八幡宮着

【浜松八幡宮】

[01]浜松八幡宮鳥居前にて

[02]浜松八幡宮 本殿前にて1
                  
[03]同上2

[04]同上3
                  
[05]浜松八幡宮由緒書

 浜松八幡宮は、八幡宮の御祭神である、品陀和気命((ほむだわけのみこと)=応神天皇)・息長足姫命((おきながたらしひめのみこと)=神功皇后)、白山神社の御祭神である、伊弉諾尊(イザナギノミコト)・伊弉冉尊(イザナミノミコト)に、玉依比売命(たまよりひめのみこと)の五柱を祀る。
 元亀元(1570)06月、徳川家康が岡崎より曳馬(=浜松に改名)へ入城した時には、当社(やしろ)は既に源義家の東征祈願の由緒と鬼門鎮守の氏神としての厚い信仰があり、家康が、天正14(1586)12月、駿府に移る迄当社が祈願所とされた。
 元亀03(1572)12月、三方原合戦に敗れた家康は、天林寺に入り、義俊和尚が案内して当社に逃れ、義家所縁の「楠」の洞穴に潜み、甲州勢の追手を逃れて武運を祈願した時、楠の上に瑞雲立ち昇り、神霊が白馬に跨り、浜松城方面へ飛び去った。家康は〔中略〕勇躍帰城し、〔中略〕武田信玄の入城を防ぐことが出来た。
 此れに拠り、家康開運の社前の楠(添付写真[06][10])を「雲立楠(くもたちのくす)」と呼ぶに至った。
 ~以上、当神宮にあった由緒書(添付写真[05])拠り~

[06]雲立楠1
                  
[07]同上2

[08]同上3
                  
[09]雲立楠の前にて

[10]同上2
                  
[11]颯々(ざざんざ)の松

 938(天慶元)年、当社が現在地に遷座した際、白狐が松の苗木を持参。移植した松が繁茂し「颯々の松」になった。又、「浜から持参した松」から「浜の松」→「浜松」と転じ、此の地の名称の起源になったと伝わる。
 一説では、1432(永享04)年、室町幕府第6代将軍足利義教が富士山を見に下向の際、此の松の樹下にて宴会し「浜松の音は《ざざんざ》(=風に吹かれる松の音)」と謡われて以降、「颯々の松」と呼んだ伝承もある。
 更に又、「曳馬拾遺」に「颯々の松とは野口村の森をいう」とあり、30本余りの群生した松だと記されている。
 当該松林は、当社から東へ約100mの飛び社領地(現・中区野口町)にあり、「濵松名稱起源颯々之松」碑がある。2007(平成19)年、石碑は野口公園に移された。其の後、「颯々の松」は、2011(平成23)03月に当社境内に移され、5代目の松が植栽され現在に至る。

[12]松島十湖(1849-1926)句碑解説
                  
[13]松島十湖句碑

[14]同上にて
                  
1048分 浜松八幡宮発→一般道5 1.5km/42km
1053分 浜松市役所駐車場着

【浜松城】

[15]浜松城をback

[16]浜松城
                  
[17]浜松城天守閣前にて

[18]浜松城天守閣解説
                  
1109分 浜松市美術館着

【浜松市美術館『新収蔵品』展】

[19]浜松市美術館前にて

[20]佐々木信平(1936-2017)『アラムレシュよ永遠に』2005
                  
[21]同『草を積む人』2008

[22]同『夏の日のバルサーナ』2009
                  
[23]同『葛・昇雷 ll

[24]遠藤美香『芝生』
                  
[25]歌川広重『東海道五拾三次之内 日本橋 朝の景』1833年〜(保永堂版)

[26]同『同 舞阪 今切真景』同年〜(同版)
                  
[27]同『同 荒井 渡舟ノ図』同年〜(同版)

[28]同『同 二川 猿ヶ馬場』同年〜(同版)
                  
[29]同『同 吉田 豊川橋』同年〜(同版)

[30]オディロン・ルドン(Odilon Redon 1840.04.20(22?)-1916.07.06)『マドンナ』
                  
【小生 comment
 来週末(0314())に上京して巡る予定だった「東京都」「国立西洋」「東京国立近代」「国立新」「静嘉堂文庫」「中村屋サロン」の6つの各美術館は、現在すべて臨時休館中で、上京することを断念。
 不幸中の幸い、浜松市美術館は開館していた。
 本企画展は、『新所蔵品』展の為、postcardsもない。
 従って、今回ご紹介する作品のうち、佐々木信平氏の作品は一昨(2018)0217日、平野美術館で見た同氏を偲ぶ『佐々木信平回顧展』に展示されたものが数点展示されていたもの(添付写真[20][23]は平野美術館『佐々木信平回顧展』図録より)
 又、歌川広重(1797-1858)は、『東海道五拾三次』1833年〜(保永堂版)が展示されて、当館内での撮影可であった為撮影したものである。
 更に又、ルドンの作品『マドンナ』は、新収蔵品ではないが、修復作業が完了した後の御披露目展示されていた(添付写真[30]は、当館にて postcardを購入し撮影)

 20180225日付【時習26回3-7の会 693】~「平野美術館『佐々木信平回顧展』」~
 http://si8864.blogspot.com/2018/02/26-0693-30217.html

[31]浜松市美術館近くに咲いていた可憐な花1

[32]同上2
                  
1200分 浜松市役所駐車場発→一般道40km/82km
1250 Art Age Gallery

art-age Gallery

[33] Art Age Gallery 案内 postcard

[34]同上 の location〔航空Map
                  
[35]同上 の 外観

 当 Gallery は、小生が現在勤務している施設に絵画教室の先生として来て頂いている田中絵里加さんの circus 関連の絵が展示されていることを聞いて見て来た。

1320分 同所発→一般道5 2km/84km
1330分 帰宅 / 走行距離計84km〔了〕

【後記】今日は、「春暁」に係る、日野草城の名句と、盛唐の詩人孟浩然(689-740)五言絶句をご紹介してお別れする。
 春が昨年よりも一月余り早まっている感じがする。
 昨(2019)0410日の Facebook にて、「春暁」に因んだ日野草城の名句をご紹介した。
 日野草城(1901-56)は、中学時代より「ホトトギス」に投句し、三高時代の1919年には「神陵俳句会」、翌年拡大して「京大三高俳句会」を創成。
 同句会には三高から東大法学部に進学した四Sの一人山口誓子(1901-94)等が参加し、1922年には「京大三高俳句会」を解散、「京鹿子俳句会」を創立。
 日野草城は「ホトトギス」三高の先輩でもある高濱虚子を師と仰ぎ、1921年 若干20歳で同誌の巻頭飾るなどして、1929(29) 同人になった。
 更に、19287月号にて「馬酔木」同人。
 小生、彼が「春暁」の早朝を詠んだ此の句が大好きだ!

春暁や 人こそ知らね 木々の雨  日野草城

【意】まだ外は薄暗い。
 ‥と、庭にある木々に雨が降り注ぐ音が耳許に聞こえて来る。
 春の暁の此の情感ある風情をまだ誰も知らずにいるヨ。
 「春暁」と言えば、孟浩然の此の句はホント素晴らしい!

  春暁   孟浩然(689-740)

 春眠不覚暁
 処処聞啼鳥
 夜来風雨声
 花落知多少

春眠暁(あかつき)を覚えず
 処処啼鳥(ていちょう)を聞く
 夜来(やらい)風雨の声
 花落つること知る多少

【意】夜が明けたことも気付かない程、春の眠りは深く心地良い
 あちこちから鳥の囀りが聞こえて来る
 昨夜は風雨が荒れた音がしていたが
 どれ位の花が散ったことだろう

【小生 comment
 日野草城の名句、孟浩然の五言絶句の傑作、ホント絵画的で素晴らしい。
 昨(2019)0410日と11日に Facebook up した写真と共に此の名句・名詩を堪能されたい。

[36]日野草城の「春暁は人こそ知らね木々の雨」を image した画像
                  
 写真4枚は、いずれも拙宅中庭の雨に濡れた樹々〔20190410日早朝撮影〕

【前書】日野草城の名句と、早朝、雨に濡れる拙宅の庭の樹々を見て一句‥

  春暁や 庭の翠葉 雨に映ゆ  悟空

[37]孟浩然「春暁」をimageした写真

 以下の写真は、孟浩然「春暁」の詩の情景を image した画像〔20190411日午前0520分撮影〕
(左上)(左下):「夜来風雨声 / 花落知多少」を image した画像
(右上)(右下):「春眠不覚暁 / 処処聞啼鳥」を image した画像
 ↑・右上・右下の写真の緑色の枠内は雀である /「啼鳥」を image して撮影
 ↑・猶、iPhone7の camera にて望遠にして撮影したものだが、此の大きさが限界だった(笑)

(1)孟浩然(689-740):湖北省襄陽の人。科挙に及第出来ず、各地を放浪。鹿門山(ろくもんざん)に隠棲もした。40歳頃、都長安に出て、王維(701-61)や張九齢(678-740)と親交。740年 背中に出来たおできが悪化して襄陽にて死去。後年、王維が襄陽を訪れ、彼の死を悼み「孟浩然を哭す」という詩を作っている。
 又彼は、前《会報》にてご紹介した韋応物と同様、自然を詠んだ詩人。彼の親友でもある王維、及び、柳宗元ら3人と共に「王孟韋柳(おう-もう--りゅう)」と称された風流人であった。

 では、また‥〔了〕

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