今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『あら野』から〔第19回/第171句~180句〕」をご紹介する。
171
水仙(すいせん)の見る間(ま)を春に得(え)たりけり 路通(注1)
【意】水仙の花の時期は、当時は旧暦の11月 / 慌(あわ)ただしい師走・正月が過ぎ春を迎えた頃、水仙の花を愛でる余裕が見る者にも漸く生まれる
【解説】季語:春=春
/「水仙」は晩冬の季語(注1)八十村路通(やそむら ろつう(1649(?)-1738(元文03)年(享年90歳))):八十村氏 / 露通とも / 近江国大津出身 / 三井寺はじめ出生地に諸説あり / 放浪行脚の乞食僧侶で詩人 / 後に還俗 / 1685(貞亨02)年春 蕉門に入門 / 1688(貞亨05)年頃より深川芭蕉庵近くに居住した様だ / 1689(元禄02)年 路通は『奥の細道』に、当初芭蕉の同行者とされていたが曾良に変更された(←変更理由不明)が、彼は敦賀で芭蕉を出迎え大垣迄同道 / 其の後、1690.02.11(元禄03.01.03)迄、京・大坂で芭蕉と生活を共にしている
172
蝶鳥(てふとり)を待(まて)るけしきやものゝ枝(えだ) 荷兮(注1)
【意】既に木々は、枝々の芽が吹き終え葉も伸び春の装いを整えた
/ 後は、舞う蝶々や囀る鳥たちが遣って来るのを待つばかりだ
【解説】季語:蝶=春
/(注1)山本荷兮(やまもと かけい((?)-1716.10.10(享保01.08.25(享年69歳))):本名:山本周知 / 尾張国名古屋の医者 / 通称:武右衛門・太一・太市 / 別号:橿木堂・加慶 / 貞亨元(1684)年以来の尾張名古屋の蕉門の重鎮 / 後年、芭蕉と(とくに「軽み」等で)意見会わず蕉門から離れた / 元禄06(1693)年11月出版の『曠野後集』で荷兮は、其の序文に幽斎・宗因等貞門俳諧を賞賛のcommentを掲載し、蕉門理論派・去来等から此れを強く非難されてもいる / 彼の蕉門時代の足跡に、『冬の日』、『春の日』、『阿羅野』等の句集編纂がある
當座題(注1)
(注1)當(=当)座題:即題 / 兼題に対して、当日即席に題を示して詠作を求めるもの
/ 此処では、「さし木」以下、「接木(つぎき)」「椿」「春雨」「白尾鷹」迄の各題を指すか‥
さし木
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つきたかと兒(ちご)のぬき見るさし木(き)(注1)哉(かな) 舟泉(注2)
【意】(挿し木をして数日経ち‥)根が着いたかと、子供が抜いて見て仕舞った
【解説】季語:さし木=仲春
/ 実は、大人も此の子供と同じ衝動にかられるものだ、ということを言外に述べている(注1)さし木:「挿し木」/ つまり生きている小枝を土中に挿して根が出て活着するのを待つ
(注2)永田舟泉(ながた しゅうせん(1654(承応03)(?)-1737(元文02).10.27(享年84歳))):三河国挙母(ころも(現・豊田市挙母町))生まれ / 尾張国名古屋の人 / 通称:六兵衛 / 1687(貞亨04)年 蕉門に入門 /『あら野』・『曠野後集』等に入句
接木(つぎき)
174
つま(注1)の下(した)かくしかねたる継穂(つぎほ)(注2)かな 傘下(注3)
【意】接木をしたが、其の接ぎ穂(=木の丈(たけ))は短く、軒端のつま(=端(つま・はし))の下にも届かない程短い寸法だ
/ 萬葉集に「はつせの弓槻(ゆつき)が下に隠せるそのつま」と妻を隠すことを詠うが、其の妻ならぬ軒の端(つま)の下をも隠すに至らないことよ、と意味深長な句
【解説】季語:接木(つぎき)=仲春 /(注1)つま:軒(のき)の端(つま)/軒端(のきば)/軒の端
(注2)継穂(つぎほ):台木となるもに対して、接(つ)ぐ苗木をいう /
(注3)加藤傘下(かとう さんか(生没年不詳)):尾張国名古屋の人 / 通称:治助 /『あら野』・『曠野後集』等に入句
椿
175
暁(あかつき)の釣瓶(つるべ)にあがるつばきかな 荷兮
【意】夜明け前、其の日一番に汲む井戸水は「井華水・井花水(せいかすい)(=一日のうち最も清冷とされた水)」として珍重された / 今朝早くに汲んだ井戸桶の中に椿花が一輪入っていた /「椿は8千年の寿命を保つ」とされるというから、此れは吉兆だナ
【解説】季語:つばき=三春
/
同(椿)
176
藪(やぶ)深く蝶(てふ)氣(き)のつかぬ(注1)つばき哉(かな) 卜枝(注2)
【意】薮の中深く椿花が咲いている
/ 薮が深いこともあるが、蝶も野暮な奴で、其の椿花がひっそり咲いていることに気付かない
【解説】季語:つばき=三春
/ 椿花を藪中に隠れ住んでいる麗しい女性として擬人化している(注1)気のつかぬ:此処では「気が利かない」「配慮が足りない」「粗雑・野暮だ」という意味合いがある
(注2)卜枝(ぼくし(生没年不詳)):近江国の人 / 後に尾張国津島の蓮花寺に寓居していたと伝わる / 貞門に入門後、蕉門に / 俳号は遠方とも /『あら野』などに入句
春雨
177
はる雨(さめ)はいせの望一(もいち)(注1)がこより哉(かな) 湍水(注2)
【意】春雨が静かに降っている
/ 此の春雨は木々や草花の成長を促して役立っているのだヨ /伊勢国山田の盲目の俳人、望一が日頃から、冊子の綴じ紐や髪を束ねるために使用された「こより」を作り蓄え世の中に役に立っているのと同じ様に‥
【解説】季語:春雨=三春
/ 望一の懐かしい人柄を偲び、春の趣を賞美した作品(注1)望一(もいち):伊勢国山田の俳人 / 1643(寛永20)年没(享年 58歳) / 勾当(注3)となる / 寛永年代の俳諧の指導的役割を果たしたという
(注2)湍水(たんすい)(生没年不詳):尾張国の人 /『あら野』などに入句
(注3)匂当(こうとう):盲人の官名の一つ /「検校(けんげう)」「別当」の次位、「座頭(ざとう)」の上位
同(春雨)
178
春の雨(あめ)弟(おとうと)どもを呼(よび)てこよ 鼠彈(注1)
【意】春雨は長いから退屈で仕方が無い / ひとつ弟たちを呼び集めてこの退屈さを吹き飛ばそう
【解説】季語:春の雨=三春 /
(注1)鼠弾(そだん(生没年不詳)):尾張国名古屋浄土寺の僧侶 /『あら野』・『あら野後集』・『其袋』等に入句
白尾鷹(しらをのたか)(注1)
(注1)白尾鷹(しらをのたか):鷹狩のときにハヤブサの尾に他の鳥の白い尾を継いで使うこと
179
はやぶさの尻(しり)つまげたる(注1)白尾(しらを)哉(かな) 野水(注2)
【意】白尾鷹(しらをのたか)の姿が、何だか尻端折りした人の姿に何処か似ているヨ
【解説】季語:白尾(=白尾鷹)=春 /(注1)尻つまげたる:着物の裾をまくりあげて落ちない様にすること / 尻っぱしょり(尻端折り)ともいう
(注2)岡田野水(おかだ やすい((?)-1743.04.16(寛保03.03.22):埜水とも / 尾張国名古屋の呉服豪商で町役人 / 通称:佐右次衛門 / 本名:岡田行胤 / 芭蕉が『野ざらし紀行』の旅で名古屋に逗留した(1684年)際の『冬の日』同人 / 其の頃、野水は27歳の男盛り / 又、彼は近江蕉門や向井去来等上方の門人との親交も厚かった
180
蛛(くも)の井(ゐ(=い))(注1)に春雨(はるさめ)かゝる雫(しづく)かな 奇生(注2)
【意】煙る春雨の水滴が蜘蛛の巣に白く玉を貫く情景
/
【解説】季語:春雨=三春
/ 蜘蛛の巣に昆虫ではなく、雨の滴(しずく) が「かゝる」処が俳諧(注1)蛛の井:正しくは「蜘蛛の網(い)」/ 蜘蛛の井桁状の巣のこと
(注2)奇生(きせい):人物については詳細不明
【小生 comment】
次回は、俳諧七部集『あら野』から〔第20回/第181句~190句〕をご紹介する。お楽しみに!
■続いての話題である。
今、世界中、特に欧州が新コロナウィルス肺炎の災禍に襲われ pandemic と言ってもいい状況にある。一日も早い終息を迎えることを祈るばかりだ。
しかし、時の移ろいは確実に進んでいる。
当地豊橋も、先週辺りから急に暖かくなり、愈々本格的な春の到来を実感した。
生憎、此の phrase を記した日は、朝から雨降りだったが、「春雨」だと思えば気分は滅入らずに済む。
今時節は、二十四節気でいう「啓蟄」。週末からは「春分」で、更に「清明」の時節へと続いていく。
晩唐の詩人杜牧が「清明の時節雨紛紛」と詠った「清明」は後日ご紹介するとして、今日は「桃李の花」と詠った初唐の詩人劉希夷(りゅうきい)(651-680?)の『代悲白頭翁(白頭を悲しむの翁に代る)』をご紹介したい。
小生、劉希夷のこの詩が大好きで、拙宅を建てた2003(平成15)年、中庭に最初に植えたのが「花桃」と「李(スモモ)」である。
桃李の花の満開の時期は半月余り先なので、昨年春、拙宅に咲いた桃李花をご覧頂き乍ら、此の七言古詩の名詩の名調子を味わって頂ければと思う。
七言句×26行=182字と量こそ嵩むが、「年年歳歳‥」や「紅顔の美少年」と人口に膾炙した名句が並び、一気呵成に詠み通せる傑作である。
[01]2019年03月27日 拙宅に中庭に咲いた 紅い花桃の花と白い李(スモモ)の花
【01】洛陽城東桃李花 /【02】飛來飛去落誰家
【03】洛陽女兒惜願色 /【04】行逢落花長嘆息【05】今年花落顔色改 /【06】明年花開復誰在
【07】已見松柏摧爲薪 /【08】更聞桑田變成海
【09】古人無復洛城東 /【10】今人還對落花風
【11】年年歳歳花相似 /【12】歳歳年年人不同
【13】寄言全盛紅顔子 /【14】應憐半死白頭翁【15】此翁白頭眞可憐 /【16】伊昔紅顔美少年
【17】公子王孫芳樹下 /【18】清歌妙舞落花前
【19】光祿池臺開錦繡 /【20】將軍樓閣畫神仙
【21】一朝臥病無相識 /【22】三春行樂在誰邊
【23】宛轉蛾眉能幾時 /【24】須臾鶴髪亂如絲【25】但看古來歌舞地 /【26】惟有黄昏鳥雀悲
白頭(はくとう)を悲しむの翁(おきな)に代(かわ)る
【01】洛陽城東桃李花(らくよう じょうとう とうりのはな) /【02】飛び来たり飛び去って誰(た)が家にか落つる
【03】洛陽の女児(じょじ) 顔色(がんしょく)を惜しみ /【04】行(ゆくゆ)く落花(らっか)に逢(あ)いて長嘆息(ちょうたんそく)す【05】今年(こんねん)花落ちて顔色(がんしょく)改まり /【06】明年(みょうねん)花開いて復(ま)た誰(たれ)か在(あ)る
【07】已(すで)に見る 松柏(しょうはく)の摧(くだ)かれて薪(たきぎ)と為(な)るを /【08】更に聞く 桑田(そうでん)の変(へん)じて海と成るを
【09】古人(こじん)復(ま)た洛城(らくじょう)の東(ひがし)に無く /【10】今人(こんじん)還(かえ)って対す落花(らっか)の風
【11】年年歳歳(ねんねんさいさい) 花相(はなあ)い似たり /【12】歳歳年年(さいさいねんねん) 人同じからず
【13】言(げん)を寄す 全盛の紅顔子(こうがんし) /【14】応(まさ)に憐れむべし 半死(はんし)の白頭翁(はくとうおう)【15】此(こ)の翁(おう) 白頭(はくとう) 真(しん)に憐れむ可(べ)し /【16】伊(こ)れ昔 紅顔の美少年
【17】公子王孫(こうしおうそん)と芳樹(ほうじゅ)の下(もと) /【18】清歌妙舞(せいかみょうぶ)す 落花(らっか)の前(まえ)
【19】光祿(こうろく)の池台(ちだい) 錦繡(きんしゅう)を開き /【20】将軍の楼閣 神仙を画(えが)く
【21】一朝(いっちょう) 病に臥(ふ)して 相(あ)い識(し)る無し /【22】三春(さんしゅん)の行楽
誰(た)が辺(へん)にか在(あ)る
【23】宛転(えんてん)たる蛾眉(がび) 能(よ)く幾時(いくとき)ぞ /【24】須臾(しゅゆ)にして鶴髪(かくはつ)乱れて糸の如し【25】但(た)だ看(み)る 古来 歌舞(かぶ)の地 /【26】惟(た)だ 黄昏(こうこん) 鳥雀(ちょうじゃく)の悲しむ有るのみ
※ ※ ※
《意》
【01】洛陽の街の東に咲く桃とスモモの花が /【02】風に誘われてあちらこちらに散っている
【03】洛陽の娘達はその美しい容貌を愛(いつく)しみ /【04】道すがら、移ろう春に散る花を見て長い溜息を漏らす
【05】今年花が散り春が過ぎれば人の容貌も衰えてゆく /【06】だから翌年再び花開く時、誰が変わらずそれを見ることが出来ようか‥
【07】我々は既に見て来ている、常緑の松や柏の木がやがて薪にされて仕舞うことを /【08】又こうも聞く、桑畑が海にさえ変わって仕舞うということを
【09】昔この洛陽の東でこの花を眺めた人は既に(この世に)いない /【10】今の世の人々がこうして風に舞う落花を眺めているのだ
【11】年々歳々、花は同じ様に咲き乍ら /【12】歳々年々、それを見る人々は変わるのだ
【13】青春真っ只中にある若人達よ、思いやってくれまいか /【14】此の半死の白髪頭の老人のことを【15】此のの痛ましい白髪の老人も /【16】若い時代は紅顔の美少年だったのだよ
【17】公子や王孫達と香しい樹々の下で遊び /【18】舞い落ちる花の前で清らかに歌い舞ったのだった
【19】前漢の九卿王根(おうこん)邸にあった池の台(うてな)の様に錦を張り巡らせた宴に臨んだり /【20】後漢の大将軍梁冀(りょうき)の様に神仙を描いた豪勢な邸宅にも参上したのだよ
【21】しかし一たび病に臥すと知る人が誰もいなくなって仕舞った /【22】あの華やかで楽しかった日々は何処へ行って仕舞ったのか
【23】なだらかで美しい(=宛転たる)眉‥その美しさもいつ迄持つだろうか
/【24】忽ち(=須臾にして)鶴の白い羽の様に白髪となり糸の様に乱れる時がやって来るのだ【25】御覧なさい、昔華やかに歌い舞った辺りは /【26】今はただ黄昏の光の中、小鳥たちが哀しく囀っているのみである‥(了)
【
小生 comment 】
劉希夷(りゅうきい)(651-680?)」の詩【代悲白頭翁(白頭を悲しむの翁に代る)】は、本当に素晴らしい詩である。人は、皆「生・老・病・死」を経て一生を全うする。
此の詩は、其の「人生の儚さ」を独りの「白頭翁」に表象して詠んだ名詩である。
人口に膾炙した此の名詩の26句・182字を「座右の銘」の様に、小生、常に傍らに置き、詠み返して行きたい。
※ ※ ※
今年は、03月05日〜19日が二十四節気でいう「啓蟄」。
そして、03月20日〜04月03日の「春分」、04月04日〜18日「晴明」、04月19日〜05月04日「穀雨」、05月05日からの「立夏」へと続く。今日は、「春分」の次の時節を題とした杜牧(803-53)の『清明』をご紹介する。
小生、此の詩も大好きな漢詩である。
今日も暫しお付き合い下さい。
実に絵画的な漢詩である‥
小糠雨に煙る農村地帯‥牧童が指さす遥か彼方に薄紅色した杏の花が咲いている村が見える‥実に綺麗だ‥
清明 杜牧(803-52)
清明時節雨紛紛
路上行人欲断魂借問酒家何處有
牧童遙指杏花村
清明の時節
雨紛紛
路上の行人
魂(こん)を断たんと欲す借問す 酒家は何れの処にか有る
牧童遥かに指さす 杏花(きょうか)村
【意】
今、春の盛りの清明節に、折から小糠雨がしきりに降っているその雨は、道行く旅人である私の心をすっかり滅入らしてしまった
「酒を売る店は何処にあるの?」
私に尋ねられた牛飼いの子が遥か先を指さした
その彼方には、薄紅色した杏(あんず)の花咲く村が見える‥
↓↓2013年03月23日付【時習26回3-7の会 0438】ご参照↓↓
http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/26-043803170309.html
[02]杜牧「清明」を
image した画像1
↑左上(1)から時計回りに(2)(3)(4)
(1)「清明時節雨紛紛」を
image した画像(2)「路上行人欲断魂」を image した画像
(3)「借問酒家何處有」を image した画像
(4)「牧童遙指杏花村」を image した画像
[03]杜牧「清明」を image した画像1
↑左上(1)から時計回りに(2)(3)(4)
(1)「清明時節雨紛紛」を
image した画像(2)「路上行人欲断魂」を image した画像
(3)「【牧童遙指】‥ 」を image した画像
(4)「 ‥‥【杏花村】」を image した画像
[04]杜牧「清明」を
image した画像1
↑左上(1)から時計回りに(2)(3)(4)
(1)
2013年03月下旬、拙宅中庭に咲いた杏花(2)「 ‥‥【杏花村】」を image した画像
(3)「 ‥‥【杏花村】の杏花」を image した画像1
(4)同上2
【後記】今日は、日本人のrootsについて少し考察してみてお別れする。
日本人はいつ頃何処から来たのだろう? 換言すれば、日本国の祖に当たる神武天皇に相当する人はいったいいつの時代に何処から遣って来た人なのだろう?
日本の、そして大和国の起源を研究することはロマンを感じる。
日本から何千キロも離れた、中国・カザフスタン・ウズベキスタン・タジキスタンに囲まれた中央アジアのキルギス共和国に住むキルギス人は、日本人にそっくりなことで、近年注目を集めている(添付写真[05]~[08]の4枚)。
添付写真[09]は、前掲添付写真[08]の左側の男性が日本人政治家石破茂氏に酷似していたので並べてある。
[05]キルギス人の少女と幼子
[06]キルギス人の少女1
[07]同上2
[08]キルギス人の成人男性二人
[09]同じく[08]写真左側の男性と、彼に酷似している石破茂代議士
ネパール隣国のブータン人も、昔から日本人と顔つきと着物迄似ていると云われている(添付写真[10][11])。
AKB48みたいな女性たちはシベリアのヤクート人(添付写真[12])ミャンマー国境に近い北東インド地方の女性二人(添付写真[13])
みんな日本人とそっくりだ!
此処からは、小生の直感に拠る私見である。
弥生人以降は、中国江南地方や、朝鮮半島から蒙古・満州・朝鮮族が渡来。
ヤクート人は、アイヌ人と同根のオホーツク文化圏の人たち。
将又、キルギス人、ブータン人、北東インドの人たちは、縄文時代以前に、日本の縄文人と同じ系統から分化したのではなかろうか?
[10]日本の作務衣に似た装束ブータン人の成人男性二人
[11]ブータンのワンチュク国王夫妻
[12] AKB48風のシベリアのヤクート人の女性たち
[13]ミャンマー国境に近い北東インド地方の女性二人
【小生 comment 】
事程左様に、日本人の起源についてあれこれ想像してみるのも楽しいものである。
では、また‥〔了〕
*ブログへは【0626】号迄のback numberはURL:http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog←此処をclickして下さい
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