2019年12月5日木曜日

【時習26回3−7の会 0786】~「松尾芭蕉:俳諧七部集『あら野』から〔第05回/第31句~40句〕」「11月09日:東京の2つの史跡&8つの美術館を巡って~【第4回】東京国立近代美術館『鏑木清方~幻の《築地明石町》特別公開~』→郷さくら美術館東京『「空-模様」日本画展』を巡って・見て」「11月24日:愛知県芸術劇場コンサートホール『スウェーデン放送合唱団に拠る Mozart & Fauré の“2大 Requiem ” by 広上淳一指揮京都市交響楽団』演奏会を聴いて」「12月03日:アクトシティ浜松大ホール『五嶋龍(Vn)&ワレリー・ゲルギエフ指揮マリンスキー歌劇場管弦楽団演奏会』を聴いて」「俳人『四T』前の二人~〔第2回〕杉田久女」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。今日も【時習26回37の会 0786】号をお届けします。
 今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『あら野』から〔第05回/第31句~40」をご紹介する。

   杜宇(ほととぎす) 二十句(1)
 
  ほとゝぎすを飼(かひ)をく(=おく)ものに求(もとめ)()て放(はなち)やるときに、
 
(1)二十句:20句と言い乍ら、実際は19句しかない()
 
31 鳥籠(とりかご)の憂目(うきめ)()つらん郭公(ほととぎす)  季吟(1)
 
【意】ホトトギスよ、鳥籠に囚われて籠の「網の編み目」ならぬ「憂き目」を見たことだろう
【解説】季語:郭公=初夏 /【前書】は、「ホトトギスを飼っていた者から買い取り、それを解き放つ時に読んだ句」の意
(1)北村季吟(きたむら きぎん(1624(元和)-1705(宝永02).06.15))(享年82):江戸時代の俳人・歌人/号:拾穂軒・湖月亭等 / 近江国野洲郡の医家に生まれる / 16歳で上京、安原貞室に師事し俳諧を学ぶ / 19歳で貞室の師 松永貞徳に入門 / 25歳で俳書『山の井』出版 / 新玉津神社宮司(60)、幕府の歌学所(66)入所「法印」に昇進 /『徒然草文段抄』・『源氏物語湖月抄』・『枕草子春曙抄』・『八代集抄』・『万葉集集穂抄』等古典注釈に注力 / 著書『俳諧埋木』は、俳諧の論書 / 芭蕉は、旧主(藤堂)蝉吟の縁故で季吟に入門し、季吟の秘伝・免許皆伝の証『埋木』授与されたと云われている
 
32 目には青葉(あをば)山ほとゝぎす初(はつ)がつほ(=がつを)  素堂(1)

【意】目には樹々の新緑、耳には山の時鳥の声が聞こえ、口にするのは旬の「初鰹」だ / 何と有難いことか!
【解説】季語:ほととぎす=初夏 /此の句は知らない人はいない程、人口に膾炙した【素堂の代表作】/1678(延宝06)年刊「江戸新道」に初出/【前書】「鎌倉にて」「鰹」は徒然草以来「鎌倉名物」
(1)山口素堂(やまぐち そどう(1642(寛永19).05.05-1716(享保元)08.15))(享年75):甲州白州巨摩郡教来石山口(現山梨県北杜市白州町)の人() / 甲府魚町で家業の酒造業を営むも、家督を弟に譲り江戸に出、漢学を林春斎に学ぶ / 芭蕉と家が近く親交を結んだ / 儒学・書道・漢詩・能楽・和歌にも通じた当時のインテリ / 通称:勘兵衛 / 俳号:素仙堂・其日庵・来雪・松子・蓮池翁等/ 字:子晋・公商 / 蓮を好み「蓮池翁」と称された / 延宝4年『江戸両吟集』、延宝6年『江戸三吟』を芭蕉との合作で発表
 
33 いそがしきなかに聞(きき)けり蜀魄(ほととぎす)  釣雪(1)
 
【意】ホトギスの声を聴こうと思い乍らも、いつも忙しさの中にいて確り聴いたということがないのだ
【解説】季語:蜀魄(ほととぎす)=初夏 /
(1)大橋釣雪(おおはし ちょうせつ)(生没年不詳):尾国張名古屋の大橋左衛門/『あら野』などに入句
 
34 蝋燭(らふそく)のひかりにくしやほとゝぎす  越人

【意】夜空を鳴き乍ら渡っていく時鳥の声を味わおうと思うのだが、ロウソクの明るい光で心を集中することが出来なかった
【解説】季語:ほととぎす=初夏
 
35 おひし子()の口(くち)まねするや時鳥(ほととぎす)  津島松下(1)

【意】頭上を時鳥が鳴き乍ら渡って行った / すると背中に背負った子供がその声を真似した
【解説】季語:時鳥=初夏 /「おひし子」は負いし子(=負われし子)、即ち「背中に負ぶわれた幼子」のこと
(1)松下:尾張津島の人
 
36 (あと)や先(さき)()のつく野邊(のべ)の郭公(ほととぎす)  重五(1)
 
【意】茫漠たる野原を行くと、上空を時鳥が鳴いて過ぎる声がした / さて、先に行ったのか後ろに行ったのか
【解説】季語:郭公=初夏 /
(1)加藤重五(かとう じゅうご(?-1717(享保02).06.13)(享年64):加藤善右衛門/尾張国名古屋の材木問屋の豪商/『冬の日』の同人
 
37 ほとゝぎすどれからきかむ野()の廣(ひろ)き  柳風(1)
 
【意】茫漠たる野を横に飛んでいく時鳥 / 此の広い野の何処迄飛んで行くのか尋ねたいのだが
【解説】季語:ほとヽぎす=初夏
(1)柳風(りゅうふう):詳細不詳(生没年不詳)
 
  ある人のもとにて発句(ほつく)せよと有(あり)ければ
 
38 ほとゝぎすはゞかりもなき烏かな  鼠弾(1)
 
【意】ホトトギスは一声鳴いて空を横切って行ったが、もう聞こえない / 処が鴉はと言えば遠慮なく鳴く / 私めも鴉の様に、「発句せよ」と求められれ直ぐに一句吟じて仕舞う
【解説】季語:ほとヽぎす=初夏
(1)鼠弾(そだん)(生没年不詳):尾張国名古屋浄土寺の僧侶/『あら野』・『あら野後集』・『其袋』等に入句
 
39 (はれ)ちぎる空(そら)鳴行(なきゆく)やほとゝぎす  落梧(1)
 
【意】確り腫れ上がった空を時鳥が鳴き乍ら渡っていく / 珍しく確りと其の姿さえ見える
【解説】季語:ほとヽぎす=初夏 /「晴ちぎる」は「褒めちぎる」と同様の俗語で、「すっかり晴れ上がる」の意
(1)安川落梧(やすかわ らくご(?-1691(元禄04).05)(享年40)1688(貞亨05)年以来の美濃の蕉門 / 通称助右衛門 / 呉服商を営む萬屋(よろずや)の主人 /『笈日記』等に入集 /『瓜畠集』を編集するも病魔に倒れ未完に / 長良川に近い稲場山城の山陰に別邸を構え、芭蕉は『笈の小文』の旅の途次、此処に立ち寄った /「奥の細道」に出立する直前の16890512(元禄020323) 芭蕉は落梧宛に紙一束受贈の礼状を書いた / 此れが「奥の細道」出発の日付確定に貢献したという
 
40 蚊屋(かや)(くさ)き寝覚(ねざめ)うつゝや時鳥(ほととぎす)  一髪(1)
 
【意】夢うつつの中で時鳥の声を聞いた様に思うが、現実(=うつつ)の中では蚊帳の匂いだけが感じられる
【解説】季語:時鳥=初夏
(1) 一髪(いっぱつ)(生没年不詳):美濃国岐阜の人/『あら野』等に多数入句するも詳細不明
 
【小生 comment
 次回は、俳諧七部集『あら野』から〔第06回/第41句~50句〕をご紹介する。お楽しみに!
 
■続いての話題は、「1109日:東京の2つの史跡&8つの美術館を巡って~【第4回】東京国立近代美術館『鏑木清方~幻の《築地明石町》特別公開~』郷さくら美術館東京『「空-模様」日本画展』を巡って・見て」をお届けする。
 
1402分 東京国立近代美術館着
 
【東京国立近代美術館『鏑木清方~幻の《築地明石町》特別公開~』】
 
 当美術館の今回の注目企画展は、『鏑木清方~幻の《築地明石町》の44年ぶりの特別公開~』だ。
 
[01]東京国立近代美術館前にて

[02]同館前の本企画展看板前にて
                  
[03]同館入口『鏑木清方~《築地明石町》』ポスター前にて

[04]原田直次郎(1863-99)【重文】『騎龍観音』1890
                  
[05]中村彝(1887-1924)【重文】『エロシェンコ氏の像』1920

[06]藤田嗣治(1886-1968)『五人の裸婦』1923
                  
[07]佐伯祐三(1898-1928)『ガス灯と広告』1927

[08]中沢弘光(1874-1964)『夏』1907
                  
[09]和田三造(1883-1967)【重文】『南風』1907

[10]荻原守衛(1879-1910)『女』1910
                  
[11]梅原隆三郎(1888-1986)『桜島()1935

[12]奈良美智(1959- )Harmless Kitty1994
                  
[13]鏑木清方(1878-1972)『築地明石町』1927

[14]同『築地明石町』〔拡大図(部分)
                  
[15]同『新富町』1930

[16]同『浜町河岸』1930
                  

【小生comment
 [04]原田直次郎『騎龍観音』~[12]奈良美智『Harmless Kitty』の9点は、撮影可の作品で、久しぶりに見ることが出来、嬉しかった。
 鏑木清方『築地明石町』は、過日、現在『鏑木清方』展を開催中の名都美術館責任者の小塩さんから教えて頂いたもので、確かに素晴らしい傑作だった。
 
1450分 東京国立近代美術館発徒歩
1455分 竹橋東京メトロ東西線→1501分九段下東京メトロ半蔵門線
1517分 渋谷徒歩→1524分東横線渋谷発東横線
1528分 中目黒着徒歩
1540分 郷さくら美術館東京着
 
[17]目黒川に架かる別所橋


【郷さくら美術館東京『「空-模様」日本画展』】
 
[18]郷さくら美術館東京前にて1
                  
[19]同上2

[20]齋藤満栄『管菊』2006
                  
[21]那波多目功一『昇陽菊図』1999

[22]中島千波『峻嶺 マッターホルン』2014
                  
[23]下田義寛『モン・サン・ミッシェル』2000

[24]土屋礼一『夕映』
                  
[25]平松礼二『路・かまくら 装秋曲』1993

[26]水戸 童『焼陽富士』
                  
[27]竹内邦夫『落日の景』1992

[28]伊達良『湿原』1994
                  
[29]仲 裕行『大理三塔』

[30]林潤一『富士暮色』2005
                  
[31]岩永てるみ『パリの休日』


【小生comment
 本展は、『「空-模様」日本画展』と題する企画展。
 日本画の水準も高く、美しい風景がのon paradeで万読出来る展覧会だった。
 
■続いての話題は、1124()前日に続いて名古屋へ、愛知県芸術劇場コンサートホールにて開催された、「スウェーデン放送合唱団に拠る Mozart & Fauré “2 Requiem ” by 広上淳一指揮京都市交響楽団」演奏会を聴いて来たことについてお伝えする。
 其の日は此の演奏会だけなので、今朝は昨日より更にゆっくり起きた。

0600分 起床腹筋2000
0700 2.5kgの 木刀の素振り
0815分 入浴等
0920分 拙宅の庭木の剪定(2時間)
1120 brunch
1200分 伐採した枝等の片付け(1時間)
1300分 入浴
1345分 拙宅発自転車
1415分 豊橋発名鉄特急→1503分 金山 1512地下鉄名城線→1519分 栄着
1525分 愛知県芸術劇場コンサートホール着
 
【愛知県芸術劇場コンサートホール『スウェーデン放送合唱団 by 広上淳一指揮京都市交響楽団/Mozart & Fauré 作曲2大 Requiem”』演奏会】
 
[32]愛知県芸術劇場コンサートホール入口にて1
                  
[33]同上2

[34]本演奏会 program
                  
[35]スウェーデン放送合唱団
                  
[36]本演奏会leaflet & ticket

[37]演奏会前のコンサートホール1
                  
[38]同ホールホワイエにて

[39]広上淳一指揮京都市交響楽団
                  
[40]ケイト・ロイヤル(S)() & アリョーナ・アブラマヴァ(MS)()

[41]オリヴァー・ジョンストン(T)() & ミラン・シリアノフ(Br)()
                  
[42]演奏会前のコンサートホールホール2


【小生comment
 演奏曲目は、名曲 Mozart(1756-91) & Fauré(1&45–924) 作曲の Requiem
 本当に気品があって、荘厳さにも増して美しい調べを聴くことが出来た素晴らしい演奏会だった。
 特に Fauré Requiem は、学生時代に聴いた時のと何処か違うナと思った通り、本演奏会で使用されている楽譜は、1893年以前に作成され失われていた第2稿をジャン・ミシェル・ネクトゥーとロジェ・ドゥラージュが改訂・復元したもので、1988年初演、1994年出版されたもの。
 嘗て、一般に知られていた2管編成の orchestra に拠る楽譜は、1900年になってから Fauré 以外の者に拠って恐らく出版社の希望で改編された様だ。
 今日も、昨日に続き気品に満ちた素晴らしい至福の matinée のひとときを過ごすことが出来た。
 
1821分 愛知県芸術劇場コンサートホール発→1829分 栄発地下鉄名城線→1834分着金山 1837分発名鉄→ 1926分 豊橋着
2002分 帰宅〔了〕
 
■続いては、1203()にアクトシティ浜松大ホールにて開催された五嶋龍(Vn)とワレリー・ゲルギエフ指揮マリンスキー歌劇場管弦楽団の演奏会を聴いて来たことについてお伝えする。
 其の日の演奏曲目は以下の通り
 
[1]Tchaikovsky : Fantasy Overture “Romeo & Juliet”
[2] : Violin Concerto in D Major Op.35
〔休憩〕
[3]Debussy : 牧神の午後への前奏曲
[4]サン=サーンス : あなたの声に私は心を開く〜歌劇『サムソンとデリラ』(MS)ユリア・マトーチュキナ
[5]Verdi : 呪われし美貌〜歌劇『ドン・カルロ』(MS)ユリア・マトーチュキナ
[6]Tchaikovsky : 手紙の場〜歌劇『エフゲニ・オネーギン』(S)イリーナ・チュリロワ
[7]Debussy : 交響詩『海』
 
[43]本演奏会leaflet & ticket
                  
[44]アクトシティ浜松大hall入口にて1

[45]同上2
                  
[46]本演奏会program表紙

[47]本演奏会programから演奏曲目一覧
                  
[48]五嶋龍

[49]ワレリー・ゲルギエフ
                  
[50](S)イリーナ・チュリロワ()(MS) イリーナ・チュリロワ()

[51]演奏会終了後、プログラムに五嶋龍から貰ったサイン
                  
[52]演奏会前の会場1

[53]同上2
                  

【小生comment
 皆素晴らしい演奏会だった。
 Tchaikovskymellowでロマンティックな幻想ロミオとジュリエットに始まり、五嶋龍をSolistに迎えて同じくTchaikovskyの名曲Violin Concerto
 特に此の五嶋龍のViolin演奏会は聴く者を間違いなく魅了した!
 此処で20分間の休憩が入った。
 3曲目の Debussyの牧神の午後への前奏曲もGood!
 4曲目の サン=サーンス : あなたの声に私は心を開く〜歌劇『サムソンとデリラ』、5曲目の Verdi 呪われし美貌〜歌劇『ドン・カルロ』は、メゾ・ソプラノのユリア・マトーチュキナの独唱、そして、6曲目の Tchaikovsky 手紙の場〜歌劇『エフゲニ・オネーギン』は、ソプラノのイリーナ・チュリロワの独唱はいずれも魅力的だった!
 7曲目 Debussy 交響詩『海』も演奏会の締め括りに相応しい素晴らしい演奏!
 1900分開演2200分に終了の 所要時間3時間のお得なconcertだった。
 
■さて、「四T」より前に活躍した近代俳句に於ける最初期の二人の女性俳人として、前号にて先ず一人目として竹下しづの女をご紹介させて頂いた。
 今回は、其の【第2回】として、もう一人の女流俳人、杉田久女(1890-1946)をご紹介させて頂く。
 
[54]杉田久女1

[55]同上2
                  
[56]杉田久女()と杉田宇内()

[57]晩年の杉田久女
                  

 杉田久女(本名:久)の略歴は以下の通り

1890(明治23) 0530日 大蔵省書記官・赤堀廉蔵と妻・さよの三女として鹿児島県鹿児島市で生まれた
 父の転勤に撚り、12歳になるまで沖縄県那覇市、台湾嘉義県、台北市と、転居して過ごした
1908(明治41)年 東京女子高等師範学校附属高等女学校(現 お茶の水女子大学附属中学学校・同高等学校)卒業
1909(明治42)年 旧制小倉中学校(現 福岡県立小倉高等学校)美術科教諭(=画家)の杉田宇内と結婚
 杉田宇内は、愛知県西加茂郡小原村(現 豊田市松名町)の素封家の跡取りで、東京美術学校(現 東京藝術大学)西洋画科出身
 夫の任地である福岡県小倉市(現 北九州市)に転居
1911(明治44)年 長女 昌子(後の俳人石昌子)誕生
1916(大正05)年 次女 光子誕生
 此の年、久女の家に寄寓した次兄 赤堀月蟾(げっせん)から俳句の手解きを受ける
1917(大正06)年「ホトトギス」1月号に初出句 / 同年5月に飯島みさ子邸の句会で高濱虚子に初めて出会う
 私生活では、画家としての成功を期待していた夫が画を描かなくなったことに失望する一方、高浜虚子への崇敬の念を高め俳句で頭角を現していく
 宇内・久女夫婦の実情を知った久女の実家から離婚が言い出されるが、宇内は承諾せず、久女自身も離婚を思い留まった
1920(大正09)年 腎臓病に罹患、俳句を一時中断する
1922(大正11)年 キリスト教に入信するも、やがて協会から離れ、再び俳句に専念する
 中村汀女と交流し、橋本多佳子に俳句を教えた
1931(昭和06)年「谺して山ほととぎすほしいまゝ」が帝国風景院賞金賞20句に入選
1932(昭和07)年 女性専門俳誌『花衣』を創刊し主宰するも5号で廃刊に
1934(昭和09)年 中村汀女・竹下しづの女らと共に「ホトトギス」同人に
 久女は句集の出版を切望し、高濱虚子に序文を依頼するも黙殺された
1936(昭和11)年 日野草城、吉岡禅寺洞と共に「ホトトギス」同人を除名される〔除名の理由は不明の儘〕
1945(昭和20) 10月 終戦直後の食料難で栄養障害となり福岡県立筑紫保養院に入院
1946(昭和21) 0121日 持病の腎臓病悪化により同病院で死去(享年55)
 久女の墓は杉田家墓地にある
 彼女が切望していた句集の出版が実現したのは、彼女の長女 石昌子に撚り『杉田久女句集』(195210)以降で、石昌子の依頼に撚り、「序」は高濱虚子が寄稿している
 高濱虚子は、其の「序」で、久女の作風を「清艶高華」と評している
1957(昭和32)年 長野県松本市の赤堀家墓地に分骨された / 此処の「久女の墓」の墓碑銘も長女・昌子の依頼に撚り虚子が書いている
 
 其れでは、杉田久女の俳句作品も6句を当該俳句をimageした画像と共に順次ご紹介していきたい。
 
 第1句目は
 
 冬の朝道々こぼす「手桶(おけ)」の水 杉田久女

 1917(大正06)年「ホトトギス」一月号「台所雑詠欄」所収・『杉田久女句集』(昭和2710月角川書店刊)所収
 
[58]【冬の朝道々こぼす手桶の水】をimageした画像


 大正時代の日本では、まだ多くの家が共同の井戸で水を汲み、家の台所の水瓶迄運ぶことが主婦の毎日の仕事の一つであった。
 冬の寒い朝は、主婦にとって厳しい仕事だったに違いない。
 此の句は、「ホトトギス」誌『台所雑詠欄』に掲載された久女のdebut作である。
 
【小生comment
 典型的な「台所俳句」からstartした杉田久女の俳句は、第2句以降を見ても解る様に、大きな変遷を遂げていくので、小生、いつ詠んでも興味が尽きなくて大好きだ!
 
 第2句目は
 
 熟れきつて裂け落つ李紫に 杉田久女

      『杉田久女句集』(昭和2710月 角川書店刊)所収
 
[59]【熟れきつて裂け落つ李紫に】をimageした画像
                  

 熟れ過ぎた李(スモモ)が紫色に変色して落下した。
 普通の題材だが、此の句が久女の作品だと知って詠むと妖艶さを意識して仕舞うのは小生だけだろうか?
 
【小生comment
 此の句は、詠めば詠むほど艶っぽさを感じる句だ。
 
 第3句目は
 
 足袋つぐやノラともならず教師妻 杉田久女

      1921(大正10)年作・1922(大正11)年「ホトトギス」二月号所収・『杉田久女句集』(昭和2710月角川書店刊)所収

[60]【足袋つぐやノラともならず教師妻】をimageした画像


 此の句は、次の様な変遷がある。
 
 足袋つぐや【醜(しこ)】ともならず教師妻
      1952(昭和27)年「杉田久女句集」
 
 足袋つぐや【ノラ】ともならず教師妻
      1969(昭和44)年「杉田久女句集」〔再版本〕
 
 此れは久女の代表作の一つ。
 イプセン『人形の家』の女主人公のノラが、「では、さようなら」と言って夫ヘルメルのもとを去っていった
 愛知県の小原村の素封家の跡取り息子で、画家を目指し乍ら中学教師に甘んじている夫の妻である久女。
 夫の赴任先の北九州・小倉で二児の母として、善良だが保守的な教師である夫に仕え、破れた足袋を繕い乍ら自嘲して詠んだ問題作。
 此の句は、俳誌「ホトトギス」誌上に掲載され、当時もかなり物議を醸した様だ。
 当時久女は32歳 / 夫との間も冷めた関係になった一方で、俳人としての知名度は上がって行った。
 
【小生comment
 此の夫婦間の冷めた関係とも受け取られる様な俳句を「ホトトギス」に投句する久女とは、当時としては破天荒な女性だったと思う。
 
 第4句目は
 
 朝顔や濁り初めたる市の空 杉田久女

      昭和02年作『杉田久女句集』(昭和2710月角川書店刊)所収

[61]【朝顔や濁り初めたる市の空】をimageした画像
                  

 此れも久女の代表作で、38歳の作である。
 下五(座五)ぶある「市(いち)」とは、久女が暮らしていた小倉の街のこと。
 当時の久女は、女学校で図画と国語を教えたり、手芸やフランス刺繍の講習会の講師をしたり、充実した日々を過ごしていた様だ。
 だからか、此の句は、気品があり格調高く凛とした響きを感じさせる傑作だ。
 此処で「鑑賞 女性俳句の世界 第1集 女性俳句の出発 ~ 坂本宮尾(1945- )『美と格調』」(角川学生出版)から俳人杉田久女について、文章が一寸長くなるがご紹介したい。
  「杉田久女は天才型の詩人であった。彼女には鋭い直感と感受性、並外れた集中力、更に思いを的確に表現する言語能力という天賦の才が具わっていた。其れと同時に、向学心に富んだ猛烈な努力家でもあった。日本の古典、特に『萬葉集』『源氏物語』、又聖書を始めとする西洋文化句にも造詣が深かった。彼女は心ならずも小倉という地方都市で長年暮らすことになったが、古典に所縁のある筑紫の風景は、その詩心を刺激し続けた。中央俳壇から離れた此の地にあって、古今の俳書を渉猟して貪欲に学び、自身で句境を開拓して行った。師、高濱虚子に宛てた「夜あけ前に書きし手紙」で、久女は作句の基本姿勢を、「自分の生活にふれ、目に見、耳にきいた事。心の叫びを作句すること。とにかく拙くとも、自分の性格なり、生活にふれたことをつくり度いと思ひます〔中略〕深い魂の感銘を基礎としたまことの写生をして見たうございます」と述べている。
 彼女の創作の根底には、美しいものへの憧れ、深い感動、人生の詠嘆があり、普遍性を持つ作品に仕上げようと推敲を重ねて、表現技法を磨いて行った。久女作品は、豊かに情感を湛えた内容於いて浪漫派であり、韻文固有の美と格調を追求した端正な句姿という意味では古典派と言える。虚子が、久女の遺句集の序文で「清艷高華」と評した通り、清らかにして華麗であり、句柄が大きく、格調高い、独自の俳句世界を創り上げたのである」
 
【小生comment
 清々しい朝の情景が浮かんで来る名句だ。
 そう言えば、竹下しづの女は現在の行橋(ゆくはし)市出身、杉田久女と橋本多佳子は現在の北九州市小倉に住んでいた。
 
 第5句目は
 
 谺(こだま)して山ほととぎすほしいまゝ 杉田久女

      昭和05年作『杉田久女句集』(昭和2710月 角川書店刊)所収

[62]【谺して山ほととぎすほしいまゝ】をimageした画像


 久女の俳句で最も著名な句として知られている。
 此の句は、福岡県田川郡英彦(えひこ)山で詠まれたもので、昭和05年秋に「ホトトギス」で採用されなかった為、大阪毎日・東京日日新聞社主催の虚子選「日本新名勝俳句」に応募した処、最優秀句20句の中に選出され、風景院賞を受賞した作品。
 久女は此の句について、「此の下五のほしいまゝ」の五字がどうしても出ず、何とか神社にお参りした帰りに白蛇を見たんですよ。其の日、家に帰ったら「ほしいまゝ」の五字を感得しました」と述懐しているが、如何にも俳句に一身を賭した「焔の女」らしい言葉であると思う。〔以上、楠本憲吉『昭和秀句Ⅰ』より引用〕
 
【小生comment
 初夏を表す季語である「ホトトギス」が鳴く山は、花々と新緑が目に染みる美しい季節だ。
 そんな雰囲気を此の名句は高らかに詠う。
 
 最後、第6句目は
 
 風に落つ楊貴妃櫻房のまゝ 杉田久女

      昭和0707月「ホトトギス」雑詠欄巻頭句『杉田久女句集』(昭和2710月 角川書店刊)所収

[63]【風に落つ楊貴妃櫻房のまゝ】をimageした画像
                  
 
 此れも、久女の絶頂期(1932)の作品で著名な一句だ。
  「楊貴妃桜(ようきひざくら)」は八重桜 / 豊満な女性の肢体を想像させる濃艶な色彩を放つ。
 其の楊貴妃桜が盛りの儘、房ごと、風に折れて地に伏している様は、久女の本情に適うもので、山本健吉は、此の句を「ナルシスムの極致」と言っているが、至言であろう。〔楠本憲吉『昭和秀句Ⅰ』より引用〕
 春爛漫の雰囲気を醸し出している。叙景句であり乍ら、久女ならではの濃艶な抒情がある。
 楊貴妃桜の2句と仏生会の3句で、久女は「ホトトギス」昭和07年七月号で初巻頭となった。
  〔「鑑賞 女性俳句の世界 第1集 女性俳句の出発 ~ 坂本宮尾(1945- )『美と格調』」(角川学生出版)
 
【小生comment
 前句【谺して山ほととぎすほしいまゝ】に次ぐ著名な句。
 久女が詠むと、此の句も艶っぽさを感じるから不思議だ。〔了〕
 
  では、また〔了〕

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