今日は、皆さんに訃報からお伝えします。
去る10月26日 我等が時習26回生同期の中野和彦君【3-6
】が永眠された。
心よりお悔やみ申し上げ、ご冥福をお祈り申し上げます。
彼とは、豊城中学校時代から同窓同期の友人で、中学校時代には、彼の自宅に迄遊びにお邪魔したことがある。
彼は、大の鉄道maniaで、miniatureの機関車や電車を沢山持っていて、其れを見せて貰いに伺ったのである。
10月29日(火)に、市内牛川町の愛心殿で挙行された通夜式に参列し、彼との最期のお別れをして来た。
改めて、彼の冥福をお祈りします。〔合掌〕
■ さて、今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『あら野』から〔第01回/「序」〕をご紹介したい。
【編者】山本荷兮【書名】芭蕉に拠る「序文」に西行の歌「雲雀たつ【あら野】におふる姫ゆりの何につくともなき心かな」(山家集)を踏まえた行文が最後の処にあることから、此の歌から採ったものと云われている。「阿羅野」「菴羅野」「荒野集」「曠野集」の表記がある。
【成立】芭蕉の「序文」に「元禄二年弥生(=1689年3月)」とあるが、所収されている「金沢の北枝」の句が元禄03年07月15日以降の作と考証されている為、宝永四年 井筒屋『俳諧書籍目録』では「元禄三年」とする。
【構成】全三冊 / 「上(1巻~5巻)・下(6巻~8巻):発句集 735句」「員外:歌仙9巻・半歌仙1巻」
【意義】芭蕉の「序文」に『冬の日』『春の日』が些か表現の華美に走り過ぎた点を反省して、意味の内実をも十分に配慮した、華実兼備の撰集を目指す、編者の意図を忖度して述べている。〔中略〕俳諧の古今集を目指した〔中略〕蕉門初期を代表する大撰集として、蕉門の内外に大きな影響を与えたとみられる。〔以上『新 日本古典文学大系/芭蕉七部集~あら野』より引用〕
蕉門の、宝井其角(1661-1707)、杉山杉風(1647-1732)、向井去来(1651-1704)、越智越人(1656-1739)、山本荷兮(1648-1716)、山口素堂(1642-1716)その他の【発句】と、芭蕉、荷兮、服部嵐雪(1654-1707)、越人その他の【歌仙・半歌仙】の作品が登場する。
今回は、『あら野』から、巻頭の「芭蕉の序文」をご紹介する。
あら野の序
【原文】
尾陽蓬左(びやうほうさ)(注1)、橿木堂(きゃうぼくだう)主人荷兮子(かけいし)(注2)、集(しふ)を編(あみ)て名をあらのといふ。何故(なにゆゑ)に此名(このな)有事(あること)をしらず。予(よ)はるかにおもひやるに、ひとゝせ、此(この)郷(さと)に旅寝(たびね)せしおりおりの云捨(いひすて)、あつめて冬の日といふ。其(その)日(ひ)かげ相續(あひつづき)て、春の日また世にかゝやかす。げにや衣更着(きさらぎ)、やよひの空(そら)のけしき、柳櫻(やなぎさくら)の錦(にしき)を争(あらそ)ひ、てふ鳥(とり)のをのがさまざまなる風情(ふぜい)につきて、いさゝか實(じつ)をそこなふ(注3)ものもあればにや。いといふ(注4)のいとかすかなる心のはしの、有(ある)かなきかにたどりて、姫(ひめ)ゆりのなにゝもつかず(注5)、雲雀(ひばり)の大空(おほぞら)にはなれて(注6)、無景(むけい)のきはまりなき(注7)、道芝(みちしば)のみちしるべせむ(注8)と、此(この)野(の)の原(はら)の野守(のもり)とはなれるべらし。
元禄二年弥生
芭蕉桃青
(注1)尾陽蓬左:尾張国の蓬莱宮(=熱田神宮)の左側、即ち「名古屋」のこと
(注2)橿木堂主人荷兮子:山本荷兮のこと(注3)いさゝか實(じつ)をそこなふ:花実相応の宜しきを得ず / 実の側面に於いてはかけた面もあった /「花実」は古今集・真名序以来の用語 /「表現の外形」と「意味の内実」をいう
(注4)いといふ:「糸遊」は和漢朗詠集「霞はれ緑の空ものどけくてあるかなきかに遊ぶ糸ゆふ」等に拠る
(注5)姫ゆりのなにゝもつかず:山家集「雲雀たつ【あら野】におふる姫ゆりの何につくともなき心かな」に拠る / 荒野の咲く姫ゆりが頼るものもなく危うげに揺れる様に、表現の心は進むべき信念を見失って
(注6)雲雀の大空にはなれて:大空に飛ぶ雲雀が方向を失い
(注7)無景のきはまりなき:果てしない広野を行く人が途方にくれる様に、華実兼備の俳諧を求めて迷っている全ての人々に対して、
(注8)道芝のみちしるべせむと:道案内をしようと
【現代語訳】
名古屋の荷兮が、この俳句集を編集して、『阿羅野』と名付けた。何故此の名前が付けられたのかを私は知らない。私は遥かに遠い江戸の地から想像して次の様に考えた。自分が先年、此の名古屋の地に滞在した折に、句会を重ねて作った作品を『冬の日』と名付けた。其の『冬の日』に続けて、『春の日』を編んで、此れが世の評判が良かった。其れは真に春二月・三月の空の様に輝かしく、地には柳の緑色、桜花の紅色が錦の様に其の美しさを競って、蝶が舞い鳥が囀る様に、万物が陽春を夫々に謳歌する趣で、作品は其々に華美を競った為、些か実の側面に於いて欠けた点もあった。「糸遊」が儚く彷徨う様に、心は表現の方途に迷い、荒野の咲く姫ゆりが頼るものもなく危うげに揺れる様に、表現の心は進むべき信念を見失って、大空に飛ぶ雲雀が方向を失い、果てしない広野を行く人が途方にくれる様に、華実兼備の俳諧を求めて迷っている全ての人々に対して、道案内をしようと、荷兮が道案内をかって出てくれた。彼が、此の迷い易い文芸の荒野の番人となってくれそうだ。
【小生 comment 】
芭蕉は、此の『あら野』の序文を書いた「元禄二年三月」の月末には『奥の細道』の旅に出発した。次回は、俳諧七部集『あら野』から〔第02回/第01句~10句〕をご紹介する。お楽しみに!
■続いての話題は、11月02日(土)「松坂屋美術館『松村公嗣』展→名古屋市美術館『カラヴァッジョ』展→愛知県芸術劇場コンサートホール『辻井伸行(PF)&ケント・ナガノ指揮ハンブルクP.O.演奏会』を巡って見て聴いて」来たことについてお伝えする。
其の日は若干いつもよりゆっくりと起床した。
06時30分 起床→腹筋200回
07時30分 2.5kg木刀素振り60分08時45分 入浴→朝食
10時45分 拙宅発→一般道 自転車→
11時15分 豊橋駅発→名鉄→
12時25分 松坂屋美術館着
12時30分 松坂屋美術館『松村公嗣』展
【松坂屋美術館『松村公嗣』展】
[01]松坂屋美術館入口にて1
[02]同上2
[03]本企画展leaflet
[04]松村公嗣『漁婦』1972年
[05]同『大地(インド)』1979年
[06]同『グラナダ(スペイン・グラナダ)』1981年
[07]同『西蔵(チベット)』1986年
[08]同『桂林山水(中国・桂林)』2007年
[09]同『なごり雪』2005年
[10]同『熊野古道』2009年
[11]同『晨朝』2011年
[12]同『どんど』2014年
[13]同『早春』2017年02月
[14]同『木曽川驟雨』2017年07月
[15]同『伏見稲荷(京都)』2017年12月
ご紹介した絵画をご覧になって如何でしたか?
松村公嗣氏は卓越した技量で見る者を魅了してくれる。
松村氏に accident がなければ、田渕俊夫氏が理事長を務めている日本美術院の次期理事長か、その次の理事長になるのではないか、と小生予言する。
13時35分 松坂屋発→徒歩20分→
13時55分 名古屋市美術館着
【名古屋市美術館『カラヴァッジョ』展】
[16]名古屋市美術館『カラヴァッジョ』展看板前にて1
[17]同上2
[18]同上3
[19]本企画展leaflet
[20]カラヴァッジョ『リュート弾き』1596-97年
[21]同『花瓶の花、果物及び野菜』1605-06年
[22]同『法悦のマグダラのマリア』1606年
[23]同『洗礼者聖ヨハネ』1609-10年
[24]同『ゴリアテの首を持つダヴィデ』1609-10年頃
[25]作者不詳『ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョの肖像』1617年
【小生 comment 】
天才画家
カラヴァッジョ は、イタリア・ルネッサンスからバロック絵画への橋渡しをした、絵画史上忘れてはならない泰斗である。カラヴァッジョの作品のうち、『法悦のマグダラのマリア』・『洗礼者聖ヨハネ』・『ゴリアテの首を持つダヴィデ』の3点は本当に素晴らしい傑作中の傑作だと思う。
【名古屋市美術館『常設展』】
[26]アメディオ・モディリアーニ『おさげ髪の少女』1918年頃
[27]キース・ヴァン・ドンゲン『コルセットの女』1908年
【小生 comment 】
名古屋市美術館『常設展』corner は、いつ訪れても素晴らしい傑作に会えるのがとてもいい。今日も、モディリアーニ『おさげ髪の少女』とドンゲン『コルセットの女』に再会出来て嬉しかった。
15時50分 名古屋市美術館発→徒歩30分→
16時10分 愛知県芸術劇場コンサートホール着
【辻井伸行(Pf)&ケント・ナガノ指揮ハンブルクP.O.演奏会】
[28]愛知県芸術劇場コンサートホール入口にて1
[29]同上2
[30]演奏曲目変更案内
[31]本演奏会 program
[32]ホワイエにて
[33]Encore
一覧
今日の演奏曲目は以下の通り
[1]Beethoven(1770-1827)
/ 劇音楽『エグモント(Egmont)』序曲 Op.84
[2]Liszt(1811-1886)
/ Piano Concerto No.1 in E-Flat Major Op.124[Encore]Liszt / ラ・カンパネラ
[03]Mahler(1860-1911) / Symphony No.5 in E-Sharp minor
[Encore]Brahms / ハンガリー舞曲第5番
21時25分 帰宅〔了〕
【小生 comment 】
今日の演奏会は、選曲も演奏も頗る良かった。重厚な曲想の Beethoven の『エグモント』で始まり、2曲目の辻井伸行君の完璧で dramatic な Liszt の『Piano Concerto No.1』は涙が出る程の名演奏だった。
そして、最後が Mahler の『交響曲第5番』。此の演奏が素晴らしく、終演直後の聴衆から贈られた「万雷の拍手」に応えて、Encore 曲の Brahmsの『ハンガリー舞曲第5番』で今日の Concert は締め括られた。
5日後の11月07日は、同じ愛知県芸術劇場コンサートホールにて、ティーレマン指揮ウィーンP.O.の演奏で、大曲 Bruckner / Symphony No.8 を聴く予定である。
今からとても楽しみにしている。其の模様については、又後日!〔了〕
■さて今日の話題は、前号に続き「四T」の第2回目 星野立子 についてご紹介させて頂く。
[34]星野立子
[35]星野立子(左)と高濱虚子
1903(明治36)年 11月15日 高濱虚子(1874.02.22-1959.04.08)の次女として、東京府麹町区富士見町生まれる
7歳の時、鎌倉へ転居
1924(大正13)年 東京女子大学高等学部卒業
1925(大正14)年 作家で『文学界』主宰 星野天知の息子、鎌倉彫職人の星野吉人と結婚
『ホトトギス』発行所および文化学院に就職
1926(大正15)年 03月 虚子の薦めにより作句開始
1930(昭和05)年 06月 虚子の勧めで、初の女性主宰誌『玉藻』を創刊
1932(昭和07)年『ホトトギス』同人
1959(昭和34)年 04月 虚子死去後、朝日俳壇選者を継承
1970(昭和45)年10月 脳血栓の為倒れ、翌昭和46年03月まで入院
以後、1971年より立子の妹の高木晴子が1983年07月迄『玉藻』の代選を担当
1975(昭和50)年 勲四等宝冠章受章
1984(昭和59)年 03月03日 直腸癌にの為死去 / 鎌倉の寿福寺に葬られる
同所に自筆句碑「雛飾りつゝふと命惜しきかな」がある。
星野立子と彼女の作品について、「観賞 女性俳句の世界/第2巻 個性派の登場」(角川学芸出版刊)の 星野立子 の項目で 俳人 奥坂まや(1950-)は次の様に紹介している。
〔前略〕日本の詩人とは、第一に芭蕉である。〔中略〕「古池や蛙飛び込む水の音」の句の宇宙には、全く「内面」が存在しない。自然の実が圧倒的に聳え立つ、この絶対の「外部」は、西欧の文学にとっては衝撃なのだ。
そして、正岡子規から高濱虚子が受け継ぎ、守ろうとして来たのは、正に此の瑞々しい「外部」に他ならなかった。〔中略〕虚子はただ、俳諧が有していた「外部」を保持し、其の輝きを守ることに専念しただけなのだ。〔中略〕水原秋櫻子との対立も、何よりも此の点に起因すると言って良い。其の虚子が、俳句作品の「外部」の輝きの点で、一番高く評価していた俳人の一人が、星野立子である。立子の〔中略〕長兄 高浜年尾(1900-79)(注1)、弟 池内友次郎(1906-91) (注2)、妹 高木晴子(はるこ)(1915-2000)(注3)、同 上野章子(1919-1999)(注4)、皆著名な俳句作者となったが、句作を「私の方から勧めたのは、星野立子一人である」(『晴子句集』序文)と虚子が記している様に、虚子の理想とする俳句に相応しい資質を、元々豊かに持っていたに違いない。
(注1)高浜年尾:1959年 朝日俳壇&愛媛俳壇選者 / 同年高濱虚子より『ホトトギス』主宰を継承 /
1979年 年尾の死により彼の次女の稲畑汀子(1931- )が2013年10月迄主宰を引き継いだ後、彼女の息子の稲畑廣太郎が『ホトトギス』主催を引き継ぎ現在に至っている
(注2) 池内友次郎:1927年 10月 パリ音楽院に入学 /
1936年レジオン-ドヌール勲章受章 / 1937年
帰国後は日本大学芸術科で教鞭を取り、1949年迄同科主任 / 1947年
東京芸術大学作曲科教授に就任 / 後に音楽学部長 / 1958年 相愛女子大学音楽学部作曲科主任/ 1974年 東京芸術大学退官、名誉教授 / 1977年 勲三等旭日中綬章を受章
/ 1986年 文化功労者(注3)林晴子:虚子の五女 / 1947年 『ホトトギス』巻頭 / 1971年 病の主宰立子に代わり『玉藻』雑詠選を担当 / 1984年『晴居(はるきょ)』創刊
(注4)上野章子:1942年『ホトトギス』同人の上野泰と結婚 / 戦後は夫婦で結社「春潮」を立ち上げる / 1973年 泰死去により主宰
以下、「鑑賞
女性俳句の世界/第2巻 個性派の登場/星野立子」(前掲刊)から4句ご紹介したい。
第1句目は‥
まゝごとの飯(めし)もおさいも土筆(つくし)かな 星野立子
大正15年作『立子句集』(昭和12年11月 玉藻社)所収
[36]「まゝごとの飯もおさいも土筆かな」を imageする画像
23歳の春に、虚子の勧めで作った初めての俳句。虚子の炯眼は鋭く、処女作にも拘らず、立子独自の世界が匂立っている。立子の実際に目にしたのは、小さな男の子が独りで、玄関の敷居に箱の蓋を置き俎板として遊んでいた景であり、「ありのまゝを叙してみた」と自註に記しているが、〔中略〕此の句では、ままごとの材料が土筆だけだったことを選び取り、〔中略〕其の際の世界の掴み取り様が、際立って立子的なのだ。
ご飯の方は土筆の頭の粒々を利用し、おかずの方は茎を切っているのであろう。土筆の香りが芬々と立ち込め、柔らかな緑色をした粒々の円みと茎の直線、子供の白い、ふっくらとした手指が close up される。其れを通じて、「春」という季節の生命感が躍動して来る。立子は、季節の自然の「いのちの源」とも言うべき根源的なものを摘み取ることに長(た)けているのだ。〔後略〕
【小生 comment 】
子供が土筆を食材にまま事に興じているほのぼのとした情景が目に浮かぶ。此の句は、星野立子の代表作として知られる名句である。
第2句目は‥
囀(さえずり)をこぼさじと抱(だ)く大樹(たいじゅ)かな 星野立子
昭和14年作『続立子句集
第一』(昭和22年03月
青柿堂)所収
[37]「囀をこぼさじと抱く大樹かな」を imageする画像
【小生 comment 】
小生、此の句と初めて出会った時に、一回で脳髄の奥迄確り染み込む様に記憶されたことを鮮明に覚えている。爾来、小鳥たちが囀る「大樹」を見る度に、自然と此の句の上五&中七の「囀をこぼさじと抱く」が直ぐ口をついて出て来る程気に入っている。
実に素晴らしい名句だと思う。
第3句&第4句は‥
雛飾(ひなかざ)りつゝふと命惜(お)しきかな 星野立子
昭和27年作『春雷』(昭和44年04月 東京美術)所収
[38]「雛飾りつゝふと命惜しきかな」を imageする画像
生きとし生けるもののうち、人間だけが、命を惜しむ。いずれは死んでいくことを知っているのも、人間だけだ。そういう意味では、人間が最も「あわれ」な存在なのかもしれない。〔後略〕
露の世の間(ま)に合(あ)はざりしことばかり 星野立子
昭和45年、立子は脳血栓に倒れた。〔中略〕昭和49年上梓の『句日記ll』が最後の句集となる。〔中略〕
まるで辞世の句を思わせる様な掲句を見ても、立子は晩年に至る迄、虚子の唱えた花鳥諷詠の只中で作品を作り続けたことが分かる。「露」も、最も「もののあわれ」を感じさせる季語の一つである。其の重い季語を、自らの思いの全てを挙げて、受け入れ、諾(うべな)っている。〔中略〕正に死へ向かってゆく地獄の裏付け共々、滔々たる季の循環の中で、肯定してゆく姿勢なのである。此の句の「露」は、人の世のあわれを抱きとめて、躍動し、輝いている。〔了〕
【小生comment】
「露の世」と言うと、小林一茶が愛娘さとを亡くした時に詠んだ「露の世は露の世ながらさりながら」を思い出す。星野立子の作品は、4句共に女性らしい優しさに、一本芯が通って実に素晴らしい。〔了〕
では、また‥〔了〕
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