今日も、訃報を一件お届けします。
実は、今日、浜名湖CCにて時習26会Golfコンペがありました。
此の模様については、次回の《会報》にてご報告させて頂きます。
其の時、同期の仲間から、我等が【2637の会】membersの一人、平井邦生君が去る9月9日に逝去されたことを聞きました。
此の件は、既に平井君が亡くなられた日に彼の親友である杉浦君【3-8】がFacebookで報告してくれていました。
小生、Facebook は毎日見ているのですが、「fb不老荘」にupされた杉浦君の記事を見落としておりました。
前《会報》で故・中野和彦君の訃報をお伝えしましたが、故・平井君は中野君よりも一月半早く亡くなられていたのです。
此れで、我等が【2637の会】membersの仲間も、故・鈴木淳司君に続いて二人があの世に旅立たれて仕舞いました。
改めまして、故・平井君のご逝去を悼み謹んでお悔やみ申し上げますと共に、ご冥福を心よりお祈り致します。〔合掌〕
■さて、今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『あら野』から〔第02回/第1句~10句〕」をご紹介する。
曠野集 巻之一
花 三十句
よしのにて
01 これはこれはとばかり花の芳野山(よしのやま) 貞室(注1)
【意】あの歌枕「吉野山」に来てみると、見事な花の美しさに言うべき言葉も出て来ない
【解説】季語:花=春 /「これはこれはとばかりにて」は、古浄瑠璃の常套語で、言葉もなく悲嘆にくれる場合等によく用いられる / 此処では、吉野の花の美しさに感動したあまり言葉がない状態を表わしている
(注1)安原貞室(やすはら ていしつ(1610-73.02.07)(享年64歳)):江戸前期の俳人。名は正章(まさあきら) /号は一嚢軒・腐俳子など / 京都の人で紙商。松永貞徳の高弟 / 松江重頼との論争は有名。貞徳没後はその俳統の相続者のように振舞った / 編著「玉海集」・「正章千句」・「かたこと」など / 芭蕉の師の北村季吟は貞室の門弟から貞徳の門に入った
02 我まゝをいはする花のあるじ哉(かな) 路通(注1)
【意】花の盛りになると人々は勝手に押しかけて来て、騒がしいことである / 花見となれば、人は無礼講が許されるので、つい我が儘にもなる
【解説】季語:花のあるじ=春 /
(注1) 八十村路通(やそむら ろつう)(?-1738)(享年90歳)):八十村氏 / 別称:露通 / 近江大津の人 / 三井寺に生まれ、古典や仏典に精通 / 放浪行脚の乞食僧侶で詩人でもあった / 後年に還俗 / 貞亨2年春に蕉門に入門 / 貞亨5年頃より深川芭蕉庵近くに居住したらしい /『奥の細道』 では、当初芭蕉の同行者の予定であったが、曾良に変更されたが、理由は不明 / 代わりに、路通は敦賀で芭蕉を出迎え大垣まで同道、その後も芭蕉に同行を続け、元禄3年1月3日迄、京・大坂で生活を共にする / 芭蕉は陸奥へ旅立つ路通に「草枕まことの華見しても来よ」と説教をした餞の句を詠んでいる
03 薄曇(うすぐも)りけだかくはなの林かな 信徳(注1)
【意】花咲く頃の花曇の空 / 其の空の下に花々が爛漫と咲匂う花の林がある
【解説】季語:花の林=春 /
(注1) 伊藤信徳(いとう しんとく(?-1698)(享年66歳)):京都新町通り竹屋町の商人 / 助左衛門 / 若かった頃、山口素堂とも親交があった / 貞門俳諧から談林俳諧に進み、『江戸三吟』は、この芭蕉・素堂・信徳の三人による / 梨柿園・竹犬子は別号
04 はなのやまどことらまへて哥よまむ 晨風(注1)
【意】全山が花の咲き乱れる山 / 何処を見ても花・花・花‥の美しさである / さぁ、何処を見て一首の歌にしたら良いものであろうか?
【解説】―
(注1)晨風(しんぷう):伊勢松坂の人
05 暮(くれ)淋(さび)し花の後(うしろ)の鬼瓦(おにがはら) 友五(注1)
【意】花の盛りも終わりに近づいた頃の夕暮れの景 / 桜の木のこの間からお寺の鬼瓦が見える
【解説】季語:花=春 /
(注1)本間友五(ほんま ゆうご(生没年不詳)):常陸潮来の医師本間通悦の養子で道因 / 江戸に住んで深川の芭蕉庵に出入りしていた /『あら野』などに入句
06 山里(やまざと)に喰(くひ)ものしゐる(=しふる)花見(はなみ)かな 尚白(注1)
【意】山中に花見に出かけた一行が、騒々しく飲み物や食べ物を勧め合って何と賑やかなことか
【解説】季語:花見=春 /
(注1)江佐尚白(えさ しょうはく(?-1722)):江左氏 / 千那の親友で貞亨2年以来の膳所蕉門の一人 / 医者 / 句集に『忘梅』がある / 最後には、この書物の出版を巡り師弟間が事実上崩壊する / その間の事情は、千那宛書簡4(元禄4年9月28日)に詳しい / 芭蕉の尚白に対する憎悪は許六宛書簡(元禄六年5月4日)にも垣間見える
07 何事(なにごと)ぞ花みる人の長刀(なががたな) 去来(注1)
【意】本人は、気取っているつもりだろうが、花見の席に長刀をさしてやってくるとは何と無風流なことか
【解説】季語:花みる=春 /
(注1)向井去来(むかい きょらい(1651-1704)):肥前長崎に儒医向井玄升の次男として誕生 / 本名:向井平次郎 / 父は後に京に上り宮中儒医として名声を博す / 去来も、当初医者を志す / 兄元端も宮中の儒医 / 去来と芭蕉の出会いは、貞亨元年、上方旅行の途中に京都生まれの江戸俳人和田蚊足(ぶんそく)が仲立ちし、去来と其角が先ず出会い、その其角の紹介で始まったという /「西国三十三ヶ国の俳諧奉行」とあだ名された様に京都以西の蕉門を束ねた / 嵯峨野に別邸落柿舎を持ち、芭蕉は此処で『嵯峨日記』を執筆 /『去来抄』は芭蕉研究の最高の書とされる
08 みねの雲すこしは花もまじるべし 野水(注1)
【意】花見に遣って来てみると、花咲く山の峰には雲が一面かかっている / あの雲の中にも花が混じって雲に見えている部分があるのであろう
【解説】季語:花=春 / 古来、花を見紛え、雲を花に見立てるは常套 /
(注1)岡田野水(おかだ やすい(?-1743)):埜水とも / 尾張名古屋の呉服豪商で町役人 / 通称:佐右次衛門 / 本名:岡田行胤 / 芭蕉が『野ざらし紀行』の旅で名古屋に逗留した時(1684年)の『冬の日』同人 / 其の頃野水は27歳 / しかし、この直後に妻と死別したらしい /『阿羅野』に多く採られている様に、湖南の門人や去来など上方の門人との交流も盛ん
09 はなのなか下戸(げこ)引(ひき)て来(く)るかいな哉(かな) 龜洞(注1)
【意】花見酒に酔っ払った上戸を担いで帰っていくのは決まって下戸の方なのだ
【解説】季語:はな=春 /
(注1)武井亀洞(たけい きどう((?)-1687):尾張名古屋の人 /『春の日』に初出 / 越人の弟子と言われている /『あら野』・『庭竈集』などに入句
10 下々(げげ)の下(げ)の客(きゃく)といはれん花の宿 越人(注1)
【意】譬え宗鑑には「下々の下」と言われようとも、今宵は此の花の下で一夜を明かそう
【解説】季語:花の宿=春 / 宗鑑は、「上の客人立ちかえり、中の客人日がへり、とまり客人下の下」と言ったという
(注1)越智越人(おち えつじん(1656-?)):北越の人 / 越智十蔵 / 別号:負山子、槿花翁など /『春の日』の連衆の一人、尾張蕉門の重鎮 /『更科紀行』に同行、其の儘江戸迄同道して一月後の作品『芭蕉庵十三夜』にも登場 / 芭蕉の、越人評は『庭竈集』「二人見し雪は今年も降りけるか」の句の詞書に、「尾張の十蔵、越人と号す。越後の人なればなり。粟飯・柴薪のたよりに市中に隠れ、二日勤めて二日遊び、三日勤めて三日遊ぶ。性、酒を好み、酔和する時は平家を謡ふ。これ我が友なり」とある通り、好感を持っていた /『笈の小文』で伊良子岬に隠れている杜國を尋ねた際も越人が同行
【小生 comment 】
次回は、俳諧七部集『あら野』から〔第03回/第11句~20句〕をご紹介する。お楽しみに!
■続いての話題は、11月07日:愛知県芸術劇場コンサートホール/『クリスティアン・ティーレマン指揮VPO演奏会』を聴いてについてお伝えする
其の日は、早めに仕事を終えて名古屋へ。
18時45分 愛知県芸術劇場コンサートホールにて開催された クリスティアン・ティーレマン指揮ウィーン・フィルハーモニーの演奏に拠る ブルックナー作曲/交響曲第8番〔ハース版〕を聴きに行って来た。
[01]名古屋駅前TAXI乗場の Neon Decoration
【小生comment】
一度聴いたら忘れることが出来ない程印象的な第2楽章 スケルツォ、雄大な曲想であり乍ら mellow な曲でもある演奏時間30分を要する第3楽章 アダージョ! ブルックナーの交響曲第8番は、全4楽章の演奏時間が90分間というスケールの極めて大きい名曲である。
今日も、旧行時代同期の佐藤君と一緒に至福のひとときを過ごすことが出来た。
二人で「大曲の後だから Encore はないだろうなぁ」と言っていたら、予想に反して、ヨハン・シュトラウス二世の弟 ヨーゼフ・シュトラウス作曲/ワルツ『天体の音楽』が演奏された。
奇しくも、『天体の音楽』は二人共に大好きな曲で、お互い満足感が増幅された。
来週11月13日(水)には、今日と同じ此処、愛知県芸術劇場コンサートホールにて、今日と同じ ブルックナーの交響曲第8番を、今度はズービン・メータ指揮BPOの演奏で、此れも又、佐藤君と一緒に聴けることを凄く楽しみにしている。
■続いての話題は、「11月09日:東京の2つの史跡&8つの美術館を巡って~【第1回】『柴又帝釈天』→『浅草寺』を巡って」をお届けする。
11月09日(土)に巡って来た史跡と美術館は以下の通り。
『柴又帝釈天』→『浅草寺』→「上野公園『四季桜』」→「東京都美術館『コート―ルド美術館』展」→「国立西洋美術館『ハプスブルク』展」→「上野の森美術館『ゴッホ』展」→「上野公園『西郷隆盛』像」→『旧・新橋停車場〔=新橋駅〕』→「『ラウル・デュフィ』展」→「東京国立近代美術館『特別展/鏑木清方/築地明石町』展」→「郷さくら美術館東京『「空-模様」日本画』展」→「Bunkamuraザ・ミュージアム『リヒテンシュタイン侯爵家の至宝』展」→「中村屋サロン美術館『荻原守衛』展」
【初日(11月08日)】
22時45分 拙宅発→自転車→
23時10分 豊橋駅前bus terminal着
[12]Bus terminal豊橋駅前にて1
23時25分 豊橋駅前発→穂の国号(高速バス)→
【二日目(11月09日)】
05時25分 ほの国号 バスタ新宿に到着
[17]JR新宿駅外観
05時35分 新宿発→JR山手線外回り→05時54分 西日暮里着
06時08分 西日暮里発→東京メトロ千代田線→06時25分 金町着
06時35分 京成金町発→京成金町線→06時38分 柴又着
【柴又帝釈天1】
[23]柴又駅前広場の寅さん像とさくら像をbackに
[31]民家庭先にあったフーテンの寅さんcharacter像
06時47分 柴又駅発→徒歩4分→
【柴又帝釈天2】
[33]草餅屋「とらや」
07時21分 柴又発→京成金町線→07時23分 京成高砂着
07時32分 京成高砂発→京成本線快速特急→07時48分 京成上野着→徒歩→
07時54分 上野発→東京メトロ銀座線→07時59分 浅草着→徒歩→
08時05分 浅草寺・雷門着
【金龍山 浅草寺】
[47]雷門にて
08時35分 浅草寺本堂発→徒歩→
08時57分 浅草発→東京メトロ銀座線→09時05分上野着
09時28分 東京都美術館着
■さて今日最後の話題は、前々号&前号に続き「四T」の第3回目 橋本多佳子(1899-1963) についてご紹介させて頂く
橋本多佳子の略歴は以下の通り‥
1899(明治32)年 01月15日 東京市本郷区龍岡町(現・文京区本郷)生まれ / 祖父は箏の山田流家元の山谷清風 / 菊坂女子美術学校(女子美術大学前身)日本画科入学するも病弱の為中退
1917年 建築家で実業家の橋本豊次郎と結婚 / 福岡県小倉市(現・北九州市小倉北区)に「櫓山(ろざん)荘」を建築し転居 / 高濱虚子来遊を期に句作を開始 / 杉田久女(1890-1946)に俳句指導を受ける
1924年 多佳子は此の年迄に4人の娘を出産
1927年「ホトトギス」雜詠に「たんぽぽの花大いさよ蝦夷の夏」が初入選
1929年 夫・豊次郎の父・料左衛門の死去に撚り大阪・帝塚山に転居 /
同年「ホトトギス」400号記念俳句大会(大阪、中央公会堂)にて久女に山口誓子を紹介される
1935年 01月より山口誓子(1901-94)に師事 / 同年4月 水原秋桜子主宰の「馬酔木」同人となる
同年5月 豊次郎と上海・杭州に旅行
1937年 帰阪後に豊次郎が発病、9月30日に逝去(享年51)
1939年 櫓山荘を手放す
1941年 第一句集『海燕』発表
1944年 奈良市あやめ池に疎開後、定住
1963年 肝臓、胆嚢癌により死去(享年64)
[55]晩年の橋本多佳子
1937年 夫 橋本豊次郎亡き後、俳人として歩んで行く
1944年 奈良市あやめ池に疎開後、奈良に定住した多佳子は、西東三鬼、平畑静塔、右城墓石ら「天狗」の中心的メンバーの男性詩人との交友を通じて「奈良句会(のちの日吉館句会)」に参加し、当時としては自由奔放な作風の作品を以下の通り残した
乳母車 夏の怒濤(どとう)に よこむきに 橋本多佳子
[56]「乳母車夏の怒濤によこむきに」をimageした画像
此の句は視覚的印象が鮮明で、現代のポップアートの様でさえある。大きな空間にぽつんと置かれた小さな乳母車。「よこむき」に拠って読者はあくまでも客観的に此の光景を眺めることになり、乳母車を押す人の視点は一句から消える。ひょっとしたら、乳母車は空っぽかもしれないと思わせる様な不安も漂い、恐らく作者が意図した以上に斬新な作品になっている。〔『鑑賞/女性俳句の世界~第2巻:個性派の登場』~橋本多佳子~(片山由美子著)より引用〕
作者の弁によると、此の句は「小田原の御幸が浜で作られた句で、娘と話に夢中になり、気がつけば、孫を乗せた乳母車がポツンと浜に置き去りになっていた」という
【小生 comment 】
題材は『乳母車』であり女性的だが、句調は極めて男性的である。
西東三鬼、平畑静塔ら「天狗」の中心的メンバーの男性詩人との交友を通じていた頃の作品だからだろう。
祭笛(まつりぶえ) 吹くとき男(おとこ) 佳(よ)かりける 橋本多佳子
[57]「祭笛吹くとき男佳かりける」をimageした画像
夏祭の衣装に身を固めた男が、祭の囃子の笛を吹いている。若者でもいいが、渋い中年でも成り立つ。「男佳かり」と言い切る大胆さは、作者の年代の女性の言葉としては余程新鮮だったろう。〔『聞いて楽しむ 俳句(厳選名句)』(辻桃子&安部元気【編著】)〕
【小生 comment 】
此の句も、健全な eroticism を感じる。
橋本多佳子面目躍如の名句だと思う。
雄鹿(おじか)の前 吾(われ)もあらあらしき息(いき)す 橋本多佳子
[58]「雄鹿の前吾もあらあらしき息す」をimageした画像
交尾期を迎えた雄鹿が、雌を恋うて荒々しい息をしている。其の鹿の前で、自分も息を弾ませているという erotic な句。奈良公園の鹿に託して、夫への恋情を詠んだ句と云われている。〔『聞いて楽しむ 俳句(厳選名句)』(辻桃子&安部元気【編著】)〕
【小生 comment 】
1937年の夫の死から10年以上経っている時の俳句だから、多佳子は五十路を迎える直前の頃の句である
が、彼女の艶やかさは些かも衰えず、寧ろ此の頃が最高潮と言えるのではなかろうか
雪(ゆき)はげし 抱(だ)かれて息(いき)の つまりしこと 橋本多佳子
[59]「雪はげし抱かれて息のつまりしこと」をimageした画像
此の句は、多佳子の作品として、最もよく知られたものの一つであろう。〔中略〕
(前句の「雄鹿の前吾もあらあらしき息す」と同じく)「多佳子の感情の激しさ」をいうのは容易い。〔中略〕(此処で)多佳子がこうした傾向の作品をつくった背景を考えてみたい。此の頃多佳子は、西東三鬼((1900-62) 1925年 日本歯科専門学校卒 / 1935年04月 平畑静塔らの招請で『京大俳句』に参加 / 1948年 山口誓子を擁して『天狗』創刊 / 1956年 角川書店『俳句』編集長)、平畑静塔((1905-97)京都大学医学部卒 / 1933『京大俳句』創刊者の一人)、右城墓石(うしろぼせき(1899-1995) 1949年『天狗』同人)など、「天狗」の中心的メンバーであった男性詩人に一人混じって、奈良句会(のちの日吉館句会に参加していた。炬燵に雑魚寝をし乍ら夜を徹することもあったという此の句会で、多佳子は男性と対等に渡り合うことで自身を鍛えようとした。男たちの鼻を明かしてやりたいという思いも強かった筈である。〔中略〕一連の作品はそういう句会で生まれたことを無視する訳にはいかない。多佳子は迸(ほとばし)り出る感情や情念を表現する為に俳句が必要だったのではなく、俳句を作ることによって、或いはその為に自己の内奥の感情を引き出したのである。〔『鑑賞/女性俳句の世界~第2巻:個性派の登場』~橋本多佳子~(片山由美子著)より引用〕
【小生 comment 】
今回ご紹介した 橋本多佳子 の代表作4句のうち、後半の3句は、異性としての男を意識した女の内面的感情を表している。
美人の誉れ高い橋本多佳子が詠んだ俳句だからこそ、此れ等の句は輝きを放っている。
此れ等の句を詠み返してみたが、「此の世は『男と女』が繰り広げる絵巻物」だな、と改めて感じた。
では、また‥〔了〕
*
ブログへは【0626】号迄のback numberはURL:http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog←此処をclickして下さい
*
実は、今日、浜名湖CCにて時習26会Golfコンペがありました。
此の模様については、次回の《会報》にてご報告させて頂きます。
其の時、同期の仲間から、我等が【2637の会】membersの一人、平井邦生君が去る9月9日に逝去されたことを聞きました。
此の件は、既に平井君が亡くなられた日に彼の親友である杉浦君【3-8】がFacebookで報告してくれていました。
小生、Facebook は毎日見ているのですが、「fb不老荘」にupされた杉浦君の記事を見落としておりました。
前《会報》で故・中野和彦君の訃報をお伝えしましたが、故・平井君は中野君よりも一月半早く亡くなられていたのです。
此れで、我等が【2637の会】membersの仲間も、故・鈴木淳司君に続いて二人があの世に旅立たれて仕舞いました。
改めまして、故・平井君のご逝去を悼み謹んでお悔やみ申し上げますと共に、ご冥福を心よりお祈り致します。〔合掌〕
■さて、今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『あら野』から〔第02回/第1句~10句〕」をご紹介する。
曠野集 巻之一
花 三十句
よしのにて
01 これはこれはとばかり花の芳野山(よしのやま) 貞室(注1)
【意】あの歌枕「吉野山」に来てみると、見事な花の美しさに言うべき言葉も出て来ない
【解説】季語:花=春 /「これはこれはとばかりにて」は、古浄瑠璃の常套語で、言葉もなく悲嘆にくれる場合等によく用いられる / 此処では、吉野の花の美しさに感動したあまり言葉がない状態を表わしている
(注1)安原貞室(やすはら ていしつ(1610-73.02.07)(享年64歳)):江戸前期の俳人。名は正章(まさあきら) /号は一嚢軒・腐俳子など / 京都の人で紙商。松永貞徳の高弟 / 松江重頼との論争は有名。貞徳没後はその俳統の相続者のように振舞った / 編著「玉海集」・「正章千句」・「かたこと」など / 芭蕉の師の北村季吟は貞室の門弟から貞徳の門に入った
02 我まゝをいはする花のあるじ哉(かな) 路通(注1)
【意】花の盛りになると人々は勝手に押しかけて来て、騒がしいことである / 花見となれば、人は無礼講が許されるので、つい我が儘にもなる
【解説】季語:花のあるじ=春 /
(注1) 八十村路通(やそむら ろつう)(?-1738)(享年90歳)):八十村氏 / 別称:露通 / 近江大津の人 / 三井寺に生まれ、古典や仏典に精通 / 放浪行脚の乞食僧侶で詩人でもあった / 後年に還俗 / 貞亨2年春に蕉門に入門 / 貞亨5年頃より深川芭蕉庵近くに居住したらしい /『奥の細道』 では、当初芭蕉の同行者の予定であったが、曾良に変更されたが、理由は不明 / 代わりに、路通は敦賀で芭蕉を出迎え大垣まで同道、その後も芭蕉に同行を続け、元禄3年1月3日迄、京・大坂で生活を共にする / 芭蕉は陸奥へ旅立つ路通に「草枕まことの華見しても来よ」と説教をした餞の句を詠んでいる
03 薄曇(うすぐも)りけだかくはなの林かな 信徳(注1)
【意】花咲く頃の花曇の空 / 其の空の下に花々が爛漫と咲匂う花の林がある
【解説】季語:花の林=春 /
(注1) 伊藤信徳(いとう しんとく(?-1698)(享年66歳)):京都新町通り竹屋町の商人 / 助左衛門 / 若かった頃、山口素堂とも親交があった / 貞門俳諧から談林俳諧に進み、『江戸三吟』は、この芭蕉・素堂・信徳の三人による / 梨柿園・竹犬子は別号
04 はなのやまどことらまへて哥よまむ 晨風(注1)
【意】全山が花の咲き乱れる山 / 何処を見ても花・花・花‥の美しさである / さぁ、何処を見て一首の歌にしたら良いものであろうか?
【解説】―
(注1)晨風(しんぷう):伊勢松坂の人
05 暮(くれ)淋(さび)し花の後(うしろ)の鬼瓦(おにがはら) 友五(注1)
【意】花の盛りも終わりに近づいた頃の夕暮れの景 / 桜の木のこの間からお寺の鬼瓦が見える
【解説】季語:花=春 /
(注1)本間友五(ほんま ゆうご(生没年不詳)):常陸潮来の医師本間通悦の養子で道因 / 江戸に住んで深川の芭蕉庵に出入りしていた /『あら野』などに入句
06 山里(やまざと)に喰(くひ)ものしゐる(=しふる)花見(はなみ)かな 尚白(注1)
【意】山中に花見に出かけた一行が、騒々しく飲み物や食べ物を勧め合って何と賑やかなことか
【解説】季語:花見=春 /
(注1)江佐尚白(えさ しょうはく(?-1722)):江左氏 / 千那の親友で貞亨2年以来の膳所蕉門の一人 / 医者 / 句集に『忘梅』がある / 最後には、この書物の出版を巡り師弟間が事実上崩壊する / その間の事情は、千那宛書簡4(元禄4年9月28日)に詳しい / 芭蕉の尚白に対する憎悪は許六宛書簡(元禄六年5月4日)にも垣間見える
07 何事(なにごと)ぞ花みる人の長刀(なががたな) 去来(注1)
【意】本人は、気取っているつもりだろうが、花見の席に長刀をさしてやってくるとは何と無風流なことか
【解説】季語:花みる=春 /
(注1)向井去来(むかい きょらい(1651-1704)):肥前長崎に儒医向井玄升の次男として誕生 / 本名:向井平次郎 / 父は後に京に上り宮中儒医として名声を博す / 去来も、当初医者を志す / 兄元端も宮中の儒医 / 去来と芭蕉の出会いは、貞亨元年、上方旅行の途中に京都生まれの江戸俳人和田蚊足(ぶんそく)が仲立ちし、去来と其角が先ず出会い、その其角の紹介で始まったという /「西国三十三ヶ国の俳諧奉行」とあだ名された様に京都以西の蕉門を束ねた / 嵯峨野に別邸落柿舎を持ち、芭蕉は此処で『嵯峨日記』を執筆 /『去来抄』は芭蕉研究の最高の書とされる
08 みねの雲すこしは花もまじるべし 野水(注1)
【意】花見に遣って来てみると、花咲く山の峰には雲が一面かかっている / あの雲の中にも花が混じって雲に見えている部分があるのであろう
【解説】季語:花=春 / 古来、花を見紛え、雲を花に見立てるは常套 /
(注1)岡田野水(おかだ やすい(?-1743)):埜水とも / 尾張名古屋の呉服豪商で町役人 / 通称:佐右次衛門 / 本名:岡田行胤 / 芭蕉が『野ざらし紀行』の旅で名古屋に逗留した時(1684年)の『冬の日』同人 / 其の頃野水は27歳 / しかし、この直後に妻と死別したらしい /『阿羅野』に多く採られている様に、湖南の門人や去来など上方の門人との交流も盛ん
09 はなのなか下戸(げこ)引(ひき)て来(く)るかいな哉(かな) 龜洞(注1)
【意】花見酒に酔っ払った上戸を担いで帰っていくのは決まって下戸の方なのだ
【解説】季語:はな=春 /
(注1)武井亀洞(たけい きどう((?)-1687):尾張名古屋の人 /『春の日』に初出 / 越人の弟子と言われている /『あら野』・『庭竈集』などに入句
10 下々(げげ)の下(げ)の客(きゃく)といはれん花の宿 越人(注1)
【意】譬え宗鑑には「下々の下」と言われようとも、今宵は此の花の下で一夜を明かそう
【解説】季語:花の宿=春 / 宗鑑は、「上の客人立ちかえり、中の客人日がへり、とまり客人下の下」と言ったという
(注1)越智越人(おち えつじん(1656-?)):北越の人 / 越智十蔵 / 別号:負山子、槿花翁など /『春の日』の連衆の一人、尾張蕉門の重鎮 /『更科紀行』に同行、其の儘江戸迄同道して一月後の作品『芭蕉庵十三夜』にも登場 / 芭蕉の、越人評は『庭竈集』「二人見し雪は今年も降りけるか」の句の詞書に、「尾張の十蔵、越人と号す。越後の人なればなり。粟飯・柴薪のたよりに市中に隠れ、二日勤めて二日遊び、三日勤めて三日遊ぶ。性、酒を好み、酔和する時は平家を謡ふ。これ我が友なり」とある通り、好感を持っていた /『笈の小文』で伊良子岬に隠れている杜國を尋ねた際も越人が同行
【小生 comment 】
次回は、俳諧七部集『あら野』から〔第03回/第11句~20句〕をご紹介する。お楽しみに!
■続いての話題は、11月07日:愛知県芸術劇場コンサートホール/『クリスティアン・ティーレマン指揮VPO演奏会』を聴いてについてお伝えする
其の日は、早めに仕事を終えて名古屋へ。
18時45分 愛知県芸術劇場コンサートホールにて開催された クリスティアン・ティーレマン指揮ウィーン・フィルハーモニーの演奏に拠る ブルックナー作曲/交響曲第8番〔ハース版〕を聴きに行って来た。
[01]名古屋駅前TAXI乗場の Neon Decoration
[02]愛知県芸術劇場コンサートホール 入口にて
[03]同上 入口入った所にて
[04]本演奏会 leaflet
[05]同上 演奏曲目
[06]本演奏会 tickets
[07]ホワイエにて 佐藤君と
[08]同上2
[09]開演前の演奏会場1
[10]同上2
[11]終演後 Encore 掲示板にて 小生
【小生comment】
一度聴いたら忘れることが出来ない程印象的な第2楽章 スケルツォ、雄大な曲想であり乍ら mellow な曲でもある演奏時間30分を要する第3楽章 アダージョ! ブルックナーの交響曲第8番は、全4楽章の演奏時間が90分間というスケールの極めて大きい名曲である。
今日も、旧行時代同期の佐藤君と一緒に至福のひとときを過ごすことが出来た。
二人で「大曲の後だから Encore はないだろうなぁ」と言っていたら、予想に反して、ヨハン・シュトラウス二世の弟 ヨーゼフ・シュトラウス作曲/ワルツ『天体の音楽』が演奏された。
奇しくも、『天体の音楽』は二人共に大好きな曲で、お互い満足感が増幅された。
来週11月13日(水)には、今日と同じ此処、愛知県芸術劇場コンサートホールにて、今日と同じ ブルックナーの交響曲第8番を、今度はズービン・メータ指揮BPOの演奏で、此れも又、佐藤君と一緒に聴けることを凄く楽しみにしている。
■続いての話題は、「11月09日:東京の2つの史跡&8つの美術館を巡って~【第1回】『柴又帝釈天』→『浅草寺』を巡って」をお届けする。
11月09日(土)に巡って来た史跡と美術館は以下の通り。
『柴又帝釈天』→『浅草寺』→「上野公園『四季桜』」→「東京都美術館『コート―ルド美術館』展」→「国立西洋美術館『ハプスブルク』展」→「上野の森美術館『ゴッホ』展」→「上野公園『西郷隆盛』像」→『旧・新橋停車場〔=新橋駅〕』→「『ラウル・デュフィ』展」→「東京国立近代美術館『特別展/鏑木清方/築地明石町』展」→「郷さくら美術館東京『「空-模様」日本画』展」→「Bunkamuraザ・ミュージアム『リヒテンシュタイン侯爵家の至宝』展」→「中村屋サロン美術館『荻原守衛』展」
【初日(11月08日)】
22時45分 拙宅発→自転車→
23時10分 豊橋駅前bus terminal着
[12]Bus terminal豊橋駅前にて1
[13]同上2
[14]ほの国号 往復tickets
[15]ほの国号1
[16]同上2
23時25分 豊橋駅前発→穂の国号(高速バス)→
【二日目(11月09日)】
05時25分 ほの国号 バスタ新宿に到着
[17]JR新宿駅外観
[18]JR新宿駅山手線外回りplatform(右側)
[19]JR西日暮里駅platform
[20]東京メト千代田線西日暮里駅platform
[21]同上=JR金町駅入口
[22]京成金町駅改札口
05時35分 新宿発→JR山手線外回り→05時54分 西日暮里着
06時35分 京成金町発→京成金町線→06時38分 柴又着
【柴又帝釈天1】
[23]柴又駅前広場の寅さん像とさくら像をbackに
[24]寅さん像と1
[25]さくら像と1
[26]同上2
[27]寅さん像と2
[28]寅さん像
[29]さくら像up
[30]柴又駅を back に
[31]民家庭先にあったフーテンの寅さんcharacter像
[32]帝釈天参道前にて
早朝なので、参道も閑だ
06時47分 柴又駅発→徒歩4分→
【柴又帝釈天2】
[33]草餅屋「とらや」
[34]帝釈天参道から柴又帝釈天山門をbackに
[35]帝釈天山門をbackに
[36]同上 本堂前にて1
[37]同上 本堂
[38]同上 山門脇に備え付けられていた「寅さん おみくじ」
[39]同上 おみくじは「大吉」と出た!1
[40]同上 拡大写真
[41]帝釈天境内案内図
[42]帝釈天出現由来碑 解説
[43]帝釈天出現由来碑
[44]水原秋櫻子の俳句碑
木々ぬらし 石う可ち つひに 春の海 秋櫻子
[45]帝釈天山門前にて
[46]柴又駅platformの駅名と時刻表
07時21分 柴又発→京成金町線→07時23分 京成高砂着
07時54分 上野発→東京メトロ銀座線→07時59分 浅草着→徒歩→
08時05分 浅草寺・雷門着
【金龍山 浅草寺】
[47]雷門にて
[48]金龍山浅草寺石碑にて
[49]閑散とした仲見世にて1
[50]同上2
[51]浅草寺 山門
[52]同上 本堂前にて1
[53]同上2
[54]本堂前で五重塔をbackに
08時35分 浅草寺本堂発→徒歩→
09時28分 東京都美術館着
■さて今日最後の話題は、前々号&前号に続き「四T」の第3回目 橋本多佳子(1899-1963) についてご紹介させて頂く
橋本多佳子の略歴は以下の通り‥
1899(明治32)年 01月15日 東京市本郷区龍岡町(現・文京区本郷)生まれ / 祖父は箏の山田流家元の山谷清風 / 菊坂女子美術学校(女子美術大学前身)日本画科入学するも病弱の為中退
1917年 建築家で実業家の橋本豊次郎と結婚 / 福岡県小倉市(現・北九州市小倉北区)に「櫓山(ろざん)荘」を建築し転居 / 高濱虚子来遊を期に句作を開始 / 杉田久女(1890-1946)に俳句指導を受ける
1924年 多佳子は此の年迄に4人の娘を出産
1927年「ホトトギス」雜詠に「たんぽぽの花大いさよ蝦夷の夏」が初入選
1929年 夫・豊次郎の父・料左衛門の死去に撚り大阪・帝塚山に転居 /
同年「ホトトギス」400号記念俳句大会(大阪、中央公会堂)にて久女に山口誓子を紹介される
1935年 01月より山口誓子(1901-94)に師事 / 同年4月 水原秋桜子主宰の「馬酔木」同人となる
同年5月 豊次郎と上海・杭州に旅行
1937年 帰阪後に豊次郎が発病、9月30日に逝去(享年51)
1939年 櫓山荘を手放す
1941年 第一句集『海燕』発表
1944年 奈良市あやめ池に疎開後、定住
1963年 肝臓、胆嚢癌により死去(享年64)
[55]晩年の橋本多佳子
【小生 comment 】
橋本多佳子は、杉田久女(1890-1946)に俳句指導を受け、1929年 杉田に山口誓子を紹介され1935年に師事1937年 夫 橋本豊次郎亡き後、俳人として歩んで行く
1944年 奈良市あやめ池に疎開後、奈良に定住した多佳子は、西東三鬼、平畑静塔、右城墓石ら「天狗」の中心的メンバーの男性詩人との交友を通じて「奈良句会(のちの日吉館句会)」に参加し、当時としては自由奔放な作風の作品を以下の通り残した
乳母車 夏の怒濤(どとう)に よこむきに 橋本多佳子
『紅絲』所収(昭和26年06月)
[56]「乳母車夏の怒濤によこむきに」をimageした画像
此の句は視覚的印象が鮮明で、現代のポップアートの様でさえある。大きな空間にぽつんと置かれた小さな乳母車。「よこむき」に拠って読者はあくまでも客観的に此の光景を眺めることになり、乳母車を押す人の視点は一句から消える。ひょっとしたら、乳母車は空っぽかもしれないと思わせる様な不安も漂い、恐らく作者が意図した以上に斬新な作品になっている。〔『鑑賞/女性俳句の世界~第2巻:個性派の登場』~橋本多佳子~(片山由美子著)より引用〕
【小生 comment 】
題材は『乳母車』であり女性的だが、句調は極めて男性的である。
西東三鬼、平畑静塔ら「天狗」の中心的メンバーの男性詩人との交友を通じていた頃の作品だからだろう。
祭笛(まつりぶえ) 吹くとき男(おとこ) 佳(よ)かりける 橋本多佳子
昭和24作『紅絲』所収(昭和26年06月)
[57]「祭笛吹くとき男佳かりける」をimageした画像
夏祭の衣装に身を固めた男が、祭の囃子の笛を吹いている。若者でもいいが、渋い中年でも成り立つ。「男佳かり」と言い切る大胆さは、作者の年代の女性の言葉としては余程新鮮だったろう。〔『聞いて楽しむ 俳句(厳選名句)』(辻桃子&安部元気【編著】)〕
【小生 comment 】
此の句も、健全な eroticism を感じる。
橋本多佳子面目躍如の名句だと思う。
雄鹿(おじか)の前 吾(われ)もあらあらしき息(いき)す 橋本多佳子
『紅絲』所収(昭和26年06月)
[58]「雄鹿の前吾もあらあらしき息す」をimageした画像
交尾期を迎えた雄鹿が、雌を恋うて荒々しい息をしている。其の鹿の前で、自分も息を弾ませているという erotic な句。奈良公園の鹿に託して、夫への恋情を詠んだ句と云われている。〔『聞いて楽しむ 俳句(厳選名句)』(辻桃子&安部元気【編著】)〕
【小生 comment 】
1937年の夫の死から10年以上経っている時の俳句だから、多佳子は五十路を迎える直前の頃の句である
が、彼女の艶やかさは些かも衰えず、寧ろ此の頃が最高潮と言えるのではなかろうか
雪(ゆき)はげし 抱(だ)かれて息(いき)の つまりしこと 橋本多佳子
『紅絲』所収(昭和26年06月)
[59]「雪はげし抱かれて息のつまりしこと」をimageした画像
(前句の「雄鹿の前吾もあらあらしき息す」と同じく)「多佳子の感情の激しさ」をいうのは容易い。〔中略〕(此処で)多佳子がこうした傾向の作品をつくった背景を考えてみたい。此の頃多佳子は、西東三鬼((1900-62) 1925年 日本歯科専門学校卒 / 1935年04月 平畑静塔らの招請で『京大俳句』に参加 / 1948年 山口誓子を擁して『天狗』創刊 / 1956年 角川書店『俳句』編集長)、平畑静塔((1905-97)京都大学医学部卒 / 1933『京大俳句』創刊者の一人)、右城墓石(うしろぼせき(1899-1995) 1949年『天狗』同人)など、「天狗」の中心的メンバーであった男性詩人に一人混じって、奈良句会(のちの日吉館句会に参加していた。炬燵に雑魚寝をし乍ら夜を徹することもあったという此の句会で、多佳子は男性と対等に渡り合うことで自身を鍛えようとした。男たちの鼻を明かしてやりたいという思いも強かった筈である。〔中略〕一連の作品はそういう句会で生まれたことを無視する訳にはいかない。多佳子は迸(ほとばし)り出る感情や情念を表現する為に俳句が必要だったのではなく、俳句を作ることによって、或いはその為に自己の内奥の感情を引き出したのである。〔『鑑賞/女性俳句の世界~第2巻:個性派の登場』~橋本多佳子~(片山由美子著)より引用〕
【小生 comment 】
今回ご紹介した 橋本多佳子 の代表作4句のうち、後半の3句は、異性としての男を意識した女の内面的感情を表している。
美人の誉れ高い橋本多佳子が詠んだ俳句だからこそ、此れ等の句は輝きを放っている。
此れ等の句を詠み返してみたが、「此の世は『男と女』が繰り広げる絵巻物」だな、と改めて感じた。
では、また‥〔了〕
*
ブログへは【0626】号迄のback numberはURL:http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog←此処をclickして下さい
*
0 件のコメント:
コメントを投稿