■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。今日も【時習26回3−7の会 0852】号をお届けします。
今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『あら野』から〔第70回/巻之八~第681句~690句〕」をご紹介する。
平等施(びゃうどうせ)一切(いっさい)(注1)
(注1)平等施一切:浄土宗系の仏事・読経の最後に唱える総回向文「願以此功徳。平等施一切。同発菩提心。往生安楽国〔【意】願わくは此の経文の功徳を以て一切の衆生が等しく往生出来る様に〕」の一句
681 攝待(せったい)にたヾ行(ゆく)人(ひと)をとヾめけり 俊似(注1)
【意】摂待所前を通り過がる人々に湯茶を設け留める /「摂取不捨(注2)」の阿彌陀様の教えを実践しようというすることで、己(おのれ)の成仏を願う
【解説】季語:摂待=初秋 /
(注1)伊藤俊似(いとう しゅんじ(生没年不詳)):尾張国津島の人
/『あら野』に多数入句
(注2)摂取不捨(せっしゅふしゃ):阿弥陀仏が慈悲に撚り、念仏をする衆生を一人も見捨てずに極楽浄土へ迎え入れること
682 稲妻(いなづま)に大佛(だいぶつ)お(=を)がむ野中(のなか)哉(かな) 荷兮(注1)
【意】野中を歩いていると突然夕立に遭遇 / 一瞬の稲妻光で野中の空に大仏が浮かび上がった
/ 其の方角を向いて闇の中で合掌し拝んだ
【解説】季語:稲妻=三秋 /
(注1)山本荷兮(やまもと かけい(1648(?)-1716.10.10(享保元年08月25日(享年69歳))):本名:山本周知 / 尾張国名古屋の医者 / 通称:武右衛門・太一・太市
/ 別号:橿木堂・加慶 / 1684(貞亨元)年以来の尾張国名古屋蕉門の重鎮
/ 後年、内紛に撚り芭蕉と袖を分かつ / 荷兮のstanceは保守的で、芭蕉の唱導した俳諧革新、中でも「軽み」には迎合出来なかった
/ 離反前は、『冬の日』、『春の日』、『阿羅野』等の句集を編纂 /芭蕉が『更科紀行』出立に際しては、奴僕を提供する等、旅の安全も支援している
683 垣越(かきごし)に引導(いんだう)(注1)覗(のぞ)くばせを(注2)哉(かな) 卜枝(注3)
【意】葬礼の場の垣根の向こうより芭蕉の大きな葉が伸びて風に揺れている / 折りしも葬儀の最中で導師が死者に引導を渡している処で、芭蕉の葉は恰も其の導師の法話を拝聴している様に揺れている
【解説】季語:ばせを=初秋 /
(注1)引導:誘引開導 / 葬儀の時、導師が死者を済度(さいど(=仏・菩薩が衆生を救済し涅槃に渡らせること))する為、転迷開悟(てんめいかいご(=煩悩が齎す迷い・悩みを捨て、涅槃の悟りを得ること))の法語を説くこと
(注2)ばせを(=芭蕉):寺院等に多い
(注3)卜枝(ぼくし(生没年不詳)):近江国の人 / 後に尾張国津島の蓮花寺に寓居していたと伝わる
/ 貞門に入門後、蕉門に / 俳号は遠方とも /『あら野』などに入句
ある人四時(しいじ)の景物(注1)なりとて、水鶏を鶉とを不食(くはず)、
不図(ふと)其心(そのこころ)を感じて、我(われ)も鴈(かり)をくらはず
(注1)四時(しいじ)の景物(けいぶつ):四季を代表する趣ある者
(注2)水鶏(くひな)と鶉(うずら):夏と秋の代表的な鳥として和歌以来文芸に詠まれる
684 雁(かり)くはぬ心(こころ)佛(ほとけ)にならはぬぞ 荷兮
【意】或る人が水鶏とウズラを食わないのは、其れが歌等に多く詠まれているからなので、私も雁を食わないことにする
/ 雁は、秋の歌に多く詠まれているからであって、私は仏教の教えに従う訳ではないのだ
【解説】季語:雁=晩秋 /
ある寺の興行(こうぎゃう)に
685 燕(つばくら)も御寺(みてら)の鼓(つづみ)かへりうて 其角(注1)
【意】秋になって南の国へ帰る燕たちよ、もう一度引き返して此の寺の太鼓を打ち鳴らしてくれないか
【解説】季語:燕=仲春 /1688(貞亨05)年、其角は尾張国名古屋の浄土真宗浄教寺で歌仙を巻いた際の作
(注1)宝井其角(たからい きかく(寛文元年07月17日(1661.08.11)~宝永04年02月29日(1707.02.29))):江戸下町堀江町(=お玉が池説あり)に、近江国膳所藩御殿医者竹下東順の長男として生まれる / 医者を志す傍ら、文芸・四書五経等にも精通 / 延宝年間(1673-81)の初めの頃、父の紹介で蕉門に入門 / 長ずるに及び、蕉門第一の門弟となる / 早くから華街に足を踏み入れて、蕉門きっての放蕩児でもあった
/「赤穂事件」では、浪士側に立って彼等を支援 / 芭蕉(1644-94)との関係も、ambivalentな面が多く、尊敬し合う関係と同時にrivalとしての感情も強く持ち合わせていた
/「古池」の句の考案中、芭蕉は「蛙飛び込む水の音」と中七・座五は出来たが上五に苦心していた時、其れを其角に話すと、其角は即座に「山吹や」と付けたと言う芭蕉と其角の芸風の相違を良く表す逸話が残っている
/ 近江国出身の父親の影響もあり、其角は上方文化にも精通 / 屡々関西を訪問、其の際知り合った向井去来(1651-1704)を蕉門に誘うこともした
/ 上方旅行中に芭蕉の危篤を知り、江戸蕉門の中で唯一芭蕉の死に立ち会った / 彼自身も47歳の若さで早逝
686 進(すすみ)み出(いで)て坊主(ばうず)お(=を)かしや月(つき)の舟(ふね) 一井(注1)
【意】観月の舟の中で一人の僧侶が座中に進み出て洒脱な話を始めた / 大変興趣の湧く観月の会だ
【解説】季語:月の舟=秋 /
(注1)一井(いっせい(生没年不詳)):尾張国名古屋の門人 /芭蕉は、1688.01.11(貞亨04年12月9日)、『笈の小文』の旅の途次、一井宅に招かれ、「旅寝よし宿は師走の夕月夜」を発句に熱田の蕉門らと七吟半歌仙(熱田三歌仙)巻いた
687 鉢(はち)の子(こ)(注1)に木綿(きわた)(注2)をうくる法師(ほふし)哉(かな) 卜枝
【意】托鉢層が立ち寄ったのは木綿を収穫真っ最中の農家 / 其処では布施するものが無いのであわてて収穫したばかりの木綿を差し出した
/ 僧侶は、其れをおもむろに鉢の中に入れる
【解説】季語:木綿=三冬 /
(注1)鉢の子:托鉢僧が施物を受ける鉢
(注2)木綿(きわた):もめんわた / 秋季に収穫する
人のもとにありて、たち出(いで)むとしけるに、またしぐれければ
688 衣(ころも)着(き)て又(また)はなしけり一(ひと)時雨(しぐれ) 鼠彈(注1)
【意】「其れでは‥」と暇(いとま)を告げ法衣を着て帰ろうとしたら急に時雨が遣って来た / 引き止められた僧侶は、衣(=法衣)を着た儘正座して話し込んでいる
【解説】季語:一時雨=初冬 /
(注1)鼠弾(そだん(生没年不詳)):尾張国名古屋浄土寺の僧侶 /『あら野』・『あら野後集』・『其袋』等に入句
鎌倉の安國論寺(あんこくろんじ)(注1)にて
(注1)安國論寺:日蓮宗寺院 / 日蓮が立正安国論を著した寺と伝わる
689 たう(=ふ)とさの涙(なみだ)や直(すぐ)に氷(こほ)るらん 越人(注1)
【意】日蓮が五年の歳月をかけ著した「立正安国論」を書いたと聞き有り難さに涙が出るが、此の寺の厳しい寒さの為其の涙も直ぐに凍って仕舞うことだろう
【解説】季語:氷る=三冬 /
(注1)越智越人(1656-1739(?)):北越の人 / 越智十蔵 / 別号:負山子、槿花翁など
/『春の日』の連衆の一人、尾張蕉門の重鎮 /『更科紀行』に同行、其の儘江戸まで同道 / 一月後の作品『芭蕉庵十三夜』にも登場/『鵲尾冠』・『猫の耳』等 / 芭蕉は、越人に対して実に好感を持っていた
/『笈の小文』で伊良子岬に隠れている杜国を訪ねた時にも越人が同行している
古寺(こじ)(注1)の雪
(注1)古寺:此の「古寺」は由緒正しい寺の意というより今にも倒れそうな「ふるでら」の意と解すべき
690 曙(あけぼの)(注1)や伽藍(がらん)(注2)伽藍の雪見(ゆきみ)廻(ま)ひ 荷兮
【意】雪の夜明け、寺の僧侶たちは寺中の建物一つひとつを巡回する
/ 古寺の為、何時雪の重みで倒れないとも限らないから
【解説】季語:雪見(ゆきみ)廻(ま)ひ=晩冬 /
(注1)曙(あけぼの):夜明けの時刻 / 薄明の頃 / 和歌では白いものとして詠まれる
(注2)伽藍(がらん):寺院の構築物
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【小生 comment】
次回は、俳諧七部集『あら野』から〔第71回/巻之八~第691句~700句〕をご紹介する。お楽しみに!
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■続いては、02月20日(土)に、旧東海道「今在家〔今郷〕一里塚跡」→JR草津線「石部駅」→ 近江鉄道本線「水口石橋駅」→「水口城跡・水口城資料館」→旧東海道「林口一里塚跡」→「北脇縄手・松並木石碑」→旧東海道「泉一里塚跡」→同「横田渡跡」→同「夏見一里塚跡」→同「石部一里塚跡」を〔23km 30,093歩〕巡り歩いて来たことについてお伝えする
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03時00分 起床→腹筋2,000回→
03時45分 2.5kg木刀素振り50分
04時30分 入浴→朝食→
04時57分 拙宅発→一般道→湾岸長島IC→ 伊勢湾岸 →東名阪→新名神→甲賀土山IC〔料金1,100円〕→一般道→3時間08分 156㎞→
07時05分 旧東海道「今在家〔今郷〕一里塚跡」着
07時15分 同所発→一般道17km25分→
07時59分 JR草津線「石部駅」近隣駐車場着
07時55分 JR草津線「石部駅」着
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【旧東海道「今在家〔今郷〕一里塚跡」】
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此の日最初の訪問地の旧東海道「今在家〔今郷〕一里塚跡」は、先週眼前を気付かず通過してして仕舞ったので、先ず訪れた
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[01][左上] 旧東海道「今在家〔今郷〕一里塚跡」同所にて1
[右上]同 同上2
[左下]同 同上3
[中下]同 同上4
[右下]同「今在家〔今郷〕一里塚跡」解説板
【旧東海道「今在家〔今郷〕一里塚跡」→JR草津線「石部駅」】
[02][左上]水口地域一里塚解説板
[右上]同 同所街並
[左下]同 一里塚跡を back に
[中下]同 JR草津線「石部駅」にて1
[右下]同 同上2
08時19分 JR石部駅発→JR草津線→
08時33分 JR貴生川駅着
【JR草津線「石部駅」→「貴生川駅」】
[右上]同 platform にて1
[左下]同 同上2
[中下]同 JR草津線「車内」
[右下]JR貴生川駅 platform
08時41分 近江鉄道本線貴生川駅発→
08時47分 近江鉄道水口石橋駅着
【近江鉄道本線「貴生川駅」→同「水口石橋駅」→旧東海道水口宿石橋】
[04][左上]近江鉄道本線「貴生川駅」platform にて
[右上]同 platform 風景
[左下]同 車内
[中下]近江鉄道本線「水口石橋駅」platform
[右下]同「水口石橋駅」に東へ程近い旧東海道水口宿石橋にて
【旧東海道水口宿石橋】
[右上]同 同所にて
[左下]同 三筋(みすじ)の町西端入口
[中下]同 同所にて1
[右下]同 同上2
【旧東海道水口宿石橋→水口城跡へ】
[06][左上]旧東海道水口宿 三筋(みすじ)の町解説1
[右上]同 同上2
[左下]同 近江鉄道本線「水口石橋駅」を出た電車
[中下]同 水口城跡 Google 航空 map
[右下]同 水口城跡近くにある歌川広重東海道五十三次之図「水口」〜「名物 干瓢」
09時38分 水口城跡着
【水口城跡・水口城資料館】1
此の城は、江戸幕府の第3代将軍家光上洛の為に作られたもので、将軍家光が一回利用しただけだという
1682(天和03)年、賤ヶ岳七本槍の一人で、現存する【重文】12天守閣の一つ伊予松山城を造った加藤嘉明(1563-1631)の孫の加藤明友(1621-1684)が二万石で立藩
[07][左上]水口城跡近くにある甲賀市合併の碑
[右上]水口城跡を back に1
[左下]同上2
[中下]同上3
[右下]水口城資料館外観1
2011年03月以来2度目の訪問となる此の水口城資料館を再訪して良かった
実は、水口石橋駅から「水口宿」→「石部宿」の旧東海道を歩いているつもりが、水口城築城のため東海道は大きく北側に迂回させられていて、其の経路を未通過であることに水口城跡の次の訪問地「林口一里塚跡」を訪れた際に気付いたのだ
林口一里塚跡が、其れ迄旧東海道だと思い歩いていた街道より二筋程北側にあったことで其れ迄歩いていた道が間違えていたことに気付くことが出来た
結果的に当初予定より2.5km程多く歩いたことになる
[右上]水口城資料館内 旧東海道解説DVD
[左下]同 水口城本丸 復元模型1
[中下]同 同上2
[右下]同 夕顔の実「干瓢(かんぴょう)」
10時10分 水口城資料館発→
10時35分 五十鈴神社・林口一里塚跡着
【水口町城内→五十鈴神社】
[09][左上]旧東海道「水口宿」廣小路町石碑にて
[右上]同 街並1
[左下]同 五十鈴神社 同神社の由緒
[中下]同 同 拝殿前にて
[右下]同 同 境内に咲いている紅梅の花
【五十鈴神社】
[10][左上] 旧東海道「水口宿」五十鈴神社 同神社の大木檜(ヒノキ) 同解説板
[右上]同 同 同[左下]同 同 林口の 勧請縄 解説板
[中下]同 同 同所にて
[右下]同 同 鳥居前にて
【旧東海道「林口一里塚跡」→旧東海道水口宿迂回上の力石】
[11][左上]旧東海道「林口一里塚跡」同所にて1
[右上]同 同 同上2
[左下]同 同 同上3
[中下]同 同 解説碑
[右下]同所を後にして throughして仕舞った旧東海道を歩き見つけた「力石」
【旧東海道「水口宿」西林口→同「同」北脇】
[右上]同 街並〔西林口〕にて1にて1
[左下]同 同上にて2
[中下]同「北脇縄手と松並木」解説石碑にて
[右下]同〔北脇〕田圃の畔に咲いた菜の花
【旧東海道「水口宿」北脇→ 同「同」泉へ】
旧東海道は、此れ迄歩いて来て歴史を感じさせるモノが多いと感じているが、此の道祖神の様なものが地元の人たちに大切にされている近江国の風土が特に素晴らしいと思った
[右上]同 街並風景〔北脇〕1
[左下]同 同上2
[中下]同 同所にて
[右下]同 街並風景〔泉〕へ
【旧東海道「水口宿」泉街並→ 同「同」泉にある道標】
[14][左上]旧東海道「水口宿」街道傍の末社〔泉〕
[右上]同 街並「水口宿」〔泉〕1
[左下]同 同所にて
[中下]同 街並「水口宿」〔泉〕2
[右下]同 街並「水口宿」〔泉〕の道標
12時30分 旧東海道「泉一里塚跡」着
【旧東海道「泉一里塚跡」北脇→ 横田渡跡へのGoogle
航空 map】
[右上]同 同所にて1
[左下]同 同上2
[中下]同 同上3
[右下]同 同所→「横田渡跡」へのGoogle 航空 map
「泉一里塚跡」から「横田渡跡」迄は、僅か100m余りだ
12時43分 旧東海道「横田渡跡」着
【旧東海道「横田渡跡」】
[16][左上]旧東海道「横田渡跡」入口にて
[右上]同 同所解説板 同所前にて
[左下]同 同
[中下]同 常夜灯前にて
[右下]同 野洲(やす)川を back に同所にて
【旧東海道「(湖南市)三雲」街並】
[17][左上]微妙大師萬里小路藤房卿墓所石碑にて
[右上]「(湖南市)三雲」街並 風景1
[左下]同上にて1
[中下]同上にて2
[右下]Google 航空 map で見た同所
【旧東海道「三雲」→同「夏見」街並】
[18][左上]「(湖南市)三雲」街並 風景2
[右上]同 同上3
[左下]同 街道傍の道標にて
[中下]「(湖南市)夏見」街並 風景1
[右下]同 同上2
14時54分 旧東海道「夏見一里塚跡」着
【旧東海道「夏見一里塚跡」】
[右上]同 同所にて1
[左下]旧東海道「夏見一里塚跡」解説板
[中下]同 同所にて1
[右下]同 同上2
【旧東海道「夏見」街並】
[右上]同 同上2
[左下]同 風景4
[中下]同 同上5
[右下]同 同上6
【旧東海道「針」街並】
[21][左上]旧東海道「針」街並 同所にて1
[右上]同 同上2
[左下]同 同上3
[中下]同 風景
[右下]同 同所にて4
【旧東海道「(湖南市)平松」→「石部宿」石碑】
[22][左上]旧東海道街並〔(湖南市)平松〕
[右上]同 旧石部宿石碑傍〔(湖南市)石部中央〕にて1
[左下]同 同上2
[中下]同 同上3
[右下]同 旧石部宿「歌川広重東海道五十三次 石部宿 川ノ里」案内板にて
17時00分「石部宿・小島本陣跡」着
17時12分 旧東海道「石部一里塚跡」着
【旧東海道「石部宿小島本陣跡」→同「石部一里塚跡」→「JR石部駅」へ】
[23][左上]旧東海道「石部宿小島本陣跡」同所にて1
[右上]同 解説板
[左下]旧東海道「石部一里塚跡」解説板
[中下]同 同所にて
[右下]踏破距離 23km 30,093歩
18時20分 JR石部駅近隣駐車場発→一般道→甲賀土山IC→新名神→東名阪→伊勢湾岸→湾岸長島IC〔料金1,100円〕→一般道→172km→
21時05分 帰宅〔走行距離計 346km〕
昨(2020)年10月25日に、旧東海道「舞坂宿」から始めた「京都三条」迄の walking の 旅も、「草津宿」と「大津宿」の2宿場町を残すのみとなった
因みに、利用した高速道路料金は、工夫して安価に収めた
通常通り、音羽蒲郡IC-甲賀土山IC間を平日利用すると 3,820円要する
往復 7,640円かかる処を往復 2,200円で済んだから、少し早起きして実施日を金曜日から土曜日に変更しただけで 5,440円節約出来たのである
ほぼ毎週のことだから、此の差は大きい!
次回「石部宿」→「草津宿」の旅も楽しみにしている(了)
【情緒ある石部宿〔追加編(湖南市針・同市石部東・石部西〕】
[24][左上]旧東海道街並〔(湖南市)針〕
[右上]旧東海道街並〔(湖南市)石部東〕から蝋梅の花
[左下]同〔同〕から紅梅の花1
[中下]同〔同〕同上2
[右下]旧東海道街並〔(湖南市)石部西〕
オマケの追加編だけど、日本の風景は実に美しい!
此の様な四季折々の情緒ある美しい風景を見るにつけ、日本人に生まれた幸運を神様に感謝している〔了〕
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◼️02月23日(火)の話である
今日は、週一回の公休日
午前中は、ゆっくり起きて、毎朝の腹筋と木刀素振りをし、Beethoven Symphony No.1 & No.8 他を聴いて過ごした
【豊橋市美術博物館『色辞典』展】
午後は、勤務先施設に毎週絵画教室を教えに来て頂いている田中絵里加先生から、今日02月23日(火祝)~28日(日)迄、豊橋市美術博物館で開催される「色辞典〔NHK色えんぴつ口座展覧会〕」に招待されたので見て来た
世の中、実に狭いものである
因みに、田中先生は、昨年、豊橋市主催のコンクールで、市民大賞を受賞された大家である
会場の受付で、八町小学校・豊城中学校で classmate だった山口〔小山〕里美さんに昨年正月の豊城中学校同窓会以来の再会をした
山口さんは、「田中先生のお父さんと私は高校時代の同級生なの」と教えてくれた
山口さんの作品が数点、田中先生の作品1点、全部で三十数点展示されていたと思う
山口さんの、林檎の絵が秀逸だった
絵画展を見た後、会場を出て直ぐの所に、NHK朝の連続テレビ小説「エール」cornerがあったので、主人公の二人他の皆さんの写真の前で記念撮影をした
[右上]同 同館入口にて
[左下]同 NHK朝の連続テレビ小説「エール」伊古部の海岸sceneをbackに
[中下]同 同 主人公二人の写真と
[右下]同 同 主人公はじめ主要出演者の写真と
続いて、向かったのは豊川市桜ヶ丘ミュージアム
豊川市〔旧宝飯郡小坂井町〕出身の日本画家巨匠 平川敏夫の展覧会を見て来た
【豊川市桜ヶ丘ミュージアム『没後15年
平川敏夫』展】
[26][左上]豊川市桜ヶ丘ミュージアム 入口にて
[右上]同 入口近くにある山本眞輔『街の朝』1994年にて
[左下]同 同館内『平川敏夫』corner入口にて
[中下]同 本企画展 leaflet / 絵は、平川敏夫『豊川河畔竹草叢』1999年
[右下]同 平川敏夫『奥浜名残照』1999年
但し、本絵画は展示作品と酷似しているが別作品
名画は、本当に素晴らしい
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◼️続いての話題は、02月24日に勤務先の感染症対策訓練に参加したことについてである
大変勉強になった!
[27][左上]コロナウィルス感染症対策用に、cap、face-shield、surgical-mask、apron、二重の gloves を纏った小生1
[右上]同上2
[左下]二重の gloves を纏った小生の 右手
[中下]zoning を示した案内等
[右下]手指消毒用 alcohol
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◼️同日、帰宅してからの話
仏間に入ったら、今から40年近く前の昭和57〜61年の4年間、旧行仙台支店時代に蒐集した、東北地方の鳴子をはじめとするこけしや、東北三大駒〔八幡(=青森県八戸市)・木下(=仙台市)・三春(=福島県郡山市)& チャグチャグ馬コ(=岩手県滝沢市・盛岡市)〕、オダカポッポ(=山形県米沢市)を目にして暫し懐かしんだ
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[左下]東北三大駒〔八幡(左端)、木下(左から2番目)・三春(左から3番目)& チャグチャグ馬コ(右端)〕
[中下]米沢の オダカポッポ 1
[右下]同上2
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[左]昭和57年7月の休日、当時得意先係で担当取引先であった青葉城本丸会館前の有名な伊達政宗像の前にて
[右]昭和58年5月5日、まだ残雪の残る蔵王山のお釜を back に
当時、100年プリントの写真でないと此れ程迄に変色して仕舞う
では、また‥〔了〕
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