2021年2月2日火曜日

【時習26回3−7の会 0848】~「松尾芭蕉:俳諧七部集『あら野』から巻之七〔第66回/第641句~652句〕」「01月23日(土):「JR関駅」→「JR加佐登駅」→「庄野宿資料館」→「庄野宿本陣跡」→「中冨田一里塚〔川俣神社〕」→「JR井田川駅〔日本武尊・弟橘媛〕」→「和田一里塚跡」→「亀山城趾〔多門櫓〕」→「亀山宿 京口門跡」→「忍山(おしやま)神社」→「野村一里塚跡」→「JR関駅」→「能褒野神社」を巡り歩いて 」「01月27日(水):名都美術館『特別展・愛知県立芸術大学退任記念/北田克己(1955- 9)』展→古川美術館『Your Best Collection あなたと選ぶ古川美術館の名品』展→らあめん専門店陣屋『陣屋』→桑山美術館『菓子のうつわ』展を巡って見て」ほか‥

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。今日も【時習26回37の会 0848】号をお届けします。
 今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『あら野』から〔第66回/巻之七~第641句~652句〕」をご紹介する。

  ある人(ひと)()うしなはれける時(とき)(まうし)(つかは)

641あだ花(ばな) (1)の小()(うり)とみゆるちぎりかな  荷兮(2)

【意】瓜の弦(つる)に咲いた実をつけないあだ花 / 成人することなく亡くなったお子さんは小瓜のあだ花のように散って仕舞いましたネ

【解説】季語:瓜=晩夏 /
(
1)あだ花(ばな):咲いても実を結ばない花
(2)山本荷兮(やまもと かけい(1648(?)-1716.10.10(享保元年0825(享年69))):本名:山本周知 / 尾張国名古屋の医者 / 通称:武右衛門・太一・太市 / 別号:橿木堂・加慶 / 1684(貞亨元)年以来の尾張国名古屋蕉門の重鎮 / 後年、内紛に撚り芭蕉と袖を分かつ / 荷兮のstanceは保守的で、芭蕉の唱導した俳諧革新、中でも「軽み」には迎合出来なかった / 離反前は、『冬の日』、『春の日』、『阿羅野』等の句集を編纂 /芭蕉が『更科紀行』出立に際しては、奴僕を提供する等、旅の安全も支援している

 世()をはやく妻(つま)のみまかりける比(ころ)

642 水無月(みなづき)の桐(きり)の一葉(ひとは)(1)と思(おも)ふべし  野水(2)

【意】初秋七月に秋の到来を告げて散る桐の一葉が、まだ七月になるぬ、六月のうちに散って仕舞った様な、あまりに早い、貴女(=野水の妻)の死であった / 貴女自身もそう思っているであろう / 自分もそう思う /
 水無月(6)は夏の盛りなので桐の葉は落ちない / なのに君は六月に死んだ / 人生盛りの貴女の死は、恰も六月に桐の葉が落ちる様な有り得ない死だった
【解説】季語:水無月=晩夏 / 野水の妻が亡くなったのは野水30歳過ぎの若い時であった / 野水の妻は、貞享050721
(1)桐一葉(きりひとは):「一葉落チテ天下秋ヲ知ル」(淮南子)に拠り「桐の葉の落葉」は「初秋」を告げるもの

(2)岡田野水(おかだ やすい(1658(?)-1743.04.16(寛保030322))):埜水とも / 尾張国名古屋の呉服豪商で町役人 / 通称:佐右次衛門 / 本名:岡田行胤 / 芭蕉が『野ざらし紀行』の旅の途次、名古屋逗留(1684)時の『冬の日』同人で、当時彼は27歳の男盛り / 近江蕉門や去来等、上方の門人とも親交を重ねた

  
辞世(じせい)

643 あはれ也(なり)灯篭(とうろ()) (1)(ひと)つに主(ぬし)コ齋(さい)(2)  -

【意】盆の飾りの灯篭に、作成者である自分(コ齋)の名前が刻んである / 間もなく私が供養される彼方側に参るのだと思うと、少々哀れさを感じなくもない
【解説】季語:灯籠(とうろ・とうろう)=初秋 /
(1)灯籠:盂蘭盆会に精霊供養の為に点(とも)す灯籠
(2)コ齋(さい):此の句の作成者岡田野水のこと

  子()にをくれ(1)ける比(ころ)

(注1)をくれ:正しくは「おくれ」

644 ()た顔(かほ)のあらば出()てみん一(ひと)(をど)  落梧(1)

【意】死んだ我が子に似た顔の子が一人でもあるならば、今、家の前を練る盆踊りの一行を見に、駆け出しもするのだが‥
【解説】季語:躍(をど)り=初秋
(1)安川落梧(やすかわ らくご((1652(?)-1691)元禄0405(享年40)))1688(貞亨05)年以来の美濃国の門人 / 通称:助右衛門 / 呉服商を営む萬屋(よろずや)の主人 /『笈日記』等に入集 /『瓜畠集』を編集するも病魔に倒れ未完に / 長良川に近い稲場山城の山陰に別邸を持ち、『笈の小文』の旅の途次、芭蕉は此処へ立ち寄っている /「奥の細道」に出立する直前の元禄020323(1689.05.12)に、芭蕉は落梧宛に紙一束受贈の礼状を書いており、これが「奥の細道」出発の日付確定に貢献したという「功績」がある

  一原野(いちはらの)(1)にて

(1)一原野(いちはらの):現・京都市左京区静市市原町 / 補陀落寺(ふだらくじ)があり、小野小町塔と画像と称するものを伝えていた(雍州府志)

645 をく(1)(つゆ)や小町(こまち)がほね(2)の見事(みごと)さよ  釣雪(3)

【意】深く露の置く市原の野を歩く / あの小町の骸骨は、此の様な露に朽ち果てることもなく、其の眼窩(がんか(=目玉の穴))から薄を生え出させていたというのであろうか
【解説】季語:露=三秋 /
(1)をく:正しくが「おく」
(2)小町(こまち)がほね(=ほね):小町「秋風のうち吹くごとにあなめあなめ」、業平(なりひら)「小野とはいはじすすきおひけり」と伝承の唱和にいう小町の髑髏を、此の市原にあったものと解した
(3)大橋釣雪(おおはし ちょうせつ(生没年不詳)):尾張国名古屋の大橋左衛門 /『あら野』等に入句

  (つま)の追善(ついぜん)

646 をみなえし(1)しで(=死出)の里人(さとびと)それたのむ  自悦(2)

【意】自分も亡き妻の後を追いたいが、それが儘ならぬ / ついては里の人たちよ、妻の死の旅を助けてやってくれ
【解説】季語:をみなへし=初秋 / 謡曲「女郎花」は、小野頼風の妻が夫の誠意を疑って自殺し、夫も又やがて妻の後を追う事件を語るもの / 前シテは頼風の霊が老人となって現れ出て来たもの
(1)をみなえし:「をみなえし」には、謡曲『女郎花』の主題が隠されているのである / 小野頼風の妻は夫の不実を疑って自殺をする / 不実を晴らすとして頼風も後を追って死ぬ
(2)浜川自悦(はまかわ じえつ):山城国 京の人 / 北村季吟(1625.01.19(寛永元年1211)-1705.08.04(宝永020615)門下の談林派俳人

  李下(りか)(1)が妻(つま)のみまかりしをいたみて

(1)李下(りか):江戸の人(生没年不詳) / 彼の妻は、元禄元年の歳旦(=元旦)に「ゆき」と名があり発句も見える / 同年秋に逝去か

647 ねられずやかたへひえゆく北(きた)おろし  去来(1)

【意】日ましに冷たさを増す北山おろしの風が、此の秋は一段と、貴女の夜の床にこたえるでしょうネ / あの様に琴瑟(きんひつ)(あい)和して仲睦まじかった奥方を失って
【解説】季語:ひえゆく=晩秋 / 芭蕉にも彼女の死を悼む「被き伏す蒲団や寒き夜やすごき」がある / 去来の作品も全く同じ動機と内容を持っている / 李下の妻も才能のある人だったらしく、同好の士であった
(1)向井去来:肥前国長崎に儒医向井玄升の次男として誕生 / 本名:向井平次郎 / 去来と芭蕉の出会いは、貞亨元年、上方旅行の途中に仲立ちする人 (京都生まれの江戸俳人和田蚊足<ぶんそく>)があって去来と其角がまず出会い、その其角の紹介で始まったとされている / 嵯峨野に別邸落柿舎を持ち、芭蕉は此処で『嵯峨日記』を執筆 /『猿蓑』同人

  コ齋(さい)(1)()まかりし後(のち)

(注1)コ齋:「〔前掲〕643 あはれ也灯篭一つに主コ齋」の作者 / 貞享05年没 / 其角著花摘に拠れば、1690.08.25(元禄030721)にコ齋の三回忌にあたり浅草誓願寺念仏堂に参り悼句を手向けている

648 その人の鼾(いびき)さへなし秋のくれ  其角(1)

【意】秋の夕暮れの寂しさよ / 殊更にあのコ齋が亡くなり、あの「鼾(いびき)」が聞けなくなってからというものは‥
【解説】季語:秋のくれ=三秋 /
(1)宝井其角(たからい きかく(寛文元年0717(1661.08.11)~宝永040229(1707.02.29))):江戸下町堀江町(=お玉が池説あり)に、近江国膳所藩御殿医者竹下東順の長男として生まれる / 医者を志す傍ら、文芸・四書五経等にも精通 / 延宝年間(1673-81)の初めの頃、父の紹介で蕉門に入門 / 長ずるに及び、蕉門第一の門弟となる / 早くから華街に足を踏み入れて、蕉門きっての放蕩児でもあった /「赤穂事件」では、浪士側に立って彼等を支援 / 芭蕉(1644-94)との関係も、ambivalentな面が多く、尊敬し合う関係と同時にrivalとしての感情も強く持ち合わせていた /「古池」の句の考案中、芭蕉は「蛙飛び込む水の音」と中七・座五は出来たが上五に苦心していた時、其れを其角に話すと、其角は即座に「山吹や」と付けたと言う芭蕉と其角の芸風の相違を良く表す逸話が残っている / 近江国出身の父親の影響もあり、其角は上方文化にも精通 / 屡々関西を訪問、其の際知り合った向井去来(1651-1704)を蕉門に誘うこともした / 上方旅行中に芭蕉の危篤を知り、江戸蕉門の中で唯一芭蕉の死に立ち会った / 彼自身も47歳の若さで早逝

  (はは)におくれける子の哀(あは)れを

649 おさな子(1)やひとり食(めし)くふ秋の暮(くれ)  尚白(2)

【意】秋の夕暮の寂しさよ / 母を亡くした幼子がひとりぽつんと淋しそうに座って夕ご飯を食べている
【解説】季語:秋の暮=三秋 /
(1)おさな子:正しくは「をさな子」
(2)江佐尚白(えさ しょうはく(?-1722.08.30(享保070719))):江左氏 / 千那の親友で1682(貞亨02)年以来の膳所蕉門の一人 / 医者 / 句集に『忘梅』『弧松』・『夏衣』等 / 後年、『忘梅』出版を巡り師弟間が事実上崩壊する(其の間の事情は、千那宛書簡4(1688.11.17(元禄040928))に詳しい / 芭蕉の尚白に対する憎悪は許六宛書簡(1693.06.07(元禄060504))に窺える

  ある人(1)の追善(ついぜん)

(1)ある人:笈日記には詞書「少年を失へる人の心を思ひやりて」とあ

650 埋火(うすずみ・うづみび)もきゆやなみだの烹(にゆ)る音(おと)  芭蕉

【意】ひとり寂しく故人を偲び埋火の傍に座り哀しみにくれているのでしょうか / 其の熱い涙に埋火も消えて仕舞うことでしょう
【解説】季語:埋火(うすずみ・うづみび)=三冬 / 埋火は「下に悔ゆる」「下に焦がるる」(大和歌詞)を含意する / 此の為、笈日記の詞書「少年」に重点を置けば、秘められた恋の相手を失った男に対して、「貴男の熱い涙と共に、あなた方の秘かな恋も、此の儘葬り去られていくのでしょうか?」となる

  旅にてみまかりける人を

651 あは雪(ゆき)のとヾかぬうちに消(きえ)にけり  鼠彈(1)

【意】淡雪は消え易い雪 / 地上に降り積もる間もなく消えて仕舞うもの / だが、其の淡雪が、地上に届く前に消えて仕舞ったかの様な儚い命だった
【解説】季語:あは雪=三春 / 旅の途次の無念の死を悼む心持
(1)鼠弾(そだん(生没年不詳)):尾張国名古屋浄土寺の僧侶 /『あら野』・『あら野後集』・『其袋』等に入句

652 鳥辺野(とりべの)(1)()かたや念佛(ねぶつ)の冬の月  加賀 小春(2)

【意】冬の凍りつきそうな月が空に光っている / 其の冷え冷えとした光の下を、鳥辺山三昧場(3)の方角から念仏の声が聞こえて来る /
【解説】季語:冬の月=三冬 / 凄惨荒涼の気が地を伝う様に伝わって来る
(注1)鳥辺野(とりべの):京都東山の火葬場・墓地 / 洛外5つの三昧場の一 / 冬季1113日より48日間は、空也念仏の衆が五三昧場を巡る /
(注2)亀田小春(かめだ しょうしゅん(?-1740.03.01(元文050204)):加賀国金沢の蕉門 / 薬種商人・宮竹屋亀田伊右衛門 /『奥の細道』の旅で金沢を通過した際、芭蕉に入門 / 芭蕉自筆書簡が現存
(3)三昧場(さんまいば):死者の冥福を祈る為に設けた墓地に近い堂 / 又、墓所、三昧

【小生 comment
 次回は、俳諧七部集『あら野』から〔第67回/巻之八~第653句~660句〕をご紹介する。お楽しみに!

■続いては、01月23日(土)に「JR関駅」→「JR加佐登駅」→「庄野宿資料館」→「庄野宿本陣跡」→「中冨田一里塚〔川俣神社〕」→「JR井田川駅〔日本武尊・弟橘媛〕」→「和田一里塚跡」

02時45分 起床→腹筋2,000回→

03時35分 2.5kg木刀素振り50分

04時25分 入浴→朝食→

05時09分 拙宅発→一般道→音羽蒲郡IC→ 東名 →東名阪→芸濃IC〔料金2,630円〕→同IC→東名阪→関IC〔料金220円〕→一般道→1時間30分 135㎞→

06時39分 JR関駅近隣駐車場着

06時47分 JR関駅発→06時53分着 亀山駅 07時02分発→

07時11分 JR加佐登駅着

07時15分 同駅発→徒歩→

07時45分 庄野宿資料館着

07時56分 庄野宿本陣跡着

 亀山PAでトイレ休憩し、其の儘出口へ行く予定が、間違えて本線に乗って仕舞い、一つ南の芸濃ICで降りて直ぐ様折り返して関ICで降りた

 当初予定では、関駅07時28分発に乗る予定が、1本前の06時47分発に乗れたので、予定駅の加佐登駅に07時11分に到着した

 庄野宿資料館は、開館前だったので会館前にて記念撮影だけした

 

【JR関駅→JR亀山駅→JR加佐登駅】

 

[01][左上]JR関駅 platform


[右上]JR亀山駅 platform にて

[左下]JR関駅→JR加佐登駅迄の路線時刻表

[中下]JR加佐登駅前にて

[右下]JR加佐登駅→庄野宿資料館→庄野宿 澤田本陣跡への Google 航空 map

 

【庄野宿街並&庄野宿資料館】

 

[02][左上]庄野宿街並〔鈴鹿市庄野町〕にて1


[右上]同上2

[左下]庄野町西交差点

[中下]庄野宿街並〔鈴鹿市庄野町〕

[右下]庄野宿資料館

 

【庄野宿資料館→庄野宿本陣跡】

 

[03][左上]庄野宿資料館 同館前の歌川広重「東海道五十三次【庄野宿】」看板横にて


[右上]同〔旧小林家住宅〕

[左下]同 同所にて

[中下]庄野宿本陣跡 石碑にて1

[右下]同 同上2

 

【庄野宿本陣跡→中冨田一里塚跡〔川俣神社〕】

 

[04]庄野宿本陣→中冨田一里塚跡への Google 航空 map


[右上]庄野宿 高札場跡 看板

[左下]同 高札場のある辺りの街並

[中下]同 街並〔庄野町〕

[右下]同 街並〔鈴鹿市汲川原町〕

 

08時50分 女人堤防碑文着

09時09分 中冨田一里塚跡〔川俣神社〔中冨田〕〕着

09時52分 川俣神社〔西冨田〕着

 

【女人堤防碑文→中冨田一里塚跡】

 

[05][左上]女人堤防碑文 解説板


[右上]同 同所全景

[左下]同 同所にて

[中下]中冨田一里塚跡 解説板1

[右下]同 同上2

 

【中冨田一里塚跡】

 

[06][左上]中冨田一里塚跡 石碑1


[右上]同 全景

[左下]同 同所にて1

[中下]同 同上2

[右下]同 川俣神社〔中冨田〕 拝殿

 中冨田一里塚跡の南側に隣接して川俣神社がある

 

【川俣神社〔中冨田〕→川俣神社〔西富田〕】

 

[07][左上]川俣神社 拝殿前にて1


[右上]同 同上2

[左下]川俣神社〔中冨田〕→和田一里塚跡への Google 航空 map

[中下]旧東海道街並〔中冨田〕

[右下]川俣神社〔西冨田〕

 

10時36分 JR井田川駅着

 

【川俣神社〔西冨田〕→JR井田川駅〔日本武尊&弟橘媛記念碑〕】

 

[08][左上]川俣神社〔西冨田〕拝殿前にて


[右上]旧東海道街並〔鈴鹿市和泉町〕

[左下]JR井田川駅 platform

[中下]日本武尊&弟橘媛(オトタチバナヒメ) 解説板

[右下]JR井田川駅西側隣接地の日本武尊銅像&日本武尊・弟橘媛(オトタチバナヒメ)記念碑

 

【JR井田川駅→和田一里塚跡へ】

 

[09][左上]JR井田川駅にあった日本武尊御墓・能褒野神社等案内図


[右上]JR井田川駅西側隣接地の日本武尊銅像&日本武尊・弟橘媛記念碑にて

[左下]日本武尊「国偲歌」石碑にて

「倭(やまと)は 国のまほろば 畳(たた)なづく 青垣(あをがき) 山隠(やまごも)れる 倭(やまと)し美(うるは)し」

【約】「大和は国の中でも最も良い所だ / 重なり合った青い垣根の山々、其の中に隠(こも)っている大和は美しい」

[中下]亀山市和田町交差点&&同所の路傍の花

[右下]和田町交差点から和田一里塚跡へ至る道標

 

【和田一里塚跡への道】

 

[10][左上]旧東海道街並〔亀山市和田町〕1


[右上]同〔同〕同上にて

[左下]同〔同〕2

[中下]同〔同〕同上にて

[右下]同〔同〕3

 

11時42分 和田一里塚跡着

 

【和田一里塚跡】

 

[11][左上]旧東海道街並〔亀山市和田町〕4


[右上]和田一里塚跡全景

[左下]亀山宿・江戸の道〔旧東海道〕解説板

[中下]和田一里塚跡 解説板

[右下]同 北側からの全景

 

13時10分 亀山城趾〔多門櫓〕着

 

[12][左上]和田一里塚跡にて1


[右上]同上2

[左下]旧東海道街並〔亀山市本町〕

[中下]亀山城趾〔多門櫓〕前にて1

[右下]同上2

 

【亀山城趾〔多門櫓〕→亀山宿街並】

 

[13][左上]亀山城趾〔多門櫓〕


[右上]亀山宿街並〔亀山市西丸町〕1

[左下]同〔同〕2

[中下]同〔亀山市市ヶ坂町〕3

[右下]同〔亀山市西町〕

 

13時24分 京口門跡着

13時41分 亀山市野村3丁目着

 

【亀山宿街並】

 

[14][左上]京口門跡 解説板


[右上]同 同所にて

[左下]亀山宿街並〔亀山市南野町〕

[中下]同〔同〕同所にて

[右下]同〔亀山市野村〕1

 

[15][左上]亀山宿街並〔亀山市野村〕2


[右上]同〔同〕森家住宅1

[左下]同〔同〕同上2

[中下]同〔同〕3

[右下]同〔同〕4

 

[16][左上]亀山宿街並〔亀山市野村〕5


[右上]同〔同〕6

[左下]同〔同〕7

[中下]同〔同〕8

[右下]同〔同〕9

 

13時54分 明治天皇御召替所跡着

14時02分 忍山(おしやま)神社着

 

【野村一里塚休憩所→忍山神社】

 

[17][左上]明治天皇御召替所跡 看板


[右上]野村一里塚休憩所にあった近隣案内看板

[左下]同所にて

[中下]忍山神社入口

[右下]同所にて

 

【忍山神社】

 

[18][左上]忍山神社拝殿前にて


[右上]同 拝殿

[左下]同 境内

[中下]同 境内にて

[右下]同 解説板

 

14時21分 野村一里塚跡着

14時41分 亀山藩大庄屋打田権四郎昌克旧宅跡着

 

【野村一里塚跡】

 

[19][左上]忍山神社近隣に咲いた紅梅の花


[右上]野村一里塚跡1

[左下]同所にて

[中下]同上2

[右下]同上3

 

[20][左上]野村一里塚跡 同所にて4


[右上]同 石碑

[左下]同 全景

[中下]旧東海道街並〔亀山市布気町〕1

[右下]山藩大庄屋打田権四郎昌克旧宅跡

 

15時37分 JR関駅着

15時47分 同所発→一般道12㎞/147㎞→

16時15分 能褒野神社着

 

【旧東海道〔亀山市布気町〕→JR関駅→能褒野神社】

 

[21][左上] 旧東海道〔亀山市布気町〕


[右上]JR関駅前にて

[左下]能褒野神社 解説板

[中下]同 鳥居から拝殿遠望

[右下]同 拝殿を望む鳥居前にて

 

【能褒野神社】

 

[22][左上]能褒野神社 拝殿前の参道にて


[右上]同 拝殿前にて

[左下]同 拝殿にて1

[中下]同 同上2

[右下]今日の踏破距離 22.2km 歩行歩数 29,023歩

 

16時38分 能褒野神社発→一般道→鈴鹿IC→東名阪→伊勢湾岸→新東名→岡崎東IC〔料金2,260円〕→一般道→145㎞/292㎞

18時24分 帰宅〔了〕

 

 今日は、朝出発した05時09分から帰宅した18時24分迄の13時間15分間、ずっと雨に打たれたが、風もなく気温も10度C前後あった為、寒さを感じることはなかった

 レインコートも用意したが切る必要もなかったし、防寒用の手袋や neck warmer も不要だったのは lucky だった

 又、コロナ禍でマスク着用して walking したが、道を歩いている人は殆どいなく、マスク着用は事実上不要で済んだ

 Google map の navigation の活用で、旧東海道は地図上に plot されているので道に迷うこともなく実に smooth に walking 出来た

 又、道すがらコンビニが結構沢山あるので、水分補給・昼食・トイレ休憩等に困らずに済むことは、本当にいい時代になったものだと痛感している

 今日も、能褒野神社をはじめ、初めて訪れた所が大半であり、とても充実した一日を過ごすことが出来た

 

■続いての話題は、週に一度の平日公休の01月27日 / 当初は、29(金)の予定だったが、外せない仕事が入り今日に変更した

 其処で月一回の歯の検診に名古屋市東区にあるN歯科医院へ、いつもの通りマイカーで高速を使わず一般道で行って来た

 更にいつものパターンで、名都美術館『特別展・愛知県立芸術大学退任記念/北田克己(1955- 9)』展→古川美術館『Your Best Collection あなたと選ぶ古川美術館の名品』展→らあめん専門店陣屋『陣屋』→桑山美術館『菓子のうつわ』展→N歯科医院、と巡って来た

 勿論、移動は現地迄マイカー only、マスク着用、検温〔35.8~36.1度C〕・alcohol消毒・三密を避け social distance 確保〔更に、N歯科医院では パルスオキシメーター95以上check〕と、コロナ禍対策を万全にして‥

 因みに、小生が訪問した時の各美術館の来館者数は、緊急事態宣言下の平日でもあった為か、名都美術館3人、古川美術館4人、桑山美術館2人という状況で、三密回避は担保されていた

 今日は、以下の通り行動した

 

04時45分 起床→腹筋2,000回/60分

05時45分 2.5kg木刀素振り1,000回/60分

06時60分 入浴→朝食

08時18分 拙宅発→一般道→1時間52分 78㎞→

10時10分 名都美術館駐車場着

.

【名都美術館『特別展・愛知県立芸術大学退任記念/北田克己(1955- )』展】

 

 北田克己(1955- )氏は、小生と同庚で、現・愛知県立芸術大学日本画科教授

 今年度末の3月末で定年退官を記念して同大学と親密な名都美術館での記念展開催となったもの

 北田氏は、日本美術院・同人で、大変上品な日本画の女性像が白眉である

 

[23][左上]名都美術館入口にて1


[右上]同上2

[左下]本企画展『北田克己』展 leaflet

[中下]北田克己氏

[右下]北田克己『ゆふまぐれ』1995年

 

[24][左上]北田克己『秋の訪(おとな)ひ』2001年


[右上]同『月の汀』1999年

[左下]同『夜明けの地』2003年

[中下]橋本関雪(1883-1945)『玄猿図』1940年

 所蔵品絵ハガキcornerで二人の橋本氏の名画を見付けた

 此の橋本関雪『玄猿図』は先日入手した同氏の『玄猿』1933年〔東京藝術大学蔵〕と同じ pose の絵だ

[右下]橋本明治(1904-91)『舞』1968年」

 此の橋本明治『舞』は、彼の得意とする黒の輪郭が確りとした美しい舞妓像だ

 

11時14分 名都美術館駐車場発→26分 10km/88㎞→

11時40分 古川美術館駐車場着

 

【古川美術館『Your Best Collection あなたと選ぶ古川美術館の名品』展】

 

 本企画展は、2020年に来館した拝観者に実施したアンケート調査して人気投票したランキング入選作品展である

 

[25][左上]古川美術館館内入口前にて

[右上]同美術館前にて

[左下]本企画展 leaflet/絵は、伊藤小坡(1877-1968)『春寒』(部分)(上)・川合玉堂(1873-1957)『田子浦』(下)

[中下]【1位】ジュディ・オング・倩玉『華堂初夏』

[右下]【2位】上村松園『初秋』

 

[26][左上]【2位】麻田鷹司(1928-87)『銀閣雪後』

[右上]森田えり子(1955- )『咲』

[左下]竹内栖鳳(1864-1942)『松魚』

[中下]前田青邨(1885-1977)『薔薇』

[右下]安田靫彦(1884-1978)『菖蒲』

 

12時24分 古川美術館駐車場発→一般道21分 11km/99㎞→

12時45分 らあめん専門店『陣屋』近隣駐車場着

 

【らあめん専門店『陣屋〔昼食〕』】

 

[27][左上]らあめん専門店『陣屋』前にて

[右上]オズモール入口の monument 横にて

[左下]小生の超定番「味噌チャーシュー麵」

[中下] 橋本関雪『玄猿』1933年〔東京藝術大学蔵〕

 橋本関雪の『玄猿図』1940年の絵を名都美術館の絵ハガキで目にし、此の後桑山美術館でも以下にご覧の様に橋本関雪『崖上双猿図』1938年頃の絵ハガキも見たので、拙宅の床間に飾った此の「橋本関雪『玄猿』1933年」と比べて頂きたい

[右下] 橋本関雪『崖上双猿図』1938年頃

 

13時25分 らあめん専門店『陣屋』近隣駐車場発→一般道18分 6.8㎞/106㎞

13時43分 桑山美術館駐車場着

 

【桑山美術館『菓子のうつわ』展】

 

 本企画展『菓子のうつわ』も面白かったが、同時展示の藤井達吉(1881-1964)の書画『漆絵 石楠花』『漆絵 山草』『水墨 山松』他全6点が白眉で、「むかし絵 松下紀久雄(1921-2010)の墨彩画」展も面白かった

 受付横に掲示されていた所蔵品絵ハガキで気に入った8枚を購入したので以下の7枚と、らあめん専門店『陣屋』の項の最後でご紹介した「橋本関雪『崖上双猿図』1938年頃」の計8枚をご紹介する

 

[28][左上]桑山美術館前にて

[右上]桑山美術館入口にて

[左下]本企画展展示一覧(表紙)

[中下]川合玉堂『嶋の春』1937年

[右下]橋本明治『寿の舞』1980年

 

[29][左上]入江波光(1887-1948)『若竹と子雀』1945年頃

[右上]山口蓬春(1893-1971)『洋梨』1959年

[左下]小倉遊亀(1895-2000)『白い花』1988年

[中下]上村松園(1875-19499『春風』1940年頃

[右下]福田平八郎(1892-19749『鮎』1955年頃

 

14時27分 桑山美術館駐車場発→一般道23分 7.2㎞/113㎞→

14時50分 東区N歯科医院駐車場着

15時00分 歯科検診

15時50分 N歯科医院駐車場発→一般道78㎞/191㎞

18時05分 帰宅〔走行距離計 191km〕(了)

 

■日付は、一週間後の01月30日(土) / 此の日は、当初旧東海道五十三次巡りの「関宿」→「坂下宿」を予定して、0400に起き、SNSで亀山市の天気を見たら、丁度0Cで俄か雪、今日のは一日中曇天で最高気温も6C、一方、明日は天候は晴れ時々曇り、最低気温は−1C、最高気温10Cとなっていたので「旧東海道五十三次「関宿」→「坂下宿」巡り31日(日)に繰り延べ、筋力強化と体力温存の休息に徹することにした

 筋トレの際、小生の大好きな Beethoven / String Quartet No.9 in C major Op.59 “Razumovsky” No.3 を、6枚のCDと 1枚のDVDで聴き比べてみた

 いずれも世界的な著名弦楽四重奏団で甲乙付け難い素晴らしい名演だった

 小生、此の Beethoven / String Quartet 全集の思い出と言うと、20-21歳の大学生時代に、米国🇺🇸のレコード販売会社に手紙を書き、廉価盤のハンガリーSGのLPレコードを取り寄せ、レコード盤が擦り切れる程何度も繰り返し聴いたことや、30歳代の旧行名古屋本部時代に小遣いの大枚を叩いて購入したバリリSGとアマデウスSGの全集の演奏に酔いしれたことだ

 今は、版権が切れた所為か当時の販売価格からは想像も出来ない程の安価でCDやDVDが手に入るいい時代になったものだ

 勿論、此れ等の全集は、今も小生の宝である

 

(1)ヴェーグSG (1952年録音) mono

(2)ハンガリーSG (1953年録音) mono

(3)バリリSG (1955年録音) mono

(4)アマデウスSG (1960年録音) stereo 

(5)ブダペストSG (1960年録音) stereo

(6)アルバン ベルク SG (1978年録音) stereo

以上CD

(7)アルバン ベルク SG (1989年録音) stereo

以上DVD

 

 ラズモフスキー第3番を聴き比べた後、Shostakovich の全15曲の中でも、第8番と共に傑作と評価され高い人気を誇る Quartet No.3 in F major Op.73〔1946年〕を此れ又名盤の誉高いボロディンSGと録音状態が素晴らしいルビオSG で聴いた

 

(8)ボロディンSG (1978年録音) stereo

(9)ルビオSG (2002年録音) stereo

 

05時00分 起床→腹筋2,000回/h

06時00分 2.5kg木刀の素振り1,000回/h

 

 明日は、時間が許せば、旧東海道五十三次の「関宿」→「坂下宿」から「鈴鹿峠」を目指したい

 ただ此れ迄と違い、目的地の「坂下宿」「鈴鹿峠」から出発地の「関宿」迄の公共交通機関が timely にない為、「マイカーで目的地迄行き、其処から出発地迄徒歩で戻り再び目的地へ戻る〔=即ち往復する〕」予定である

 厳寒時なので、鈴鹿峠付近の降雪も心配な処である

 はてさて、いったいどうなるか、今も何故かワクワクしている

 

[30][左上](1)ヴェーグSG (1952年録音) mono(左)・(2)ハンガリーSG (1953年録音) mono(右)

[右上](3)バリリSG (1955年録音) mono・(4)アマデウスSG (1960年録音) stereo (左)・(5)ブダペストSG (1960年録音) stereo(右)

[左下](6)アルバン ベルク SG (1978年録音) stereo

以上CD(左)・(7)アルバン ベルク SG (1989年録音) stereo/以上DVD

[右下](8)ボロディンSG (1978年録音) stereo・(9)ルビオSG (2002年録音) stereo

 

【後記】今日は、02月01日勤務先関係の研修日 / 会場はホテルアソシア豊橋5F

休憩の時間に同ホテルのホワイエから豊橋駅前の風景を久しぶりに見た

 

【ホテルアソシア豊橋5F ホワイエから豊橋駅前遠望】

 

[31][左上]ホワイエにて

[左下]建設が進む豊橋駅前2丁目再開発事業「東棟」

[右上]豊橋駅前「大橋通」側の風景

 昔、旧行豊橋駅前支店が入居していたビルは、アパホテルになっていた

[右中]同「ホテルアソシア豊橋」からみた豊橋駅東口正面の風景

[右下]同「駅前大通り」側の風景

 

 昔の名残を残しつつも、矢張り、間違いなく変化している

 鴨長明「方丈記」の冒頭の言葉を思い出した‥

 

 行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず

 淀みに浮かぶうたかたかは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし

 世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし

 玉敷(たまし)きの都の内に、棟を並べ、甍を争へる、高き賤しき人の住まひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、【昔ありし家はまれなり】

 あるいは、去年焼けて、今年作れり

 あるいは、大家滅びて、小家となる

 住む人もこれに同じ

 所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、僅かに一人二人なり

 朝に死に、夕べに生まるる慣らひ、ただ水の泡にぞ似たりける〔後略〕

 

 では、また‥〔了〕

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