曠野(あらの)集 巻之八
釋教(しゃくけう)
伊勢にて
653 神垣(かみがき)やおもひもかけず(注1)涅槃像(ねはんぞう)(注2) 芭蕉
【意】仏事を只管に忌む此の伊勢神宮の辺りに滞在しているうちに、思いもかけず2月15日の涅槃会を迎えて仕舞った
(注1)おもひもかけず:金葉集「神垣のあたりと思ふにゆふだすき思ひもかけぬ鐘の声かな」と同様の技巧で「かけ(掛)ず」から「涅槃像」を導く
(注2)涅槃像(ねはんぞう):2月15日の釈迦入滅の日に、其の画像を掛けて供養する / 涅槃会(ねはんえ) / 又此の行事其のものをも「涅槃像」と言った
654 負(おう)てくる母(はは)おろしけりねはんぞう(注1) 鼠彈(注2)
【意】涅槃会に参拝したいという母の願いを叶える為其の母を背負って寺に来た / 寺なればこその風景
【解説】季語:ねはんぞう=仲春 /
(注1)ねはんぞう:正しくは「ねはんざう」
(注2)鼠弾(そだん(生没年不詳)):尾張国名古屋浄土寺の僧侶 /『あら野』・『あら野後集』・『其袋』等に入句
西行(さいぎゃう)上人(しゃうにん)五百(ごひゃく)歳忌(さいき)(注1)に
(注1)西行上人五百歳忌:西行は文治06(1190)年02月16日没 / 五百回忌は元禄02年02月16日(1689.04.05) / 西行は生前「願はくは花のもとにて春死なむ その如月の望月の頃」と詠み、釈迦入滅の日の翌日となる02月16日に、彼の願い通りに往生したことで有名 /「雲にまがふ花の下にて眺むればおぼろに月は見ゆるなりけり」等多くの花を詠んだ詩人でもあった
655 はつきりと有明(ありあけ)残(のこ)る櫻(さくら)かな 荷兮(注1)
【意】西行の5百年忌は、釈迦入滅の涅槃会の日の翌日、元禄2年2月16日 / そして此の時期有明の月がはっきりと残り、桜花が其の美しさを際立たせている / 500年の歳月を経ても名声赫奕(かくえき・かくやく)と輝く西行法師の如く‥
【解説】季語:櫻=晩春 /
(注1)山本荷兮(やまもと かけい(1648(?)-1716.10.10(享保元年08月25日(享年69歳))):本名:山本周知 / 尾張国名古屋の医者 / 通称:武右衛門・太一・太市 / 別号:橿木堂・加慶 / 1684(貞亨元)年以来の尾張国名古屋蕉門の重鎮 / 後年、内紛に撚り芭蕉と袖を分かつ / 荷兮のstanceは保守的で、芭蕉の唱導した俳諧革新、中でも「軽み」には迎合出来なかった / 離反前は、『冬の日』、『春の日』、『阿羅野』等の句集を編纂 /芭蕉が『更科紀行』出立に際しては、奴僕を提供する等、旅の安全も支援している
おなじ遠忌(おんき)に
656 連翹(れんげう)(注1)や其(その)望日(もちづき)としほれけり(注2) 胡及(注3)
【意】西行の遠忌のこの時期には庭の連翹の花が萎む頃でもあるが、これは上人の死を悼んで萎むのであろう / 西行の辞世歌は、「願はくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ」であった
【解説】季語:連翹(れんげう)=仲春 /
(注1):連翹(れんげう(レンギョウ)):モクセイ科の落葉低木 / 中国原産 / 古くから観賞用に植える / 枝は長く伸び、広卵形で鋸歯(きょし(=のこぎりの歯の様に細かく切れ込んだ形))のある葉を対生 / 早春、葉に先立ち黄色の花を開く / 花冠は筒状で深く四裂する / イタチグサとも /
[01]連翹(レンギョウ)の花
(注2)しほれけり:正しくは「しをれけり」だが、「しほれけり」は当時通行の仮名づかいであった
(注3)胡及(生没年不詳):尾張国名古屋の人 / 「あら野」等に入句
657 うで首(くび)に蜂(はち)の巣(す)かくる二王(におう)(注1)哉(かな) 松芳(注2)
【意】山門に立つ勇壮な仁王像 / 筋肉の盛り上がった腕の、手首の裏側に蜂の巣が付いていた‥
【解説】季語:蜂の巣=三春 / 勇壮な仁王像の手首裏側に蜂の巣がついているヨ、という可笑しみを詠む
(注1)二王(におう):寺門の左右に置かれる金剛力士像
(注2)松芳(しょうほう(生没年不詳)):尾張国の人 /『阿羅野』に入句
658 木履(ぼくり)(注1)はく僧(そう)も有(あり)けり雨(あめ)の花(はな) 杜國(注2)
【意】満開の桜花の下 / 雨が降り注ぐ寂しい春の日 / 其処をゆったりと、ひっそりと僧侶が通り過ぎて行く/ 雨の日なので木履を履いているが、画中の人物の様に足駄の音もなく行き過ぎる / 聞こえて来るのは雨音ばかり‥
【解説】季語:花=晩春 / 此の句は『笈の小文』の文中に「初瀬」と前書して「春の夜や籠(こも)り入(ど)ゆかし堂の隅」の句と共に「足駄(あしだ)はく僧も見えたり花の雨 / 万菊」と見える / 1688(貞享05)年の作
(注1)木履(ぼくり):足駄 /「足駄」は、雨降り等道の悪い時に履く高い歯の下駄(げた) / 高下駄(たかげた)
(注2)坪井杜国(つぼい とこく(?-元禄03年02月20日(1690/03/30)):本名坪井庄兵衛 / 尾張国名古屋の蕉門の有力者 / 芭蕉が特に目を掛けた門人の一人(真偽のほどは不明だが師弟間に男色説がある) / 杜国は名古屋御薗町の町代 / 富裕な米穀商だったが、空米売買の詐欺罪(=延べ取引)で、貞亨02(1685)年08月19日 畠村(現田原市福江町保美)に追放・流罪になり4年半同地で没した / しかし、監視もない流刑の身で、南彦左衛門、俳号野人または野仁と称して芭蕉と共に『笈の小文』の旅に随行した / 田原市福江の隣江山潮音寺に墓がある
659 つりがねを扇(あふぎ)で鼓(たた)く(注1)花(はな)の寺(てら) 冬松(注2)
【意】満開の桜花に惹かれて寺内に入る /「山寺の春の夕暮来てみれば入相の鐘に花ぞ散りける / 能因法師」(『古今集』)と言うが、さて、此の花はどんなものか / うっかり鐘を撞(つ)いて桜花が本当に散って仕舞っては困るので、試しに扇でそっと鐘を撞いてみるのである
【解説】季語:花=晩春 /
(注1)鼓敲(たた)く:「鼓(たた)く」は「敲(たた)く」に同じ意の俗字
(注2)冬松(とうしょう(生没年不詳)):人物について詳細不明 /『あら野』などに入句
660 花(はな)に酒(さけ)僧(そう)とも侘(わび)ん塩(しほ)ざかな(注1) 其角(注2)
【意】桜花を前にして酒を酌み交わす / 但し相手が僧侶だから、酒の肴に生臭ものとはいかない / ただ塩を嘗めるばかり
【解説】季語:花=晩春 / 此の僧は江戸上野の日輪寺の僧其阿上人と伝わる
(注1)塩(しほ)ざかな:塩だけを酒の肴にして飲むこと
(注2)宝井其角(たからい きかく(寛文元年07月17日(1661.08.11)~宝永04年02月29日(1707.02.29))):江戸下町堀江町(=お玉が池説あり)に、近江国膳所藩御殿医者竹下東順の長男として生まれる / 医者を志す傍ら、文芸・四書五経等にも精通 / 延宝年間(1673-81)の初めの頃、父の紹介で蕉門に入門 / 長ずるに及び、蕉門第一の門弟となる / 早くから華街に足を踏み入れて、蕉門きっての放蕩児でもあった /「赤穂事件」では、浪士側に立って彼等を支援 / 芭蕉(1644-94)との関係も、ambivalentな面が多く、尊敬し合う関係と同時にrivalとしての感情も強く持ち合わせていた /「古池」の句の考案中、芭蕉は「蛙飛び込む水の音」と中七・座五は出来たが上五に苦心していた時、其れを其角に話すと、其角は即座に「山吹や」と付けたと言う芭蕉と其角の芸風の相違を良く表す逸話が残っている / 近江国出身の父親の影響もあり、其角は上方文化にも精通 / 屡々関西を訪問、其の際知り合った向井去来(1651-1704)を蕉門に誘うこともした / 上方旅行中に芭蕉の危篤を知り、江戸蕉門の中で唯一芭蕉の死に立ち会った / 彼自身も47歳の若さで早逝
【小生 comment】
次回は、俳諧七部集『あら野』から〔第68回/巻之八~第661句~670句〕をご紹介する。お楽しみに!
■続いては、01月31日(日)に、旧東海道「関宿一里塚跡」→「関宿〔織田信孝卿菩提所 福蔵寺〕〔伊藤本陣阯〕」→「坂下 一ノ瀬一里塚跡」→「坂下宿〔大竹屋本陣阯・梅屋本陣跡〕」→「荒井谷一里塚跡〔現在消失・推定地〕」→「坂下宿〔松屋本陣跡〕」を巡り歩いて来たので、其の模様についてお伝えする
今日は、21.6kmを28,201歩で歩いた
04時30分 起床→腹筋2,000回→
05時20分 2.5kg木刀素振り50分
06時15分 入浴→朝食→
07時02分 拙宅発→一般道→音羽蒲郡IC→ 東名 →東名阪→亀山IC〔料金2,510円〕→一般道→1時間38分 128㎞→
08時40分 旧東海道「関宿」東の追分駐車場着
08時48分 同所発→徒歩 20分 1.1km→
09時08分 旧東海道「関宿」東側入口着
10時03分 伊藤本陣阯着
10時16分 福蔵寺〔織田信孝卿菩提所〕着
11時01分 旧東海道「関宿」西の追分着
今日も亀山PAでトイレ休憩し、其の後は間違えずに亀山IC出口へ
旧東海道「関宿」東端近くの東の追分駐車場に車を置き、当該地が「関宿一里塚跡」なので早速記念撮影
「関宿一里塚跡」から東口へ徒歩で戻り、入口で記念撮影後、再び踵を返して西進し、伊藤本陣跡、福蔵寺等で記念撮影した後、関宿の西端「西の追分」休憩所へ
【旧東海道「関宿」東の追分「関一里塚跡」】
[右上]同 同所にて1
[左下]同 同上2
[中下]同 常夜灯前にて1
[右下]同 同上2
【関宿 東の入口にて】
[右上]関宿東入口近くの「関の小萬(こまん)のもたれ松」解説板 同所にて
[左下]同「同」解説板
[中下]関宿東入口の看板前にて
[右下]関宿 東の追分鳥居前にて
【関宿 街並】1
[右上]同 同上3
[左下]同 同上4
[中下]同 同上5
[右下]同 風景1
[右上]同 同上3
[左下]同 同所にて6
[中下]同 同所にて7
[右下]同 同所にて8
[左下]同 同上10
[右上]同 関宿の案内地図
[右中]同 眺関亭2階より旧東海道の西方遠望
[右下]同 同所より旧東海道の東方遠望
【関宿 伊藤本陣阯・高札場】
[右上]同 本陣跡前にて1
[左下]同 同上2
[中下]高札場 解説板
[右下]同所にて
【関宿 街並】2
[右上]同 風景4
[左下]同「歴史の道」石碑にて
[中下]同 同所にて12
[右下]同 風景5
【関宿 福蔵寺〔織田信孝卿菩提所〕】
[右上]同「英照皇太后陛下駐泊所」石碑
[左下]同「清浄山 福蔵寺の案内」看板
[中下]同「福蔵寺の創建と織田信孝公」解説板
[右下]同 同所にて
【関宿 街並】3
[右上]同 同上14
[左下]同 風景6
[中下]同 同上7
[右下]同 同所にて15
[左下]同 同所にて16
[右上]同 西の追分〔休憩施設〕
[右中]同 同所休憩施設内の「関宿」イラストマップ
[右下]同「鈴鹿関~「関」の地名は古代の関所に由来~」解説板
[右上]同 同上2
[左下]同 〔休憩施設〕内部
[中下]同 西の追分 駐車場にあった「従是東 東海道関宿」石碑にて1
[右下]同 同上2
[右上]同 西の追分 解説板
[左下]同 再び西の追分から東の追分に戻る際の風景1
[中下]同 同上2
[右下]同 同上3
其れにしても、観光客が誰もいない‥気楽でいいが、少々違和感を感じる
[14][左上]関宿の街並 再び西の追分から東の追分に戻る際の風景4
[右上]同 同上5
[左下]同 同上「川北本陣跡」石碑1
[中下]同 同上2
[右下]同 同所にて
[15][左上]関宿の街並 再び西の追分から東の追分に戻る際の風景6
[左下]同 同上7
[右上]同 同上8〔【百五銀行】の看板が街並に馴染んでいる〕
[右中]同 同上9
[右下]同 同上10
[16][左上]関宿の街並 再び西の追分から東の追分に戻る際の風景同風景をbackに1
[右上]同 同風景をbackに2
[左下]同 風景11
[中下]同 風景12
[右下]同 同上13
[17][左上]関宿の街並 再び西の追分から東の追分に戻る際の風景14
[右上]同 再び西の追分から東の追分に戻る際の風景 同風景をbackに3
[左下]「西の追分」→「東海道坂下宿/大竹屋本陣跡」への Google 航空 map
[中下]坂下宿「坂下宿」案内看板
[右下]同 同所にて
関宿「東の追分」駐車場→関宿「西の追分」駐車場→「坂下宿/坂下集会所」迄の7.6㎞を車で移動し、車を「坂下集会所」に置いて、関宿「西の追分」迄を往復した
12時20分 関宿 東追分駐車場発→一般道 7.6km
12時45分 坂下宿/坂下集会所着
14時02分 関宿「西の追分」発→徒歩5.8km 1時間41分→
15時43分 坂下宿「大竹屋本陣跡」着
【関宿「西の追分」→「坂下宿」へ向かう】
[右上]関宿「周辺案内図」
[左下]同「坂下宿」へ向かう途次にあった「転び石」1
[中下]同 同上2
[右下]同 同上の風景
[19][左上]旧東海道「関宿」→「坂下宿」へ向かう途次の風景1
[右上]同上2
[左下]同上3
[中下]「東海道 坂下 一ノ瀬一里塚跡」「東海道 荒井谷一里塚跡(現在消失 推定地)」地図
[右下]「東海道 坂下 一ノ瀬一里塚跡」にて1
[右上]同上3
[左下]同上4
[中下]旧東海道「関宿」→「坂下宿」へ向かう途次の風景4
[右下]同上5
[21][左上]旧東海道「関宿」→「坂下宿」へ向かう途次の風景6
[右上]同上7
[左下]同上8
[中下]同 坂下郵便局前にて
[右下]同「鈴鹿馬子唄 発祥地」にて
16時05分 東海道 荒井谷一里塚跡(現在消失 推定地)〕着
【坂下宿〔東海道 荒井谷一里塚跡(現在消失 推定地)〕】
[右上]同 同上2
[左下]同 梅屋本陣跡にて
[中下]同「東海道 荒井谷一里塚跡(現在消失 推定地)」にて1
[右下]同 同上2
[23][左上]坂下宿「東海道 荒井谷一里塚跡(現在消失 推定地)」にて3
[右上]同 松屋本陣跡にて〔前掲「坂下集会所」直ぐ東〕1
[左下]同 同上2
[中下]同「坂下集会所」前の「伊勢坂下」バス停
[右下]同 此の日の歩行距離 21.6km・歩数 28,201歩
16時38分 坂下宿/坂下集会所発→一般道→鈴鹿IC→東名阪道→伊勢湾岸道→新東名→岡崎東IC→一般道 1時間58分 146km/282㎞→
18時36分 帰宅〔走行距離計282km〕
旧東海道「関宿」の街並は、此れ迄見て来た「舞坂宿」以西の宿場町の中で、鳴海宿の手前の「有松」の街並に負けない素晴らしいものだった
ただ、当然の話だが、旧商家の規模・構えは、御三家筆頭の尾張国藩61万石の懐の深さだろう、軍配は「有松」に上がる
今回の「関宿」→「坂下宿」から、timely な公共交通機関利用が出来ない為、目的地迄車で移動し、車を降りて徒歩で出発点に戻り再び目的地迄夫々1往復することにした
だから、今回の踏破距離21.6kmは、「関宿宿」⇔「坂下宿」の1報復した距離である
次回の「坂下宿」→「土山宿」は、【鈴鹿峠】越えがあるので、「土山宿」迄到達出来るか、些か疑問である
■今日最後の話題は、02月07日(日)の話‥
其の日は、16時00分に運動を兼ねて拙宅から北北西に2km強の所にある二連木城跡迄 walking に行って来た
【二連木城跡】1
[右上]二連木城跡 Google 航空 map
[左下]二連木城跡へ行く途次の路傍の草花1
[中下]大口公園】寒紅梅の前にて
[右下]【同】紅梅の前にて
[右上]【同】白梅の前にて1
[左下]【同】同上2
[中下]【同】同上3
[右下]【同】熊笹の前にて
[右上]同上2
[左下]同上3
[中下]【大口公園】案内碑
[右下]今日の walking 距離4.4km 5,760歩
歩数は少なかった(笑)
【後記】今日最後は、小生の健康への毎日続けている「こだわり」についてご紹介する
毎朝の行動は以下の通りをもう十年以上続けている
1. 04時45分 起床→腹筋2,000回
2. 05時45分 2.5㎏木刀素振り 1,000~1,200回/h
此の朝の筋トレ2時間の間に、超薄のcoffee1.5~2.0Lを水分補給として飲む
3. 6時50分 入浴→
[27][左上]4.食事前に20種類〔写真19種類+写真にはないアルギニンEX〕の supplement を飲む
[右上]5. 大豆 protein とセイロン・シナモンをお湯か超薄のcoffeeに混ぜて飲む
[左下]6. 朝食は、プレーンヨーグルト、納豆〔1 pack〕と摺り胡麻、梅干し、味噌汁&生卵、野菜ジュース(写真にはない)、摺り胡麻、金山寺味噌、お猪口2/3杯のオリーブ油、紫蘇漬け生姜、バナナ、蜂蜜、シラス(or小女子)煮干し、昆布佃煮、発芽玄米1/3膳
此れ等を原則一口ずつ食べる
Supplement もEPAや無臭にんにく等の一部を除き、指定された一日の摂取量の半分~1/3しか摂らない
[右下]7. 大学入試に使った高三1月に撮影した小生(左)&大学入学手続きの際に生まれて初めて来た背広姿の小生(右)
此れを習慣付けたら、18歳の大学入学時に25歳だと言われた老け男(写真[右下](右))が、今では65歳だがよく五十路と間違えられる迄、若がえりが出来たみたいだ(笑)
では、また‥〔了〕
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