2020年6月18日木曜日

【時習26回3−7の会 0816】~「松尾芭蕉:俳諧七部集『あら野』から〔第34回/第321句~330句〕」「06月13日:『深溝城址』→『本光寺〔島原藩主深溝松平家墓所〕』→『東条城址』→『西尾歴史公園〔西尾城址・旧近衛邸〕』を巡って」「松尾芭蕉『奥の細道』〔第2回『旅立』~5回『壺碑』〕」「2011年04月:時習64回生の愚息、サッカーの試合での模様」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。今日も【時習26回37の会 0816】号をお届けします。
 今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『あら野』から〔第34回/第321句~330句〕」をご紹介する。

321 (ゆふ)がほ(1)や秋はいろいろの瓢(ふくべ)かな  芭蕉
 
【意】夏に詠んだ説なら「こんなに綺麗に咲く夕顔だが、秋にはあのひょうきんな瓢になるのだナ」/秋に詠んだ説なら、「此のひょうきんな瓢は、夏の夜には実に美しい花を咲かせる夕顔だったのだヨ」の意味になる
【解説】季語:夕がほ=晩夏 / 1689(元禄元)年夏 / 大津の苗村采陀()宅での挨拶吟 / 同年秋とする説もある / 夏ならば、瓢はまだ実っていないし、秋ならば夕顔の花は無い / 故に解釈も二つあり、未だ解釈が確定していない
(1)夕がほ:夕顔は夏の夕方から夜に白い大輪の花をつける熱帯原産のウリ科の一年草 / 花後大きな球形または楕円形の実をつけ、此れを瓢(ふくべ)という / 瓢は乾燥して様々な容器や飾りにする / 又、初秋に食用の「干瓢・乾瓢(かんぴょう)」に加工したりする
 
322 ゆふがほのしぼむは人のしらぬ也(なり)  野水(1)
 
【意】黄昏時の夕顔の白い花は、誰もが賞するが、暮夜に夕顔の萎む姿を知る人はいないのだ
【解説】季語:ゆふがほ=晩夏 /
(1)岡田野水(おかだ やすい((?)-1743.04.16(寛保03.03.22):埜水とも / 尾張国名古屋の呉服豪商で町役人 / 通称:佐右次衛門 / 本名:岡田行胤 / 芭蕉が『野ざらし紀行』の旅で名古屋に逗留した(1684)際の『冬の日』同人 / 其の頃、野水は27歳の男盛り / 又、彼は近江蕉門や向井去来等上方の門人との親交も厚かった
 
323 夕貌(ゆふがほ)は蚊()の鳴(なく)ほどのくらさ哉(かな)  偕雪(1)
 
【意】夕顔の白い花が咲く時刻と言えば、夕刻、蚊が活動を開始して羽音が聞こえて来る仄暗くなった頃だ
【解説】季語:夕貌((=夕顔)ゆふがほ)=晩夏 / 此の句の背景となる宵闇の程度を「蚊の鳴ほど」と表しているが、「暗さ」の程度が、「蚊の鳴き声」の様に頼りないはっきりしない暗さである、とも解釈出来る
(1)楷雪(かいせつ):人物について詳細不詳
 
324 山路(やまぢ)()て夕(ゆふ)がほみたるのなか哉(かな)  津島 市柳(1)
 
【意】夕闇が迫る / 山路を過ぎ、開けた野に出たら、ホッとした安心感の表れの様に、夕顔の白い花が咲いていた
【解説】季語:夕がほ=晩夏 /
(1)市柳(しりゅう(生没年不詳):尾張国津島の人 /『あら野』に入句
 
325 ()はへちまゆふがほに似()て哀(あはれ)(なり)  長虹(1)
 
【意】糸瓜(ヘチマ)は、瓜の形も夕顔に似ているのだが、糸瓜と呼ばれ夕顔ほど尊重されないので可哀想だ
【解説】季語:ゆうがほ=晩夏 /
(1)長虹(ちょうこう(生没年不詳)):尾張国名古屋城北(=名古屋市東区杉村町西杉) / 杉の薬師堂住職(現・解脱寺) / 芭蕉が『笈の小文』を終え、『更科紀行』に旅立つ間名古屋に滞在した16880815(貞亨050720)に、此処で歌仙興行 /「粟稗にとぼしくもあらず草の庵」等を詠む
 
  暮夏
 
326 (くすのき)も動(うご)くやう也(なり)(せみ)の聲(こゑ)  昌碧(1)
 
【意】蝉聲は、蚊・雷夏と共に夏の煩(うるさ)いものの代表格 / 其の凄まじさは巨木の楠すら動かさんばかりだ
【解説】季語:蝉の聲(=)=晩夏 /
(1)昌碧(しょうへき(生没年不詳)):尾張国名古屋の人 / 貞享0411月『笈の小文』の旅の折、蕉門に入門 /『あら野』等に入句
 
327 雲の峰(みね)(こし)かけ所(どころ)たくむ(1)なり  野水
 
【意】(入道)雲がむくむくと盛り上がり、色々な形に変化して丁度腰掛け易い形を作ったヨ
【解説】季語:雲の峰=三夏 /
(1)たくむ:工夫すること
 
328 夕立(ゆふだち)に干傘(ほしがさ)ぬるゝ垣穂(かきほ)(1)かな  傘下(2)
 
【意】夕立が急に降り出したので、折角垣根に干してあった傘が濡れて仕舞ったヨ
【解説】季語:夕立=三夏 /
(1)垣穂:「垣」に同じ
(2)加藤傘下(かとう さんか)(生没年不詳):尾張国名古屋の人 / 通称:治助 /『あら野』、『曠野後集』等に入句
 
329 すゞしさに榎(えのき)もやらぬ木陰(こかげ)(かな)  玄旨 法印(1)
 
【意】榎の大木の木陰は、日盛りの暑さを凌(しの)ぐには最高だ / だから此の涼しさの為に此の木陰に居る人は、中々立ち去り難いのだ
【解説】季語:すゞしさ=三夏 /「榎」と「得退き」を掛けている
(1)【玄旨法印(げんしほういん)=細川幽斎(1534-1610)】:安土桃山時代の武将・歌人 /三淵晴員(みつぶちはるかず)(2)の子 /
1534(天文03)0422日 三淵晴員の次男として京都東山にて誕生
1540(天文09)7歳で和泉半国守護細川元常(三淵晴員の兄とされる)の養子に(←・晴員と共に第12代将軍・足利義晴の近臣・細川晴広を養父と見る説も近年有力‥)
1546(天文15)年 藤孝を名乗り、第13代将軍・義輝に仕えた
1552(天文21)年 従五位下兵部大輔に叙任
1565(永禄08)年 義輝が三好三人衆に討たれ(=永禄の変)、弟・一乗院覚慶(後、還俗し足利義昭)が興福寺に幽閉されると、兄三淵藤英等と協力して彼を救出、近江国・六角義賢、若狭国・武田義統、越前国・朝倉義景等を頼り義昭の将軍擁立に奔走 / 其の後、明智光秀を通じて尾張国の織田信長に助力を求めることとなる〔後略〕
(2)【三淵晴員(みつぶちはるかず(1500-70))】:1500(明応09)年 和泉守護細川元有(ほそかわ もとあり(1459-1500))の子として生まれる / 同族で母親の兄弟で将軍側近の三淵晴恒の養子となった / 幕臣として第12代将軍足利義晴に仕え、和泉国松崎城主、山城国大法寺城主となった
1547(天文16)年 義晴・義輝親子が管領細川晴元(1514-63)と戦い敗れ、近江国坂本に落ち延びた時も此れに従った
1565(永禄08)年 第13代将軍義輝敗死後は義輝の弟で第15代将軍義昭に仕えた
1570(永禄13) 0301日死去(享年71)
 
330 (すゞ)しさよ白雨(ゆふだち)ながら入日影(いりひかげ)  去来(1)
 
【意】夕立が来てまだ降り止まなぬ処に、入日が漏れて来る爽快な一瞬 / 此れで今宵は涼しい夜になるだろう
【解説】季語:涼しさ=三夏 /
(1)向井去来(むかい きょらい(1651-1704)):肥前長崎に儒医向井玄升の次男として誕生 / 本名:向井平次郎 / 父は後に京に上り宮中儒医として名声を博す / 去来も、当初医者を志す / 兄元端も宮中の儒医 / 去来と芭蕉の出会いは、貞亨元年、上方旅行の途中に京都生まれの江戸俳人和田蚊足(ぶんそく)が仲立ちし、去来と其角が先ず出会い、その其角の紹介で始まったという /「西国三十三ヶ国の俳諧奉行」とあだ名された様に京都以西の蕉門を束ねた / 嵯峨野に別邸落柿舎を持ち、芭蕉は此処で『嵯峨日記』を執筆 /『去来抄』は芭蕉研究の最高の書とされる
 
【小生 comment
 次回は、俳諧七部集『あら野』から〔第35回/第331句~340句〕をご紹介する。お楽しみに!
 
■続いては、0613()に、『深溝城址』→『本光寺(深溝松平家菩提寺)』→『東条城址』→『花蔵寺〔吉良上野介義央墓所〕』→『西尾城』と巡って来たので、此のことについてお伝えする。
 いつもの通り、今日の行動を時系列にご紹介していく。
 
0505分 起床→腹筋2,000回→
0615 2.5kg木刀素振り60
0730分 入浴→朝食
 
[01]写真:()3】朝食一覧・(左下)1】プロテイン・(右下)・【2supplementsの入ったbottles


 毎朝【1】→【2】→【3】の順に毎朝過ごしている。
 【1】筋トレ(2時間の運動中に超薄のぬるい珈琲を2リットル補給)・入浴後にオリーブ油・蜂蜜・プロテイン半日分を摂取
 【2】併せて、EPA&無臭ニンニク他十数種類のsupplementを飲む
 【3】生の朝食一覧:在宅の時は全て以下の写真の食材を一口ずつ欠かさず毎朝食べている
  ↑↑左上から、「味噌汁・蜂蜜(小さじ一杯)・昆布の佃煮・バナナ1本・(納豆に振り掛ける)摺り胡麻」
  ↑↑左下から「味噌汁に入れる生卵1個・オリーブ油お猪口0.8杯・本物の紫蘇を使った紅生姜
    ・発芽玄米のご飯1/2膳と梅干1個・シラス干し・納豆・金山寺味噌」
 
0815分 拙宅発→一般道61 28.3km
0916分『深溝(ふこうづ)城址』着
 
【深溝城址】
 深溝(ふこうづ(ふこうぞ))松平家は、松平忠定を祖(=初代)とする松平氏の分枝。十八(十四)松平の一つ。
 三河松平宗家第3代信光迄遡ると徳川家康と共通の祖となる家柄。
 
1524(大永04)年 五井松平家第2代 松平元心の弟・松平忠定によって深溝松平家は発足されたと云う
 深溝松平家第2代 好景、同第3代 伊忠は徳川家康の岡崎城から働きを示し続け、同第4代 家忠(1555-1600)は酒井忠次の指揮下に組み込まれ、「長篠の戦い」等で活躍
1590(天正08)年 家康の関東移封で、家忠は武蔵忍に1万石の大名となる
1600(慶長0)5年 関ヶ原の合戦前哨戦「伏見城の戦」で、守将・鳥居元忠の副将格として伏見城で籠城し討死
1601(慶長06)年 家忠の長子で深溝松平家第5代 忠利(1582-1632)は、旧領復帰が叶い三河国深溝藩1万石の大名に
1612(慶長17)年 忠利は3万石に加増された三河国吉田藩主に
1669(寛文09)年 同第6代 忠房(1619-1700)は、三河国刈谷藩、丹波国福知山藩を経て65千石で肥前国島原藩に入封
1747(寛延02)年 深溝松平家第10代当主で島原藩5代藩主の忠祇(ただまさ)の時、下野国宇都宮藩初代藩主に
1774(安永03)年 忠祇(ただまさ)の弟、忠恕(ただひろ)が下野国宇都宮藩2代藩主を継ぎ、深溝松平家第11代当主に / 再び宇都宮藩と入れ替わりで島原藩に入封 / 爾来、島原藩主として明治維新を迎える
18840707日 同日制定の華族令により子爵叙爵
 
[02]深溝城址 解説板
                  
[03]同 同上にて

[04]同 石碑にて
                  
[05]深溝城址→本光寺へのmap


0945分 深溝城址発→7 0.7km/29km
0953分 本光寺駐車場着
 
【本光寺】
 1523(大永03)年 深溝松平忠定が、松平祈願所、菩提寺として建立。開山は、希声英音大和尚。
 境内に咲く5,000本の紫陽花の花は圧巻だった。
 
[06]同 島原藩主深溝松平家墓所 解説板
                  
[07]同 御朱印とleaflet

[08]同 深溝松平家第5代忠利公廟所前にて
                  
[09]同 西御廟所「四代家忠・三代伊忠・二代好景・初代忠定公墓所」前にて

[10]本光寺 境内に咲き誇る5,000本の満開の紫陽花0105
                  
[11]同 同上0610


 今から6年前、20146月に開催された【時習26回生卒業40周年記念懇親会&旅行 in京都2014】の optional tour で見かけた此の様に美しい青い色の紫陽花の花に魅せられて詠んだ拙い句を思い出した‥

  紫陽花の浅葱(あさぎ)が如き貴女かな  悟空
 
[12]本光寺 境内に咲き誇る5,000本の満開の紫陽花1115
                  
[13]本光寺 山門にて

[14]同 山門脇にある「史跡 島原藩主深溝松平家墓所」碑
                  
[15]同 東御廟所への参道にて

[16]同 東御廟所にて
                  
[17]同 境内にある本光寺案内図の横にて

1100分 本光寺駐車場発→一般道17 10.1km/39.1km
1117分 東条城址着
 
【東条城址】
 
[18]本光寺→東条城址へのGoogle map
                  
[19]東条城址 登城口にて

[20]同「東条城の歴史」解説板にて
                  
[21]同 三の丸にて~物見櫓等を back

 鎌倉時代の1222(貞応元)年頃、足利義氏が三河守護・吉良荘地頭となった。
 其の三男義継は吉良荘東条を譲られ、東条吉良氏の祖となった。
 以後、十四代義昭に到って滅ぶ迄、吉良氏は足利一門として栄え、東条の地は三百余年、足利・吉良氏の三河・遠江支配の重要拠点であった。〔後略〕
〔以上、「東条城の歴史」より引用〕
 
[22]東条城址 「古城公園〔東条城跡〕」解説板
                  
[23]同 本丸

[24]同 本丸にある「東条城址」石碑にて
                  
1150分 東条城址発→一般道09 1.4km/40.5km
1159分 華蔵寺駐車場着
 
【華蔵寺(けぞうじ)
 片岡山 華蔵寺(臨済宗 妙心寺派)は、吉良上野介義央(よしひさ(1641.10.05-1703.01.30)公の曾祖父、義定公が吉良家を再興した際、新たに高家吉良家の菩提寺として江戸時代初期に創建された。〔後略〕
 〔以上、当寺解説板より引用〕

[25]東条城址→華蔵寺への Google map

[26]馬上の吉良上野介像にて
                  
[27]華蔵寺 山門前にて

[28]同「片岡山 華蔵寺」解説板
                  
[29]同 山門を潜り本堂に上る石段

[30]同 吉良家墓所入口
                  
[31]同 吉良家墓所の墓石案内図

[32]同 吉良上野介義央の墓
                  
[33]同 同所にて

[34]同 方丈内部1
                  
[35]同 同上2

[36]同 吉良家由来&吉良氏系譜
                  
[37] leaflet

[38]同 枯山水鑑賞式庭園 縁側にて1
                  
[39]同 同上2

[40]同 枯山水鑑賞式庭園1
                  
[41]同 同2

↑↑小堀遠州風の洒脱な美しさを感じる名園だ

【花岳寺】
 花岳寺は、臨済宗妙心寺派の寺院。吉良氏の庶流東条吉良氏の菩提寺。

[42]花岳寺
                  

↑↑()花岳寺 本堂前にて1(左下)同 同左21(右下)同「花岳寺由緒」解説板

1325分 華蔵寺駐車場発→一般道17 5km/45.5km
1342分 西尾市歴史公園駐車場着
 
【西尾市歴史公園〔西尾城〕】
 
[43]西尾市歴史公園 leaflet

[44]同 同公園看板横にて
                  
[45]同 西尾城 鍮石門前にて

[46]同 同 本丸丑寅櫓をback
                  
 三河国守護に任じられた足利義氏が築城した西条城が始まりと伝わる。
1585(天正13) 酒井重忠が東の丸他の拡張、堀・石塁の造成、櫓門・天守等を増築。
1590(天正18) 岡崎城主の田中吉政(1548-1609)が西尾城主兼務で、三の丸の拡張、大手黒門、新門の楼門2棟、櫓門2棟を建立。
 
【西尾市歴史公園〔西尾城・旧近衛邸〕】
 
[47]西尾歴史公園 西尾城 西尾城址石碑にて

[48]同 旧近衛邸入口にて
                  
[49]西尾市歴史公園 旧近衛邸 内部1

[50]同 同 同上2
                  
[51]同 同 同上にて1〔抹茶を頂く〕

[52]同 同 内部にて2
                  
 小生、此の旧近衛邸は今回で3回目の訪問となるが、洗練された佇まいにいつも心が癒される。
 旧近衛邸で飲む西尾産の抹茶はとても美味しかった。
 でも、日曜日の昼下りなのに此のガランとした邸内は、写真撮影する小生には有難かったが、過去2回の訪問時の経験から有り得ない光景だった。
 此れもコロナウィルス禍の影響ダネ。
 
1452分 西尾市歴史公園発→一般道83 45km/90.5km
1615分 帰宅〔走行距離計90.5km()
 
 晴れ男の小生、今日こそは雨を覚悟したが、往路の一部と復路の車移動時間だけ雨だったが、外を歩く時は殆ど傘は不要だった。
 今日も一級の歴史文化に触れることが出来、楽しい一日だった。〔了〕
 
■今日最後の話題は、Facebook 20200526日に〔第1回〕を up して以来の松尾芭蕉『奥の細道』〔第2回〕~〔第5回〕をお届けする。
『奥の細道』〔第2回〕:20150529日付【時習26回3-7の会0550】~【「『奥の細道』第2回‥『旅立』→『草加』→『室の八島』→『仏五左衛門』→『日光』→『那須』→『黒羽』→『雲巌寺』‥」】「0528日:愛知県芸術劇場concert hallBerlin P.O. Stradivari soloists Stradivarius Summit Concert 2015』を聴いて」「篠田桃紅著『一〇三歳になってわかったこと‥人生は一人でも面白い‥』を読んで」
 ↓↓ 此処を click して下さい
http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/26055020528conc.html
 
[53] ()松尾芭蕉『おくのほそ道』他・()同『同左』行程と地図
 

『奥の細道』〔第3回〕20150606日付「【時習26回3-7の会0551】~「『奥の細道』第3回‥『殺生石・蘆野』→『白川の関』‥」「0530()31():賢人会旅行『播磨国【国宝】4寺院*(鶴林寺 浄土寺 朝光寺 一乗寺) & 黒田官兵衛足跡を中心に4()(明石城 三木城跡 【国宝】姫路城 御着城跡) + 1寺院(圓教寺)+ 1(竹中半兵衛) 巡りから〔初日〕報告」「0605日:愛知県芸術劇場concert hall『森麻季 soprano recital ‥愛を歌う‥』を聴いて」」
 ↓↓ 此処を click して下さい
 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/…/06/26055130530314-.html

  今から331年前の元禄二(1689)年 卯月十六日(新暦0603)~卯月二十日(新暦0607)にかけて芭蕉と曾良は『白川(=白河)の関』にいた
 
【殺生石(せっしょうせき)・遊行柳(or蘆野(あしの))】→【白川(=白河)の関】

[54]松尾芭蕉『奥の細道』~『殺生石・蘆野』→『白川の関』
                  
 ↑↑(左上)遊行柳・(左下)「田()一枚 植(うゑ)て立(たち)去る 柳かな /芭蕉」の句
 ↑↑(右上)芭蕉と曾良・(右中)ヒメシャガの花・(右下)白川(白河)の関

[55]DVDNHKおくのほそ道を歩こう」


『奥の細道』〔第4回〕2015611日付【時習26回3-7の会0552】~「今夏【2637の会】クラス会について」「『奥の細道』第4回‥『須賀川』‥」「0530()31():賢人会旅行『播磨国【国宝】4寺院 & 黒田官兵衛の足跡を中心に4()他 巡り〔二日日目〕』報告」「0607日:『豊橋市 賀茂しょうぶ園/花しょうぶまつり』『新城 四谷 千枚田』『岩村城址』を見て」「0609日:名古屋ボストン美術館『Double Impact 明治ニッポンの美』展 & 古川美術館『四季暦/朱夏の章』展を見て」

 ↓↓ 此処を click して下さい
 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/…/06/260552263740530.html

【須賀川】
 
[56]栗の木
                   

『奥の細道』〔第5回〕20150616日付【【時習26回3-7の会0553】~「今夏【2637の会】クラス会について《続報》」「『奥の細道』第5回‥『浅香(安積)山』『信夫の里』『佐藤庄司が旧跡』『飯塚』『笠島』『武隈』『宮城野』『壺碑』‥」「0613日:桑山美術館『<院展の画家たち>-近代日本画の開拓と創造-』展を見て」】
  ↓↓ 此処を click して下さい
 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/…/06/260553263750613.html
 
 元禄二(1689)年 卯月二十九日(新暦0616日/須賀川 発)~五月七日(新暦0623日/仙台 国分町)にかけて八日間の芭蕉一行の話であるから、丁度331年前の今日から1週間の模様である。

【浅香(=安積(あさか))山】
 
[57]ヒメシャガの花(上・下)

【信夫(しのぶ)の里】→【佐藤庄司が旧跡】→【飯塚(=飯塚温泉)】→【笠島(かさしま)】→
【武隈(たけくま)
 
[58]武隈の松の二木と竹駒神社
                  
 ↑↑()武隈の松の二木・(右上)竹駒神社の鳥居・(右下)竹駒神社
 
【小生comment
 小生、1982(昭和57)05月~83(58)11月迄、仙台市南部・名取市・岩沼市等の宮城県南部担当の外交担当だった。
 岩沼市の竹駒神社は取引先でもあった。その竹駒神社から北方へ200m程の道路沿いに「武隈の松」はある。
 いつも車で其前を通り過ぎたが、当時は、『奥の細道』に強い関心がなかったので特段感傷的な気分も生じなかった。今から思えば一寸残念!
 
【宮城野(=仙台)

[59]あやめの花と我家にある東北三駒とチャグチャグ馬コ

↑↑()あやめの花・()拙宅にある東北三駒とチャグチャグ馬コ(←左より八幡馬・木()下駒・三春駒・チャグチャグ馬コ)
 
【壺碑(つぼのいしぶみ)
 
[60]壺碑(つぼのいしぶみ)
                  
【後記】昔の blog up した『奥の細道』を探していたら、今から9年前(20110430) の昔、愚息次男坊の時習館高等学校サッカー部時代の snap shots up した場面を見つけた。
 愚息は、時習64回生の母校時習館高校の後輩でもある。彼が高三の時、時習館高校サッカー部は、愛知県大会迄行った。
 2011.04.30 【時習26回3-7の会 0339】~「0430日:『時習館高校サッカー部、愛知県高校総体サッカー東三河支部予選会にて決勝進出を決める!』」「0429日:準々決勝『時習館高校 v.s. 豊橋工業高校戦観戦!』」をご照覧頂ければ幸いである。
 ↓↓ 此処を click して下さい
 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/…/04/26-033904300429.html
 
[61] 20110429日『準々決勝『時習館高校 v.s.豊橋工業高校戦観戦!』での愚息
 

では、また‥〔了〕

 ブログへは【0626】号迄のback numberURL:http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog←此処をclickして下さい

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