2020年5月29日金曜日

【時習26回3−7の会 0813】~「松尾芭蕉:俳諧七部集『あら野』から〔第31回/第291句~300句〕」「05月23日:『旧東海道「御油」宿 ~「赤坂」宿に芭蕉の足跡を訪ねて』」「蘇軾(蘇東坡)『和孔密州五絶東欄梨花』」「松尾芭蕉『奥の細道』~【象潟】〔其の1〕& 蘇軾(蘇東坡)『飲湖上初晴後雨』」「久保田万太郎の秀句」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。今日も【時習26回37の会 0813】号をお届けします。
 今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『あら野』から〔第31回/第291句~300句〕」をご紹介する。

291くさかりの袖(そで)より出(いづ)るほたる哉(かな)  卜枝(1)
 
【意】和泉式部は、「物思へば澤の蛍もわが身よりあくがれいづるたまかとぞみる(【意】あなたを想い慕って物思いに耽(ふけ)っていると、ふと見た沢の蛍さえも、私の身体からふらふらと彷徨(さまよ)い出て仕舞った魂ではないかしらと、思う)(後拾遺集 1162)」と詠んだが / 此の句の scene は、何を思うこともない草刈り男の話 / 日中の草刈作業を終えての帰途、恐らく草刈り作業中に刈った草の中から男の袖の中へ入って仕舞った蛍が、其の袖の中から光を放ち乍ら宵闇へ飛び立った
【解説】季語:ほたる=仲夏 / 和泉式部の和歌を踏まえ、事実に基づいた滑稽を詠んだ
(1)卜枝(ぼくし(生没年不詳)):近江国の人だが、後に尾張津島の蓮花寺に寓居していたという/貞門に入門の後蕉門に入った。俳号は遠方とも/『あら野』などに入句
 
292 (みづ)(くみ)て濡(ぬれ)たる袖(そで)のほたるかな  鴎歩(1)
 
【意】袖を濡らして水を汲んだ / 其の濡れた袖を「露に濡れた草と思ったのだろうか、蛍が飛んで来て暫くとまって離れない / 其の姿が愛おしく暫し見惚()れている
【解説】季語:ほたる=仲夏 /「袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ(【意】夏には袖を濡らして掬(すく)って喉(のど)を潤していた山の清水は冬の間は凍っていたのだが、立春である今日吹く春風が解かしているのだろうか‥)/ 紀貫之」(古今和歌集/巻第一・春歌上/立春の日に詠める歌/此の歌を踏まえて詠んだ句
(1)鴎歩(おうほ(生没年不詳)):美濃国岐阜の人 /『あら野』に入句
 
  はじめて葎室(りつしつ)(1)をとぶらはれける比(ころ)
 
(1)葎室(りつしつ):葎(むぐら)の宿 / 粗末な我家のこと / 作者の秋芳は、美濃国岐阜の僧侶の己百 / 此の【詞書】を、秋芳が芭蕉の初訪問を受けた1688(貞享05)05月とする説がある / 但し、撰者の荷兮(1648(?)(慶安元年)-1716(享保元年))が秋芳の初訪問を受けた時のことと解する方が発句の意味によく合う /
 
293 こゝらかとのぞくあやめ(1)の軒端(のきば)(かな)  秋芳(2)
 
【意】何処の家の軒端にも邪気祓いの菖蒲(=あやめ)等が挿してあるので紛らわしく、見当を付けて、立ち寄り、立ち寄りして参りました
【解説】季語:あやめ=仲夏 /
(1)あやめ:当時より端午の節句(55)の前日、菖蒲・蓬(よもぎ)を軒先に挿し邪気を祓う風習があった
(2)己百/秋芳(きはく/しゅうほう(生没年不詳)):美濃国岐阜の日蓮宗妙照寺住職日賢和尚 / 1688(貞亨05)年「笈の小文」の旅中に芭蕉を京都に訪ねて入門 /「しるべして見せばや美濃の田植え歌」という句で芭蕉を誘い美濃に案内したことで知られる /『あら野』・『花摘』・『其袋』等に入句
 
294 ()のむれて栂(とが)(1)の一木(ひとき)の曇(くもり)けり  小春(2)
 
【意】栂の木の周りに蚊柱が立った / 濃く繁茂する栂の木でも霞んで仕舞う程の凄い数の蚊柱だ
【解説】季語:蚊=三夏 /
(1)(とが):マツ科の常緑高木 / 山地に自生 / 幹は直立し、30mの大樹に生長 / 葉は線形で枝に二列に密生 / 雌雄同株 / 球果は小さい長卵形 / 材は建材・器具材等 / 樹皮からはタンニンをとる
(2)亀田小春(かめだ しょうしゅん(?-元文05(1740)0204)):加賀国金沢の蕉門 / 薬種商人・宮竹屋 亀田伊右衛門 /『奥の細道』の旅で金沢を通過した折、芭蕉の門人となる
 
295 かやり火()に寝所(ねどころ)せまくなりにけり  杏雨(1)
 
【意】蚊遣りの煙がもうもうと立ち昇って辺りは見えない / 恰も寝所が狭くなった様だ
【解説】季語:かやり火=三夏 /
(1)杏雨(きょうう(生没年不詳)):美濃国岐阜の人 /『あら野』等に入句
 
296 (あめ)のくれ傘(かさ)のぐるりに鳴(なく)()かな  ニ水(1)
 
【意】雨の夕暮れ / 傘をさしての帰り道 / 笠の周りにはぐるりと蚊が取り巻いている気配で、今にも刺しに来そうな不快で不安な状況だ
【解説】季語:蚊=三夏 /
(1)二水(にすい(生没年不詳)):人物について詳細不明
 
297 ()の痩(やせ)て鎧(よろひ)のうへにとまりけり  一笑(1)
 
【意】痩せこけた蚊が、何を勘違いしたのか、鎧の上にとまった / 其処から血を吸おうというのか?/ 愚かしくも可愛くもある
【解説】季語:蚊=三夏 /
(1)小杉一笑(こすぎ いっしょう(1652-88.12.28(元禄01.12.06(享年36))):加賀国金沢の人 / 小杉味頼 / 通称:茶屋新七 / 貞門から1687(貞亨04)年頃より蕉門に入門 /『奥の細道』の途次、芭蕉は一笑の死を知り、金沢で追善句会を開催し、「塚も動け我が泣く声は秋の風」と彼の死を悼んだ
 
298 ()の花(はな)をかづける蜑(あま)の鬘(かづら)(1)かな  胡及(2)
 
【意】海女が、海底から水面に戻って来る途中で海草が頭に纏わり付き、此れが恰も彼女の髪飾りの様だ
【解説】季語:藻の花=仲夏 / 高貴な女性等がつける髪飾りを「玉藻飾り」等と言い、珊瑚(さんご)や真珠等の宝物を髪飾りとした
(1)(かづら):蔓草(つるくさ)や花等を頭髪の飾りとしたもの / 頭髪の添える為の毛を束ねたもの
(2)胡及(こきゅう(生没年不詳)):尾張国名古屋の人 /『あら野』等に入句
 
299 (しほ)(ひき)て藻()の花(はな)しぼむ暑(あつ)さかな  兒竹(1)
 
【意】潮が引いた後の夏の海岸風景 / 陸上に露出した藻の花が干上がりすっかり萎(しぼ)んで仕舞っている
【解説】季語:藻の花=仲夏 /
(1)兒竹(じちく(生没年不詳)):人物について詳細不詳
 
300 (あぢ)()べて姫百合艸(ひめゆり)(1)(=)らす晝(ひる)ね哉(かな)  此橘(2)
 
【意】昼下がり / 庭に咲いた姫百合を家人に折らせて床の間に飾った / 其の傍で足を伸ばして横になり、眠りに落ちた / 一寸した贅沢‥
【解説】季語:姫百合艸(ひめゆり)=仲夏 /
(1) 姫百合艸(ひめゆり):百合(ユリ)の一品種 / 山野に生える / 茎も葉も細く、夏、濃紅色の小形の花が咲く
 
[01]姫百合
 
(2)此橘(しきつ(生没年不詳)):人物について詳細不詳
 
【小生 comment
 次回は、俳諧七部集『あら野』から〔第32回/第301句~310句〕をご紹介する。お楽しみに!
 
■続いては、0523()の夕方「『旧東海道「御油」宿 ~「赤坂」宿に芭蕉の足跡を訪ねて』をお届けする。
 其の日は、天気も良かったので、夕方、御油迄車で行き、walking を兼ねて史跡巡りをした。
 朝は少しゆっくりと起きた。
0745分 起床→腹筋2,000回→
0915 2.5kg木刀素振り60
1100分 入浴→brunch
〔室内の整理整頓&清掃〕
 
 「豊川市御油の松並木資料館」の駐車場に車を止め、東海道五拾三次の宿場間の距離が最短である舊東海道「御油」宿~「赤坂」宿間17丁を往復した。
 松尾芭蕉がまだ芭蕉を称する前の「桃青」という号であった33歳の時に‥
 
  夏の月 御油より出()でて 赤坂や  桃青〔松尾芭蕉〕 
 と詠んだ石碑がある関川神社を訪ねてみたくなって訪れた。
 時節も今は「夏」なので、本当は此の句の「上五」にある「夏の月」を実際に見たかったのだが、残念乍ら今日0523日は「新月」で全く月はみえない。
 でも、宵の口の雰囲気を感じるべく、以下の行程で拙宅を出発した。
 
1636分 拙宅発→〔一般道 国道1号線 12km〕→
1704分「豊川市御油の松並木資料館」着
 
【舊東海道「御油」宿の風景】
 
[02]コロナウィルス禍で閉館中の「御油の松並木資料館前」にて
                   
[03]「御油の松並木資料館前」~「御油の松並木」迄の航空写真

[04]舊東海道にある御油郵便局前の「御油の松並木」への案内看板
                   
[05]舊東海道を挟んである「イチビキ」味噌の第一工場

[06]「イチビキ」第一工場看板前にて
                    
【舊東海道「御油の松並木」】
[07]舊東海道「御油松並木」~「御油」側入口
[08]同所にて
                   
[09]「御油松並木」碑

[10]「御油松並木」板
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[11]舊東海道「御油松並木」にて1

[12]同上2
                   
[13]舊東海道「御油松並木」~御油小学校6年生たちが植樹した松の苗木
[14]舊東海道「御油松並木」~古い松の切り株から若い苗木が生えている
                   
[15]舊東海道「御油松並木」
[16]舊東海道「御油松並木」~「赤坂」側入口にて
                   

【関川神社】
 
[17]関川神社の大楠
[18]関川神社の大楠解説
                   
[19]芭蕉「夏の月 御油から出て 赤坂や」の句碑
[20]同上にて
                   
[21]芭蕉「夏の月」句碑と同案内碑
[22]関川神社正面
                   

【舊東海道「赤坂」宿】
 
[23]歌川広重「東海道五十三次~『御油〔旅人留女〕』宿」
[24]歌川広重「東海道五十三次~『赤坂〔旅舎招婦ノ図〕』宿」
. . . . . . . . . . . 
[25]舊東海道「赤坂」宿・「御油」宿 案内図
[26]黒崎屋前にて
. . . . . . . . . . . 
[27]大橋屋「旧旅籠鯉屋」
[28]同所前にて
. . . . . . . . . . . 
[29]同所石碑横にて
[30]赤崎宿脇本陣「輪違屋」跡石碑にて
                    
【小生 comment
 松尾芭蕉の「夏の月 御油より出でて 赤坂や」の石碑を愛でることが出来、有意義だった。

 此の名句から芥川龍之介『芭蕉雑記』の「耳」で評した次の一文が浮かぶ。
 
「もし「調べ」の美しさに全然無頓着だつたとすれば、芭蕉の俳諧の美しさも殆ど半ばしかのみこめぬであらう。
 俳諧は元来歌よりも「調べ」に乏しいものでもある。
 僅々(きんきん)十七字の活殺(かっさつ(=生かすことと殺すこと(=生殺)))の中に「言葉の音楽」をも伝へることは大力量の人を待たなければならぬ。
 のみならず「調べ」にのみ執するのは俳諧の本道を失したものである。
 芭蕉の「調べ」を後にせよと云つたのはこの間の消息を語るものであらう。
 しかし芭蕉自身の俳諧は滅多に「調べ」を忘れたことはない。
 いや、時には一句の妙を「調べ」にのみ託したものさへある。
 
  夏の月御油より出()でて赤坂や
 
 これは夏の月を写すために、「御油」「赤坂」等の地名の与へる色彩の感じを用ひたものである。
 この手段は少しも珍らしいとは云はれぬ。
 寧ろ多少陳套()の譏(そし)りを招きかねぬ技巧であらう。
 しかし耳に与へる効果は如何にも旅人の心らしい、悠々とした美しさに溢れてゐる。
 〔中略〕
 
  秋ふかき隣は何をする人ぞ
 
 かう云ふ荘重の「調べ」を捉へ得たものは茫々たる三百年間にたつた芭蕉一人である。
 芭蕉は子弟を訓(おし)へるのに「俳諧は万葉集の心なり」と云つた。
 この言葉は少しも大風呂敷ではない。
 芭蕉の俳諧を愛する人の耳の穴をあけねばならぬ所以である。」
 
1800分 赤坂宿 本陣跡着
1836分「豊川市御油の松並木資料館」着
1900分 帰宅〔走行距離28.3km 歩数6,047歩〕
 
【小生comment
 因みに、一番宿場間の距離が長かったのは、海路の「宮(熱田)」と「桑名」の間の7(27.5km)
 陸路では「小田原」と「箱根」の宿場間の48(16.6km)で、「御油」「赤坂」間の10倍近い距離があった。
 御油と赤坂の宿場間の距離が短かった為、宿場女が旅人を奪い合うということがあった様で、其の模様が広重の絵にも反映されている。
 「東海道五十三次」の「五十三次」とは、「日本橋」を出立し、京都「三条大橋」に到る間にある「1.品川」宿~「53.大津」宿迄の53の宿場町を言う。
 因みにご当地豊橋には、33番「二川」、34番「吉田」の宿場町があり、吉田の宿の西隣が、35番「御油」、36番「赤坂」の順であった。〔了〕
 
■今日最後の話題は、先日ご紹介した王安石より16歳年少の彼と同じく北宋の詩人で政治家、蘇軾(東坡(1037-1101))の「梨花が咲く」今の時節(←と言っても此の詩では結句に「清明」節が出て来るから、厳密に言えば今より1箇月余り前の時節‥)を詠んだ傑作の七言絶句をご紹介する。
 蘇軾と王安石は、共に科挙を22歳の若さ、且つ優秀な成績で及第して高級官僚として活躍した。
 旧法派の蘇軾は、新法派の領袖王安石とは政敵の立ち位置に居たが、詩人としてはお互い認め合い、特に年少の蘇軾は、引退した王安石を訪ねた程、詩人としての王安石を尊敬していた。
 此の詩は、咲いている梨の花の美しさを愛でると共に、其の梨花をいつ迄眺め続けられるのだろうかと、有限の人生の儚さを詠む‥
 
 【和孔密州五絶東欄梨花 / 蘇軾(蘇東坡)
 
1】梨花淡白柳深青/【2】柳絮飛時花滿城
3】惆悵東欄一株雪/【4】人生看得幾清明
 
[31]写真は、左上「【1】「梨花淡白柳深青」を image した画像、以下時計回りに‥
↑↑【2】「柳絮飛時花滿城」を image した画像
↑↑【3】「惆悵東欄一株雪」を image した画像
↑↑【4】「人生看得幾清明」を image した画像
 
  孔(こう)密州(みつしゅう)(1)の五絶(ごぜつ)(2)に和()(3) 東欄(とうらん)(4)の梨花(りか)(5) / 蘇軾(蘇東坡)(1036-1101)(6)
1】梨花淡白(たんぱく)(8)にして 柳は深青(しんせい)(9)なり
2】柳絮(りゅうじょ)(10)飛ぶ時 花は城に滿つ
3】惆悵(ちゅうちょう)(11)す 東欄一株(いっしゅ)の雪
4】人生 看得(みえ)るは幾(いく)清明(せいめい)
 
《意》
1】梨の花は淡い白、柳は深い緑色
2】柳絮が飛び、城内は(白い)梨花でいっぱいになる
3】庭に面した東側の欄干の傍らに咲く白い梨花を見、私は物思いに沈む
4】儚い一生だ、あと何回『清明』節にこの美しい梨花を見ることが出来るだろうか
 
《語句》
(1)孔密州:蘇軾の後任として密州(現・山東省諸城県)の知事となった孔宗翰のこと / 彼は孔子の子孫
(2)五絶:絶句五首 / 此の詩は其三
(3)和す:孔密州作の「東欄梨花」と題する詩に、蘇軾が韻を合わせて作詩した
(4)東欄:密州の官舎の東側の欄干
(5)梨花:梨(なし)の花
(6)蘇軾(1036-1101):北宋(960-1127)の文学者・詩人 / 眉山(びざん(現・四川省))出身 / 号:東坡(とうば) / 蘇洵(そじゅん(1009-66))の長子で、蘇轍(そてつ(1039-1112))兄 / 1057(嘉祐02)年、次弟・蘇徹と共に進士に及第(←此の時の科挙・紳士の試験官は、唐宋八大家(7)の一人の欧陽脩(1007-72)、そして其の時の及第者は、此れも唐宋八大家の蘇軾・蘇徹・曾鞏の3人のみ) / 彼は王安石(1021-86)の新法に反対した為左遷された
(7)唐宋八大家:唐の韓愈(768-824)、柳宗元(773-819) / 宋の欧陽脩、蘇洵、蘇軾、蘇轍、曾鞏(そうきょう(1019-83))、王安石の 8人の文人を言う /うち蘇洵、蘇軾、蘇轍の親子(父、長子・次子)3人を「三蘇」と称す
(8)淡白:淡い白色
(9)深青:深緑色
(10)柳絮:柳の白い綿毛の付いた種子 / 晩春から初夏の頃、綿の様に乱れ飛ぶ
(11)惆悵:嘆き悲しむこと / 傷み悲しむこと
 
《解説》
 1077(熙寧(きねい)10)年 蘇軾は密州から徐州(現・江蘇省徐州市)の知事として着任 / 徐州は江蘇省北部の交通の要衝であり、大都会 /蘇軾の徐州在任期間は、僅か2年間だったが、行政官僚としては洪水対策などで功績をあげ、詩人としての名声も飛躍的に高まった。
 この詩は徐州への転任直後に、後任の密州知事孔宗翰へあてて書いたものだ。
 
【小生 comment
 此の詩は、絵画的であり、情感も豊かな佳句である。
 以下は余談‥
 小生、全ての genre に於いて判断の基準としているものは、『美しさ』である。
 「梨花」というと、原石鼎(せきてい(1886-1951))の此の名句は印象的で、美しいが故に大好きな句だ!
 因みに、原石鼎は高浜虚子(1874-1959)の愛弟子で虚子時代のホトトギス同人。
 此の句は、一回詠むと、あまりに単純な「言葉使いと事実」に肩透かしをくらって仕舞う。
 しかし、二度、三度と詠み返していくうちに「青天」と「白き五弁の梨の花」の「絵画的表現」と、気持ち好く耳元に響いて来る「音楽的響き」に魅せられるのだ。
 此の句は紛れもない素晴らしい傑作だ。
 
  青天や 白き五弁の 梨の花  原石鼎 〔1936年作/自選句集『花影』(改造社 1937年刊)〕
 
[32]「青天や 白き五弁の 梨の花 / 原石鼎」を image した画像
. . . . . . . . . . .  
 此の名句と添付写真の梨の花を見、拙句を一句‥
  青空に 輝く金剛() 白き梨花(りか)  悟空
 
()金剛(こんごう):ダイヤモンド
 
■続いて、松尾芭蕉『奥の細道』~【象潟】〔其の1〕をお伝えする。
 此の【象潟】〔其の1〕の解説中に、蘇軾(蘇東坡)の七言絶句の名詩があるのでご紹介したい。
 芭蕉が『奥の細道』の【象潟】で詠んだ「象潟や雨に西施がねぶの花」の典拠の一つとなった『飲湖上初晴後雨』である。
 
【象潟1】
 《原文》
 江山(こうざん)水陸(すゐりく)の風光(ふうくわう)数を尽して、今象潟に方寸(ほうすん) 数を尽して、今象潟に方寸を責(せむ)
 酒田の湊より東北の方(かた)、山を越(こえ)、礒(いそ)を伝ひ、いさごをふみて其(その)(きは)十里、日影やゝかたぶく比(ころ)、汐風(しほかぜ)真砂(まさご)を吹上(ふきあげ)、雨朦朧(もうろう)として鳥海(ちょうかい)の山かくる。
 闇中(あんちゅう)に莫作(=模索(もさく))して()「雨も又奇()(なり)」とせば、雨後の晴色(せいしょく)又頼母敷(たのもしき)と、蜑(あま)の苫屋(とまや)に膝をいれて、雨の晴(はるる)を待(まつ)
 
《現代語訳》
 海や山、河川など景色のいい所を是迄見て来て、愈々旅の当初の目的の一つである象潟に向けて、心を急き立てられるのだった。
 象潟は酒田の港から東北の方角にある。山を越え、磯を伝い、砂浜を歩いて十里ほど進む。太陽が少し傾く頃だ。汐風が浜辺の砂を吹き上げており、雨も降っているので景色がぼんやり雲って、鳥海山の姿も隠れて仕舞った。
 暗闇の中をあてずっぽうに進む。「雨もまた趣深いものだ」と中国の詩の文句を意識して、雨が上がったらさぞ晴れ渡って綺麗だろうと期待をかけ、漁師の仮屋に入れさせて貰い、雨が晴れるのを待った。
 
 ()闇中(あんちゅう)に莫作(=模索(もさく))して:通説は、蘇東坡(=蘇軾(1036-1101))「西湖」の詩を踏まえ、室町時代末期の五山僧 策彦 が詠んだ「晩西湖過」拠ったものとして、「莫作」は「模索(もさく)」の誤記とする。
 
  【飲湖上初晴後雨 / 蘇東坡】
 
1】水光瀲艶晴方好 /【2】山色空濛雨亦奇
3】欲把西湖比西子 /【4】淡粧濃抹總相宜
 
[33]写真は、左上「【1】「水光瀲艶晴方好」を image した画像、以下時計回りに‥
↑↑【2】「山色空濛雨亦奇」を image した画像
↑↑【3】「欲把西湖比西子」を image した画像
↑↑【4】「淡粧濃抹總相宜」を image した画像
 
   湖上に飲み 初め晴れ後(のち)に雨ふる / 蘇軾(蘇東坡)(1036-1101)(5)
1】水光(すいこう) 瀲艶(れんえん)として 晴れて方(まさ)に好く
2】山色(さんしょく) 空濛(くうもう)として 雨も亦(また)奇なり
3】西湖(せいこ)を把(もつ)て西子(せいし)に比せんと欲すれば
4】淡粧(たんしょう) 濃抹(のうまつ) (すべ)て相(あい)(よろ)
 
《意》
1】水面がキラキラ輝き、漣(さざなみ)が揺れ、晴れた日の西湖はとてもいい
2】また霧雨で山の色が朦朧として見える雨の日の西湖も味わい深いものだ
3】西湖の様子を伝説的な美女「西施」に比べようとすると
4】薄化粧も厚化粧(=晴れでも雨で)も、どちらもいいものだ
 
【小生comment
 森羅万象全てのことに当て嵌るが、特に文学・絵画・音楽という藝術と名のつくものは、陰陽の両極があって輝きを放つ。
 詳細の comment は、次回に譲るが、「松島は笑ふが如く、象潟は恨むが如し」と芭蕉が「雨の象潟」を close-up して、「松嶋」→「平泉」→「立石寺」→「象潟」という一連の流れをつくり、『奥の細道』の雰囲気を最高潮に盛り上げている。
 中国・宋の詩人 蘇東坡 の漢詩を出して、中国戦国時代の悲哀の美女「西施」の史実と象潟を重ね合わせ表現するという芭蕉の芸術的感性は流石だ。
 
【後記1】今日は、俳句の天才 久保田万太郎 (1889.11.07-1963.05.06(1957年 文化勲章受章))の今『初夏』の時節の秀作で締め括ることとする。
 彼の此の作品が、薔薇の開花時期と重なり浮かんだ
 
  薄暮、微雨、而して薔薇しろきかな  久保田万太郎
【解説】「薄暮(はくぼ)」、「微雨(びう)」と nuance の異なった薄物がかけられた gradation の様な形容。
 其の上で(=而して)「薔薇しろきかな」と続く。

 写真で撮った一枚の白い薔薇花の傑作(添付写真の絵は、フィンセント・ファン・ゴッホ( : Vincent Willem van Gogh 1853.03.30-1890.07.29)『薔薇のある花瓶』1890年作)が眼前にある様だ。
「春燈」所収(昭和347月)
 
[34]「薄暮、微雨、而して薔薇しろきかな / 久保田万太郎」を image した画像
. . . . . . . . . . .  
 万太郎の名句に触発されて、拙句を一句‥
 
  白き薔薇 (Blue-)Moon(Blue-)Heaven に 勝るかな  悟空
[35]写真は、白薔薇()Blue-Moon(左下)Blue-Heaven(右下)


【後記2】0524()の今日の夕飯は、nahn take out
 
[36]Facebook up した小生の夕飯の写真
. . . . . . . . . . . 
では、また‥〔了〕

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