2019年9月13日金曜日

【時習26回3−7の会 0774】~「松尾芭蕉:俳諧七部集『春の日』から〔第12回〕」「09月07日:常滑市『澤田酒造』→『やきもの散歩道』→『大野城跡』→『西尾城跡公園』を巡って」「09月09日:【吉田の街 逍遥】『二連木城址』『全久院』『東田小学校』『八町小学校』『山田宗偏邸跡』『吉田城』『吉田藩藩校「時習館」址石碑』『吉田宿・本陣跡』を巡って」「ホトトギス派俳人四S~阿波野青畝と高野素十」

■皆さん、お変わりありませんか?  今泉悟です。今日も【時習26回37の会 0774】号をお届けします。
 今日最初の話題は、松尾芭蕉「俳諧七部集」の第二集『春の日』から〔第12回 / 春(発句 全14句のうち後半 7)〕をお届けする。

   春

08(122) (あけぼの)の人顔(ひとがほ)牡丹(ぼたん)(かすみ)にひらきけり  杜國

【意】元旦(=元日の朝)の薄明りの中を人が行く /  朝霞の中に牡丹の花が開いた様に明るい顔をしている
【解説】季語:霞=春 /「曙」「人顔」「牡丹花」「春霞」のいずれもが白い /  此れ等の白さにも微妙な差異があり面白い

09(123)腰てらす元日(ぐわんじつ)(さと)の睡(ねぶ)りかな  犀夕(1)

【意】元日の村里  / 穏やかな陽射しを受けて、恰も人里(ひとざと)が寝入って仕舞っている様だ /
 白居易は、自分が眠りを貪っている様を「日腰をてらす」と詠んだがことを踏まえ、此処では、村里全体が白居易の「日腰をてらされ」ているのと同様に穏やかに寝入っているヨ、と譬えて詠んだ
【解説】季語:元日=新年 /「腰てらす」とは、白氏文集「暖牀(だんしょう)(ななめ)ニ臥()シテ日()腰をテラス」より
(1)犀夕(さいせき):詳細不明

10(124)星はらはらかすまぬ先(さき)の四方(よも)の色(1)  呑霞(2)

【意】明けて行く元朝 /  空には星が残っている / 夜が明けると春霞が四方に立ち籠めることだろう
【解説】季語:かすまぬ=春 / 元朝の夜明けの時刻の余韻ある美しさを詠んだか、「四方の色」に其の様な趣がある
(1)「四方の色」:「四方の春」にも通じるか
(2)呑霞(どんか):詳細不明

11(125)けふとても小松負()ふらん牛の夢  聴雪(1)

【意】正月の牛小屋 / 牛には仕事が無い / しかし、年中荷物を背負わされる牛のことだ、きっと門松用の小松でも背負っている夢でも見ていことだろう
【解説】季語:小松=正月
(1)聴雪:尾張国名古屋の人 /『笈の小文』の旅の折、芭蕉を出迎えた人々の一人

12(126)朝日(あさひ)二分(にぶ)(やなぎ)の動く匂(にほ)ひかな  荷兮

【意】春 / 朝日が微(かす)かにさすと、柳の芽が動く / そのひそやかな匂いが辺りに漂う
【解説】季語:柳=()春 /「朝日さす岸の青柳うちなびき 春くるかたは先づしるきかな」(夫木和歌抄・定家)という様な趣を俳諧化したもの 
 わずかな朝日を「二分」、柳の動く気配を「匂ひ」とした処が俳諧の表現

13(127)(まづ)(あけ)て野()の末(すゑ)ひくき霞(かすみ)(かな)  同

【意】霞は、古来、春の空の景色を変えるものとされて来た / が、よく見ると、先ず「夜が明け」→「年が明け」→「春になり」、そして「彼方の野の果ての地平に霞がかかる」という順序があるのだ
【解説】季語:霞=春 /

14(128)(せり)(つむ)とてこけて酒(さけ)なき剽(ふくべ)かな  旦藁

【意】瓢(ふくべ)に酒を入れて野に遊ぶ / 沢辺の興に芹(セリ)を摘もうとして小川の縁で滑って転んで、全部こぼして仕舞った / だから瓢の中は空っぽに!
【解説】季語:芹摘=春

【小生 comment
 次回は、俳諧七部集『春の日』から〔第13回/ 春(「のがれたる人の許へ行とて」~発句 全5)〕をご紹介する。お楽しみに!

■続いての話題は、0907()に常滑市にある『澤田酒造』→『やきもの散歩道』→『大野城跡』→『西尾城跡公園』を巡って来たことについてご報告する。
 其の日もいい天気だったので、「澤田酒造()」→「焼きもの散歩道」→「大野城跡」→「西尾歴史公園」と巡って来た。

0520分 起床→腹筋2,000
0600 2.5kg木刀素振り60
0710分 入浴→朝食
0808分 拙宅発→一般道64km 1時間50分→
0958分 澤田酒造()駐車場着
1003分 澤田酒造()『白老/秋の蔵まつり』へ

[01]澤田酒造()『白老/秋の蔵まつり』bannerの前にて

[02]澤田酒造()の酒の素材となる井戸水
                  
[03]酒蔵の前にて

[04]澤田酒造()Owner夫人で我等『時習26回』同期の澤田(丸山)I子さんと1
                  
[05]同上2

[06]『白老』澤田酒造株式会社の看板前にて
                  
[07]試飲会場のお酒の数々

[08]今日、手に入れた~冷酒お薦め「白老 純米酒 六割五分磨き 冷やおろし」()と超辛口「白老 純米酒 でらから」()
                   

 試飲会場で一口も銘酒を口に出来なかったのは残念だったが、4合瓶の銘酒2本を手に入れることが出来、満足!満足!()

1032分 澤田酒造()発→一般道4km 13分/累計68㎞→
1045分 常滑市陶磁器会館駐車場着(駐車料金500)

[09]常滑市陶磁器会館前にて

1048分『焼きもの散歩道』散策start

[10]「焼きもの散歩道」案内relief
                  
[11]「陶 兵八」店の前にて

[12]「陶 兵八」で購入した「志野焼風御猪口」と「お地蔵像」
                  
[13]「焼きもの散歩道」での scene

[14]同上2
                  
[15]廻船問屋 瀧田屋 入口

[16]瀧田屋の屋内にて1
                  
[17]同上2

[18]中庭にある「水琴窟」
                  
[19]「焼きもの散歩道」「土管坂」での scene

[20]同上2
                   

1217分「焼きもの散歩道」発→一般道6 18分/累計74㎞→
1235分 大野城跡着
 
[21]大野城跡展望台への道にて1

[22]同上2
                  
[23]「大野佐治氏の歴史」解説板
 

 佐治氏四代 佐治与九郎一成(かずなり)(-1634)は、織田信長の姪小督(おごう)を妻としたが、離婚。
 小督は、後に徳川秀忠の正室となる。
 佐治与九郎一成は、1584(天正12)年、大野城放棄後、伊勢国に居り、後、京にて病没。

[24]大野城跡展望台前にて
                  
[25]同展望台より伊勢湾を back

[26]佐治神社前にて
                  

1302分 大野城跡発→一般道28 1時間14分/累計102㎞→
1416分 西尾歴史公園駐車場着

[27]西尾市歴史公園看板前にて

[28]鍮石門(ちゅうじゃくもん)前にて
                  
[29]旧・近衛邸解説板

[30]旧・近衛邸入口にて
                  
 京から移築された旧近衛邸は、摂家筆頭として左大臣を務めた近衛忠房に嫁いだ夫人の縁で、島津家によって江戸後期に建てられたもので、書院と茶室から成る。

[31]旧・近衛邸内部にて1

[32]同上2
                  
[33]抹茶のservice

 旧近衛邸では抹茶のサービス(季節の和菓子付で入場料込み@400)は大変お得!

[34]抹茶を飲み乍ら庭園と本丸丑寅櫓遠望
                  
[35]茶室の床の間


 六畳の茶室は、床框(とこがまち)が一際(ひときわ)高く、点前座の奥に床の間を構えた「亭主床(ていしゅどこ)」という独特な構成。

[36]旧・近衛邸内玄関すぐにある棟方志功のlithographの前にて
                  
[37]旧・近衛邸を外から背景にして写真を1

[38]西尾城本丸丑寅櫓前にて
                  
[39]西尾城・丑寅櫓解説板

[40]西尾城址石碑にて
                  
[41]西尾市資料館から丑寅櫓遠望

[42]同じく丑寅櫓を back 1
                  
[43]往時の西尾城模型

[44]近世西尾藩主一覧
                  
【近世西尾藩主一覧】
 1557(弘治03)年 今川氏配下の三河国牛久保城主 牧野成定(1525-66)が守将として西尾城に入城。
 1560(永禄03)年 今川義元が桶狭間の戦で敗死。
 1561(永禄04)年 松平元康(のちの徳川家康(15453-1616))が西尾城奪取。酒井雅楽助正親(まさちか)(1521-76)が西尾城主に。
 1576(天正04)年 酒井正親の嫡子 重忠((1549-1617)=雅楽頭(うたのかみ)系酒井家宗家初代)が西尾城主に。
 1585(天正13)年 徳川家康が西尾城を修築。
 1590(天正18)年 豊臣秀吉(1537-98)配下の田中吉政(1548-1609)(岡崎兼領10万石)城主に。
 1600(慶長05)年 本多康俊((1569-1621)=酒井忠次(1527-96)の次男で本多忠次(=伊奈本多氏(1547-1613)の養嗣子) 2万石で西尾城主に。
 1617(元和03)年 大給松平家 松平成重(1694-1633) 2万石で西尾城主に。
 1621(元和07)年 父本多康利の嫡子 本多俊次(1595-1668) 35千石で西尾城主に〔1626年 伊勢国亀山5万石に移封〕。
 1626(寛永13)年〔‥代官に拠る幕府領‥〕
 1638(寛永15)年 太田資宗(すけむね)(1600-1680) 35千石で西尾城主に〔1644年 遠江国浜松35千石に移封〕。
 1644(寛永21)年〔‥2月~1645(寛永22) 6月迄、代官に拠る幕府領‥〕
 1645(正保02)年 井伊直好((1628-72)=井伊直政(1561-1602)の長男・直継(直勝)(1590-1662)の嫡子が上野国安中藩 3万石から西尾 35千石城主に。
 1659(万治02)年 増山正利(ましやま まさとし(1623-62))・正弥(まさみつ(1653-1704)) 25千石で西尾城主に〔1663年 常陸国下館 2万石に移封〕。
        正利の実姉が宝樹院((徳川家綱生母)1621-53)
 1663(寛文03)年 大老土井利勝(1573-1644))の三男土居利長(1631-96)・利意(としもと)・利庸(としつね)・利信が(2万石)1747 三河国刈谷藩 23千石に移封〕
 1747(延享04)年 三河国刈谷藩 23千石藩主より移封= 三浦義理((よしさと)(1696-1756))・明次((あきつぐ)(1726-98))(23千石)1764年 美作国高田→勝山藩 23千石に移封〕。
 1764(明和元)年 出羽国山形から大給松平家の松平乗佑((のりすけ)(1715-69))6万石で移封・乗完(のりさだ)・典寛・乗全(のりやす)・乗秩(のりつね)(6万石)と続き、明治維新を迎えた。
        尚、三河国西尾の石高は 27千石の為、越前国に飛地を与えられ 6万石とした。

[45]丑寅櫓を back に2

1539分 西尾市歴史公園発→一般道45 1時間21分/累計147㎞→
1700分 帰宅〔了〕

                   

■続いては、翌日の話。其の日、九月九日(←実際は旧暦の話だが‥)は、『重陽の節句』。
 昔より王維「九月九日山東の兄弟を憶う」が有名な漢詩であるが、其れを上回る大傑作と言えば、「七言律詩の最高傑作」と言われる杜甫の『登高』であることは異論を挟む余地はない処だ。

    登高      杜甫
風急天高猿嘯哀〔風急に天高くして 猿嘯哀し〕
渚清沙白鳥飛廻〔渚清く 沙白くして 鳥飛び廻る〕
無邊落木蕭蕭下〔無辺の落木 蕭々として下り〕
不盡長江滾滾來〔不尽の長江 滾々として来る〕
萬里悲秋常作客〔万里悲秋 常に客となり〕
百年多病獨登臺〔百年多病 独り台に登る〕
艱難苦恨繁霜鬢〔艱難 苦(はなは)だ恨む 繁霜の鬢〕
潦倒新停濁酒杯〔潦倒(ろうとう) 新たに停む 濁酒の杯〕

【意】風は激しく吹き、天は抜けるように高く、猿の鳴き声が哀しげに聞こえて来る。
渚は清らかで砂は白く、鳥が飛び廻っている。
落葉は際限もなく寂しげに散り落ち。
尽きない長江の流れは滾々と迫って来る。
故郷を去って万里、毎年秋を悲しい旅人の身で迎える。
体は長年、病を患っている身で独り、台に登るのだ。
長年の苦労で、恨めしいことに鬢の毛はすっかり白くなってしまった。 落ちぶれ果てたこの身に追い討ちをかけるように、好きだった酒さえ 禁じられて仕舞った。

【吉田の街 逍遥】
 現勤務先から頂いた夏休みの3日間のうちの二日目。
 其の日は、以下の行程で正午まで過ごした。

0545分 起床→腹筋2,000
0645 2.5kg木刀素振り60
0755分 腹筋500
0900分 拙宅発→徒歩 25分→
0927分 二連木城址着

[46]二連木城址入口にて
                  
[47]二連木城址=大口公園案内

[48]二連木城址「掘割」の一部
                  
[49]二連木城址石碑前にて


此の城は、田原城主 戸田宗光(1439(?)-1508)(のち法名 全久)に拠って築城。
 宗光の七代目が戸田氏宗家(十八松平家の一つ)戸田松平康長(1562-1633)(松本藩初代藩主)
 大垣藩戸田氏は、戸田宗家と戸田宗光の孫の代から分かれている。

0935分 二連木城址発→徒歩10分→
0945分 全久院着

[50]全久院入口石碑前にて
                  
[51]全久院本堂(正面)

[52]同上「全久院の指定文化財」説明看板にて
                  

0951分 全久院発→徒歩→
0954分 東田小学校着
 
[53]東田小学校正門前にて
 

0959分 東田小学校発→徒歩→

[54]路傍に咲いていた可憐な花1
                  
[55]同上2
 

1015分 小生の母校!「八町小学校」着

[56]八町小学校南門前にて
                  
[57]同所
 

1018分 八町小学校発→徒歩→
1021分 山田宗偏邸跡着
 
[58]山田宗偏邸跡石碑にて
                  
[59]同石碑裏の解説


山田宗偏(1627-1708)の略歴は以下の通り。

1627(寛永04)年 東本願寺末寺 京都上京二本松長徳寺の住職の子に生まれた / 還俗して茶道を志すようになり、小堀遠州(1579-1647)に入門
1644(正保元)年 千宗旦に弟子入り
1652(承保元)年 宗旦(1578-1658)の皆伝を受ける
1655(明暦元)年 千宗旦の推挙で三河国吉田藩主小笠原忠知(1599-1663)(1)に茶道師範として仕え、母方旧姓・山田をとって「山田宗徧」と改名した / 此の山田宗徧邸が此処豊橋公園の石碑のある場所にあった
(1)小笠原忠知:松本藩主小笠原秀政(1569-1615)の三男として生まれる / 子孫は、岩槻藩→掛川藩→棚倉藩→唐津藩6万石となり明治維新を迎えた / 忠知の次兄忠真(1596-1667)は、父秀政の所領、松本藩を継いだ後、明石藩10万石、小倉藩15万石藩主となり、子孫は明治維新を迎えた

[60]豊橋市美術博物館近くの風景
                  
1032分 吉田城着

[61]吉田城のお堀

[62]吉田城解説板
                  
[63]同上 吉田城本丸入口にて

[64]吉田城 鉄(くろがね)櫓前にて
                  
[65]本丸から豊川を望む

[66]豊川から吉田城鉄櫓を望む1
                  
[67]同上2

[68]同上 を back
                  
[69]小生の母校!「豊城中学校」正門前にて
 

1050分 豊城中学校発→徒歩→
1055分 豊橋市公会堂着

[70]吉田藩 藩校「時習館」址石碑にて
                   

1100分 豊橋市公会堂発→徒歩→
1106分 吉田宿本陣跡着

[71]吉田宿本陣前にある鰻屋「丸よ」に掲げられた「べっぴん」語源発祥の店解説板

[72]吉田宿本陣前にて
                   

1108分 吉田宿本陣跡発→徒歩→

暫く、城下町らしい町名が続く。

[73]「大手町」観音通り

[74]「吉田宿・江戸より七十四里」の標識横にて
                  
[75]「曲尺手(かねんて)町」

[76]「鍛冶(かじ)町」
                  

1152分 帰宅〔了〕

【後記】先日から、時節「白露」に因んだ句を2句、飯田蛇笏と川端茅舎をご紹介して来た。
 その際、「四S」の阿波野青畝・高野素十・水原秋櫻子・山口誓子、4氏の名をご紹介した。
 今日は、其の「四S」の一人 阿波野青畝(1899.02.10-1992.12.22) の作品を、氏の著作「自選自解 阿波野青畝句集〔白凰社刊:現代の俳句4〕」から3句ご紹介してみたい。
 花鳥諷詠と写生俳句の提唱をする俳誌「ホトトギス」を代表する俳人だけあって、阿波野青畝の作風も、高浜虚子(1874-1959)が希求した「平明にして余韻ある俳句」を数多く残している。
 まず最初は、阿波野青畝が19歳の時の作品から‥

 緋連雀(ひれんじゃく) 一斉(いっせい)に立つて もれもなし  阿波野青畝

  〔1918年作『万両』(1931年刊)所載〕
  〔季語:連雀=晩秋〕

[77]緋連雀の群れ


 此の句について、作者の阿波野は次の様に述べている。
  「〔‥【小生補足】1918年は世界中でスペイン風邪が大流行し、阿波野青畝も二人の兄を亡くし、郷里の高取へ戻ることとなった‥〕
 京をはなれるとなれば名残がある。落柿舎あたりを歩いてみたく、ただぶらぶらと細い藪のみちを拾う。そして誰にもあわぬ孤独をしみじみ味わった。
 つめたく熟れた烏瓜を引きちぎった。そのとき小鳥が忙しく渡っていった。目の前に一群の緋連雀が来た。敏捷な挙動をとりながら統率がとれている。
 赤い冠毛がとても可憐だ。しかし、次の瞬間には一羽もいなくなった。掃きすてたように本当に見えない。〔後略〕」
‥‥「自選自解 阿波野青畝句集〔白凰社刊:現代の俳句4〕」

 緋連雀という美しい赤い冠毛が可憐な鳥の群れが一斉に眼前から飛び去っていく、というただ其れだけの句の様に見える。
 しかし、緋連雀の一群という鮮やかな色をした絵画的な映像が、一瞬の勢いある動きとして、詠み手の瞼に強く焼き付く「写実性」と「余韻」を感じさせる名句である。
 2つ目の作品は、青畝 25歳の時の作品‥

  さみだれの あまだればかり 浮御堂  阿波野青畝

  〔1924年作『万両』(1931年刊)所載〕
  〔季語:さみだれ=仲夏〕

[78]写真上から左回りに「浮御堂をback2018/09/13」「満月寺(浮御堂)龍宮門前にて」「『五月雨の‥』の阿波野青畝の句碑の横にて」
                   

 「堅田は古来近江八景の一つで、芭蕉も好んで杖を留めた。1930年に大毎、東日両社が日本新名勝俳句をひろく募ったのであるが、たまたま私の句が推奨されたので、満月寺住職の懇請を容れて、1965年、門前にこの句碑が建った。〔中略〕
 (浮御堂は)今の建物も樋(とい)がない。屋根からすぐに湖水へ雨だれがポタポタと落ちる。〔中略〕
 雨だれにとりまかれながら湖中の堂に佇んでいる孤独の世界、私はそれに強く惹かれるのであった。
 「湖の水まさりけり五月雨」と昔の去来は五月雨の趣を巧く詠んだ。私はその句に少しでも及びたいと、始終もやもやと構想を描き苦しんだ。」
 「前掲〔前掲:現代の俳句4〕」

 小生、丁度一年前の20180913日に日帰りで【満月寺 浮御堂】を訪れて、青畝の石碑の横で記念写真を撮っている(添付写真[78]ご参照)
 此の寺は、臨済宗大徳寺派 満月寺。
 此の龍宮門を潜ってほぼ正面、琵琶湖湖面に突き出た所にあるお堂が、有名な「堅田の浮御堂」。
 松尾芭蕉が、この浮御堂を詠んだ大変有名な俳句がある。

  鎖(じょう)あけて 月さし入れよ 浮御堂 松尾芭蕉(1644-94)

 此の「鎖あけて」の句以外にも、境内や浮御堂近くの湖の中に以下の句碑が建っている。

  比良三上 雪さしわたせ 鷺の橋  松尾芭蕉

  湖も この辺にして 鳥渡る  高浜虚子

  五月雨の 雨だればかり 浮御堂  阿波野青畝〔添付写真[78]右下:「『五月雨の‥』の阿波野青畝の句碑の横にて」ご参照〕

 最後、3つ目の作品は、「緋連雀‥」の作品から40年後の阿波野青畝59歳の時の作品。
 此の句は、「葛」と「野分」という俳句で taboo とされている「二季語」の句ではある。
 作者自身が「ある狂女が髪をふりみだし都へさして駆けてゆくような舞台をふと想像し」と述べている様に、「葛」が狂女の長い髪を、「野分」が狂女の長い髪をふりみだす強い風として、此れ等2つの季語が一体となって此の俳句を作り上げているので不自然さを感じさせない。
 因みに「野分」は、二百十日(2019年は0901)や二百二十日(にひゃくはつか)(同年0911)頃、野の草を吹き分けて通る秋の強風のこと。

  奈良坂(ならざか)の 葛(くず)(くる)ほしき 野分(のわき)かな  阿波野青畝

  〔1958年作 句集未完〕
  〔季語:葛=初秋、野分=仲秋〕

[79]葛の花々


 「【小生補足】〔‥加茂の恭仁宮址・海住山寺を巡っていた頃、台風が接近して来た‥〕
 奈良坂は低い丘陵、大和、山城の境になっていて昔の奈良朝からの交通要路であるが、その面影を残して一帯が雑木山、元気のよい葛の葉はよくはびこっている。
 いよいよ台風が来た。葛は大うねりをしてもみくちゃに狂いさわぎ、甚だすさまじい情景を見せた。〔中略〕
 ある狂女が髪をふりみだし都へさして駆けてゆくような舞台をふと想像してみた」
「前掲〔前掲:現代の俳句4〕」
 此れ等三句は、流石は「四S」の一人だと感じさせる阿波野青畝の傑作で小生昔から大好きな作品だ。

   ※  ※  ※

 俳句雑誌「ホトトギス」同人で同派を代表する俳人「四S(=しエス)」阿波野青畝・高野素十・水原秋櫻子・山口誓子のうち、阿波野青畝に続いて高野素十(たかの すじふ(1893.03.03-1976.10.04))の作品を 2句ご紹介したい。
 次の句は、彼の代表作として俳句雑誌「ホトトギス」の巻頭を飾り、師の高浜虚子が絶賛した句である。
 俳人・石田波郷(1913-69)・楠本憲吉(1921-88)共著『昭和秀句I』から一部引用してご紹介する。
 小生、此の句で表した場面「龍安寺(【大庇】のある【方丈】から見た石庭)」と「(大庇から飛び出た春の)【蝶】」を写真と版画で image してみた(添付写真[80]ご参照)

  方丈の 大庇(おおひさし)より 春の蝶  高野素十

[80]「龍安寺(【大庇】のある【方丈】から見た石庭)」と「(大庇から飛び出た春の)【蝶】の写真と版画」
                  
 「昭和0209月号『ホトトギス』巻頭の句。選者虚子が公開の席上で此の句に「心腹せり」と言ったいわくつきのものである。句集『初鴉』(昭和2209)所収。
 京都龍安寺石庭の作(昭和0204月、素十が三宅清三郎と共に竜安寺へ行った際の句)。俳句で蝶と言えば、春のものに決まってい乍ら、敢て「春の蝶」と言い、しかも読者に不自然さを感じさせない処が、此の句の身上の一つであろう。
 (高浜)虚子は此の「春の蝶」を評して「細心にして大胆なる思索からきたもの」と断じている。〔後略〕」
 「石田波郷・楠本憲吉共著『昭和秀句I(春秋社刊)

 四Sより半世代先輩になる富安風生(1885-1979)が『大正秀句』の中で、四Sの関わり合いを次の様に述べている。

 「‥『ホトトギス』の講演会で東に二S((小生補足=)水原・高野)、西に二S((=)阿波野・山口())、とあげて、所謂「四S」を命名したのは山口青邨(1892-88)であるが、四家を並称することは、((同=)大正末期)当時既に一般化していたのである。〔中略〕大正1512月号『ホトトギス』で「新抒情詩」の荷い手たる新人として、秋櫻子・青畝・誓子だけを挙げていた((同=)高浜虚子は、)昭和0311月の『ホトトギス』誌上に「秋櫻子と素十」という一文 ― 3年の後、秋櫻子の『ホトトギス』脱退の因を作る大きな役割をもつ処の ― を草し、〔中略〕巧みに秋櫻子に対して素十の卓越を、言外に仄めかせた。其処で『ホトトギス』の客観写生主義の支へとして、秋櫻子の異端を制し得べき存在として素十が大きく close up されたのである(山本健吉『昭和俳句集』巻末「昭和俳句史」)。同じ四Sと言う中でも、前をゆく三Sと違って、素十は徹底的な客観写生派であり、〔中略〕素十が「はっきり自己の表現を確立」して虚子を驚嘆せしめたのは、かの有名な、昭和02年、竜安寺の作‥(同=と言って、「方丈の‥」の句を紹介している)
‥‥「富安風生著『大正秀句I(春秋社刊)

 小生、「方丈の‥」の名句と同様に大好きな素十の俳句がもう一句ある。

  空をゆく 一(ひと)とかたまりの 花吹雪(はなふぶき)  高野素十

[81]花吹雪の写真 4scene

 【意】花吹雪のときがきた
 花びらがひとかたまりとなって、空を流れてゆく
 ― 客観写生
 そして私にも、一片の花びらが舞い落ちる
 ― 季節の移ろい、刻(とき)の流れ
 私はその中に、茫然と立っている
‥‥「金子兜太監修『声を出して味わう/日本の名俳句100選』より

 御覧の上記二句の様に、素十の客観写生の句は極めて平易だが、絵画的で鮮やか、そして品格がある。
 高浜虚子が希求した「平明で、余韻ある」客観写生は、一つ間違えると品格が伴わない駄作となる懸念がある。
 俳句は、知れば知るほど奥が深く難しい‥だからこそ魅力がある訳でもあるが‥!()

【前書】今夕の日没間近、walking で拙宅を出て間もなく、藤ノ花女子高校 ground と サンヨネ東店の間の小径を西に向かった時、道端に枯れたエノコログサ(=猫じゃらし)が風に吹かれていたのを見て心が不思議に動かされて一句‥

  暮れなずむ! 狗尾草は 茜色  悟空

[82]暮れなずむ拙宅近くの小径の情景
                  
  では、また‥〔了〕

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