今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『あら野』から〔第55回/巻之七~第532句~540句〕」をご紹介する。
曠野集 巻之七
名所
532 八重(やへ)がすみ奥迄(おくまで)見(み)たる龍田(たつた)哉(かな) 杜國(注1)
【意】「かづらきや高間の桜さきにけり龍田のおくにかかる白雲〔寂蓮〕」(「古今集」)と詠またあの龍田山を訪ねた
/ 其処は、白雲ではなく、行けども行けども春霞の世界だった
【解説】季語:八重がすみ=三春 /
(注1)坪井杜国(つぼい とこく(?-元禄03年02月20日(1690/03/30)):本名坪井庄兵衛
/ 尾張国名古屋の蕉門の有力者 / 芭蕉が特に目を掛けた門人の一人(真偽のほどは不明だが師弟間に男色説がある) / 杜国は名古屋御薗町の町代 / 富裕な米穀商だったが、空米売買の詐欺罪(=延べ取引)で、貞亨02(1685)年08月19日 畠村(現田原市福江町保美)に追放・流罪になり4年半同地で没した / しかし、監視もない流刑の身で、南彦左衛門、俳号野人または野仁と称して芭蕉と共に『笈の小文』の旅に随行した
/ 田原市福江の隣江山潮音寺に墓がある
533 しら魚(うを)の骨(ほね)や式部(しきぶ)が大江山(おほえやま) 荷兮(注1)
【意】小式部内侍の「大江山」の歌は、たおやかな女性が実に確り人物であることを示している
/ 其れは恰も「白魚の骨」の様に、だ
【解説】季語:しら魚=初春 /式部は、和泉式部の娘、小式部内侍(ないし) / 彼女の歌が上手なのは、丹後にいる母、和泉式部が代作したのだろうと噂されていた
/ 折りしも宮中の歌合せに招かれた小式部内侍が、同席した藤原定頼から、「丹後の母上から頼りは如何に?」と尋ねられ、「大江山いくのの道の遠ければまだふみも見ず天の橋立」と即答し、同席した歌名人達を感服させた逸話がある
/ 此の句は此れを踏まえたもの
(注1)山本荷兮(やまもと かけい(?-享保元年08月25日(1716/10/10)享年69歳)):本名:山本周知 / 尾張国名古屋の医者 / 通称:武右衛門、太一、太市
/ 別号:橿木堂、加慶 / 貞亨元(1684)年以来、尾張名古屋の蕉門の重鎮 / 後年、内紛あり芭蕉と袖を分かつ
/ 荷兮は保守的で、芭蕉が唱導する俳諧革新、なかでも「軽み」には迎合出来なかった / 元禄06(1693)年11月『曠野後集』を出版、其の序文では「ただいにしへこそこひしたはれる」と幽斎・宗因等の貞門俳諧を賞賛 / 此の為、去来等、蕉門の理論派から非難された
/ 離反前に、『冬の日』、『春の日』、『阿羅野』等の句集を編纂
534 から崎(さき)の松(まつ)(注1)は花(はな)より朧(おぼろ)にて 芭蕉
【意】唐崎の松よ、「見せばやな滋賀の唐崎ふもとなる長柄(ながら)の山の春の景色を」(新古今集)と歌われた、あの湖水の春は、いま夜の朧に沈み、一つ松の姿も定かでない / 其れは、「昔ながら(長柄)の山桜かな」(千載集)と詠まれた、あの山桜が、霞にけぶるよりも、さらに微妙かつ繊細な光景であった / 貞享02(1685)年作
【解説】季語:花=晩春、朧=三春 / 初案は、「辛崎の松は小町が身の朧」/ 芭蕉にとって「西湖と西施」同様、「琵琶湖と湖西の豪族小野氏の一族出身の小野小町」は連想での対象だった
/ 故に初案は「近江八景唐崎の松と小町」が詠まれたものと思われる /「にて」止めについて、其角や去来、呂丸等で議論された際、芭蕉は「深い意味は無い / 花より松の方が朧で面白かっただけ」と言ったと『去来抄』にある
(注1)から(唐)崎の松:近江国琵琶湖西岸の名松
535 藁(わら)一把(いちは(=わ))かりて花見る阿波手(あは(=わ)て)(注1)哉(かな) 湍水(注2)
【意】「あたら夜を伊勢の浜荻折り敷(しき)て妹恋しらに見つる月かな〔千載集〕」は、浜荻を敷き月を愛でる歌 / 此の句は、「路傍の藁を一束借りて尻に敷き、阿波手の森に咲く桜の花見をするのだ」と詠んだ
【解説】季語:花見る=晩春 /
(注1)阿波手:尾張の国の歌枕
(注2)湍水(たんすい(生没年不詳)):尾張国の人 /『あら野』などに入句
536 嵯峨(さが)(注1)までは見事(みごと)あゆみぬ花盛(はなざかり) 荷兮
【意】花盛りの時節 / 道々の美しい桜花に魅せられて、いつの間にか嵯峨野迄歩いて来て仕舞った
【解説】季語:花盛=晩春 /
(注1)嵯峨:京都西郊の「嵯峨野」/歌枕
琵琶橋(びはのはし)(注1)眺望(てうばう)
(注1)琵琶橋:名古屋から津島(現・津島市)への途中枇杷島村(現・西枇杷島町)の庄内川に架かる大橋
537 雪(ゆき)残(のこ)る鬼嶽(おにだけ)(注1)さむき弥生(やよひ)かな 含呫(注2)
【意】琵琶橋から北を見晴るかすと木曽御岳が見える / 其の御嶽山頂には、弥生三月だというのに残雪が冠っている
/ 御岳山はまだ寒い様だ
【解説】季語:雪残る=仲春、弥生=晩春 /
(注1)鬼嶽:木曽御岳山の別称 / 底本「嶽」を「獄」と誤記
(注2)含呫(がんてん(生年不詳)):人物については詳細不詳 /『あら野』に多数入句
538 関(せき)こえて爰(ここ)も藤(ふぢ)しろみさか(注1)哉(かな) 宗祇法師(注2)
美濃国(みののくに)関(せき)といふ所(ところ)の山寺(やまでら)に藤の咲(さき)たるを見て吟じ給(たま)ふとや
【意】美濃国の不破の関を越えると藤の花が白く咲いているのが見えた / すると望郷の念に涙が零(こぼ)れた
【解説】季語:藤=晩春 / 宗祇も紀州の出身だった /「涙が零れた」のは、「萬葉集の「藤代の‥わが衣手はぬれにけるかも」を踏まえる
(注1)藤代みさか:紀伊国の「歌枕」/ 名木の白藤があったと云う / 万葉集に「藤代のみ坂を越ゆと白妙のわが衣手はぬれにけるかも」がある
(注2)飯尾宗祇(いいお そうぎ(応永28(1421)年-文亀2(1502)年07月30日(享年82歳))):室町後期の連歌師・古典文学者 / 紀伊国和歌山生れ /別号:自然斎・種玉庵・見外斎 / 連歌を宗砌(そうぜい(?-享徳04年01月16日(1455/02/029))= 室町時代中期の連歌師)・専順・心敬らに、和歌を飛鳥井雅親に、故実を一条兼良に学び、東常縁(とうのつねより)から古今伝授を受けた / 北野連歌会所奉行および将軍家師範
/ 西行や能因法師と並び芭蕉が最も尊敬していた詩人 / 古典文学の碩学として在来の連歌の上に古今和歌集の幽玄さを加えて連歌の革新を図った / 宗祇は全国各地から招かれた為「旅する連歌師」とも称され、その姿に芭蕉が魅せられ、彼の生き方の手本となった
/ 有心(うしん)連歌を大成 / 連歌の古典『新撰菟玖波集(しんせんつくばしゅう)』- 室町時代後期の准勅撰連歌撰集を編集
/ 1502年、越後から美濃に向かう旅の途次、箱根湯本で死去 / 静岡県裾野市桃園定輪寺に葬られた / 連歌作品『水無瀬三吟百韻』、『湯山三吟百韻』、『葉守千句』、『吾妻問答』、『浅茅』/
句集に『萱草(わすれぐさ)』『老葉(わくらば)』、『下草(したくさ)』など、紀行文に『白河紀行』、『筑紫道記』等がある
539 芳野(よしの)出(いで)て布子(ぬのこ)(注1)賣(うり)おし更衣(ころもがへ) 杜國
【意】吉野桜を見て下山すると時は四月朔日、更衣の時節を迎えていた / あの歌枕の旅の名残を留める此の布子は売り捨てるには惜しい(←【売(うり)惜(お(=を))し】)が、夏旅には不要な荷物である / 貞享05(1688)年、芭蕉の「笈の小文」の旅に随行した折の作
/「売おし」は「売をし」の誤記 / 但し「笈の小文」では【売りたし】/「た」を「お」と誤写したものか?
【解説】季語:更衣=初夏〔←衣更えは四月朔日であった〕/ 禁則中の杜國は、万菊丸と名前を変えて芭蕉に随行し吉野への旅をした
/ 其の時の作で『笈の小文』では、「吉野いでて布子【売りたし】ころもがへ」とある /
(注1)布子(ぬのこ):木綿の綿入れ
540 麥(むぎ)うつや内外(うちそと)もなき志賀(しが)(注1)のさと 重五(注2)
【意】「さざ波の志賀の都」と歌われた万葉の古跡は、全く其の面影を失って、あちらこちらで百姓たちが麦を打っている
/ 都城の境目等も、全て滅びて仕舞って‥
【解説】季語:麥うつ=初夏 / 麥の穗を打ち、実を落とすこと
(注1)志賀:志賀の都
(注2)加藤重五(かとう じゅうご(?~享保02(1717)年06月13日(享年64歳))):加藤善右衛門 / 尾張国名古屋の材木問屋の豪商 /『冬の日』の同人
【小生 comment】
次回は、俳諧七部集『あら野』から〔第56回/巻之七~第541句~550句〕をご紹介する。お楽しみに!
■続いては、10月24日(土)の午後、自宅近隣史跡、『臨済寺』『全久院』『二連木城跡』を walking で巡った。
其の日は以下の通り行動した
05時30分 起床→腹筋2,000回=60分
06時45分 入浴・仕度
07時15分 朝食
10時15分 拙宅発→自転車→
10時45分 市内会場着
11時30分 元『スピード』のメンバーで現・参議院議員の今井絵理子さんと佐原豊橋市長の集いに参加
【元スピードのmember 今井絵理子参議院議員来豊】
[右上]同上2
[左下]今井絵理子参議院議員と佐原豊橋市長1
[中下]同上2
[右下]同上3
14時05分 帰宅
14時23分 拙宅発→徒歩→
Walking
で、先日ご紹介した時習館OBで先輩の亀山琢道禅師が住職を務められる臨済宗東福寺派の『臨済寺』、十八松平家の一つ信濃国松本藩主戸田氏本家筋の戸田全久の菩提寺『全久院』、そして其の戸田全久の居城、『仁連木城跡』を巡った
【拙宅→臨済寺へ】
[右上]臨済寺へ向かう途中、光生会病院を back に
[左下]金子哲也君【3-4】と1
[中下]同上2
[右下]光生会病院同様に公道を跨ぐ亘り廊下がある藤ノ花学園を back に
【拙宅前にて→
光生会病院前にて金子君と→臨済寺前にて】
光生会病院前近くの交差点で偶然、同病院長で此処数年来小生の主治医をしてくれている金子君【3-4】に会ったので、即座に two shots をお願いした[02][左下][中下]ご参照
【臨済寺→全久院】
[03][左上]東田坂上→臨済禅寺への航空 map
[右上]東田坂上電停北にある東田坂上バス停と臨済寺への案内看板
[左下]萬年山臨済禅寺道にて
[中下]臨済禅寺山門前にて
[右下]臨済禅寺→全久院への航空 map
【全久院→仁連木城跡】
[04][左上]全久院山門前にて1
[右上]同上2
[左下]全久院→仁連木城跡への map
[中下]仁連木城跡入口にて
[右下]仁連木城跡(『大口公園案内』)
【仁連木城跡】
[右上]仁連木城跡内の萩の花前にて
[左下]仁連木城跡内の萩の花
[中下]仁連木城跡石碑にて1
[右下]同上2
16時33分 帰宅〔歩行距離計8.6km 11,241歩〕(了)
■続いては、翌10月25日(日)は、05時15分に起床して、静岡県湖西市JR新所原駅迄車で行き、車を置いて其処から普通電車で「舞阪」迄行き、→「舞坂宿」→「新居宿」→「白須賀宿」と walking で踏破した
08時30分「舞阪駅」発→16時24分「新所原駅」着:7時間54分/走行距離25.9kmだった
其の日の行程は以下の通り‥
05時15分 起床
05時20分 腹筋2,000回→
06時10分 2.5kg木刀素振り50分→
07時00分 入浴→朝食→
07時20分 拙宅発→一般道 23分 10km→
07時43分 新所原駅北口至近のcoin parking着
07時57分 JR新所原駅発→普通電車→
08時15分 JR舞阪駅着
【JR新所原駅→東海道本線→JR舞阪駅】
.
[06][左上]JR新所原駅北口前にて
[右上]ガラガラの東海道本線の普通電車
[左下]JR舞阪駅 platform
[中下]同 concourse にて
[右下]同 駅から旧東海道松並木→舞坂宿への map
【JR舞阪駅→舊東海道松並木→舞阪宿】
08時30分 JR舞阪駅南口発→一般道→
08時58分 旧東海道松並木
西端着
[07][左上]JR舞阪駅南口にて
[右上]旧東海道松並木 入口にて
[左下]同 途上にて
[中下]同 西端にある「浪小僧」像前にて
[右下]同 西端から東方面を振り返って
【舞坂宿】1
09時04分 史跡「見附
石垣」着
09時06分 史跡「新町
常夜灯」「一里塚跡」着
09時22分 舞坂宿「脇本陣」着
[08][左上]史跡「見附 石垣」前にて
[右上]史跡「新町 常夜燈」解説板
[左下]同所にて
[中下]史跡「一里塚」解説板
[右下]同所にて
[09][左上]旧東海道舞坂宿「脇本陣」解説板
[右上]同 建物前にて
[左下]同 建物内部にて
[中下]同 江戸幕府筆頭老中 阿部正弘(福山藩10万石→11万石藩主)「石奇對琴横」前にて
[右下]同 二階にて
10時12分 史跡「西町常夜燈」着
10時26分 弁天島着
10時50分 新弁天神社着
11時32分 JR新居駅着
12時06分 湖西市立新居小学校着
12時17分 湖西市立新居幼稚園着
12時30分 新居関所着
【弁天島→JR新居町駅】
[10][左上]弁天島「赤鳥居」を back に
[右上]新弁天 停留所にて
小生、昭和30年10月~39年3月迄此の新弁天にあった(新居町)町営住宅に住んでいた
[左下]町営住宅跡地
町営住宅は跡形もなく叢になっていた‥
[中下]新弁天神社前にて
町営住宅の西端に此の「新弁天神社」が今もある‥感動!
[右下]JR新居町駅前にて
【JR新居町駅】
[11][左上]「海と関所のまち 湖西市」の案内看板1
[右上]同上2
[左下]種田山頭火「【浜名街道】水のまんなかの道がまっすぐ」昭和14年04月「草木塔」所収
[中下]「ようこそ 関所と海の街・湖西市へ」看板前にて
[右下]遠鉄「新居町駅」バス停にて
【新居小学校】
[12][左上]新居町駅から新居小学校への航空map
[右上]新居町駅から新居小学校への途上の堀を back に
[左下]新居小学校 入口にて
[中下]同 職員室前の「未来にはばたく」像を back に
[右下]同 運動場にて校舎を back に「力いっぱい・夢いっぱい」
【新居小学校→新居幼稚園】
[13][左上]新居小学校 西門前にて
[右上]新居幼稚園 入口にて
[左下]同 入口1
[中下]同 同上2
[右下]同 昭和37年03月 小生の新居幼稚園卒園 album 表紙
【(旧新居町立)新居幼稚園の卒園
album の想い出】
時習26回【3-9】の 裕彦君と愛知県ではなく、静岡県新居町(現・湖西市)の新居幼稚園で同窓同期だった
[14][左上]小生
[右上]鈴木裕彦君【3-9】
[左下]裕彦君【3-9】「ゆり組」
[中下]小生「あやめ組」
[右下]09月の誕生会の記念写真「枠内が小生」
背景の図柄は、担任の柴田先生からご指名で小生が全て作成した‥
【新居関所】
[15][左上]新居関所 を back に
[右上]同「定」前にて1
[左下]同 同上2
[中下]同 大御門(おおごもん)前にて
[右下]新居関所 看板前にて
12時37分 新居関所発→徒歩→
13時33分 旧東海道松並木着
【新居宿→白須賀宿へ】
[16][左上]遠鉄「新居泉町」バス停にて
[右上]新居宿「疋田八郎兵衛『本陣』跡」にて
[左下]同「一里塚跡」にて
[中下]同「風炉の井」にて
[右下]新居宿→白須賀宿への向かう舊東海道松並木
【白須賀宿へ】
[17][左上]白須賀宿への坂道 start
[右上]同 坂の下を振り返ると遠州灘が見える‥
[左下]資料館「おんやど白須賀」前にて
[中下]夏目甕麿(みかまろ)邸址・加納諸平
生誕地石碑にて
[右下]白須賀宿「大村『本陣』跡」にて
.
15時12分 白須賀「大村『本陣』跡」発→一般道
徒歩1時間12分 6km→
16時24分 JR新所原駅北口至近の駐車場着
16時55分 拙宅着〔walking走行距離計 25.9km 33,882歩 7時間54分=平均 walking 速度 3.28km/h〕〔了〕
[18]今日一日の歩数、踏破距離
■今日最後の話題は、10月31日(土)に、月例の名古屋のN歯科医院へ歯科健診行ったついでに、名古屋市内と長久手市にある3つの美術館も一緒に巡って来たことについてお伝えする
其の日の行程は以下の通り‥
05時10分 起床→腹筋2,000回
06時10分 木刀の素振り60分
07時15分 入浴→朝食
08時10分 拙宅発→一般道→3時間18分 84km→
10時40分 エンゼルパーク駐車場着
【松坂屋美術館『正倉院宝物/再現模造にみる天平の技』展】
[19][上]松坂屋美術館入口『正倉院宝物/再現模造にみる天平の技』展看板前にて1
[左下]同 同上2
[右下]同 本企画展 leaflet
[20][左上]正倉院宝物 同 螺鈿紫檀五絃琵琶〔正倉院事務所蔵〕
[右上]同 模造 漆彩絵花形皿〔同〕
[左下]同 同 螺鈿箱〔同〕
[右下]同 同 金銀鈿荘唐大刀〔同〕
11時40分 エンゼルパーク駐車場発→10分 4km/88km→
11時50分 らあめん専門店「陣屋」近隣駐車場着
[21][左上]オズモール入口のmonument前にて
[右上]らあめん専門店「陣屋」入口前にて
[左下]「陣屋」前のオズモールmonument横にて
[中下]小生の超定番「チャーシュー麵」1
[右下]同上2
12時35分 らあめん専門店「陣屋」近隣駐車場発→一般道 15分 4㎞/92㎞→
12時50分 古川美術館駐車場着
【古川美術館『藤森兼明』展】〔←撮影可〕
[22][左上]本企画展leaflet
[右上]古川美術館 入口前にて
[左下]同 館内にて
[中下]同 藤森兼明『眩燿サンマルコ』1993年
の横にて
[右下]同 同『アドリアの詩(うた)』1994年
[23][左上]藤森兼明『アドレーション サン ジョルジオ』2019年 横にて
[右上]同『アドレーション カクリ トリプテッチ』2014年
[左下]同『ミドバル マニスクリプトへのオマージュ』2017年
[中下]同『アドレーション アナウンシエーション』2019年
[右下]同『アドレーション オブ マギ』2020年
13時24分 古川美術館駐車場発→一般道 4分 4km/96km→
13時35分 N歯科医院駐車場着
14時00分 N歯科医院定期健診
14時35分 同所発→一般道37分 13㎞/109km→
15時12分 名都美術館駐車場着
【名都美術館『小野竹喬』展】
[24][左上]名都美術館 入口の本企画展看板前にて
[左下]同 図録『小野竹喬の全て』(左)&本企画展leaflet
[右上]同 小野竹喬『洛外の山家』1906年
小野竹喬
若干17歳の時の作品←・素晴らしい水墨画の技術力である!
[右中]同 同『夏草』1948年頃
[右下]同 同『湖畔』1954年
[25][左上]小野竹喬『夕映』1960年
[右上]同『野辺』1967年
[左下]同『伊豆の海』1977年
[中下]同『清秋』1977年
[右下]同 小野竹喬(1889-1979)〔1945年〕
15時48分 名都美術館駐車場発→一般道2時間12分 78㎞/187㎞→
18時30分 帰宅〔走行距離計187㎞〕(了)
【後記】さて今日は、今から10年前の初冬2010年12月04(土)~05日(日)の両日、時習26回生同期の朋友、中嶋君【3-2】と『湖北の旅~竹生島と五寺の十一面観音像巡り』に行って来た時巡った『菅浦湖岸集落』の寂びた味わいある風景と『竹生島』港を離れる時に撮影した小生の写真をご紹介させて頂いて締め括ることとする
【2010年12月 湖北の旅の想ひ出 から】
半月程前の2020年10月17日にも、夕刻の『菅浦湖岸集落』を訪れたが、10年前は、初冬の早朝が正に絶景だった
其の前日には中嶋君と我々二人、西国三十三観音霊場第三十番札所『宝厳寺』がある竹生島も訪れた
小生、竹生島を離れる時、virtual real の世界で次の一句が浮かんだ‥
竹生島
寄せ来る波に 誘はれて 想ひ起こすは 君の御(み)姿 悟空
漣や
淡海に佇む 君を想ひ つくる歌こそ 我が青春碑 悟空〔了〕
[26][左上]初冬早朝の菅浦湖岸集落の風景1/2010/12/05
[右上]同上2
[左下]賤ケ岳山麓より琵琶湖上の竹生島遠望 2010/12/05
[中下]初冬早朝の菅浦湖岸集落の風景3/2010/12/05
[右下]竹生島港での小生 2010/12/04
[27][左上]初冬早朝の菅浦湖岸集落の風景4/2010/12/05
[右上]同上5
[左下]賤ケ岳山麓より琵琶湖上の竹生島遠望1/2010/12/05
[中下]竹生島港での中嶋君【3-2】と小生
2010/12/04
[右下]賤ケ岳山麓より琵琶湖上の竹生島遠望2/2010/12/05
‥‥お粗末‥‥
では、また‥〔了〕
*
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