2019年7月14日日曜日

【時習26回3−7の会 0765】~「松尾芭蕉:俳諧七部集『春の日』から〔第3回〕」「06月29日:小石川『伝通院』→上野『寛永寺・根本中堂』→『東京都美術館』→『国立新美術館』→『山種美術館』→『ザ・ミュージアム』→『宮本三郎記念美術館』→『損保ジャパン日本興亜美術館』→『中村屋サロン美術館』を巡ってから〔第2回〕」「07月07日:愛知県芸術劇場コンサートホール/『エリアフ・インバル指揮ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団演奏会』を聞いて」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。今日も【時習26回3−7の会 0765】号をお届けします。
 先ず最初の話題は、松尾芭蕉「俳諧七部集」の第二集『春の日』から〔第3回/25句〜36句〕をお届けする。

25 朝朗(あさぼらけ)豆腐(とうふ)を鳶(とび)にとられける  昌圭
 
【意】早朝に豆腐を鳶にさらわれてしまった / (‥前句を受けて‥)時雨に濡れたりで、踏んだりけったりだ!
【解説】名表七 / 季語:=秋冬春夏雑 / 鳶が朝に鳴けば雨が降るという /
 幸田露伴は「評釈 冬の日」で「豆腐とだけいっているが、揚げ豆腐であることは間違いない」と述べている
 
26  念佛(ねぶつ)さぶげに秋あはれ也(なり)  李風
 
【意】念仏の声が寒々と聞こえて来る / 一段と秋の深まり感じられる / 
【解説】名表八 / 季語:秋=秋 / 前句で豆腐一つを失ったことが大事件である様な貧寒さを感じ取って詠んだ /
  「前句の豆腐を仏事、忌み日に用いられるものとしてこの句がある / うち湿った家の空きに寒げに念仏の声が漏れて来るのをいった /
 解釈する迄もなく、情景が見える」〔幸田露伴「評釈 冬の日」〕
 
27 穂蓼(ほたで)()ふ蔵(くら)を住(すま)ゐに侘(わび)なして  重五
 
【意】蓼が生()えるような陰湿な古い裏屋敷の蔵 / 表の母屋はとうの昔に売り渡して一人の老人が此の蔵に隠棲している 
【解説】名表九 / 季語:穂蓼=秋 / 前句の寒々とした念仏の声の方向を向かっていくと、こんな住居があった、というのである
 
28  我名(わがな)を橋の名によばる月(つき)  荷兮

【意】(前句の隠棲した)男は、其の昔は大資産家だったらしく、資材を世の人々の為に使い恩返しをした /
 彼の philanthropy (=私人が公益の為に行う社会貢献)で今も橋の名に寄贈者として彼の名前が付いている /
 其の彼は、今は其の橋の上に出ている月を見るばかりの身の上である
【解説】名表十 / 季語:月=秋 / 前句を喜捨散財した人物の清々しい余生として付けた
 
29 (かさ)の内(うち)近付(ちかづき)になる雨(あめ)の昏(くれ)に  李風
 
【意】雨の夕暮れのこと / 道連れになった此の男を自分の傘に入れて遣るうちに親しくなり、橋の袂(たもと)に遣って来た /
 此の橋こそ、件(くだん)の男が寄贈した橋だったので二人はすっかり意気投合したのだった
【解説】名表十一 / 雑 /

30  朝熊(あさぐま)(1)おるゝ出家(しゅつけ)ぼくぼく  雨桐

【意】此処は朝熊山の麓(ふもと) / 其の朝熊山の上の方から、一人の僧侶がのんびりと山道を下って来て二人と擦れ違って行く
【解説】名表十二 / 雑 / 前句を、同じ参宮者同士と知って相合傘で山を越えていく二人と見た詠んだ
(1)朝熊(あさぐま):伊勢山田(現・伊勢市)と二見(現・鳥羽市)の間にある山 / 歌枕 /
 
31 ほとゝぎす西行(さいぎやう)ならば哥(うた)よまん  荷兮
 
【意】ホトトギスの一声が聞こえた / 此の情景に立ち会ったら西行ならばきっと歌を詠むであろうなぁ
【解説】名裏一 / 季語:ほとヽぎす=夏 /前句の僧侶から、 晩年、伊勢に住んだ西行を想い合わせて付けた

32  釣瓶(つるべ)ひとつを二人(ふたり)してわけ  昌圭

【意】釣瓶に一杯の水を二人で分けてこと足りる様な簡略な朝の支度だ
【解説】名裏二 / 雑 / 西行の歌「寂しさに耐へたる人のまたもあれな庵並べむ冬の山里」を連想して、庵を並べて隠者二人を出した /
 時鳥の鳴く早朝から気楽に興じ会う様(さま)
 
33 ()にあはぬ局(つぼね)(なみだ)に年(とし)とりて  雨桐
 
【意】寵愛を失った宮廷の女が、往時を思い返して涙乍らに年の瀬を送る
【解説】名裏三 / 季語:年とりて=冬 /「寵愛を失った宮廷(=局)の女房が側女一人を相手の寂しい生活をしている」として詠んだ /
 前句の二人が、隠者二人から宮廷を去って女房と側女の女二人に代わった
 
34  記念(かたみ=きねん)にもらふ嵯峨(さが)の苣畑(ちさはた)(1)  重五
 
【意】昔寵愛を受けた人の形見としては僅かに嵯峨野に苣(ちさ)畑を頂いただけである /
【解説】名裏四 / 季語:苣畑=春 / 嵯峨野は古来隠棲者の住む所だが、小督(2)局の面影も此の句の背景となっていると言われている
(1)(ちさ)畑:幸田露伴は「評釈 春の日」で、「苣畑にも特別な意味はなく、ただ畑というだけのことで、老いた顔が皺びて苣(シチャ)の葉に似ているというのは穿ち過ぎて、噴飯させる」と述べている

[01](シチャ)


(2)小督(こごう(1157-?):小督には以下の様な哀話がある
 時は平氏全盛の頃、寵姫を亡くし悲嘆に暮れていた高倉帝を慰めるべく、中宮(建礼門院)徳子は美貌と箏の名手であった桜町ちゅう納言(藤原成範)の娘(小督)を紹介した。
 しかし、中宮の父 平清盛は、高倉帝が小督に溺れる事を嫌い、小督を宮中から追い出した。
 高倉帝の落胆は大きく、腹心 源の沖国(宇多源治氏)に嵯峨野に隠棲した小督を宮中に呼び戻すよう勅を賜った。
 時節は仲秋の夜、嵯峨野を訪れた源沖国が得意の笛を吹くと、「想夫恋」の調べが微かに聞こえ、其の方角に粗末な小屋に隠れ住む小督を見付けた。
 清盛を恐れていた小督は宮中への帰還を断るが、沖国の説得に従い高倉帝の許に戻った。
 其の事実は清盛に漏れ、小督は無理やり出家させられ、其の後の消息は諸説あるが、東山 清閑寺で高倉帝の菩提を弔って余生を送ったとされる。
 徳子と小督の話は、平家物語にあり、又、能の「小督」は嵯峨野の場面を取材したもので、美しくも悲しい名作として描かれ今も屡々上演されている。
 
35 いく春(はる)を花(はな)と竹(たけ)とにいそがしく  昌圭
 
【意】過ぎ行く春を花の手入れ、竹細工に余念が無いことだ
【解説】名裏五 / 季語:花=春 / 前句の老女から年老いた下男に主体を詠み替えた

36  弟(おとと)も兄(あに)も鳥(とり)とりにいく  李風

【意】此の家の子供たちは揃って鳥を捕まえに出掛けている /
【解説】挙句 / 季語:鳥とり=春 / 前句の「竹」から連想して、春先に子供たちが愛玩用に小鳥取りに出掛ける風習を付けた
 
【小生comment
 次回は、俳諧七部集『春の日』から〔第4回〕第37句~48句をご紹介する。お楽しみに!
 
■続いての話題は、前《会報》に引き続き、0629日に東京の2つの史跡と7つの美術館を巡って来た模様から其の〔第2回〕目の上野『寛永寺・根本中堂』→「東京都美術館『クリムト展』についてである。

[02]寛永寺 勅額門
                  
[03]路傍のガクアジサイの花

[04]同所にて
                  
 
0809  寛永寺 根本中堂着

 東叡山寛永寺は、1625(寛永02)年 慈眼(じげん)大師天海大僧正(1536(?)-1643)に拠り創建された。
 天海大僧正は、徳川家康(15433-1616)、秀忠(1579-1632)、家光(1604-1651)の三代に亘り将軍の帰依を受けた。
 彼は、江戸城の鬼門(=東北)となる上野の台地に寛永寺を建立。
 
[05]寛永寺根本中堂 入口にて

[06]同上 前にて1
                  
[07]同上 扁額


[08]同上 前にて2
                  
[09]同上 同上3

[10]同上 解説板
                  
[11]同上 尾形乾山墓碑前にて

[12]同上 解説板
                  

 尾形乾山(1663-1743)は、日本画家 琳派 の創始者 尾形光琳(1658-1716)の実弟で、陶芸家として著名。
 此の碑文は、江戸琳派の祖 酒井抱一(1761-1829)が、行方知れずになっていた乾山の墓を探し出し、1823(文政6)年 此の地に「墓碑及び乾山深省蹟」を建てたと解説板にあった。
 
0845  寛永寺根本中堂発→徒歩24分→
0904  開館の30分近く前に余裕を持って目的地の東京都美術館に到着

 処が到着して吃驚したのは、物々しい警備と既に多くの拝観予定者が並んでいたことだ。
 係員に尋ねたら、G20対策で手荷物検査をする為だそうだ〔←G20は大阪市での開催なのに!〕
 初期のクリムトの作品は、写実性に清らかさが内包した傑作が多く素晴らしい!
 
[13]開館25分前に東京都美術館前に並んだ長蛇の列

[14]同上2
                  
[15]本企画展 leaflet

[16]グスタフ・クリムト(:Gustav Klimt 1862.07.14-1918.02.06)17歳のエミーリエ・フリーゲの肖像』1891
                  
[17]同『葉叢の前の少女』1898年頃

[18]同『ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実)1899
                  
[19]同『ベルヴェデーレ宮 オーストリア絵画館、ウィーン』1901

[20]同『女の三世代』1905
                  
[21]クリムト記念撮影 corner での snap shot 1

[22]同上2
                  
[23]帰りに入館 corner を通ったら、此の大混雑!

 係員に「此の企画展はいつもこんなに混雑しているの?」と尋ねたら、係員曰く「閉館近くなってから凄い拝観者数です / 今日の拝観者数は、1万人を超えると思います」だ!

0952  東京都美術館発→徒歩1.1km 15分→

[24]東京都美術館の外観の一部
                  

️0707()は、愛知県芸術劇場コンサートホールにて1430分から開催されたエリアフ・インバル(1936- )指揮ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団演奏会を聴いて来た。
 此の orchestra は、2006年に現在の名前に改称して現楽団名になった。
 其れ以前は、1952年 東ドイツ時代の東ベルリンにベルリン交響楽団として創立されて以来、東独を代表する楽団として、クルト・ザンデルリンクが主席指揮者(1960-77)だった頃に一世を風靡した。
 小生、ザンデルリンク指揮ベルリン交響楽団の演奏に拠るブラームスの交響曲第1番が大好きだった。
 お金がなく自宅にステレオなんかなかった高校時代、NHKFMでカセットテープに録音したザンデルリンク(1912-2011)Berlin S.O. 演奏に拠るブラームスの交響曲第1番を毎晩、そして半年近く何十回と聴いていたことが懐かしく思い出される。
 今日は、旧Berlin S.O.である ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団の演奏に拠るブラームス/交響曲第2番だった。
 小生、Berlin S.O.のブラームス/交響曲第1番というと、高校1年の時だったか、中間か期末の数学の試験の時の記憶が蘇った。
 其れは試験の問題に苦心していた時のこと、漸く答えが出て来そうになった其の時、ブラームスの交響曲第1番の第4楽章の climax melody が頭にこびりついて仕舞い回答出来なかったのだ。
 此の事はほろ苦くもとても懐かしい思い出として今も確り記憶に残っている。
 朋友の中嶋君【時習26 3-2】は、小生より確り此のことを覚えていて、ブラームスの交響曲第1番の話になると、彼はいつも此の話を出して小生を冷やかしてくれる。()
 以下の 3曲と encore 1曲だったが、皆んな素晴らしい演奏だった。
 今日初めて知ったこととして、此の ベルリンコンツェルトハウス管弦楽団の第1コンサートマスター〔=コンサートミストレス (Concertmistress)〕に、日本人女性 violinist の日下紗矢子(くさか さやこ)(1979- )さんが演奏していたことがある。
 Slender で理知的&美形な魅力的なコンマスである!〔← Internet で彼女の写真を見つけたので添付写真[26]を参照されたい〕
 
[1]楽劇『トリスタンとイゾルデ』より「前奏曲」と「イゾルデの愛の死」
[2]ワーグナー:楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』より「第1幕への前奏曲」
[3]ブラームス:交響曲 第2番 ニ長調 op.73
[encore]ブラームス : ハンガリー舞曲第1
 
『トリスタンとイゾルデ』前奏曲冒頭の静謐なチェロの音色を聴いた瞬間、小生、ワグナーの世界に魅了され引き込まれて仕舞った。
 ワーグナーがトリスタン伝説に基づくオペラ作品を着想したのは1854年の秋だという。
 18541216日付 フランツ・リスト宛手紙でワーグナーは次のように書いている。
 「自分は此れ迄一度も愛の幸福を味わったことがない。だから数多の夢の中で最も美しい此の主題の為に一つ記念碑を立て、其処で愛の耽溺の極致を表現したく思い『トリスタンとイゾルデ』の構想を得た」と!
 2曲目の楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』「第1幕への前奏曲」は兎に角、明るくスケールの大きな名曲だ。
 初演は大成功だったという。
 1868621日 ハンス・フォン・ビューロー指揮/ミュンヘン宮廷歌劇場で初演された。
 初演翌日、ワーグナーは次の手紙を書いている。
  「昨日の上演は此れ以上のものはない程の素晴らしいものだった。私は演奏の最初から最後迄国王貴賓席で国王ルートヴィヒ二世の脇に座り、観客からの祝意を受けた。今迄一度も経験したことのない名誉なことだった」‥1868622日 ヴェレーナ・ヴァイトマンに宛てたワーグナーの手紙より‥
 インバル指揮ベルリンコンツェルトハウスの演奏も明るく明快な演奏でホント素晴らしかった!
  3曲目のブラームス:交響曲 第2番 ニ長調 op.73は、43歳になる迄交響曲第1番を作らなかったブラームスが、其の解放感から吹っ切れたのか極めて短期間で作曲された曲で、第1楽章の曲想からブラームスの『田園交響曲』とも言われている名曲だ。
 今日の演奏会は、encore 曲も含めて全 4曲が実に素晴らしい演奏だった!
 
[25]愛知県芸術劇場の前にて

[26]ベルリンコンツェルトハウス管弦楽団第1コンサートマスターの日下紗矢子
                  
[27]愛知県芸術劇場コンサートホール入口にて1

[28]同上2
                  
[29]本演奏会 leaflet

[30]本演奏会プログラムとチケット
                  
[31]本演奏会プログラムのインバルとベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団

[32]本演奏会曲目
                  
[33]演奏会前のコンサート会場1

[34]同上2
                  
[35]Encore曲案内看板


 とっても楽しい matinée を過ごすことが出来て嬉しかった!〔了〕
 
【後記】次回は、『上野東照宮』、国立新美術館『ウィーン・モダン/クリムト、シーレ 世紀末への道』展と山種美術館『速水御舟』展についてご紹介する。
 お楽しみに!
 此の日は七夕だったが、其の前日(0706)と言えば俵万智(1962.12.31- )の此の歌が思い浮かぶ。
 
   「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日  俵万智
 
 では、また‥〔了〕

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