2019年4月7日日曜日

【時習26回3-7の会 0751】~「松尾芭蕉:俳諧七部集『冬の日』から〔第7回〕」「03月23日:日帰り東京・史跡と美術館巡り『高橋是清翁記念公園』→『勝海舟邸跡』→『勝海舟・坂本龍馬の師弟像』→『山王・日枝神社』→『日比谷高等学校』→『国会議事堂』→『江戸城外堀跡 地下展示室』→『法務省本省』→『楠木正成像』→『三菱一号館美術館/ラファエル前派の軌跡展』→『美術愛住館/アンドリュー・ワイエス展』→『郷さくら美術館東京/第7回桜花賞展』→『目黒川の桜』→『山種美術館/奥村土牛展』→『日本民芸館/柳宗悦の「直観」展』→『駒場公園・旧前田侯爵邸洋館』→『東京大学教養学部』→『芝・増上寺』→『中村屋サロン美術館/及川聡子展』を巡って」「04月02日:富安風生の春の名句3句」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。
 さて、今日も【時習26回3-7の会 0751】号をお届けします。
 先ず最初の話題は、松尾芭蕉「俳諧七部集」の第一集『冬の日』から〔第7回~61句~72句〕をお届けする。
 
61 奉加(ほうが)めす(1)御堂(みだう)(2)に金(こがね)うちになひ  重五
 
【意】(‥前句の「齢七十」を踏まえ‥)老いを自覚した人物が、旦那寺の募財に応じて大金を寄付をする
【解説】名残の表(3)(以下、「名残表」)七 / 雑 /
(1)奉加めす:寄付の金品を徴収すること
(2)御堂:寺院の尊称
(3)名残の表:連句の懐紙(かいし)最後の一折の表で、歌仙では12句を書く
 
62  ひとつの傘の下(した)(こぞ)りさす  荷兮

【意】浄財の寄進者は高貴な人物だった / 彼に翳(かざ)された笠の下に大勢の群集が付き従って行く
【解説】名残表八 / 雑 / 前句の浄財寄進者を一人から複数の信者が競って寄進に参ずる様(さま)に転化 /
「笠」は、貴人等の高貴な人達に翳される象徴 / 其の傘の下に人々が群衆する様を表す
(1)挙りさす:笠の下に大勢の人が群れている様子をいう
 
63 蓮池(はすいけ)に鷺(さぎ)の子()遊ぶ夕(ゆふ)ま暮(ぐれ)  杜國

【意】蓮池の大きな蓮の葉の下で、鷺の子たちが泳ぎ廻っているヨ / 今は夕暮れ時だ
【解説】名残表九 / 雑 / 季語:蓮池=夏 / 前句の「笠」を「蓮池の蓮葉」に置き換え場面を変えた
 
64  まどに手()づから薄様(うすやう)(1)をすき  野水

【意】蓮池で泳ぎ廻っている鷺の子たちが見えるように書斎の窓の障子紙を自ら薄く漉()いている
【解説】名残表十 / 雑 /
(1)薄様:薄い障子紙のこと
 
65 月にたてる唐輪(からわ)(1)の髪の赤枯(あかがれ)て  荷兮

【意】甲斐甲斐しく働く唐輪結いの女 / 月の出を眺めて門に立つ其の女の頭は赤茶けて見える
【解説】名残表十一 / 雑 /
(1)唐輪:髻(もとどり)から上を輪に作り、根を余りの髪で巻く結い方
 
66  戀(こひ)せぬきぬた臨済(りんざい)をまつ  はせを

【意】恋とは無縁の老婆が打つ「砧」は、恋人ではなく、僧侶(=臨済)が来るのを待っている
【解説】名残表十二 / 季語:きぬた=秋 /「砧」は恋をの key wordだが、此処の女性は老女に変わり、恋とは無縁
 
67 秋蝉(しゅうぜん)(1)の虚(から)に聲(こゑ)きくしずかさは  野水

【意】蜩の抜け殻から声なき声を聞く様な閑寂な悟りの境地に到達した人物の見事なことヨ
【解説】名残の裏(2)(以下、「名残裏」)一 / 季語:秋蝉=秋 /
(1)秋蝉の虚:蜩(ヒグラシ)のぬけがら /
(2)名残の裏:連句の懐紙(かいし)最後の一折の裏で、歌仙では6句を書く
 
68  藤(ふじ)の實()つたふ雫(しずく)ほつちり  重五

【意】蜩の抜け殻の鳴声を聞く程の耳であるので、静寂の中、藤の実に伝わり落ちる雫の音さえも聞こえて来る
【解説】名残裏二 / 季語:藤の實=秋 / 前句の(秋蝉の)「虚」に対し(藤の)「実」とした味わいもある
 
69 (たもと)より硯(すずり)をひらき山かげに  芭蕉

【意】山蔭に立ち止まり懐中(=)からから矢立の硯を取り出し一句詠んだ /
【解説】名残裏三 / 雑 / 前句の藤の実から滴り落ちた水を使い墨をすり句を詠む趣向もあるか‥
 
70  ひとりは典侍(すけ)(1)の局(つぼね)(2)か内侍(ないし)か  杜國

【意】此の様な山中で詩歌を詠んでいる一行は都の高貴な人々とお見うけするが、いずれかの局の内侍であろう
【解説】名残裏四 / 雑 /
(1)典侍(すけ):宮中内侍(ないし)の司の次官
(2)(つぼね):女官
(3)内侍:内侍の司の女官
 
71 三ケ(みか)の花(はな)鸚鵡(あうむ)()なが(1)の鳥(とり)いくさ  重五

【意】(前句の登場人物を宮廷人として‥)三月三日 其の宮中での闘鶏行事に因み、美しい鸚鵡(オウム)や長尾鶏を並べ比べる「鳥合」を空想して詠んだ
【解説】名残裏五 / 季語:花=春 /
(1)尾なが:オナガドリ(尾長鳥・尾長鶏) / 鶏(ニワトリ)一種
 
[01]尾長鶏


72  しらがみ(1)いさむ越(こし)の独活苅(うどかり)  荷兮

【意】そんな三月三日には、白髪の老人が越後の独活(ウド)を収穫に山へ行くことでしょう。独活は、春に宮中に越後の国から上納されていた
【解説】挙句 / 季語:独活苅=春 /独活(ウド)は延喜式に越前国から貢納される雑薬とある / 頭痛・脚疾等の病に効くとされた /
 前句が宮中行事であるのに対し、此の句では「北辺の土地で白髪の老農夫が時節が到来した」と、独活(ウド)の収穫に出立する様子を詠んだ /
 前句の「宮中」と此の句の「北辺の地」を対比させて都鄙(とひ)共に泰平であると付け締め括った
(1)しらがみ:白髪の老人のこと
 
【小生comment
 次回は『冬の日』の〔第8回〕73句~84句をお届けする。お楽しみに!
 
■続いての話題についてである。去る0323日、日帰り東京・史跡と美術館巡り『高橋是清翁記念公園』→『勝海舟邸跡』→『勝海舟・坂本龍馬の師弟像』→『山王・日枝神社』→『日比谷高校』→『国会議事堂』→『江戸城外堀跡 地下展示室』→『法務省本省』→『楠木正成像』→『三菱一号館美術館/ラファエル前派の軌跡展』→『美術愛住館(開館一周年記念)/アンドリュー・ワイエス展』→『郷さくら美術館東京/第7回桜花賞展』→『目黒川の桜』→『山種美術館/奥村土牛展』→『日本民芸館/柳宗悦の「直観」展』→『駒場公園・旧前田侯爵邸洋館』→『東京大学教養学部』→『芝・増上寺』→『中村屋サロン美術館/及川聡子展』と巡って来たことについてお伝えする。
 
 写真[01]は、豊橋駅前23:25発バスタ新宿方面ゆきの高速バス「ほの国号」に乗る直前の模様である。
 翌0323()の一日かけて、5つの美術館と1つの民芸館、複数の史跡を訪ねて来た。
 出発の際、翌日の東京のお天気が気になったが、晴れ男の小生だから「何とかなるさ」と思っていて、実際雨には殆ど会わずに済んだ。
 
03月22日】

[02]高速busほの国号の前にて1
                   

0323日】

[03]バスタ新宿

[04]地下鉄大江戸線「新宿」駅改札口
                   

0540  バスタ新宿発→0550新宿0604→地下鉄大江戸線→0612青山一丁目着
 
[05]同上「青山一丁目」駅を出たところにある地図

 地図内のピンク色の矢印↑は小生が付記
 
0613  青山一丁目発→徒歩500m 6分→
0628  カナダ大使館着
 
[06]カナダ大使館(右手)
                   
[07]カナダ大使館前にて1


0630  同所発→50m 1分→
0631  高橋是清翁記念公園〔旧高橋是清邸跡〕着
 
 達磨宰相 高橋是清(1854-1936)
 日露戦争の戦費確保の為、当時の日本国債をLondonで起債して何とか投資家を確保した。
 彼は此処(=旧高橋是清邸)で二・二六事件の凶弾に斃れた(享年 83)
 戦前日本を代表する偉人!

[08]高橋是清翁記念公園解説板
                   
[09]同上横にて

[10]高橋是清翁像1
                   
[11]同上2

[12]同上 横にて1
                   

0643  同所発→1km 12分→
0659  勝海舟邸跡着
 
 勝海舟邸は、全くの民間建物が建っていた。
 
[13]勝海舟邸跡碑

[14]勝海舟邸跡碑前にて
                   

0702  同所発→徒歩900m 8分→
0710  勝海舟・坂本龍馬の師弟像着
 
[15]勝海舟・坂本龍馬の師弟像

[16]同上 前にて1
                    

 此処にある勝海舟・坂本龍馬の師弟像は格好良く見ていて気持ちがいい。
 此の像を眺めていたら、由緒は兎も角、歴史浪漫を感じられて気分がワクワクしてとってもいい。
 
0714  同所発→900m 11分→
0725  山王 日枝神社着
 
 此の神社の祭礼 山王祭は、神田明神の神田祭と共に天下祭の一つとされ、深川祭 or 浅草寺の三社祭を加え 江戸三大祭 の一つともされている。
 江戸時代、天下祭は江戸庶民にとって最大の楽しみだった為、「宵越しのカネは持たネェ」江戸っ子の窮乏を憂慮した幕府は、山王祭と神田祭を交互に隔年で催すことを命じた。
 日枝神社を去る前にどうしても御守が欲しくなり、掃除中の神官らしき人に其の旨尋ねたら「受付開始は0800分からだから一寸早いけど社務所で聞いてみて!」と言われたので早速社務所を尋ねたら「いいですヨ」と快諾してくれて手に入れた。
 日枝神社の参道に野外の elevator があったのには流石は大都会の中の大神社だと思った。

[17]山王 日枝神社 大鳥居前にて

[18]Elevatorから振り返って見える大鳥居と大都会の景観
                   
[19]境内ご案内図

[20]山王 日枝神社 本殿前にて
                   
[21]山王 日枝神社 御守


0750  同所発→100m 3分→
0754  東京都立日比谷高等学校着
 
[22]東京都立日比谷高等学校正門にて
                  
0757  同所発→800m 10分→
0815   国会議事堂正門前着
 
[23]国会議事堂正門前にて

0818  同所発→徒歩1.1km 13分→
0840  江戸城外堀跡地下展示場着
 
[24]江戸城外堀跡地下展示場にて
                  
[25]同展示場解説板の一つ


0911  同所発→徒歩200m 5分→
0923  法務省前を通過
 
[26]法務省をback
                  
[27]法務省正門前にて


 東京駅丸の内の建物みたいな antique な佇まいが魅力的だ。
 お堀に着いたら、其処は桜田門だった。
 丁度3か月前の1223日に此処で記念撮影している。
 
[28]道路越しに桜田門をback
                  

0924  同所発→徒歩400m 10分→
0940  楠木正成像着
 
 戦前、国民に最も人気の高かった歴史上の人物が此の楠木正成だった。
 戦後は、彼の忠君愛国思想と滅私奉公の姿勢が国粋主義・軍国主義を齎した、として日本教育界から抹殺された。
 其の昔は、西郷どんや信長・秀吉より人気者だったのに寂しいことだ、と思い乍ら楠木正成像に歩いて行った。
 すると、「オッ、黒山の人だかりだ! 人気復活か?」と思いきや、guide役と思しき男性が大声で中国語を話して正成像を指差し乍ら解説していた。
 日本人より中国人に人気の正成くんでした‥()
 
[29]楠木正成像をback


0945 同所発→1.2km 15分→

1000  三菱一号館美術館着
 
【『美しいだけじゃない / ラファエル前派の軌跡』展】
 本企画展は、英国を代表する美術評論家 John Ruskin(1819-1900) の生誕200周年を記念する展覧会。
 自然を尊重・信頼して自然観察の重要性を生涯に亘って説いた Ruskin は、J.M.W.Turner(1775-1851)を評価した。
 此の Ruskin の思想に傾倒したのが、John Everett Millais(1829-96)Dante Gabriel Rossetti(1828-82)William Holman Hunt(1827-1910) 等 まだ二十歳そこそこの若い画学生たちだった。
 彼等は、「Italian Renaissance の巨匠画家 ラファエロ以前の『絵画が自然に忠実』だった時代の表現に立ち戻る」ことを目指して、1848年に「ラファエル前派同盟(Pre-Raphaelite Brotherhood)」結成した。
 本企画展は、彼等の作品を紹介してくれる。
 本展の粋な処は、美術館の一室だけだが其処が全て撮影可だったことだ!
 
[30]三菱一号館美術館のある街区への入口にて
                  
[31]同美術館入口前にて

[32]ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ『廃墟の礼拝堂のガラハッド卿』1857-59
                  
[33]ウィリアム・ホルマン・ハント『甘美なる無為』1866

[34]ウィリアム・ホルマン・ハント『誠実に励めば美しい顔になる』1866
                  
[35]ジョン・エヴァレット・ミレイ『結婚通知‥捨てられて』1854

[36]ロセッティ『夜が明けて‥ファウストの宝石を見つめるグレートヒェン』1868
                  
[37]ロセッティ『ムネーモシューネー(記憶の女神)1876-81

[38]ロセッティ『ラ・ドンナ・デッラ・フィネストラ(窓辺の女性)1870
                  
[39]ロセッティ『ウェヌス・ウェルティコルディア(魔性のヴィーナス)1863-68年頃

[40]ロセッティ『祝福されし乙女』1875-81
                  
[41]本展撮影cornerにて


1045  同所→徒歩8分→丸ノ内線→
1139  四谷三丁目駅着→徒歩18分→
1158  美術愛住館『Andrew Wyeth』展
 
【『アンドリュー・ワイエス』展】
 ワイエスが初めて日本に紹介されたのは 19550726日から東京国立近代美術館にて開催された「アメリカ水彩画展」だった。
 1974年 同美術館にて開催された「アンドリュー・ワイエス展」は、総入場者数16万人を数え、爾来、日本でも人気のある海外画家のひとりになった。
 本企画展は、美術愛住館が、開館一周年を記念して、丸沼芸術の森が所蔵するアンドリュー・ワイエスの作品を紹介する展覧会だ。
 アンドリュー・ワイエスの作品は、クールで小生大好きな画家である。
 以下は余談である
 アンドリュー・ワイエス(米:Andrew Wyeth 1917.07.12-2009.01.16)というと、叔父貴(亡父の弟)の言葉をいつも思い出す。
 叔父貴は、時習館高校の朝倉先生の前に長らく美術科教諭を務められていた冨安昌也先生の弟子だった。
 我等が時習26回生同期の大竹Y夫君【3-10】が現在会友になっている日本水彩画会の豊橋支部長を冨安先生が長年務められていた。
 先生から可愛がって貰っていた叔父貴は、先生が「富士山の絵が描きたい」と言えば運転手をして富士山迄一緒に行ったり、「中国敦煌の莫高窟を描きたい」と言えば一緒に敦煌の莫高窟迄行って一緒に絵を描いたりしたそうだ。
 そんなある時、名古屋でアンドリュー・ワイエス展があり、冨安先生とワイエスの作品を見乍ら叔父貴に「ワイエスの作品は技量が素晴らしくいい / 技量と言えば俺の教え子で俺を超えたのは野田弘志(1936.06.11- )【時習07回生】だけたナ」と仰られたそうだ。
 
[42]美術愛住館入口にて
                  
[43]アンドリュー・ワイエス(米:Andrew Wyeth 1917.07.12-2009.01.16)

[44]アンドリュー・ワイエス『小舟のそばの二人』1939
                  
[45]同『入江から見たオルソンの家』1940

[46]同『幽霊(習作)1949
                  
[47]同『積み重ねられたブルーベリー用の箱』1954

[48]同『穀物袋』1961
                  

1225  同所発→四谷三丁目→丸ノ内線→新宿三丁目→副都心線→中目黒→
1245  目黒川 別所橋
 
 桜は3-4分咲きだった。
 小生の写真一枚目は、郷さくら美術館に向かう途中に目黒川に架かる別所橋から桜花を写真撮影していた若い女性に撮影して貰った。
 二枚目と最後の写真は交互に写真を撮り合っていた若い couple にお願いして撮影して貰ったが、二人は中国人だった。
 
[49]目黒川に架かる別所橋にて1

[50]同上2
                  

1250  郷さくら美術館東京着

[51]郷さくら美術館東京入口前にて


[52]同館入口前の本企画展看板前にて
                  
【『第7回 郷さくら美術館 桜花賞』展】
 当美術館は、名前にもある様に日本画の桜花の名画が沢山ある。
 以下に、展示作品の中でも小生が特に気に入った作品を postcards の絵からご紹介する。
 ホント、綺麗デショ!

[53]西田俊英『惜別・櫻』2007


[54]中村宗弘『麗春』2013
                  
[55]伊達良『さくら川』2013

[56]高宮城延枝『春の辺り』2018
                  
[57]島本純江『桜舞』2018

[58]野地美樹子『大和路に春』2016
                  
[59]中島千波『櫻雲の目黒川』2013

1320  同所発→中目黒→日比谷線→恵比寿→徒歩10分→
1355  山種美術館着
 
[60]山種美術館入口近くの本企画展看板前にて
                  
[61]同美術館入口にて

[62]同館内地下1F 本企画展corner入口にて
                  
【『奥村土牛』展】
 山種美術館は、日本屈指の数の日本画の名画を所蔵している美術館として著名だが、奥村土牛の作品は、質量共に充実している。
 以下にご紹介した 5点は、本企画展展示作品だが、小生大好きな作品群だ。
 なかでも、『醍醐』『鳴門』『城』は小生、奥村土牛作品の Best 3 と言いたい。
 山種美術館は、今回『吉野』1点だけ撮影可にしてくれたので、早速撮影させて貰った。
 名画を見ると心が本当に癒される。
 
[63]奥村土牛『醍醐』1972

[64]同『鳴門』1959
                  
[65]同『城』1955年‥姫路城

[66]同『吉野』1977年〔←本作品だけ撮影OKだった〕
                  
[67]同上作品の横にて

[68]同『茶室』1963
                  
1435  同所発→徒歩→JR恵比寿駅→渋谷駅→京王井の頭線→
1455分 京王井の頭線 駒場東大前駅着→500m 徒歩10分→
 
[69]京王井の頭線 駒場東大前駅 platform

[70]同上駅から駒場公園(=日本民藝館)へ行く途上の閑静な道
                  
[71]駒場小学校入口

[72]民芸館の入口近くの風景1
                  
[73]同上 椿の花

[74]日本民芸館入口の門
                  
[75]民藝館入口にて1

[76]同上2
                  
1505分 日本民芸館着
 
 当館は、東京都目黒区駒場四丁目にある伝統的工芸品を主に収蔵展示する美術館。
 宗教哲学者で美術研究家でもある民芸運動の主唱者の柳宗悦(やなぎむねよし(1889-1961))に拠り創設。
 柳宗悦は、若い時は武者小路実篤や志賀直哉らと共に雑誌『白樺』の同人となり、仏彫刻家のロダン等 西洋近代美術を日本へ紹介することに尽力した。
 又、柳は、日本各地の焼物、染織、漆器、木竹工等、所謂Fine art(純粋芸術)でも高価な古美術品でもない、無名の職人による民衆的美術工芸の美を発掘して世に紹介することに努め、「民芸運動」を創始したことで知られている。
民芸館の起こりとなった「民芸」について、柳は19330115日刊の著書『民藝の趣旨』で以下の様に説明してくれている。
 
「1. 民藝の意義
 民藝とは新しい言葉です。それが為或(あるい)は之が民俗藝術の略字とも解され、時折農民美術とも混同されました。又民衆芸術と云う華美な言葉にもとられました。しかし吾々はもっと質素な意味で、民衆の「民」と工藝の「藝」とを取って、此の字句を拵(こしら)えたのです。云わば貴族的な工藝美術と相対するものです。一般の民衆が日常使う用器が民藝品なのです。此れを約(つづ)めて民器と呼び得るでしょう。何人(なんびと)の生活にも必要な調度、即ち衣服・家具・食器・文房具等、皆此の中に入ります。俗語で下手物(げてもの)とか粗物(そぶつ)とか雑具とか呼ばれる雑器の類(たぐい)は、凡(すべ)て民藝品に属するわけです。
 それ故に民藝には二つの性質が数えられます。第一は実用品である事、第二は普通品である事。裏から云えば、贅沢な高価な僅かより出来ないものは民藝品とはならないわけです。作者も著名な個人ではなく、無名の職人達です。見る為より用いる為に作られる日常の器物、言い換えれば、民衆の生活になくてはならぬもの、普段使いの品、沢山出来る器、買い易い値段のもの。即ち工藝品の中で、民衆の生活に即したものが広義に於ける民藝品なのです。(後略)
 
 当館に入って館内が大変な混雑ぶりにだったことに正直吃驚した。
 稀代の教養人である柳宗悦の面目躍如だと改めて感じ入った次第である。
 確かに柳宗悦の審美眼は流石と思わせるものだった。
 民芸品が素朴な中にも気品が感じられるのである。
 以下に売店で売っていた postcards から幾つかをご紹介したい。
 
[77]日本民藝館 本館外観

[78]同 西館〔明治13年建造 / 昭和10年移築〕
                  
[79]同 同〔旧柳宗悦邸〕応接室


 柳宗悦が蒐集した民芸品の数々。

[80]赤絵油壷〔牡丹紋/伊万里〕高さ9cm
                  
[81]瓶子〔漆絵柏文〕高さ30

[82]赤絵角瓶〔牡丹紋/伊万里〕
                  
[83]壺〔鉄砂染附葡萄に栗鼠文〕李朝 径27.2cm×高さ36.3cm

[84]大鉢〔緑釉指描紋/肥前〕径50cm
                  
[85]片口〔漆絵箔置紅葉文〕径21cm
 

1535分 同所発→徒歩100m 5分→
1539分 駒場公園旧前田公爵邸洋館着
 
[86]駒場公園入口にて
                  
[87]旧前田侯爵邸洋館前にて1

[88]同上2
                  
[89]旧前田家本邸洋館 解説

[90]同上館内にて1
                  
[91]同上2(‥立派な階段‥)にて

[92]同上3
                  
[93]同上4

 駒場公園の中心的施設である此の洋館は、旧加賀藩100万石の御殿様の邸宅だけあって外装より内装の素晴らしさに感銘を受けた。
 入館料無料の館内に入ったら、階段で着物姿の女性が何回もcamerashutterに収まっていた。
 解説(添付写真[89])にある様に、本邸宅は第16代当主前田利為侯爵が192930(昭和0405)年に本郷から移転し、平成25年に国の【重文】に指定された。
 平成28年から修復工事の為閉鎖されていたが、平成301027日より一般公開を再開。
 戦前だったら、絶対に見られなかった旧華族の立派な私邸を無料で見学出来る現代日本は何と恵まれた国だろう?
 洋館に隣接した和館に入ろうと思ったが、時間が16時になって入ろうと思った丁度その時閉館になって仕舞った。

[94]旧前田侯爵邸和館入口前にて
                  
[95]同上の中庭

 見られなかったことは残念だが、又来ようという気持ちになった。

1605分 旧前田公爵邸和館発→600m 徒歩 8分→
1614分 東京大学教養学部正門前着
 
[96]東京大学教養学部正門前にて
                  
1619  同所発→50m 徒歩1分→1620駒場東大前1627→京王井の頭線→1630渋谷1640JR山手線や1658浜松町→
1658 JR浜松町駅着→900m 徒歩12分→
 
 浜松町駅から増上寺に向かって数分の芝大門交差点に「増上寺 大門」がある。
 
[97]芝大門前にて

[98]増上寺三門(=三解脱門)前にてにて
                  
[99]同上大殿(だいでん)前にて1

[100]同上2
                  
[101]同上3(大殿(増上寺)額前にて)

 増上寺は、東京都港区芝四丁目にある浄土宗の仏教寺院 / 山号:「三縁山」広度院(こうどいん)増上寺。
 9世紀、空也の弟子、入唐八家(1)の一人宗叡(809-84)が武蔵国貝塚(現・麹町・紀尾井町辺り)に建立した光明寺がされた。
 (1)入唐八家:最澄・空海・常暁・円行(えんぎょう)・円仁(えんにん)・恵運・円珍・宗叡。
 増上寺は、徳川家康の命に拠り、1597(慶長03)年 貝塚から現在の地へ移された。
 爾来、増上寺は徳川将軍家の菩提寺にされ、第2代将軍徳川秀忠、第6代家宣・第7代家継・第9代家重・第12代家慶・第14代家茂の墓がある。
 江戸の鬼門の北東を護る寛永寺と共に、南西の裏鬼門を護る寺として知られる。
 帰りに御守を手に入れようと寺院の人に訪ねたが、1700分で販売所は閉まっていて今回は叶わなかった。
 
1730分 同所発→900m 徒歩12分→1742浜松町1747→山手線→1813新宿
1828分 新宿中村屋ビル地下1階着→elevator3階の美術館へ
 
[102]新宿中村屋ビル地下1階にて(新宿駅丸ノ内線A6番出入口)
                  

1829分 中村屋サロン美術館着
 
【『及川聡子』展】
 墨絵の新世界を創造して行く作家と言っていいかもしれない。
 及川聡子氏の略歴は以下の通り。
 
1970年 宮城県生まれ
1993年 東京造形大学造形学部美術学科I類卒
1995年 東京学芸大学大学院教育学研究科修士課程修了
2003年 文化庁新進芸術家国内研修員
 
[103]及川聡子氏

[104]本企画展leaflet(表半分)
                  
[105]同上()

[106]Incarnation(松煙墨、麻紙91×182)2018
                  
[107]『聴くひと―夢』(松煙墨・岩絵具・胡粉、麻紙45.5cm×53)2018

[108]『寄り添う』(松煙墨・岩絵具・胡粉、麻紙90.9cm×72.7)2018
                  
[109]中村屋サロン美術館入口にて

[110]同美術館入口
                  

1850分 同所発→600m 徒歩10分→1916バスタ新宿
 
[111]いつも大混雑の新宿駅東口

[112]バスタ新宿の外観
                  
 2355分 バスタ新宿発→高速バス ほの国号→

0324日】

0530分 豊橋駅前着→徒歩6分→駐輪場→自転車3.5km 20分→
0600分 帰宅〔了〕
 
【小生comment
 朝06時前にバスタ新宿を出て、19時過ぎにバスタ新宿に戻った。
 復路の高速busの発車時刻の2355分迄4時間半余りあったが、一日の模様を Facebook up する作業をしていたらあっと言う間に出発時間になった。
 慌ただしくも充実した一日を過ごすことが出来、満足だった。
 
【後記】今日最後にお届けするのは、0402Facebook up したホトトギス派俳人 富安風生が詠んだ代表的な春の名句を3句ご紹介してお別れする。
 我等が時習館高等学校現役時代の美術科教諭朝倉勝治先生(1931- )の前任に冨安昌也先生(1918-2013)がいる。
 冨安先生は東京美術学校西洋画科で巨匠藤島武二の門下生だが、其の冨安先生の大叔父が冨安謙次(1885-1979)氏だ。
 俳人 富安風生 其の人である。
 
[113]写真向かって左が冨安謙次(富安風生)氏、同右が冨安昌也先生
 
  冨安謙次氏の略歴は以下の通り。

1885(明治18)愛知県八名郡金沢村(現・豊川市金沢町)に生まれた
1904(明治36) 3月 愛知県立第四中学校(時習館高校の前身)4(明治36(1904)3)
 第一高等学校、東京帝国大学法科大学を経て、逓信省入省、逓信次官就任
1918(大正07)年 逓信省福岡貯金支局長時代に俳句を初める
1919(大正08)年 福岡を訪れた高浜虚子の知遇を得、「ホトトギス」に投句
1922(大正11)年 東大俳句会の結成に関わる
1928(昭和03)年 逓信省内の俳句雑誌「若葉」の選者となる
1929(昭和04)年「ホトトギス」同人
1936(昭和11)年 逓信次官の職を辞す
1971(昭和46)年 日本芸術院賞受賞、日本芸術院会員就任
1979(昭和54)年 動脈硬化症と肺炎により死去(享年94)
 
 春の花と名句というと沢山あるが、小生、直ぐに我等が時習館高校の風生大先輩の大好きな名句が3句浮かぶ。
 
  菜の花といふ平凡を愛しけり

  まさをなる空よりしだれざくらかな

  みちのくの伊達の郡(こほり)の春田かな
 
 最初の二句「菜の花と‥」「まさをなる‥」から、先日(0309)訪れた豊川市西古瀬川河畔に咲く菜の花と河津桜を見た時のことが思い浮かんだ。
 
[114]20190309撮影の豊川市西古瀬川河畔に咲く菜の花と河津桜と共に
                  
[115]菜の花

[116]空より枝垂桜かな
                  

 勿論、西古瀬川河畔に咲く櫻は枝垂桜でなく、河津桜だが、「まさをなる空より河津桜かな」と詠み替えれば其れなりに様になった。
「みちのくの伊達の郡の春田かな」は、小生、昭和57年~61年の4年間、旧行仙台支店在勤時代のことが懐かしく想い出される。
「みちのくの‥」の俳句に触発されて即興に浮かんだ拙句を一句‥
 
  穂の国の多米の畑の葱坊主  悟空
 
[117]葱坊主


 では、また‥〔了〕

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