さて、今日も【時習26回3-7の会 0744】号をお届けします。
今日最初にお届けするのは、『猿蓑』の締め括りの~『跋』~をご紹介する。
跋(注1)
(注1)跋:「後書き」のこと
※ 猿蓑者芭蕉翁滑稽之首響也。
→ 猿蓑は芭蕉翁 滑稽の首響(しゅきょう)也(なり)
【意】猿蓑は、芭蕉翁の首響、即ち蕉風俳諧の真髄を成す調べそのものである
※ 非レ比彼山寺偸レ衣朝市頂レ冠笑。
→ 彼(か)の山寺に衣を偸(ぬす)み、朝市に冠を須(すべから)く笑ふに比するに非(あら)ず
【意】猿蓑の巻頭の「猿も小蓑を‥」の句は、「山寺‥朝市‥」の類の笑話に比べる低次元なものではない
※ 只任心感レ物冩興而已矣。
→ 只(ただ)心の物に感じ興を写すに任ずるのみ
【意】(『猿蓑』に収録された諸々の句は)ただ只管(ひたすら)物を見て心に感じたことを素直に表現し作られた作品ばかりだ
※ 洛下逸人凡兆・去来随レ翁遊學。
→ 洛下の逸人 凡兆・去来 翁に随ひて遊学す
【意】京都の風雅隠逸の人である野沢凡兆や向井去来も芭蕉翁の下で風趣を学んだ
※ 楳館竹窓躐等凌レ節、斯有レ歳。
→ 楳(=梅)館(ばいかん)竹窓(ちくそう) 等を躐(こ)へ節を凌(しの)ぐ、斯(ここ)に歳(とし)有り
【意】庭に梅が咲き窓からは竹が見える(芭蕉翁の居られる)庵では、等級を飛び越え、破格に修行上達することが長年に及んだ
※ 屬撰此集玩弄無レ已。
→ 屬(=このころ) 此の集を撰びて玩弄(がんろう)已(や)むこと無し
【意】其の頃は、此の『猿蓑』集へ載せる秀句の選定に真剣で、其の作業は中々終わることを知らなかった
(注1)玩弄無已:「珍重シテ朝ニ読み暮ニ誦シテ塾習スルト云義也」(猿蓑さがし)
※ 自謂絶超狐腋白裘者也。
→ 自謂(おもへ)らく 超(ちょう)する狐腋(こえき)の白裘(はくきゅう)に絶(た)つ者(もの)也(なりと)
【意】思うに、(此れ等の秀句は)珍重されている高級な狐白裘(注1)の様に優れていると
(注1)狐腋白裘:狐の腋(わき)の下の柔らかい白毛で作った皮裘(ころも)/狐白裘(こはくきゅう)/珍重されているという意
※ 於レ是四方唫友憧々往来、或千里寄レ書、々中皆有佳句。
→ 是(これ)に四方(よも)の唫友(ぎんゆう)憧々(どうどう)として往来(おうらい)し、或(あるいは)千里に書を寄(よせ)て、書中皆(みな)佳句あり
【意】此処(芭蕉の庵)には、全国の俳人たちが立ち寄ったり、或いは手紙に皆佳い俳句を載せて寄こしたりした
(注1)唫友(ぎんゆう):吟友/俳人の友人
※ 日蘊月隆(注1)各程(注2)文章。
→ 日(ひ)に蘊(あつま)り月に隆(さかん)にして各(おのおの)文章を程(しなじな)にす
【意】毎日毎月 俳人たちが集まり、各人の俳句を様々に批評し合ったりする
(注1)日蘊月隆:「蘊=聚(あつまる)」「隆=盛(さかん)」の意
(注2)程:程=品 / 句文の文飾(あやかざ)りの様々な意
※ 然有昆仲騒士(注1)不集録者、索居竄栖(注2)為難通信。
→ 然(しかれ)ども 昆仲(こんちゅう)の騒士(そうし) 集録(しゅうろく)せざる者有(ある)は、索居(さっきょ)竄栖(ざんせい) 信を通じ難き為なり
【意】だが、兄弟の様な俳友で(『猿蓑』に)集録されていない者がいるのは、其の者は山居等に隠棲していて音信不通の為である
(注1)昆仲騒士:「昆=長兄」「仲=次兄」‥兄弟の様な同門の俳友
(注2)索居竄栖:「索居=家族から離れて住むこと」「竄(ざん)=隠れ逃れること」「栖=住む」‥家族から離れて隠栖(いんせい)すること
※ 且有旄倪(注1)婦人不琢磨(注2)者、鹿言細語(注3)為レ喜レ同レ志。
→ 且つ旄倪(ぼうげい)婦人の琢磨せざる者有(ある)は、麤(←鹿が3つ)言(そげん)細語(さいご) 志(こころざし)を同(どう)することを喜(き)するが為なり
【意】且つ老若男女で日々俳句の研鑽に努めるものの中々向上しない者がいるのは、使われる言葉が粗雑・些細であっても皆同様に喜んで仕舞うからだ
(注1) 旄倪(ぼうげい):老人や小児
(注2)琢磨:学問・技芸に励み、其の向上に努めること
(注3)麤言細語(そげんさいご):「麤言(そげん)=粗雑な言葉 / 荒々しい物言い」「細語(さいご)=些細な言葉」
※ 雖レ無至其域何棄其人乎哉。
→ 其の域に至らざると雖(いへども) 何(なん)ぞ其(その)人を棄(すて)んや
【意】(旄倪婦人の不琢磨者の)彼等は未だ俳諧に達するに至っていないが、どうして其の人達を見捨てることがあろうか?
※ 果分四序作六巻。
→ 果(はた)して分四序(しじょ)を分(わけ)六巻を作る
【意】(=『猿蓑』集に載せる句を)撰び終えた時、春夏秋冬の四季に分けて、連句集と「幻住庵記」と共に六巻とした
※ 故不レ遑廣捜他家文林也。
→ 故(ゆえ)に他家の文林を廣く捜(さう)するに遑(いとま(=暇))あらず也(なり)
【意】(『猿蓑』集に載せる句の選定に時間がかかって仕舞ったので)、蕉門以外の俳人の作品を広く捜す暇(ひま)がなかった
※ 維時元禄四稔辛未仲夏、余掛錫(注1)於洛陽旅亭、偶會兆来吟席。
→ 維(これ)時(とき)に元禄四稔(=年)辛未(かのとひつじ=しんび(1691年))仲夏(陰暦五月)、余 錫(すず)を洛陽の旅亭に掛(かけ)て於(お)く、偶(たまたま)兆来の吟席に会す
【意】(『猿蓑』集の選定を終え、此の「跋」を起草したのは、)時に元禄4年「辛未」の年の仲夏(陰暦5月)、私は京都の旅宿に一時宿をとり、偶々野沢凡兆主催の吟席に参加した
(注1)錫(しゃく):「錫杖(しゃくじょう)」のこと / 錫杖とは、遊行僧が携帯する道具(比丘(びく=男性の修行者)十八物)の一つである杖
※ 見需記此古事題書尾、卒援毫不揣拙。
→ 書尾に此の古事を記して題せんことを需(もと)め見て、卒(にはか)に毫(ごう)を援(と)りて拙(せつ)を揣(は)からず
【意】本書(『猿蓑』集全六巻)の末尾に古事を記して題を付けようと色々捜してみたが、そそくさと筆をとって(此の)拙文を起草した
※ 庶幾一蓑高張有補干詞海漁人云。
→ 庶幾(こひねがは)くは一蓑(いっさい)高張(たかばり)て 干詞海(しかい)の漁人(ぎょじん)に補(ほ)あらんと云ふ
【意】願わくは、『猿蓑』の俳風を高らかに掲げて、本集が世の俳人達の助けになればと思う
(注1)一蓑高張:「一網」と言うべき処を「猿蓑」の題に絡めて「一蓑(いっさい)」と表現した /
「『猿蓑』の俳風を高らかに掲げて」の意
風狂野衲(注1) 丈 艸(注2) 漢 書
正 竹 書 之(注4)
京寺町二条上ル丁 井筒屋庄兵衛板
(注1)野納(やなふ(やのう)・やだふ(やどう)):僧侶の謙称
(注2)内藤丈草(ないとう じょうそう(1662-1704):尾張国犬山藩士 / 尾張藩御付家老成瀬家家臣 内藤源左衛門の長子 /
1688(元禄元)年 病弱の為27歳で異母弟に家督を譲り致仕し、上洛し出家 /
1689(同02)年 松尾芭蕉の門人となる / 蕉門十哲の一人 / 名:本常、通称:林右衛門、俳号:仏幻庵・懶窩等 /
1691(同04)年 04月25日 丈艸は中村史邦(注2)と共に落柿舎滞在中の芭蕉を訪ねている
同年 07月03日『猿蓑』(向井去来・野沢凡兆共編)刊行 / 丈艸が「跋」を起草 /
1693(同06)年 近江国膳所の義仲寺無名庵に移り住む
1696(同09)年 義仲寺近くの龍ヶ岡に庵「仏幻庵」を結ぶ
内藤上艸を松尾芭蕉に紹介した人物
(注4)正竹書之:書家「北向雲竹(きたむき うんちく)」門人 /『猿蓑』本文及び跋文の版下筆者
【小生comment】
今回で『猿蓑』も終了した。長期間、お付き合い頂きありがとうございました。
■続いての話題である。
02月02日(土)と03日(日)はいずれも予定が入ってなかったので、急遽新城市内史跡巡りをすることを思い立った
『甘泉寺』→『古宮城址』→『亀山城址』→『石橋城址』→『長篠城址・史跡保存館』→『長篠城址』遠望→『鳥居強右衛門磔地』→『新城城跡』→『野田城跡』を巡って来た。
05時10分 起床→腹筋台での腹筋2,000回
06時00分 Bedに座っての 2.5kgの木刀を使用した素振り1時間
08時30分 拙宅発→一般道39㎞ 所要時間 1時間05分
09時35分 甘泉寺着
[01]旧作手町「歴史の小径 同中案内図」横にて
09時56分 甘泉寺発→一般道 1.5km 5分→
10時01分 古宮城址着
[09]古宮城址 解説板横にて1
10時10分 古宮城址発→一般道1.5km 5分→
[14]途上で見つけた「亀山城址」案内看板
10時30分 亀山城址着
【東三河の戦国時代】
1477(文明09)年 守護家亜流 一色刑部時家(一色城/豊川市)が家臣 波多野全慶に討たれる。
1493(明応02)年 瀬木城(豊川市)に拠点を置く牧野古白が灰の原の戦で全慶を討ち取った。
文明年間 渥美半島を掌握し三河湾の制海権を掌握する戸田宗光が、朝倉川(豊橋市)に臨む二連木城を築城、牧野古白に対峙した。
奥平氏は、設楽氏、富永氏の遅れて14世紀末、上野国(現・群馬県)奥平郷から作手に進出し、当初『川尻城』を築城後、8箇月程で『亀山城』を築城。
菅沼氏は、美濃国(現・岐阜県)土岐氏庶流で、奥平氏にやゝ遅れて作手に進出。
15世紀半ば、菅沼定成の弟 満成は長篠菅沼氏の祖となり、定成の子 定信は1470(文明02)年『田峯城』を築城して拠点とした。
又、富永氏が途絶える折り、菅沼氏一族が野田菅沼となった。
拠って、「作手・奥平氏」「田峯・菅沼氏」「長篠・菅沼氏」を『山家三方衆』と呼ぶ。
[15]亀山城址にて1
10時45分 亀山城址発→一般道(国道301号線) 900m 3分→
10時48分 道の駅 つくで手作り村 駐車場着
[25]臨済宗 慈昌禅刹 慈昌院 =「石橋城址」前にて
11時07分 道の駅 つくで手作り村 駐車場発→一般道 24km 36分 →
11時44分 長篠城址・史跡保存館着
[27]史跡保存館前にて1
【長篠城築城と変遷】
1508(永正05)年 今川氏に帰属していた長篠・菅沼氏の祖満成の子 元成が長篠に進出、長篠城を築城。
今川義元が桶狭間の戦で亡くなると、長篠城は松平(徳川)家康に帰属。
1571(元亀02)年 武田方の秋山信友等の攻勢に抗し切れなかった長篠城の菅沼正貞は武田方に帰属。
田峯・菅沼、作手・奥平氏、も武田の軍門に下った。
1573(天正元)年 野田城で武田信玄が倒れたことを知った家康は攻勢に転じ、同年8月 長篠城を手中に収めた。
家康は、長篠・菅沼氏を追放し、家康に靡いた 作手・奥平貞能を浜松城の直参とし、貞能の子 貞昌(のち信昌)を長篠城主とした。
1576(天正04)年 家康の命を受けた奥平信昌(1555-1615)は、郷ヶ原(現・新城市)に築城した。
同年 信昌は、予てからの約束通り、家康の長女 亀姫(1560-1625)を正室とし、徳川御家門に列した。
二人は四男一女を設けた。
1590(天正18)年 信昌は、家康の竿灯移封に従い、上野国宮崎(現・富岡市)3万石へ。
1600(慶長05)年 新設の京都所司代に就任。
1601(慶長06)年 美濃国加納(現・岐阜市)10万石。
12時28分 写真[37][38][39]撮影地点到着
12時31分 鳥居強右衛門磔地 着
[37]寒狭川(現・豊川(左))と宇連川(右)の合流地点から長篠城址遠望1
12時36分 鳥居強右衛門磔地 発→一般道 7km→
12時56分 新城城跡(現・新城小学校)着
[42]JR飯田線 鳥居 駅を出たばかりの 本長篠 ゆき
13時05分 新城城跡発→一般道 4km →
13時15分 野田城跡着
[46]野田城跡 案内看板にて
13時37分 野田城跡発→一般道18km→
14時00分 帰宅 総走行距離 102km〔了〕
【後記】今日はお別れに、Facebookのお友達が写真をupした2つの話題を見て拙句を詠んだのでご紹介してお別れする。
1つ目が、綺麗な水仙花の写真をupしたのを見て浮かんだ拙句。
2つ目が、02月11日 八町三丁目にある安久美神戸神明社にて催された「豊橋鬼祭り」に因んんで詠んだ拙句。
ご笑覧下さい。
【前書】白さの際立つ水仙花を見ると凛とした「清らかさ」と花言葉のひとつ「神秘」が浮かぶ
今年の「鬼祭り」は雪が降りそうで降らなかった。
【前書】鬼祭りが終わるとご当地豊橋にも待ち遠しい春が遣って来る
穂の国に 春を誘(いざな)ふ 鬼祭り 悟空
[55]2019年01月23日に東京出張した際、豊橋駅構内で撮影した 鬼祭りの赤鬼
では、また‥〔了〕
→ 猿蓑は芭蕉翁 滑稽の首響(しゅきょう)也(なり)
【意】猿蓑は、芭蕉翁の首響、即ち蕉風俳諧の真髄を成す調べそのものである
※ 非レ比彼山寺偸レ衣朝市頂レ冠笑。
→ 彼(か)の山寺に衣を偸(ぬす)み、朝市に冠を須(すべから)く笑ふに比するに非(あら)ず
【意】猿蓑の巻頭の「猿も小蓑を‥」の句は、「山寺‥朝市‥」の類の笑話に比べる低次元なものではない
※ 只任心感レ物冩興而已矣。
→ 只(ただ)心の物に感じ興を写すに任ずるのみ
【意】(『猿蓑』に収録された諸々の句は)ただ只管(ひたすら)物を見て心に感じたことを素直に表現し作られた作品ばかりだ
※ 洛下逸人凡兆・去来随レ翁遊學。
→ 洛下の逸人 凡兆・去来 翁に随ひて遊学す
【意】京都の風雅隠逸の人である野沢凡兆や向井去来も芭蕉翁の下で風趣を学んだ
※ 楳館竹窓躐等凌レ節、斯有レ歳。
→ 楳(=梅)館(ばいかん)竹窓(ちくそう) 等を躐(こ)へ節を凌(しの)ぐ、斯(ここ)に歳(とし)有り
【意】庭に梅が咲き窓からは竹が見える(芭蕉翁の居られる)庵では、等級を飛び越え、破格に修行上達することが長年に及んだ
※ 屬撰此集玩弄無レ已。
→ 屬(=このころ) 此の集を撰びて玩弄(がんろう)已(や)むこと無し
【意】其の頃は、此の『猿蓑』集へ載せる秀句の選定に真剣で、其の作業は中々終わることを知らなかった
(注1)玩弄無已:「珍重シテ朝ニ読み暮ニ誦シテ塾習スルト云義也」(猿蓑さがし)
※ 自謂絶超狐腋白裘者也。
→ 自謂(おもへ)らく 超(ちょう)する狐腋(こえき)の白裘(はくきゅう)に絶(た)つ者(もの)也(なりと)
【意】思うに、(此れ等の秀句は)珍重されている高級な狐白裘(注1)の様に優れていると
(注1)狐腋白裘:狐の腋(わき)の下の柔らかい白毛で作った皮裘(ころも)/狐白裘(こはくきゅう)/珍重されているという意
※ 於レ是四方唫友憧々往来、或千里寄レ書、々中皆有佳句。
→ 是(これ)に四方(よも)の唫友(ぎんゆう)憧々(どうどう)として往来(おうらい)し、或(あるいは)千里に書を寄(よせ)て、書中皆(みな)佳句あり
【意】此処(芭蕉の庵)には、全国の俳人たちが立ち寄ったり、或いは手紙に皆佳い俳句を載せて寄こしたりした
(注1)唫友(ぎんゆう):吟友/俳人の友人
※ 日蘊月隆(注1)各程(注2)文章。
→ 日(ひ)に蘊(あつま)り月に隆(さかん)にして各(おのおの)文章を程(しなじな)にす
【意】毎日毎月 俳人たちが集まり、各人の俳句を様々に批評し合ったりする
(注1)日蘊月隆:「蘊=聚(あつまる)」「隆=盛(さかん)」の意
(注2)程:程=品 / 句文の文飾(あやかざ)りの様々な意
※ 然有昆仲騒士(注1)不集録者、索居竄栖(注2)為難通信。
→ 然(しかれ)ども 昆仲(こんちゅう)の騒士(そうし) 集録(しゅうろく)せざる者有(ある)は、索居(さっきょ)竄栖(ざんせい) 信を通じ難き為なり
【意】だが、兄弟の様な俳友で(『猿蓑』に)集録されていない者がいるのは、其の者は山居等に隠棲していて音信不通の為である
(注1)昆仲騒士:「昆=長兄」「仲=次兄」‥兄弟の様な同門の俳友
(注2)索居竄栖:「索居=家族から離れて住むこと」「竄(ざん)=隠れ逃れること」「栖=住む」‥家族から離れて隠栖(いんせい)すること
※ 且有旄倪(注1)婦人不琢磨(注2)者、鹿言細語(注3)為レ喜レ同レ志。
→ 且つ旄倪(ぼうげい)婦人の琢磨せざる者有(ある)は、麤(←鹿が3つ)言(そげん)細語(さいご) 志(こころざし)を同(どう)することを喜(き)するが為なり
【意】且つ老若男女で日々俳句の研鑽に努めるものの中々向上しない者がいるのは、使われる言葉が粗雑・些細であっても皆同様に喜んで仕舞うからだ
(注1) 旄倪(ぼうげい):老人や小児
(注2)琢磨:学問・技芸に励み、其の向上に努めること
(注3)麤言細語(そげんさいご):「麤言(そげん)=粗雑な言葉 / 荒々しい物言い」「細語(さいご)=些細な言葉」
※ 雖レ無至其域何棄其人乎哉。
→ 其の域に至らざると雖(いへども) 何(なん)ぞ其(その)人を棄(すて)んや
【意】(旄倪婦人の不琢磨者の)彼等は未だ俳諧に達するに至っていないが、どうして其の人達を見捨てることがあろうか?
※ 果分四序作六巻。
→ 果(はた)して分四序(しじょ)を分(わけ)六巻を作る
【意】(=『猿蓑』集に載せる句を)撰び終えた時、春夏秋冬の四季に分けて、連句集と「幻住庵記」と共に六巻とした
※ 故不レ遑廣捜他家文林也。
→ 故(ゆえ)に他家の文林を廣く捜(さう)するに遑(いとま(=暇))あらず也(なり)
【意】(『猿蓑』集に載せる句の選定に時間がかかって仕舞ったので)、蕉門以外の俳人の作品を広く捜す暇(ひま)がなかった
※ 維時元禄四稔辛未仲夏、余掛錫(注1)於洛陽旅亭、偶會兆来吟席。
→ 維(これ)時(とき)に元禄四稔(=年)辛未(かのとひつじ=しんび(1691年))仲夏(陰暦五月)、余 錫(すず)を洛陽の旅亭に掛(かけ)て於(お)く、偶(たまたま)兆来の吟席に会す
【意】(『猿蓑』集の選定を終え、此の「跋」を起草したのは、)時に元禄4年「辛未」の年の仲夏(陰暦5月)、私は京都の旅宿に一時宿をとり、偶々野沢凡兆主催の吟席に参加した
(注1)錫(しゃく):「錫杖(しゃくじょう)」のこと / 錫杖とは、遊行僧が携帯する道具(比丘(びく=男性の修行者)十八物)の一つである杖
※ 見需記此古事題書尾、卒援毫不揣拙。
→ 書尾に此の古事を記して題せんことを需(もと)め見て、卒(にはか)に毫(ごう)を援(と)りて拙(せつ)を揣(は)からず
【意】本書(『猿蓑』集全六巻)の末尾に古事を記して題を付けようと色々捜してみたが、そそくさと筆をとって(此の)拙文を起草した
※ 庶幾一蓑高張有補干詞海漁人云。
→ 庶幾(こひねがは)くは一蓑(いっさい)高張(たかばり)て 干詞海(しかい)の漁人(ぎょじん)に補(ほ)あらんと云ふ
【意】願わくは、『猿蓑』の俳風を高らかに掲げて、本集が世の俳人達の助けになればと思う
(注1)一蓑高張:「一網」と言うべき処を「猿蓑」の題に絡めて「一蓑(いっさい)」と表現した /
「『猿蓑』の俳風を高らかに掲げて」の意
風狂野衲(注1) 丈 艸(注2) 漢 書
正 竹 書 之(注4)
京寺町二条上ル丁 井筒屋庄兵衛板
(注1)野納(やなふ(やのう)・やだふ(やどう)):僧侶の謙称
(注2)内藤丈草(ないとう じょうそう(1662-1704):尾張国犬山藩士 / 尾張藩御付家老成瀬家家臣 内藤源左衛門の長子 /
1688(元禄元)年 病弱の為27歳で異母弟に家督を譲り致仕し、上洛し出家 /
1689(同02)年 松尾芭蕉の門人となる / 蕉門十哲の一人 / 名:本常、通称:林右衛門、俳号:仏幻庵・懶窩等 /
1691(同04)年 04月25日 丈艸は中村史邦(注2)と共に落柿舎滞在中の芭蕉を訪ねている
同年 07月03日『猿蓑』(向井去来・野沢凡兆共編)刊行 / 丈艸が「跋」を起草 /
1693(同06)年 近江国膳所の義仲寺無名庵に移り住む
1696(同09)年 義仲寺近くの龍ヶ岡に庵「仏幻庵」を結ぶ
(注3)中村史邦(なかむら
ふみくに(生没年不詳)):中村荒右衛門 /
尾張徳川家寺尾土佐守直竜の侍医 / 後、京都で仙洞御所に仕えた内藤上艸を松尾芭蕉に紹介した人物
(注4)正竹書之:書家「北向雲竹(きたむき うんちく)」門人 /『猿蓑』本文及び跋文の版下筆者
【小生comment】
今回で『猿蓑』も終了した。長期間、お付き合い頂きありがとうございました。
■続いての話題である。
02月02日(土)と03日(日)はいずれも予定が入ってなかったので、急遽新城市内史跡巡りをすることを思い立った
『甘泉寺』→『古宮城址』→『亀山城址』→『石橋城址』→『長篠城址・史跡保存館』→『長篠城址』遠望→『鳥居強右衛門磔地』→『新城城跡』→『野田城跡』を巡って来た。
05時10分 起床→腹筋台での腹筋2,000回
06時00分 Bedに座っての 2.5kgの木刀を使用した素振り1時間
08時30分 拙宅発→一般道39㎞ 所要時間 1時間05分
09時35分 甘泉寺着
[01]旧作手町「歴史の小径 同中案内図」横にて
[02]甘泉寺 本堂前にて
[03]同上 本堂
[04]国指定天然記念物「コウヤマキ」
[05]同上 解説板横にて
[06]鳥居強右衛門商之墓所にて
[07]翔龍山 甘泉寺 解説板横にて
[08]甘泉寺 山門
10時01分 古宮城址着
[09]古宮城址 解説板横にて1
[10]同上2
[11]同上 解説板
[12]古宮城址跡に建つ 村社 白鳥神社 鳥居
[13]同上 本殿前にて
10時10分 古宮城址発→一般道1.5km 5分→
[14]途上で見つけた「亀山城址」案内看板
【東三河の戦国時代】
1477(文明09)年 守護家亜流 一色刑部時家(一色城/豊川市)が家臣 波多野全慶に討たれる。
1493(明応02)年 瀬木城(豊川市)に拠点を置く牧野古白が灰の原の戦で全慶を討ち取った。
文明年間 渥美半島を掌握し三河湾の制海権を掌握する戸田宗光が、朝倉川(豊橋市)に臨む二連木城を築城、牧野古白に対峙した。
【山家三方衆】
奥三河では、地方豪族として、「作手『亀山城』の奥平氏」「設楽田峯の菅沼氏」「新城『川路城』の設楽氏」、その他富永氏等が居た。奥平氏は、設楽氏、富永氏の遅れて14世紀末、上野国(現・群馬県)奥平郷から作手に進出し、当初『川尻城』を築城後、8箇月程で『亀山城』を築城。
菅沼氏は、美濃国(現・岐阜県)土岐氏庶流で、奥平氏にやゝ遅れて作手に進出。
15世紀半ば、菅沼定成の弟 満成は長篠菅沼氏の祖となり、定成の子 定信は1470(文明02)年『田峯城』を築城して拠点とした。
又、富永氏が途絶える折り、菅沼氏一族が野田菅沼となった。
拠って、「作手・奥平氏」「田峯・菅沼氏」「長篠・菅沼氏」を『山家三方衆』と呼ぶ。
[15]亀山城址にて1
[16]同上2
[17]同上3
[18]亀山城 由来記
[19]「亀山城址の図」横にて
[20]大きな亀山城址 看板
[21]新城市作手清岳邑遠望1
[22]同上2
[23]同上3〔写真ほぼ中央のレンガ色の建物は 巴小学校〕
[24]同上4
10時48分 道の駅 つくで手作り村 駐車場着
国道301号線を隔てて西側に 臨済宗 慈昌禅刹 慈昌院 があるが、此処が「石橋城址」
[25]臨済宗 慈昌禅刹 慈昌院 =「石橋城址」前にて
[26]同所「石橋城址」碑
11時44分 長篠城址・史跡保存館着
[27]史跡保存館前にて1
[28]同上2
[29]長篠戦図横にて
[30]同上 拡大図
[31]史跡保存館内入口に掲示されている「長篠合戦当時の将士年齢」
[32]同上 拡大図〔赤枠内は、小生のご先祖に当たる方と思しき 今泉重俊(22歳)〕
今泉重俊は 奥平貞昌(→信昌(1555-1615(21歳)))配下として共に長篠城に籠城
[33]長篠城本丸の土居と堀
「堀」の土を掻き揚げて「土居」にした
此の土居と堀は、1575(天正03)年 長篠の戦の時の姿を今に残している
[34]同上 前にて1
[35]同上2
[36]長篠城縄張概図
【長篠城築城と変遷】
今川義元が桶狭間の戦で亡くなると、長篠城は松平(徳川)家康に帰属。
1571(元亀02)年 武田方の秋山信友等の攻勢に抗し切れなかった長篠城の菅沼正貞は武田方に帰属。
田峯・菅沼、作手・奥平氏、も武田の軍門に下った。
1573(天正元)年 野田城で武田信玄が倒れたことを知った家康は攻勢に転じ、同年8月 長篠城を手中に収めた。
家康は、長篠・菅沼氏を追放し、家康に靡いた 作手・奥平貞能を浜松城の直参とし、貞能の子 貞昌(のち信昌)を長篠城主とした。
【奥平氏のその後】
1575(天正03)年 長篠の合戦で 鳥居強右衛門(1540-1575)が活躍して磔刑に処せられた地と戦後、織田信長に拠って葬られた「甘泉寺」は今日いずれも訪れた。1576(天正04)年 家康の命を受けた奥平信昌(1555-1615)は、郷ヶ原(現・新城市)に築城した。
同年 信昌は、予てからの約束通り、家康の長女 亀姫(1560-1625)を正室とし、徳川御家門に列した。
二人は四男一女を設けた。
1590(天正18)年 信昌は、家康の竿灯移封に従い、上野国宮崎(現・富岡市)3万石へ。
1600(慶長05)年 新設の京都所司代に就任。
1601(慶長06)年 美濃国加納(現・岐阜市)10万石。
奥平氏本家は、その後、山形藩等を経て、1717(京保)年 豊前国中津藩10万石(←福沢諭吉の主家)へ移封、爾来、明治維新迄存続した。
12時28分 写真[37][38][39]撮影地点到着
12時31分 鳥居強右衛門磔地 着
[37]寒狭川(現・豊川(左))と宇連川(右)の合流地点から長篠城址遠望1
[38]同上2
[39]同上3
[40]鳥居強右衛門磔地 案内看板横にて
[41]同上 石碑にて
12時56分 新城城跡(現・新城小学校)着
[42]JR飯田線 鳥居 駅を出たばかりの 本長篠 ゆき
[43]新城城跡 城門
[44]同上にて1
[45]同上2
13時05分 新城城跡発→一般道 4km →
[46]野田城跡 案内看板にて
[47]野田城跡 二の丸跡
[48]伊那街道 案内看板
[49]野田城址 石碑にて1
[50]同上2
[51]同上3
[52]野田城内の井戸1
[53]同上2
14時00分 帰宅 総走行距離 102km〔了〕
【後記】今日はお別れに、Facebookのお友達が写真をupした2つの話題を見て拙句を詠んだのでご紹介してお別れする。
1つ目が、綺麗な水仙花の写真をupしたのを見て浮かんだ拙句。
2つ目が、02月11日 八町三丁目にある安久美神戸神明社にて催された「豊橋鬼祭り」に因んんで詠んだ拙句。
ご笑覧下さい。
【前書】白さの際立つ水仙花を見ると凛とした「清らかさ」と花言葉のひとつ「神秘」が浮かぶ
水仙や 君への愛の 深遠さ 悟空
[54]上記拙句を詠んだ時upした水仙花の一輪挿しの写真
[54]上記拙句を詠んだ時upした水仙花の一輪挿しの写真
【前書】鬼祭りが終わるとご当地豊橋にも待ち遠しい春が遣って来る
穂の国に 春を誘(いざな)ふ 鬼祭り 悟空
[55]2019年01月23日に東京出張した際、豊橋駅構内で撮影した 鬼祭りの赤鬼
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