さて、今日も【時習26回3-7の会 0742】号をお届けします。
今日最初にお届けするのは、『猿蓑』〔巻之六〕「幻住庵記(げんじゅうあんのき)」の末尾近くに「几右日記」と題され掲載されている発句全35句のうちの第26句~30句をご紹介する。
几右日記
26 木履(ぼくり)(注1)ぬぐ傍(そば・わき)に生(おひ)けり蓼(たで)の花(注2) 木節(注3)
【意】下駄を脱ぐ台のすぐ傍に蓼の草が生えている / もう秋だなぁ【解説】
(注1)木履(ぼくり):は足駄のこと
(注2)蓼(たで)の花:特有の香りと辛味を持ち、香辛料として薬味や刺身のつまなどに用いられる /
季語:「蓼の花」=「初秋」
[01]イヌタデ
[02]大毛蓼(オオケタデ)
[03]ベニタデの葉(‥刺身等のツマ‥)
(注3)木節:望月木節((もちづき
ぼくせつ)生没年不詳) / 蕉門 /
近江国大津の医師・俳人 / 師の臨終の床に呼ばれ看護 / 編著:『八幡奉納集』(1704年刊)等包紙に書
27 縫(ぬひ)にこす薬袋(くすりぶくろ)(注1)や萩(はぎ)の露(つゆ) 膳所扇(注2)
【意】薬袋を縫っていると、家の周りはもう萩の花が咲き秋を告げている【解説】「此句は膳所の扇女に薬袋を縫に遣りたるその包紙に書付て、翁のもとへおこせし也。萩の露と置たる所、時候機嫌の場也」(猿蓑さがし)
(注1)薬袋:薬を煎じるのに用いる小さい布袋
(注2) 作者の 膳所 扇(せん)は膳所の女性 / 詳細不明
28 稲(いね)の花これを佛(ほとけ)の土産(みやげ)哉(かな) 智月(注1)
【意】秋の到来と共に稲の花が咲いた / 小さな花ですが、此れ仏前に供えよう【解説】幻住庵を訪ねる道すがらの田圃の見て詠んだ句か‥
(注1)智月:(1633?-1718)/蕉門きっての女流俳人/山城国宇佐に生まれ/近江国大津の伝馬役兼問屋河合佐右衛門の妻/
夫亡き後尼僧になり、彼女の実弟で俳人の乙州(おとくに)を河合家養嗣子とする/
1689(元禄02)年以降、芭蕉との親交が深まり、『幻住庵記』を遺贈された/
29 石山や行(い)かで果(はた)せし秋の風 羽紅(注1)
【意】幻住庵の芭蕉翁を訪ねようとずっと思っていたが、翁が出庵して仕舞いそれも果たせない儘、秋になって仕舞った
【解説】「石山」は現住庵を指す / 芭蕉出庵後の作を此処に追記したものと思われる
(注1)羽紅(はこう):生没年不詳だが、1722(享保07)年迄は生存が確認されている / 女流俳人 /
野沢凡兆の妻 / 名は「とめ」/ 1691(元禄04)年春に剃髪、羽紅と号す /
1689(元禄02)年 夫 凡兆と共に『曠野』に初入集 / 在京中の松尾芭蕉に親炙 /『猿蓑』に13句入集 /
30 桶(おけ)の輪(わ)やきれて鳴(なき)やむきりぎりす 昌房(注1)
【意】桶の輪がはじけて切れた音に驚いたコオロキの鳴き声が止んだ【解説】―
(注1)昌房:元禄2年入門の膳所蕉門の一人 / 通称:茶屋与次兵衛
【小生comment】
次回は、「几右日記」と題された発句全35句のうちの最終回、第31句~35句をご紹介する。お楽しみに!
■続いての話題である。
01月26日は、09時00分に浜松駅南口にある補聴器取扱店に行くことになったので、ついでに浜松市内の史跡を巡って来た。
同店へは、補聴器の maintenance と電池購入の為に3箇月毎通っている。
08時00分 拙宅発→一般道39㎞ 1時間→
09時00分 補聴器取扱店
09時25分 同店発→一般道2㎞ 07分→09時00分 補聴器取扱店
09時40分 浜松八幡宮着
【浜松八幡神宮】
浜松八幡宮の御祭神は、品陀和気命(ほむだわけのみこと=応神天皇)と息長足姫命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)、玉依比売命(たまよりひめのみこと)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)の5柱。
1051(永承06)年 源義家(1039?-1106)が陸奥国へ出陣の際、当神宮に立ち寄り武運を祈って「契あれば 帰り来るまで 石清水 かけてぞ いはふ 浜松の里」と詠進、武運を祈って社前の楠の下に旗を立てたと伝わる。
此の楠を「御旗楠」と呼び、現存する『雲立(くもだち)の楠(くす)』の起源とされる〔←此の話は以下の通り‥〕。
更に1572(元亀03)年12月 三方原合戦に敗れた徳川家康は、天林寺入った。
同寺の義俊和尚が案内して当八幡宮に逃れ、義家所縁の「楠」の洞穴に潜み、武田勢の追手を逃れて武運を祈願した。
其の時、楠の上に瑞雲立ち昇り、神霊が白馬に跨り浜松城方面へ飛び立ったという瑞兆に拠る。
[05]同神宮 由緒碑前にて
[06]同 本殿前にて
[07]同『雲立楠』の前にて1
[08]同上2
[09]同上3
[10]同上4
[11]浜松稲荷神社鳥居
[12]浜松稲荷神社にて1
[13]同上2
10時05分 浜松八幡神宮発→一般道 20km 38分←
10時44分 浜松市秋野不矩美術館駐車場着
【浜松市秋野不矩美術館『平成39年度所蔵品展 第4回 秋野不矩 美の殿堂lV~制作の現場から・人々と神々の営み~』展】
丁度いま当美術館の作品のかなりの点数が、田辺市美術館に貸し出されている。
其の代わり、田辺市美術館所蔵品の幾つかが当美術館に展示されていた。
村上華岳『観世音菩薩』と入江波光『杏咲く頃』の2点が夫れである。
[14]浜松市秋野不矩美術館 案内看板前にて
[15]同美術館前にて1
[16]同上2
[17]同上3
[18]同上4
[19]秋野不矩『童女』1946年
[20]同『行者シヴァ』1978年
[21]同『女神ヤクシニ―』1980年
[22]村上華岳(1888-1939)『観世音菩薩』1926年
[23]入江波光(1887-1948)『杏咲く頃』1926年
11時10分 浜松市秋野不矩美術館発→一般道21㎞ 50分→
12時00分 奥山方広寺着
後醍醐天皇の皇子 無文元選禅師に拠って開創された禅寺で深奥山方広萬寿禅寺と称す。
無文禅師が修行した中国からの帰国の際、海上で難破の危機に遭遇、半僧坊権現の力に拠って海難を免れたという故事に因む。
当寺は、厄除・商売繁盛等の諸願成就の祈願所として全国から多くの参詣者を集めている。
[25]同 本堂前にて1
[26]同上2
[27]本堂にて
[28]本尊【重文】釈迦三尊像〔本寺leafletより〕
【小生comment】
小生、二日目は早朝 帰途に就いたので此の Tour には参加しなかったが‥。
12時55分 方広寺発→一般道 7km 15分→
13時10分 龍潭寺着
【臨済宗妙心寺派 萬松山 龍潭寺】
733(天平05)年 行基菩薩に拠り開創され、室町時代、黙宗瑞淵禅師が開山。
当寺は、井伊家の菩提寺で、第24代井伊直政(1561-1602)は、徳川家康に仕え、徳川譜代筆頭として井伊家の再興を果たした。
大河ドラマで一躍有名になった井伊家第22代当主井伊直盛の一人娘が井伊直虎である。
又、当寺は後醍醐天皇の皇子 宗良親王の菩提寺でもある。
[30]萬松山龍潭寺 由緒
[31]同 本堂にて
[32]同 開山堂
[33]同 庭園をbackに1
[34]同 庭園1
[35]同上2
[36]同上3
[37]同 庭園をbackに2
[38]此の日頂戴した「御朱印」:龍潭寺(左)&方広寺(右)
13時45分 龍潭寺発→一般道3.5km 10分
【気賀関所】
以下に、「気賀関所」解説板から転記する。
「江戸時代、細江町を東西に横切っていた街道を、東海道本坂越(ほんざかごえ)、又は本坂道(みち)、本坂街道、姫街道などと呼んでいた。
姫街道の要衝地であった気賀上村に、徳川家康は早くから関所を設けて、「入り鉄砲に出女」の監視を中心に、通行する人々や荷物の取り調べを行った。
気賀関所は、箱根、今切(新居)と共に、東海道の三関所と言われ、明治02年迄続いた。
1989(平成元)年 ふるさと創生事業として、現存する資料を調査。
1789(寛政元)年 初めて瓦葺に改築された気賀関所を姫街道にあった関所から200m程南の現所在地に再現。
冠木(かぶき)門・本番所・向番所・遠見番所・制札場・雪隠(せっちん)・三ッ道具立、槍立、矢来などがある。」
【小生comment】
小生、関所内に居たVolunteerの女性の方から丁寧な解説を伺った。結構勉強になった。[39]気賀関所 冠木門前にて1
[40]同上2
[41]同 本番所内部
[42]同 本番所前にて
[43]同 本番所「上の間」前にて1
[44]同上2
[45]同上3
[46]気賀関所 資料館内部にて
[47]御守〔龍潭寺(左)・方広寺(中)・浜松八幡宮(右)〕
[48]同上〔龍潭寺(心願成就)(左)・方広寺(勝)(中)・浜松八幡宮(勝守)(右)〕
【小生comment】
今年は、例年以上に良い年であります様に!〔了〕
【後記】01月30日、名古屋・金山駅に程近い居酒屋にて、旧行時代の「同期会・新年会」に参加した。
我々は、昭和53年入行の同期なので、「53(ごみ)の会」と名付けて、毎年2回、夏と冬に名古屋・金山にて開催している。
此の日は、総勢34人が集合した。
写真は、小生がcameramanを担当して撮影した。
楽しいひとときはあっと言う間に過ぎ去った。
[49]53の会 全体写真1
[50]同上2
[51]参加者34人一覧1
[52]同上2
健康を 友と確かむ 新年会 悟空
では、また‥〔了〕
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