さて、今日も【時習26回3-7の会 0739】号をお届けします。
今日最初にお届けするのは、『猿蓑』〔巻之六〕「幻住庵記(げんじゅうあんのき)」の末尾近くに「几右日記」と題され掲載されている発句全35句のうちの第11句~15句をご紹介する。
几右日記
11 たどたどし峯(みね)に下駄(げた)はく五月闇(さつきやみ) 探志(注1)
11 たどたどし峯(みね)に下駄(げた)はく五月闇(さつきやみ) 探志(注1)
【意】五月雨でぬかるんだ道を此の峯(=国分山)の(幻住)庵迄遣って来た
【解説】上句「たどたどし」には、雨道の中を「漸く」辿り着いたという意味と、師から俳句を「恐れ乍ら」ご教示頂く為に参上した、という意が込められている
(注1)探志:元禄(1688-1704)頃、近江国膳所の鞘師(さやし)/蕉門/作品は「ひさご」「千句づか」等にも掲載
【解説】上句「たどたどし」には、雨道の中を「漸く」辿り着いたという意味と、師から俳句を「恐れ乍ら」ご教示頂く為に参上した、という意が込められている
(注1)探志:元禄(1688-1704)頃、近江国膳所の鞘師(さやし)/蕉門/作品は「ひさご」「千句づか」等にも掲載
12 五羽(ごは)六羽(ろっぱ)庵(いほり)とりまはすかんこ鳥 元志(注1)
【意】幻住庵の屋根を取り巻く様に5~6羽の郭公が鳴いている
【解説】西行の「《詞書》山家喚子鳥(さんかノよぶこどり)/山里へ 誰(たれ)をまたこは よぶこ鳥(注2) ひとりのみにて 住まんと思ふに」(注3)(『山家集 春 49』)を踏まえている
(注1)元志:竹田弥助(1662-1740) / 江戸時代中期の俳人 / 蕉門十哲の一人 / 越前福井の商家出身 /『炭俵』の撰者の一人
(注2)よぶこ(=喚子)鳥:郭公とするのが定説
(注3)此の歌の【意】此の山里へ誰をまた呼んで来ようというのだろうか此の「喚子(よぶこ)鳥」は鳴くのだろう / 私は此の山里に独りで住もうと思っているのに‥
【意】幻住庵の屋根を取り巻く様に5~6羽の郭公が鳴いている
【解説】西行の「《詞書》山家喚子鳥(さんかノよぶこどり)/山里へ 誰(たれ)をまたこは よぶこ鳥(注2) ひとりのみにて 住まんと思ふに」(注3)(『山家集 春 49』)を踏まえている
(注1)元志:竹田弥助(1662-1740) / 江戸時代中期の俳人 / 蕉門十哲の一人 / 越前福井の商家出身 /『炭俵』の撰者の一人
(注2)よぶこ(=喚子)鳥:郭公とするのが定説
(注3)此の歌の【意】此の山里へ誰をまた呼んで来ようというのだろうか此の「喚子(よぶこ)鳥」は鳴くのだろう / 私は此の山里に独りで住もうと思っているのに‥
13 木つゝきにわたして明(あく)る水鶏(くひは)哉(かな) 膳所泥土
【意】夜中(よじゅう)水鶏がコツコツと木を叩く音がしていたが、夜明けに今度は啄木鳥がコツコツ叩いている
【解説】—
【意】夜中(よじゅう)水鶏がコツコツと木を叩く音がしていたが、夜明けに今度は啄木鳥がコツコツ叩いている
【解説】—
14 笠(かさ)あふつ(注1)柱(はしら)すヾしや風の色 史邦
【意】幻住庵の柱に掛かっているる檜笠に湖水から吹き上げてくる風が当たって実に涼しげだ
【解説】此の笠は、『幻住庵記』全36文中30番目に「木曽の檜笠(注2)、越(こし)の菅蓑(注3)計(ばかり)、枕の上の柱に懸(かけ)たり」とある「木曽の檜笠」のこと /
此の檜笠を柱に掛けてあった
(注1)あふつ:煽ること
(注2)木曽の檜笠:木曽の檜を薄く削り取り網代(あみしろ)に編んだ笠
(注3)越の菅蓑(すげみの・すがみの):越路名産の菅(すげ)製の蓑(=雨具) / 加賀国小松の蕉門 立花北枝(?-1718)が芭蕉に贈ったもの
【意】幻住庵の柱に掛かっているる檜笠に湖水から吹き上げてくる風が当たって実に涼しげだ
【解説】此の笠は、『幻住庵記』全36文中30番目に「木曽の檜笠(注2)、越(こし)の菅蓑(注3)計(ばかり)、枕の上の柱に懸(かけ)たり」とある「木曽の檜笠」のこと /
此の檜笠を柱に掛けてあった
(注1)あふつ:煽ること
(注2)木曽の檜笠:木曽の檜を薄く削り取り網代(あみしろ)に編んだ笠
(注3)越の菅蓑(すげみの・すがみの):越路名産の菅(すげ)製の蓑(=雨具) / 加賀国小松の蕉門 立花北枝(?-1718)が芭蕉に贈ったもの
15 月(つき)待(まつ)や海(注1)を尻目に夕すヾみ 正秀(注2)
【意】―
【解説】幻住庵は琵琶湖の南東にある国分山の東山麓にある / 従って、満月が出て来る処を見る為には必ず琵琶湖に尻を向けて仕舞うことになる
(注1)海:琵琶湖のこと
(注2)正秀:水田正秀(みずた まさひで(1657-1723)) / 近江蕉門の一人 / 菅沼曲水の伯父と伝えられる / 通称を利右衛門
【意】―
【解説】幻住庵は琵琶湖の南東にある国分山の東山麓にある / 従って、満月が出て来る処を見る為には必ず琵琶湖に尻を向けて仕舞うことになる
(注1)海:琵琶湖のこと
(注2)正秀:水田正秀(みずた まさひで(1657-1723)) / 近江蕉門の一人 / 菅沼曲水の伯父と伝えられる / 通称を利右衛門
【小生comment】
猿蓑に掲載されている句を詠んでいると、自分も其の句会に参加している気分になる。
そして、俳句を詠むことを通じて風流が身に付いて来る様な心地よい気分に浸ることが出来る。
次回は、発句全35句のうちの第16句~20句をご紹介する。お楽しみに!
猿蓑に掲載されている句を詠んでいると、自分も其の句会に参加している気分になる。
そして、俳句を詠むことを通じて風流が身に付いて来る様な心地よい気分に浸ることが出来る。
次回は、発句全35句のうちの第16句~20句をご紹介する。お楽しみに!
■続いての話題は、正月02日、義母を岡崎の自宅迄車で送って行った帰途、岡崎市内の史跡を、「奥殿陣屋」→「岩津天満宮」→「大平一里塚」→「西太平藩陣屋」と4つ巡って来た。
11時00分 拙宅発→一般道35㎞ 75分→
12時20分 義母宅着
13時05分 同所発→一般道14km 35分→
13時40分:奥殿陣屋着
11時00分 拙宅発→一般道35㎞ 75分→
12時20分 義母宅着
13時05分 同所発→一般道14km 35分→
13時40分:奥殿陣屋着
残念乍ら年末年始休業(2018/12/29-2019/1/3)の為奥殿陣屋には入館出来ず、入口にて記念撮影だけに止(とど)まった!
【奥殿(おくどの)陣屋】
大給(おぎゅう)松平家(注1)第5代当主真乗(1546-82)の次男真次が将軍秀忠に仕え大坂の役で戦功を上げ6千石の旗本として此の地に陣屋を構えたのが始まり。
従って、江戸時代の大名の「親藩」「譜代」「外様」の区分では、徳川家の血縁ということで「親藩」に属する。
1684(貞享元)年 真次の子乗次(1632-87)が大坂定番(じょうばん)を受任し、摂津・河内・丹波3国等で1万石を加増、奥殿藩大給松平家初代として1万6千石の大名となった
1687(貞享四)年 乗次の長男乗成(のりしげ(1658-1703))が同藩第2代藩主
1703(元禄16)年 養子乗真(のりざね(1686-1716))が同藩第3代藩主
1704(元禄17)年 乗真は摂津・河内・丹波3国の換え地として信濃国佐久郡1万2千石を領して同年から1711(宝永08)年迄信濃国佐久郡田野口に藩庁を置く
1711(正徳元)年 4月 乗真は再び藩庁を三河国・奥殿に移した
1863(文久03)年 同藩第11代藩主乗謨(注2)が信濃国・佐久郡田野口に藩庁を移転する迄続した
(注1)大給松平家:松平家第4代当主親忠(1431-1501)の次男乗元(1446-1537)を祖とする松平家庶流の親藩で、譜代大名4家を輩出
(1)三河国・西尾藩6万石(本家・乗元系)
(2)豊前国・府内藩2万2千2百石(親清系)
(3)美濃国・岩村藩2万(→3万)石(乗政系)
(4)三河国・奥殿藩1万6千石(真次系)
(注2)松平乗謨(のりたか(1839-1910)):江戸幕府の老中格、老中、若年寄
明治維新後、大給恒(おぎゅう ゆずる)と改名 / 日本赤十字社の創設者の一人として知られる
1907年 伯爵に陞爵(しょうしゃく)
【奥殿(おくどの)陣屋】
大給(おぎゅう)松平家(注1)第5代当主真乗(1546-82)の次男真次が将軍秀忠に仕え大坂の役で戦功を上げ6千石の旗本として此の地に陣屋を構えたのが始まり。
従って、江戸時代の大名の「親藩」「譜代」「外様」の区分では、徳川家の血縁ということで「親藩」に属する。
1684(貞享元)年 真次の子乗次(1632-87)が大坂定番(じょうばん)を受任し、摂津・河内・丹波3国等で1万石を加増、奥殿藩大給松平家初代として1万6千石の大名となった
1687(貞享四)年 乗次の長男乗成(のりしげ(1658-1703))が同藩第2代藩主
1703(元禄16)年 養子乗真(のりざね(1686-1716))が同藩第3代藩主
1704(元禄17)年 乗真は摂津・河内・丹波3国の換え地として信濃国佐久郡1万2千石を領して同年から1711(宝永08)年迄信濃国佐久郡田野口に藩庁を置く
1711(正徳元)年 4月 乗真は再び藩庁を三河国・奥殿に移した
1863(文久03)年 同藩第11代藩主乗謨(注2)が信濃国・佐久郡田野口に藩庁を移転する迄続した
(注1)大給松平家:松平家第4代当主親忠(1431-1501)の次男乗元(1446-1537)を祖とする松平家庶流の親藩で、譜代大名4家を輩出
(1)三河国・西尾藩6万石(本家・乗元系)
(2)豊前国・府内藩2万2千2百石(親清系)
(3)美濃国・岩村藩2万(→3万)石(乗政系)
(4)三河国・奥殿藩1万6千石(真次系)
(注2)松平乗謨(のりたか(1839-1910)):江戸幕府の老中格、老中、若年寄
明治維新後、大給恒(おぎゅう ゆずる)と改名 / 日本赤十字社の創設者の一人として知られる
1907年 伯爵に陞爵(しょうしゃく)
[01]奥殿陣屋入口
[02]同上にて
13時50分 奥殿陣屋発→一般道5km 15分→
14時05分 岩津天満宮着
[02]同上にて
13時50分 奥殿陣屋発→一般道5km 15分→
14時05分 岩津天満宮着
【岩津天満宮】
岩津天満宮(いわづてんまんぐう)は愛知県岡崎市岩津町東山にある天満宮。
岩津天神、芭蕉天満宮とも呼ばれる。主祭神は菅原道真。
神宮としての歴史は意外と浅い。
1759(宝暦09)年 岡崎市岩津町東山にある浄土宗寺院 弥勒山 信光明寺第22代住職 一誉が、伊豆国・芭蕉天神or相模国・荏柄(えがら)天神を勧請したと伝わる
1879(明治12)年 境内焼失
1911(明治44)年 本殿再建
1920(大正08)年 拝殿造営
[03]岩津天満宮本殿へ向かう石段途中にあった境内案内図
14時20分 岩津天満宮発→一般道9km 30分→
14時50分 史跡 大平一里塚着
【大平一里塚】
以下に、解説版の内容を転記す。
一里塚とは道の両脇に一理毎に塚を築き道標としたもので、制度として確立したのは、江戸幕府が慶長09(1604)年に江戸・日本橋を起点として各街道に一里塚を築造させたことに拠る。
「大平一里塚」は東海道の一里塚のうちの一つで、日本橋から80里に当たる。
東海道の一里塚は永井白元、本多光重が奉行となり、代官や領主に築造させているが、大平一里塚は領主である本多重次(注1)の子成重が築いた。
現在の「大平一里塚」は、1928(昭和03)年に道路改修の際、北側の塚は破壊され、南側だけが残ったもので、塚の大きさは高さ2.4m、底部7.3m、横8.5mで、中央には榎が植えられている。
元は榎の巨木であったが、1945(昭和20)年の台風で倒木した為に新たに植えられたものである。
この様に一里塚は根張りがよく、塚の崩落を防ぐ目的で榎が植樹されていることが多い。
‥‥昭和12年12月21日指定。
岩津天満宮(いわづてんまんぐう)は愛知県岡崎市岩津町東山にある天満宮。
岩津天神、芭蕉天満宮とも呼ばれる。主祭神は菅原道真。
神宮としての歴史は意外と浅い。
1759(宝暦09)年 岡崎市岩津町東山にある浄土宗寺院 弥勒山 信光明寺第22代住職 一誉が、伊豆国・芭蕉天神or相模国・荏柄(えがら)天神を勧請したと伝わる
1879(明治12)年 境内焼失
1911(明治44)年 本殿再建
1920(大正08)年 拝殿造営
[03]岩津天満宮本殿へ向かう石段途中にあった境内案内図
[04]同宮本殿
[05]同上前にて1
[06]同上2
14時20分 岩津天満宮発→一般道9km 30分→
14時50分 史跡 大平一里塚着
【大平一里塚】
以下に、解説版の内容を転記す。
一里塚とは道の両脇に一理毎に塚を築き道標としたもので、制度として確立したのは、江戸幕府が慶長09(1604)年に江戸・日本橋を起点として各街道に一里塚を築造させたことに拠る。
「大平一里塚」は東海道の一里塚のうちの一つで、日本橋から80里に当たる。
東海道の一里塚は永井白元、本多光重が奉行となり、代官や領主に築造させているが、大平一里塚は領主である本多重次(注1)の子成重が築いた。
現在の「大平一里塚」は、1928(昭和03)年に道路改修の際、北側の塚は破壊され、南側だけが残ったもので、塚の大きさは高さ2.4m、底部7.3m、横8.5mで、中央には榎が植えられている。
元は榎の巨木であったが、1945(昭和20)年の台風で倒木した為に新たに植えられたものである。
この様に一里塚は根張りがよく、塚の崩落を防ぐ目的で榎が植樹されていることが多い。
‥‥昭和12年12月21日指定。
(注1)本多重次(1529-96):通称の「作左(さくざ)」「作左衛門(さくざえもん)」の名で知られた戦国・安土桃山時代の徳川家康配下の武将
三河三奉行の一人として行政面に力を発揮、又、武将としても活躍、小田原征伐では北条水軍を迎撃して打ち破る等活躍
しかし、家康の関東移封後、豊臣秀吉の命を受けた家康に拠り、上総国・古井戸に3千石で蟄居を命じられた
1596(文禄05)年 死去(享年68)
彼の名が特に有名なのは、長篠合戦の際、妻に送った「日本一短い手紙」!
此の手紙「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」は、彼が彼の唯一の息子である仙千代を心配して、家の留守を守る妻にもの
「火の用心をせよ、一人息子の仙千代が病気にならないように気を付けよ、(武士にとって特に大切な)馬の世話を怠るな」と伝えたものだ
命を賭けた戦の中でも何処か微笑ましい作左衛門の愛妻への心遣いを感じさせる名文である
重次の子成重(1572-1647)が、此の手紙に出て来るお仙ことである
三河三奉行の一人として行政面に力を発揮、又、武将としても活躍、小田原征伐では北条水軍を迎撃して打ち破る等活躍
しかし、家康の関東移封後、豊臣秀吉の命を受けた家康に拠り、上総国・古井戸に3千石で蟄居を命じられた
1596(文禄05)年 死去(享年68)
彼の名が特に有名なのは、長篠合戦の際、妻に送った「日本一短い手紙」!
此の手紙「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」は、彼が彼の唯一の息子である仙千代を心配して、家の留守を守る妻にもの
「火の用心をせよ、一人息子の仙千代が病気にならないように気を付けよ、(武士にとって特に大切な)馬の世話を怠るな」と伝えたものだ
命を賭けた戦の中でも何処か微笑ましい作左衛門の愛妻への心遣いを感じさせる名文である
重次の子成重(1572-1647)が、此の手紙に出て来るお仙ことである
[07]史跡 大平一里塚 石碑にて
[08]同上解説板横にて
15時00分 大平一里塚発→一般道 100m 3分→
15時05分 西大平藩陣屋着
[08]同上解説板横にて
[09]史跡 大平一里塚 をbackに
15時00分 大平一里塚発→一般道 100m 3分→
15時05分 西大平藩陣屋着
【西大平藩陣屋】
以下に、解説版の内容を転記す。
西大平藩の成立は、大岡忠相(1677-1752)が1748(寛延元)年に奏者番(そうじゃばん)兼寺社奉行に就任して三河国宝飯・渥美・額田3郡内で4,080石を加増され1万石の譜代大名となり、西大平に陣屋を設置したことに始まる。
以下に、解説版の内容を転記す。
西大平藩の成立は、大岡忠相(1677-1752)が1748(寛延元)年に奏者番(そうじゃばん)兼寺社奉行に就任して三河国宝飯・渥美・額田3郡内で4,080石を加増され1万石の譜代大名となり、西大平に陣屋を設置したことに始まる。
1772(安永元)年以降は藩領の変動はなく、1万石の内訳は、三河国4郡内に9千石余、上総・相模の2国2郡で1千石余となり、大部分が三河国内に所在していた。
大岡忠相は、大名になってから、豊川稲荷の本尊「だ(口へんにウ冠にヒ)枳尼尊天(だきにそんてん)」を厚く信仰して、江戸赤坂の藩邸内に豊川稲荷の分霊社として赤坂稲荷を祀り、此処西大平陣屋内に大岡稲荷として社殿を建立し、「豊川だ枳尼尊天」を本尊として祀った。
現社殿は、2002(平成14)年に再建。
上述の通り、大岡忠相が西大平藩1万石の大名になったのは、亡くなる3年前で、大名在任期間は僅か3年間だけだった。
大岡忠相は、大名になってから、豊川稲荷の本尊「だ(口へんにウ冠にヒ)枳尼尊天(だきにそんてん)」を厚く信仰して、江戸赤坂の藩邸内に豊川稲荷の分霊社として赤坂稲荷を祀り、此処西大平陣屋内に大岡稲荷として社殿を建立し、「豊川だ枳尼尊天」を本尊として祀った。
現社殿は、2002(平成14)年に再建。
上述の通り、大岡忠相が西大平藩1万石の大名になったのは、亡くなる3年前で、大名在任期間は僅か3年間だけだった。
そして、彼は当該3年間奏者番兼寺社奉行という幕府の要職に就いており、定府大名として領地西大平に来ることはなかった。
15時20分 西大平陣屋発→一般道33km 55分→
16時20分 帰宅 / 走行距離計 96km〔了〕
15時20分 西大平陣屋発→一般道33km 55分→
16時20分 帰宅 / 走行距離計 96km〔了〕
[10]西大平藩陣屋跡 外観
[11]同上 入口にて1
【小生comment】
大岡越前守忠相が三河の領主だったということは比較的最近知った。
六十路になっても、いつも新しい発見がある。
無知の知ではないが、ホント、此の年になっても知らないことが多過ぎる。
■続いては、01月05日、午前中に豊川市桜ヶ丘ミュージアム、豊川稲荷(妙巌寺)、豊橋市美術博物館と巡って来た模様についてお伝えする。
08時45分 拙宅発→11㎞ 25分→
09時12分 豊川市桜ヶ丘ミュージアム着
【豊川市桜ヶ丘ミュージアム『高畑郁子展』『特別展/大岡越前守忠相と豊川展』『吉澤美香展』】
[15]豊川市桜ヶ丘ミュージアム入口にて1
《高畑郁子》展
彼女の略歴は以下の通り。
1929(昭和04)年、千葉県印旛郡に生まれた高畑郁子は、生後まもなく父を亡くし母の実家のあった豊橋市へ転居。
豊橋立高等女学校(現・豊橋東高等学校)在学中に母も亡くした。
高女時代の絵画の師 石川新一に中村正義を紹介され、日本画の道を歩む。
1951(昭和26)年 第15回新制作展に初入選。
そして、星野眞吾・中村正義・大森運夫・平川敏夫と「中日美術教室」の開設に参加。
1964(昭和39)年 星野眞吾と結婚。
1981(昭和56)年 創画会会員に推挙。
[11]同上 入口にて1
[12]同上2
[13]大岡稲荷社 社殿前にて
[14]同上 入口にて
【小生comment】
大岡越前守忠相が三河の領主だったということは比較的最近知った。
六十路になっても、いつも新しい発見がある。
無知の知ではないが、ホント、此の年になっても知らないことが多過ぎる。
■続いては、01月05日、午前中に豊川市桜ヶ丘ミュージアム、豊川稲荷(妙巌寺)、豊橋市美術博物館と巡って来た模様についてお伝えする。
08時45分 拙宅発→11㎞ 25分→
09時12分 豊川市桜ヶ丘ミュージアム着
【豊川市桜ヶ丘ミュージアム『高畑郁子展』『特別展/大岡越前守忠相と豊川展』『吉澤美香展』】
[15]豊川市桜ヶ丘ミュージアム入口にて1
[16]同上2
《高畑郁子》展
彼女の略歴は以下の通り。
1929(昭和04)年、千葉県印旛郡に生まれた高畑郁子は、生後まもなく父を亡くし母の実家のあった豊橋市へ転居。
豊橋立高等女学校(現・豊橋東高等学校)在学中に母も亡くした。
高女時代の絵画の師 石川新一に中村正義を紹介され、日本画の道を歩む。
1951(昭和26)年 第15回新制作展に初入選。
そして、星野眞吾・中村正義・大森運夫・平川敏夫と「中日美術教室」の開設に参加。
1964(昭和39)年 星野眞吾と結婚。
1981(昭和56)年 創画会会員に推挙。
[17]高畑郁子展corner入口にて
[18]高畑郁子展leaflet
《大岡越前守忠相と豊川》展
大岡越前守忠相(1677-1752)は、町奉行から大名になった江戸幕府唯一の人物。
1712(正徳02)年 遠国奉行の山田奉行(能登守叙任)
1716(享保元)年 普請奉行
1717(享保02)年 江戸町奉行(越前守に改める)
1736(元文元)年 寺社奉行(‥吉宗が享保08年に導入した足高制を適用され、1万石の大名勝格となる)
1748(寛延元)年 10月、寺社奉行に奏者番兼任となり、石高加増に拠り正式に1万石の大名となる
大岡越前守忠相の1万石の領地は、下総国(相馬・岡田・豊田)3郡・相模国(高座)1郡・上総国1(市原)郡・三河国3(渥美・宝飯・額田)郡の4国8郡から成った。
なかでも、三河国宝飯郡6(足山田・豊川・大崎・小田渕・西方・上佐脇)村の石高が重きを為した。
西大平藩初代忠相の後は、2代忠宜(ただよし)・3代忠恒(ただつね)・4代忠與(ただとも)・5代忠移(ただより)・6代忠愛(ただよし)・7代忠敬(ただたか)と明治維新迄続いた。
[18]高畑郁子展leaflet
[19]高畑郁子
[20]高畑郁子『夜花』1962年
[21]同『遺跡の人(l)』1978年
[22]同『同(lV)』1977年
《大岡越前守忠相と豊川》展
大岡越前守忠相(1677-1752)は、町奉行から大名になった江戸幕府唯一の人物。
1712(正徳02)年 遠国奉行の山田奉行(能登守叙任)
1716(享保元)年 普請奉行
1717(享保02)年 江戸町奉行(越前守に改める)
1736(元文元)年 寺社奉行(‥吉宗が享保08年に導入した足高制を適用され、1万石の大名勝格となる)
1748(寛延元)年 10月、寺社奉行に奏者番兼任となり、石高加増に拠り正式に1万石の大名となる
大岡越前守忠相の1万石の領地は、下総国(相馬・岡田・豊田)3郡・相模国(高座)1郡・上総国1(市原)郡・三河国3(渥美・宝飯・額田)郡の4国8郡から成った。
なかでも、三河国宝飯郡6(足山田・豊川・大崎・小田渕・西方・上佐脇)村の石高が重きを為した。
西大平藩初代忠相の後は、2代忠宜(ただよし)・3代忠恒(ただつね)・4代忠與(ただとも)・5代忠移(ただより)・6代忠愛(ただよし)・7代忠敬(ただたか)と明治維新迄続いた。
[23]同館『特別展/大岡越前守忠相と豊川展』『吉澤美香展』看板前にて
[24]同館『特別展/大岡越前守忠相と豊川展』出口近くの写真撮影cornerにて
《吉澤美香》展
吉澤美香(1959- )は東京に生まれ、1984年多摩美術大学大学院美術研究科修了、現・多摩美術大学教授。
薄いアクリル板等に工業用インクで大胆・明快なかたちを描く作風で知られる。
[24]同館『特別展/大岡越前守忠相と豊川展』出口近くの写真撮影cornerにて
[25]同館 本企画展leaflet
[26]大岡忠相の略歴
[27]大岡氏系譜
[28]大岡忠相の三河国内領地の分布図
[29]大岡忠敬詠歌(豊川稲荷・豊川閣 妙厳寺所蔵)(左)・大岡忠敬書『四海生春風』(中)・大岡忠相書『所宝惟賢(しょほういけん)』(右)
[30]大岡忠愛(ただよし)画『芙蓉雀図』(左)・大岡忠移(ただより)画『海棠寿帯鳥図』(右)
《吉澤美香》展
吉澤美香(1959- )は東京に生まれ、1984年多摩美術大学大学院美術研究科修了、現・多摩美術大学教授。
薄いアクリル板等に工業用インクで大胆・明快なかたちを描く作風で知られる。
[31]同館『吉澤美香展』leaflet
[32]同館外の山本眞輔『街の朝』の前にて
10時00分 同所発→1km 12分→
10時12分 豊川稲荷(妙厳寺)着
[32]同館外の山本眞輔『街の朝』の前にて
[33]同館入口にて
10時00分 同所発→1km 12分→
10時12分 豊川稲荷(妙厳寺)着
【豊川稲荷(妙厳寺)】
[34]豊川稲荷本殿前にて1
10時26分 妙厳寺 奥の院着
[36]奥の院前にて1
10時50分 豊橋市美術博物館へ→9㎞ 20分→
11時10分 豊橋市美術博物館着
[34]豊川稲荷本殿前にて1
[35]同上2
10時26分 妙厳寺 奥の院着
[36]奥の院前にて1
[37]同上2
[38]奥の院 解説板
10時50分 豊橋市美術博物館へ→9㎞ 20分→
11時10分 豊橋市美術博物館着
【豊橋市美術博物館『とよはしの豪族展』『日本画の5人/三河の風景展』『追悼/永井繁男展』『墨の表情展』】
[39]豊橋市美術博物館入口近く『とよはしの豪族展』案内看板前にて
[40]同館内『とよはしの豪族展』『日本画5人(中村正義・星野眞吾・平川敏夫・大森運夫・高畑郁子)/三河の風景展』看板前にて
《追悼/永井繁男》展
[41]同『追悼/永井繁男』展cornerにて
《とよはしの豪族》展
「はじめに」より
豊橋市は、740基の古墳がある「古墳のまち」。
海・山・川の自然に囲まれた此の地は、嘗て稲穂が靡く豊かな「穂(ほの)国」があったところと考えられている。
穂国が存在した6~7世紀は、古文書等記録類が極めて少なく、残念乍ら其の実態はよく分かっていない。〔後略〕
[39]豊橋市美術博物館入口近く『とよはしの豪族展』案内看板前にて
[40]同館内『とよはしの豪族展』『日本画5人(中村正義・星野眞吾・平川敏夫・大森運夫・高畑郁子)/三河の風景展』看板前にて
《追悼/永井繁男》展
[41]同『追悼/永井繁男』展cornerにて
《とよはしの豪族》展
「はじめに」より
豊橋市は、740基の古墳がある「古墳のまち」。
海・山・川の自然に囲まれた此の地は、嘗て稲穂が靡く豊かな「穂(ほの)国」があったところと考えられている。
穂国が存在した6~7世紀は、古文書等記録類が極めて少なく、残念乍ら其の実態はよく分かっていない。〔後略〕
【小生comment】
6~7世紀と言えば、欽明天皇以降の飛鳥時代になるが、三河国はまだ古墳時代だった訳だ。
[42]同『とよはしの豪族展』展示物1
《日本画の5人/三河の風景展》
中村正義・星野眞吾・平川敏夫・大森運夫・高畑郁子のご当地日本画の著名人5人が三河の風景を描いた企画展。
なかなか興味深かった。
展示作品について、図録や Postcardsはなかったので、小生が所有している postcardsから平川敏夫と中村正義の作品をご紹介する。
6~7世紀と言えば、欽明天皇以降の飛鳥時代になるが、三河国はまだ古墳時代だった訳だ。
[42]同『とよはしの豪族展』展示物1
[43]同2
[44]同3
[45]同4
《日本画の5人/三河の風景展》
中村正義・星野眞吾・平川敏夫・大森運夫・高畑郁子のご当地日本画の著名人5人が三河の風景を描いた企画展。
なかなか興味深かった。
展示作品について、図録や Postcardsはなかったので、小生が所有している postcardsから平川敏夫と中村正義の作品をご紹介する。
[46]平川敏夫『冨岳涛風』1995年~『墨の表情展』より
[47]中村正義『斜陽』1946年
11時35分 同館発→3㎞ 10分→
11時45分 帰宅〔了〕
【小生comment】
01月02日に岡崎にある西大平藩陣屋へ行って来た直後に豊川市桜ヶ丘ミュージアム『大岡越前守忠相と豊川』展を見たことはある意味 timely であった。
■今日最後の話題は、01月06日に名古屋へ行った時の「古川美術館」「らあめん陣屋」「片山八幡神社」「三菱UFJ銀行貨幣資料館」「愛知県芸術劇場コンサートホール」を巡り、『真・善・美』を体感して来た模様についてお伝えする。
08:00 拙宅発→自転車→
08:32 豊橋駅発→名鉄→名古屋→地下鉄東山線→池下→徒歩→
09:50 古川美術館着
[47]中村正義『斜陽』1946年
[48]同『夕陽』1957年
11時35分 同館発→3㎞ 10分→
11時45分 帰宅〔了〕
【小生comment】
01月02日に岡崎にある西大平藩陣屋へ行って来た直後に豊川市桜ヶ丘ミュージアム『大岡越前守忠相と豊川』展を見たことはある意味 timely であった。
■今日最後の話題は、01月06日に名古屋へ行った時の「古川美術館」「らあめん陣屋」「片山八幡神社」「三菱UFJ銀行貨幣資料館」「愛知県芸術劇場コンサートホール」を巡り、『真・善・美』を体感して来た模様についてお伝えする。
08:00 拙宅発→自転車→
08:32 豊橋駅発→名鉄→名古屋→地下鉄東山線→池下→徒歩→
09:50 古川美術館着
【古川美術館『日本のこころ~つながる美』展】
以下の日本画の名画をご覧になって如何でしたか?
日本画の美しさを実感出来たと思います。
[49]古川美術館入口にて1
10:20 古川美術館発→地下鉄池下→千種→JR中央線→大曽根→
[61]オズモールにて
【らあめん 陣屋】
10:50 らあめん 陣屋着
11:00 同所にて昼食
以下の日本画の名画をご覧になって如何でしたか?
日本画の美しさを実感出来たと思います。
[49]古川美術館入口にて1
[50]同上2
[51]本企画展leaflet
[52]片岡球子『桜咲く富士』制作年不詳
[53]奥田元宋『満園春色』制作年不詳
[54]前田青邨『五条大橋』1935年頃
[55]加藤正音『尾張春風伝 璃津』1998年
[56]同『尾張春風伝 徳川宗春』1997年
[57]竹内栖鳳『秋雨』1912年
[58]福田平八郎『鴛鴦』制作年不詳
[59]伊藤小坡『ひいな遊びの図』1932年頃
[60]山本澄江『MY LANDSCAPE「祈りの道」-野の花 それぞれのいのち-』2016年
10:20 古川美術館発→地下鉄池下→千種→JR中央線→大曽根→
[61]オズモールにて
【らあめん 陣屋】
10:50 らあめん 陣屋着
11:00 同所にて昼食
[62]らあめん 陣屋入口にて
[63]店内カウンター奥の藤井聡太四段(当時)の二十七手詰図(上)・同六段(当時)の「飛翔」色紙(中)・店主夫妻と藤井聡太六段(当時)
陣屋の根菜soupが滅茶苦茶美味しいので、止(や)められない、止(と)まらない!(笑)
今週末も名古屋市東区の歯科医院に月一回の歯の健診に行く予定なので、又、食べられると思うとワクワクする!
[63]店内カウンター奥の藤井聡太四段(当時)の二十七手詰図(上)・同六段(当時)の「飛翔」色紙(中)・店主夫妻と藤井聡太六段(当時)
[64]今日食した小生の定番menu「味噌焼豚(チャーシュー)麺」
陣屋の根菜soupが滅茶苦茶美味しいので、止(や)められない、止(と)まらない!(笑)
今週末も名古屋市東区の歯科医院に月一回の歯の健診に行く予定なので、又、食べられると思うとワクワクする!
11:25 らあめん 陣屋発→徒歩300m→
11:34 片山八幡神社着
11:34 片山八幡神社着
【片山八幡神社】
此の神社は、旧行勤務時代の平成5年8月~同15年3月迄の役10年間住んでいた家族寮のはす向かいにあるので、屡々参詣したのが懐かしい思い出となっている。
今年正月になって、元日は村社の鞍掛神社、二日は天神社の岩津天満宮、五日は稲荷社の豊川稲荷(妙厳寺)、六日(今日)は八幡社の片山八幡社、と4つの神社に参詣した。
何か今年は大きな人生の節目になりそうな感じなので確りとお参りした。
此の神社は、旧行勤務時代の平成5年8月~同15年3月迄の役10年間住んでいた家族寮のはす向かいにあるので、屡々参詣したのが懐かしい思い出となっている。
今年正月になって、元日は村社の鞍掛神社、二日は天神社の岩津天満宮、五日は稲荷社の豊川稲荷(妙厳寺)、六日(今日)は八幡社の片山八幡社、と4つの神社に参詣した。
何か今年は大きな人生の節目になりそうな感じなので確りとお参りした。
[65]片山八幡社にて1
[66]同上2
11時43分 片山八幡社発→徒歩 300m→
11時53分 三菱UFJ銀行貨幣資料館着
[66]同上2
[67]同上3
[68]片山八幡社 解説板
[69]片山八幡社 正面の鳥居と向こうに見えるのが本殿
11時43分 片山八幡社発→徒歩 300m→
11時53分 三菱UFJ銀行貨幣資料館着
【三菱UFJ銀行貨幣資料館着『廣重
魚づくし展』】
[70]三菱UFJ銀行貨幣資料館前にて
[70]三菱UFJ銀行貨幣資料館前にて
[71]同上入口にて
[72]本企画展leaflet
当館に入ってビックリした。
今から二昔前(1997-2000年)の旧行堀田支店時代の部下が当館館長で受付にいたのだ。
何処で旧知の人に会うか解らないものである。
今から二昔前(1997-2000年)の旧行堀田支店時代の部下が当館館長で受付にいたのだ。
何処で旧知の人に会うか解らないものである。
《魚づくし/横大判錦絵》
[73]鮎
[74]飛び魚・いしもちに百合
《名所雪月花》
[76]井の頭池弁財天の社雪の景
《小林清親/東京名所図》
[77]両國花火之図
《貨幣展示corner》
[73]鮎
[74]飛び魚・いしもちに百合
[75]すずき・金目鯛にしそ
《名所雪月花》
[76]井の頭池弁財天の社雪の景
《小林清親/東京名所図》
[77]両國花火之図
《貨幣展示corner》
[78]トルコの金貨
[79]オランダ・フランスの金貨
12時10分 三菱UFJ銀行貨幣資料館発→徒歩2.5km 35分→
12時55分 愛知県芸術文化センター着
【キューピー100周年スペシャル/ニューイヤー・コンサート2019/ウィーン・フォルクスオーパー交響楽団~日本オーストリア友好150周年記念~】
[82]愛知県芸術劇場コンサートホール入口にて
15時35分 演奏会終了
15時55分 愛知県芸術劇場(=愛知県芸術文化センター)を出る
[79]オランダ・フランスの金貨
[80]オーストリア・イギリス・ロシアの金貨
[81]メキシコ・アメリカの金貨
12時10分 三菱UFJ銀行貨幣資料館発→徒歩2.5km 35分→
12時55分 愛知県芸術文化センター着
【キューピー100周年スペシャル/ニューイヤー・コンサート2019/ウィーン・フォルクスオーパー交響楽団~日本オーストリア友好150周年記念~】
[82]愛知県芸術劇場コンサートホール入口にて
[83]本演奏会program/演奏会場別演奏会日程
[84]同上/演奏program
演奏曲目6曲目「ヨーゼフ・べドナリク『キューピー100周年変奏曲』~イェッセル(1871-1942)『おもちゃの兵隊のマーチ』のテーマによる」は、当楽団oboe奏者で作曲・編曲も手掛けるベドナク氏が今回の日本公演の為に作曲したもの
イェッセル『おもちゃの兵隊のマーチ』は、1962年からTV料理番組「キューピー3分クッキング」のテーマ曲として放送されていたものなのでよく知られた曲である
[85]Soloist:アナ・マリア・ラビン(S)、トーマス・ブロンデル(T)、アレクサンダー・ジョエル(指揮者)
[86]記念に購入したウィーン・フォルクスオーパー交響楽団CD
[87]会場1Fホワイエにあるmonitorに映ったconcert hall内部
[88]演奏前のコンサート会場1
[89]同上2
[90]同上3〔小生の席(最前列)から見た壇上〕
[91]演奏後に撮影した本concertの看板の横にて
[92]同じくencore曲一覧表の横にて
[93]本concert ticket
15時35分 演奏会終了
15時55分 愛知県芸術劇場(=愛知県芸術文化センター)を出る
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