今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『あら野』から〔第48回/巻之五~第461句~472句〕」をご紹介する。
461
膝節(ひざふし)をつゝめど出(いづ)るさむさ哉(かな) 塩車(注1)
【意】丈の短い着物を着て正座させられているのだろうか
/ 裾を引っ張っても膝小僧が露出して仕舞う / 動く訳にもいかず寒さが骨に沁みて来る / 作者少年時代の想い出の一コマか‥
【解説】季語:さむさ=三冬
/
(注1)塩車(えんしゃ(生没年不詳)):詳細不明
/『あら野』入句
462
火(ひ)とぼして幾日(いくか)になりぬ冬椿(ふゆつばき) 加賀
一笑(注1)
【意】冬椿よ、お前が開花してからもう何日になる?
【解説】季語:=
/「火とぼして」とは、花が開花することの詩的表現 / 此処では寒椿の赤い花の開花が「火」を灯(とも)した色彩感や暖かさの温感も含蓄する / 作者が、冬椿を人格化し、優しく呼びかける心遣いが感じられる
(注1)小杉一笑(こすぎ いっしょう(1652-88.12.28(元禄01.12.06(享年36歳))):加賀国金沢の人
/ 小杉味頼 / 通称:茶屋新七 / 貞門から1687(貞亨04)年頃より蕉門に入門
/『奥の細道』の途次、芭蕉は一笑の死を知り、金沢で追善句会を開催し、「塚も動け我が泣く声は秋の風」と彼の死を悼んだ
463
いつこけし庇(ひさし)起(おこ)せば冬(ふゆ)つばき 亀洞(注1)
【意】いつから倒れていたのか傾いていた庇(ひさし)を起こす / すると、其の下から冬椿(寒椿)の花が顔を出した
【解説】季語:冬つばき=晩冬
/ 寒苦に耐えて咲く冬椿の健気さを詠んだ
(注1)武井亀洞(たけい きどう(?-1687(貞亨04年11月)):尾張国名古屋の人 /『春の日』に初出 /越智越人の弟子と言われる
/『あら野』・『庭竈集』等に入句
464
冬籠(ふゆごも)りまたよりそはん此はしら 芭蕉
【意】ひと冬の閑居
/ 共に過ごす者も居ない / 何もなく、柱にもたれ、つくねんと(=独りでぼんやり過ごす)日を経るのみ
【解説】季語:冬籠(ふゆごも)り=三冬 / 1688(元禄元年10月13日)年冬の作 /
芭蕉は、此の秋、『笈の小文』『更科紀行』の旅から江戸に戻ったばかり /「旅にして旅を栖とする」芭蕉にとって自庵での久しぶりの生活は格別のものだったろう
歳暮
465
餅(もち)つきや内(うち)にもお(=を)らず酒(さけ)くらひ 李下(注1)
【意】歳末の餅搗(つ)き / 酒好きの男は暮の餅つきなんか嫌だどばかり、外へ行って酒を飲んでいる
【解説】季語:餅つき=暮
/ 餅を好きな男と酒を好きな男はそれぞれ別だという俗説がある
(注1)李下(りか(生没年不詳)):1681(延宝09)年春、李下は深川にある芭蕉(当時の号は「桃青」)の草庵に芭蕉の株一株を植えた / 此れを記念して芭蕉は、この翌年1682(天和元)年3月『武蔵曲』以降「芭蕉」を名乗った
/『あら野』・『虚栗』・『其袋』等 / 李下の妻ゆきも芭蕉の門人だったが、688(貞亨05)年秋没 / 芭蕉に彼女への追善句がある
466
吾(われ)書(かき)てよめぬもの有(あ)り年(とし)の暮(くれ) 尚白(注1)
【意】歳末に行く年を振り返り、書き物等を整理していると、自分が書いたのだが何を書いたのだか分からないものがある
/ 時間に空白が生じる様なもどかしさを感じる / こうして年が暮れて行く
【解説】季語:年の暮=暮
/
(注1) 江佐尚白(えさ しょうはく(?)-1722.08.30(享保07年07月19日)):江左氏 / 千那の親友で1685(貞亨02)年以来の近江蕉門膳所の人 / 医者 / 句集に『忘梅』がある / 後年、此の書物の出版をめぐり師弟間が事実上崩壊 /
其の間の事情は、千那宛書簡四 1691.11.17(元禄04年09月28日)に詳しい /
芭蕉の尚白に対する憎悪は許六宛書簡 1693.06.07(元禄06年05月04日)に窺われる /
句集『弧松』・『夏衣』等もある
467
もち花(ばな)(注1)の後(のち)はすゝけてちりぬべし 野水(注2)
【意】今は花のように美しいが、此れもやがて乾燥して散って仕舞うだろう
【解説】季語:もち花=新年
/ 「花」と言ったので「散る」と受けた
(注1)もち花(はな):幼児が小さな丸餅を柳の枯れ枝につけて遊ぶ、其の丸餅のこと
(注2)岡田野水(おかだ やすい((?)-1743.04.16(寛保03.03.22):埜水とも / 尾張国名古屋の呉服豪商で町役人 / 通称:佐右次衛門 / 本名:岡田行胤 / 芭蕉が『野ざらし紀行』の旅で名古屋に逗留した(1684年)際の『冬の日』同人 / 其の頃、野水は27歳の男盛り / 又、彼は近江蕉門や向井去来等上方の門人との親交も厚かった
468
はる近(ちか)く榾(ほた)つみかゆる(=かふる)菜畑(なはた)哉(かな) 亀洞
【意】冬の間、菜畑に積み貯えていた榾(ほた)を積んで使っていた / 春になり此処を菜畠にするので榾を他の場所に移し替えなくてはならない
【解説】季語:榾(ほた)=三冬 /
(注1)榾(ほた):「ほたぐい」、「ほたぎ」とも言う / 囲炉裏や竈にくべる焚き物 /
木の幹や枝、切り株などを干し 乾燥させたものを使う / 一方、柴や小枝など細めのものを「薪(たきぎ)」という
469
煤(すす)はらひ梅(うめ)にさげたる瓢(ふくべ)かな 一髪(注1)
【意】煤(すす)払いの最中、普段壁などに掛けておいた瓢箪を庭先の梅の枝に掛けた /
結構様(さま)になっている
【解説】季語:煤はらひ=暮
/
(注1)一髪(いっぱつ(生没年不詳)):美濃国の人
/『あら野』等に多数入句するも人物について詳細不明
木曽の月みてくる人の、みやげにとて杼(とち)の實(み)ひとつおくらる
年の暮迄(まで)うしなはず、かざり(注1)にやせむとて
(注1)かざり:正月の蓬莱飾り
/ 蓬莱飾りには、普通「橡(とち)の実」は飾らない
470
としのくれ杼(とち)の實(み)一つころころと 荷兮(注1)
【意】歳末の慌しい時に、橡(とち)の実が転がり出て来た / 出て来ても、一つでは搗いて食用にする迄もなく‥
【解説】季語:としのくれ=暮
/ 芭蕉の句に「木曽の橡(とち)浮世(うきよ)の人の土産(みやげ)かな」がある / 元禄元(1688)年中秋の名月を信州姨捨で見ようと「更科紀行」の旅に、越人は芭蕉の供をする
/
(注1)山本荷兮(やまもと かけい(1648(?)-1716.10.10(享保01.08.25(享年69歳))):本名:山本周知
/ 尾張国名古屋の医者 / 通称:武右衛門・太一・太市 / 別号:橿木堂・加慶 / 貞亨元(1684)年以来の尾張名古屋の蕉門の重鎮
/ 後年、芭蕉と(とくに「軽み」等で)意見会わず蕉門から離れた
/ 元禄06(1693)年11月出版の『曠野後集』で荷兮は、其の序文に幽斎・宗因等貞門俳諧を賞賛のcommentを掲載し、蕉門理論派・去来等から此れを強く非難されてもいる / 彼の蕉門時代の足跡に、『冬の日』、『春の日』、『阿羅野』等の句集編纂がある
471
門松(かどまつ)をうりて蛤(はまぐり)一荷(ひとにな)ひ 内習(注1)
【意】田舎の百姓が天秤棒に一杯の門松を売りに来た
/ 其の売上金で蛤を買って帰る / 正月の吸い物にするのであろうが、軽々と担いで引き上げていく
【解説】季語:門松=新年
/「門松立つ:暮」であるから、「門松売りて」も正月前の事柄であり、「暮」になる
(注1)内習(ないしゅう):人物については詳細不明
472
田作(たづくり)(注1)に鼠(ねずみ)追(お)ふよの寒(さむ)さ哉(かな) 亀洞
【意】此の田作りの美味いことを鼠(ネズミ)がよく知っているので此れを盗みに来る / だから、台所で見張りをしなくてはいけないが、此れが又寒いこと!
【解説】季語:寒さ=三冬
/
(注1)田作(たづくり):正月おせち料理の「たづくり」/ 普段の呼び名は「ごまめ」
【小生 comment 】
次回は、俳諧七部集『あら野』から〔第49回/巻之六~第473句~480句〕をご紹介する。お楽しみに!
■続いては、「松尾芭蕉『奥の細道』の第18回目である。
さて続いての話題は、「松尾芭蕉『奥の細道』の第18回目である。
前《会報》では【那谷寺】と【山中】をお届けした。
当該時期は、七月二十七日~八月四日(新暦09月10~17日)迄の8日間である。
そして今回は、八月五~十四日(新暦09月18~27日)迄の九日間の【全昌寺】【汐越の松】【天龍寺(=丸岡)】【永平寺】【等栽(=福井)】についてである。
曽良が伊勢長島へ旅立った為、正確な行程が判らなくなっている。
以下、通説に従い進めて行く。
萩原恭男校注の芭蕉『奥の細道』に記されている「芭蕉宿泊地及び天候一覧」には以下の様に記されている。
八月五日(新暦09月18日)「小松/宿不明」
八月六日(新暦09月19日)「小松/宿不明」
八月上旬「大聖寺、全昌寺」
八月上・中旬「松岡、天龍寺」
八月
同 「福井、神戸洞哉宅」‥八月十~十二日(新暦09月23~25日)
八月十四日(新暦09月27日)「敦賀、出雲屋」
【全昌寺】
[01][上]全昌寺
山門前にて中嶋君【3-2】、今泉(谷山)君【3-3】と
《原文》
大聖持(だいしやうぢ)(注1)の城外、全昌寺(ぜんしやうじ)(注2)といふ寺にとまる。
猶(なお)加賀の地也(なり)。
曾良も前の夜(よ)、此(この)寺に泊(とまり)て、
終宵(よもすがら)秋風聞(きく)やうらの山
と残す。
一夜の隔(へだて)千里に同じ。
吾も秋風を聞て衆寮(しゆれう)に臥(ふせ)ば、明(あけ)ぼのゝ空近う読経(どきやう)声すむまゝに、鐘板(しようばん)(注3)鳴て食堂(じきどう)に入(いる)。
けふは越前(ゑちぜん)の国へと、心早卒(さうそつ)(注4)にして堂下(だうか)に下るを、若き僧ども紙・硯(すずり)をかゝえ、階(きざはし)のもとまで追来(おひきた)る。
折節(おりふし)(注5)庭中(ていちゆう)の柳散れば、
庭掃(はき)て出(いで)ばや寺に散(ちる)柳
とりあへぬさま(注6)して、草鞋(わらぢ)ながら書捨(かきす)つ。
《現代語訳》
「大聖寺(注1)」という城下町の郊外、全昌寺(注2)という寺に泊まった。
此処はまだ加賀の国である。
先に旅立って行った曾良も前の晩この寺に泊まり、
【意】裏山に吹き渡る秋風の音を一晩中聞き、心寂しい気持ちになって仕舞い、眠れない夜であったよ
季語「秋風」=秋
【解説】この「秋風」は、一人旅の物悲しさ、心寂しさを表象している
曾良が全昌寺に泊まった前夜とは、八月五~六日(新暦09月18~19日)
と一句残していた。
思えば、曽良と一晩隔てているだけなのに、千里も遠く隔って仕舞った様な気がする。
私も秋風を聞き乍ら修行僧の寮舎に泊めて貰った処、夜明け近くなって、僧達の読経の声が澄み渡り、合図の鐘板(注3)が鳴ったので食堂(じきどう)に入った。
今日は越前の国に越えるつもりだと、心あわただしく(注4)食堂から出ると、若い僧達が紙や硯を抱えて寺の石段の所迄追い掛けて来た。
丁度その時(注5)、庭に柳の葉が散っていたので、
【意】寺の境内に柳の葉が散り落ちている
だから、箒で掃き清めてからお暇(いとま)するとしようか
季語「柳散る」=秋七月
【解説】禅寺に宿泊すると、翌朝、「作務(さむ)」と言って、自分の寝所や庭等を掃除して発つ「常礼」があったことを踏まえて詠んだ
と、即興で、草鞋(わらじ)をはいた儘急いで(注6)句を作り書き与えた。
(注1)大聖持:前田飛騨守利明七万石の城下町大聖寺(=大正持=大聖持)
山中温泉の北西約8キロにある/現・石川県加賀市大聖寺
(注2)全昌寺:現石川県加賀市大聖寺神明町の熊谷山(ゆうこくさん)大聖寺
大聖寺城主、山口玄蕃頭(げんばのかみ)宗永の菩提寺/曹洞宗の寺
【山中】で世話になった泉屋の菩提寺でもあった
住職(=当時)の月印和尚は久米之助の伯父
(注3)鐘板:寺で合図の為に叩く道具
(注4)早卒:正しくは「倉卒・草卒」
「あわただしい」ことを意味する形容動詞の語幹
(注5)折節:丁度その時
(注6)とりあへぬさま:とり急いだ即興の様
【汐越の松】
[02]「汐越の松」遺跡
《原文》
越前の境(注1)、吉崎(注2)の入江を舟に棹(さをさ)して(注3)、汐越(しほこし)の松(注4)を尋ぬ。
終宵(よもすがら)嵐に波をはこばせて 月をたれたる汐越の松 西行
此(この)一首にて、数景(すけい)盡(つき)たり(注5)。
もし一瓣(いちべん)(注6)を加(くはふ)るものは、無用の指を立(たつ)る(注7)がごとし。
《現代語訳》
加賀と越前との国境(注1)にある吉崎(注2)の入江を舟に乗って渡り(注3)、汐越の松(注4)を訪ねた。
【意】夜通し嵐に波を打ち寄せさせて、汐を被った松の梢から波の雫が滴っている
〔説1〕それに月光が当たりキラキラして、恰も月の雫の様だ
〔説2〕低く垂れた松の枝の彼方の海に月が沈もうとしている
この一首の中に、汐越の松の全景は詠み込み尽くされている(注5)。
もし一言(注6)付け加えるものがあれば、五本ある指に不要なもう一本を付け加える(注7)様なものだ。
(注1)越前の境:加賀と越前の境/現・石川県と福井県の境
(注2)吉崎:蓮如(1415-99)上人が迫害逃れる為、京都からこの地へ来て坊舎(吉崎御坊)を建立
現・福井県坂井郡金津町吉崎
(注3)棹(さをさ)して:棹を水底に突き刺して舟を奨めること
(注4)汐越の松:吉崎の対岸浜坂岬(現・福井県坂井郡芦原町浜坂)にあった数十本の松
この歌が西行ではなく蓮如の作とも言われるがいずれも確証はない
この歌の「月をたれたる」の解釈が上述の通り〔説1〕〔説2〕とある様だが、小生にはどちらが正しいかよく解らない (^^;
(注5)数景盡きたり:汐越の松の絶景の全てが表現され尽くされているという意味
(注6)一弁:一言一句
(注7)無用の指を立つる:五本ある指にもう一本無用な指を加える意
原典は『荘子』
【天龍寺(=丸岡)】
[下]天龍寺境内にある芭蕉句碑
《原文》
丸岡天龍寺(てんりゆうじ)(注1)の長老(注2)、古き因(ちなみ)(注3)あれば尋ぬ。
又、金沢の北枝(ほくし)(注4)といふもの、かりそめに見送りて(注5)此処(このところ)までしたひ来る(注6)。
所々の風景過さず思ひつヾけて、折節(をりふし)あはれなる作意(注7)など聞(きこ)ゆ。
今既(すでに)別(わかれ)に望みて、
物書て扇引さく余波(なごり)哉(かな)
《現代語訳》
丸岡の天竜寺(注1)の住職(注2)は古い縁故のある人(注3)なので訪ねた。
また、金沢の北枝(注4)というものが「一寸だけ見送りましょう(注5)」と言いつつ、とうとう此処迄ついてきてくれた(注6)。
彼(=北枝)は、途中所々の美しい景色を見逃さず句を作り、時折、情緒深い着想の句等(注7)を聞かせてくれた。
その北枝とも愈々別れの時が来て‥
【意】道すがら句を書き留めて来た扇を引き裂く様に、貴方との辛い別れの時が遣って来た
夏から秋になって扇を終う様に、それは心痛む別れなのだ
季語「扇置く」=秋七月
【解説】芭蕉が、北枝の誠意ある対応に深く感謝し、俳人としての優れた才能を高く評価していることがこの文面を読むとよく解る。
曾良と別れ、又此処で北枝との別れる、芭蕉の惜別の情が「物書て扇引さく余波哉」の句によく表象されている。
又、久富哲雄著『おくのほそ道/全訳注』で久富氏が「伝西行の和歌で『数景尽きたり』としている処に、芭蕉の西行への傾倒ぶりの深さが思われる」と述べているが、全く同感である。
(注1)丸岡天竜寺:「丸岡」は誤り/天竜寺があるのは松岡町/松岡は丸岡の南東約8km、福井の北東約7km程の所にある
1645年)、時の福井藩主・松平忠昌(結城秀康の子)が死去/その跡を嫡子(次男)松平光通が継いだ
光通は、弟の松平昌親に2万5000石を分与(吉江藩を立藩)、庶長子の兄昌勝に5万石を分与(松岡藩を立藩)
これに拠り、福井藩は52万5千石→45万石となった
現・福井県吉田郡松岡町/「天竜寺」は松岡町にある曹洞宗寺院/山号は清涼山、松平家の菩提寺/永平寺の末寺
(注2)長老:禅宗で住職のこと/当時、長老は大夢和尚〔嘗て江戸品川「天龍寺」で住職を務めていた〕
(注3)古き因(ちなみ):大夢が江戸天龍寺時代に芭蕉と交流があったことを指しているが、詳細不明
(注4)北枝:通称=源四郎/加賀の人/研刀を業とする/初め談林派の俳人、後に加賀蕉門の中心人物となる
この『奥の細道』の旅で芭蕉の訪問を受け、兄の牧童と共に入門/芭門十哲の一
北枝は「山中温泉」滞在中に芭蕉から聞いた言説を書き留め『山中問答』を表す
(注5)かりそめに見送りて:「つい一寸その辺り迄見送りましょう」と見送って来て
(注6)したひ来る:お供をして遣って来た/「したふ」は、あとを追っていく、の意
(注7)あはれなる作意:情緒深い着想を持った句、という意
【永平寺】
[04]永平寺の紅葉〔2007年11月24日 前職場社員旅行訪問時に撮影〕
《原文》
五十丁山に入(いり)て、永平寺(注1)を礼(らい)す。
道元禅師(注2)の御寺(みてら)也(なり)。
邦機(ほうき)千里(注3)を避(さけ)て、かゝる山陰(やまかげ)に跡(注4)をのこし給ふも、貴きゆへ(注4)有(あり)とかや。
《現代語訳》
五十丁程山に入って、永平寺(注1)を礼拝した。
道元禅師(注2)が開山の寺だ。
都から近い所(注3)を避けてわざとこんな山奥に立派な跡〔=修行の場〕を残されたのも、道元禅師の尊い理由(注4)があってのことだという。
(注1)永平寺:曹洞宗の総本山/現福井県吉田郡永平寺町/山号は吉祥山/開山:道元禅師
(注2)道元禅師(1200-53):鎌倉時代初期の禅僧/曹洞宗の開祖/内大臣久我通親(こがのみちちか)の子
13歳で比叡山に入山/1223年 入宋(にっそう)/1227年帰朝/著書『正法眼蔵』等
(注3)邦機(ほうき)千里:機は「畿」/「邦畿」は、帝都に近い天子直轄の地、の意
中国周時代に、王城を中心に千里四方以内の地を称した
(注4)尊きゆへ:「ゆへ」は「ゆゑ」が正しい/重大な深い理由の意
【等哉(=福井)】
《原文》
福井(注1)は三里計(ばかり)なれば、夕飯(ゆふげ)したゝめて出(いづ)るに、たそかれの路(みち)たどゝし。
爰(ここ)に等栽(とうさい)(注2)と云(いふ)古き隠士(いんし)有(あり)。
いづれの年にか、江戸に来(きた)りて予(よ)を尋(たづぬ)。
遙(はるか)十(と)とせ余り也。
いかに老さらぼひて有(ある)にや、将(はた)死(しに)けるにやと人に尋(たずね)侍(はべ)れば、いまだ存命して、そこゝと教ゆ。
市中ひそかに引入(ひきいり)て、あやしの小家(こいへ)(注3)に、夕貌(ゆふがほ)・へちまのはえ(=へ)かゝりて、鶏頭(けいとう)・はゝ木ヾ(ははきぎ)(注4)とぼそをかくす。
さては、此(この)うちにこそと門(かど)を扣(たたけ)ば、侘しげなる女の出て、
「いづくよりわたり給ふ道心(だうしん)の御坊(ごぼう)にや。あるじは此(この)あたり何がしと云(いふ)ものゝ(=の)方に行(ゆき)ぬ。
もし用あらば尋給(たづねたま)へ」といふ。
かれが妻なるべしとしらる。
むかし物がたりにこそ、かゝる風情は侍れと、やがて尋(たづね)あひて、その家に二夜(ふたよ)とまりて、名月はつるが(注6)のみなとにとたび立(だつ)。
等栽も共に送らんと、裾(すそ)おかしうからげて、路の枝折(しをり)(注7)とうかれ立(たつ)。
《現代語訳》
福井までは三里ほどなので、夕飯をすませてから出かけた処、夕暮れの道なので足元が危なっかしく思う様に進めなかった。
この地には等栽(注2)という旧知の隠者がいる。
いつの年だったか、江戸に来て私を訪ねてくれた。
もう十年以上も昔のことだ。
どんなに年取ってしまったか、もしかしたらもう亡くなっているかもしれないな、と人に尋ねたら、まだ存命で、「何処其処に住んでいる」と教えてくれた。
行ってみると、町中(まちなか)の一寸引き籠った所にみすぼらしい小家(注3)があり、夕顔や糸瓜(ヘチマ)が弦を延ばしていて、鶏頭や箒草(注4)が戸口を隠す程生い茂っている。
「きっとこの家だな」と門を叩けば、みすぼらしいなりの女が出てきて、「何処からいらっしゃったお坊さんですか?
主人はこの近くの某さんの所に行っています。
もし用があるのなら、そちらをお訪ねください」と言う。
等栽の妻に違いない。
昔物語の中にこんな風情ある場面があったなぁ‥と思いつつ、直ぐに訪ねて行って等栽に会い、彼の家に二晩泊まり、名月で知られる敦賀(注6)の港へ旅立った。
等栽が見送りに来てくれて、裾(すそ)をおどけた感じに捲り上げて、楽しそうにウキウキと道案内(注7)に立ってくれた。
(注1)福井:松平兵部大輔昌親(→正明(まさあき)→吉品(よしのり)(1640-1711))二十五万石の城下町/現福井市
(注2)等栽:福井の俳人/神戸洞哉(かんべとうさい)/貞室の門人/越前俳壇の長老/元は連歌師
「猿蓑」に江戸に芭蕉を訪ねた様子が書かれ、又、元禄3年秋には幻住庵に居た芭蕉を訪ねている
「等栽」の字が「洞哉・等哉」と違うのは芭蕉の作為とみられる
(注3)あやしの小家:「『源氏物語』‥夕顔」の以下の場面を下敷きにしている
「かの白く咲けるをなむ、夕顔と申し侍る
花の名は人めきて、かうあやしき垣根になん咲きはべりけると申す
げにいと小家がちに、むつかしげなるわたりの、この面(も)かの面、
あやしくうちよろぼひて、むねむねしからぬ軒のつまごとに這ひまつはれたるを…」
(注4)はゝ木ヾ:帚木/アカザ科の植物/茎は干して箒にする/ホウキグサ
(注5)昔物がたりにこそ:これも「『源氏物語』夕顔」を念頭に置いている
光源氏が夕顔の住むあばら家を訪ねていく場面
「昔物がたりなどにこそかかることは聞け、といとめづらかにむくつけゝれど‥」
(昔物語の中になら、この様な変わった趣はあるかもしれない
(が、現実にはとてもこの様な趣向にはお目にかかれるものではない)、の意
(注6)つるが:「歌枕」/敦賀湾に面する北陸第一の港町/現・福井県敦賀市
(注7)路の枝折:道案内
【小生comment】
曾良が伊勢長島へ旅立ってからは芭蕉の行動が正確には解らなくなったが、「松岡→永平寺→福井」の順。
「夕飯したためて出づる」所は、永平寺より松岡「天龍寺」の方が現実的。
そして、(‥此の文章を書いた2015年09月27日時点から換算して‥)326年前の八月十四日(乃ち、今日新暦09月27日)に敦賀の港に到着。
翌日の八月十五日が「中秋の名月」であった。
因みに、2015年は09月27日が「中秋の名月」であった。
今年2020年は、十日余二日後の10月01日が「中秋の名月」。
確り見えることを祈っている。
更に余談‥
現・永平寺第79世貫首は、豊川稲荷、即ち豊川閣妙厳寺の住職を務めた福山諦法(ふくやま たいほう(1932年-))氏。
氏の来歴は以下の通り‥
東京都出身
/ 11歳で愛知県新城市鳳来町に学童疎開
愛知県豊川市の妙厳寺(豊川稲荷)の修行僧に
旧制豊川中学校を経て駒澤大学卒業
/ 40歳で豊川妙厳寺住職
永平寺副貫首を経て2008年1月19日 永平寺第79代貫首就任
同年に仏教伝道協会
第7代理事長
2016年1月22日より曹洞宗管長に就任(任期2年 / 大本山永平寺貫首と大本山總持寺貫首が交互に就任する慣し)
■続いての話題である。
2020年09月13日は、津島市「神守の一里塚」「織田信長生誕地」「尾張国分寺跡」「赤染衛門歌碑公園」「尾張国衙址」「尾張総社
国府宮」「津島湊跡」「【重文】旧堀田家住宅」「津嶋神社」「清正公社」「一宮市三岸節子記念美術館」と巡って来たことについて順次お伝えする
03時55分 起床→腹筋2,000回→
04時40分 2.5kg木刀素振り50分→
05時35分 入浴→朝食→
06時25分 拙宅発→一般道 1時間43分 97㎞/97㎞→
08時08分 津島市神守町『神守(かもり)の一里塚』着
【神守(かもり)の一里塚】
[05][左上]神守の一里塚にて1
[右上]同上2
[左下]同上3
[中下]神守の一里塚1
[右下]同上2
08時17分 神守の一里塚発→一般道10分 5㎞/102㎞↓
08時27分 勝幡(しょばた)城跡〔=織田信長生誕地〕
【勝幡城跡〔=織田信長生誕地〕】
[06][左上]勝幡城跡〔=織田信長生誕地〕にて1
[右上]同上2
[左下]同上3
[中下]勝幡城跡〔=織田信長生誕地〕
[右下]同 解説板
08時33分 勝幡城跡〔=織田信長生誕地〕発→一般道17分
7km/109km→
09時00分 尾張国分寺跡着
【尾張国分寺跡】
[07][左上]勝幡城跡〔=織田信長生誕地〕→尾張国分寺跡への航空map
[左下]尾張国分寺
解説板にて
尾張国分寺跡は、三河国分寺跡より整備が遅れている
[右上]同 塔跡入口
[右中]同 旧金堂跡手前→旧講堂方面を望む
[右下]同 旧講堂跡辺りにて
09時15分 尾張国分寺跡発→一般道 13分 5km/114km→
09時27分 名鉄国府宮駅西口至近の駐車場着
09時30分 同所発→徒歩3分→
09時33分 赤染衛門歌碑公園着
【赤染衛門歌碑公園】
[08][左上]赤染衛門歌碑公園
入口にて
[右上]同 歌碑建立について解説板
[左下]同 赤染衛門の夫で尾張国守
大江匡衡(まさひら(952-1012))顕彰碑
[中下]同 赤染衛門石碑
[右下]同 衣かけの松跡にて
09時39分 赤染衛門歌碑公園発→徒歩5分→
09時44分 尾張国衙址(こくがし)着
【尾張国衙址】
[09][左上]尾張国衙址と其の西側に隣接する松下公民館
[右上]尾張国衙址
[左下]同 礎石
[中下]同 同上解説板
[右下]同 礎石前にて
09時47分 尾張国衙址発→徒歩15分→
10時02分 尾張大國霊神社〔尾張総社
国府宮〕大鳥居着
【尾張大國霊神社〔国府宮〕】
[右上]同 楼門前にて
[左下]同 拝殿前にて
[中下]同 御朱印と厄除
大黒守
[右下]同 本殿(左)~拝殿(右)
10時33分 名鉄国府宮駅西口至近の駐車場発→一般道39分 18km/132㎞→
11時12分 津島湊跡着
【津島湊跡〔天王川公園〕】
〔津島湊の西方に津島神社・堀田家住宅も見える〕
[右上]天王川公園
[右中]同所にて1
[右下]同上2
11時24分 津島湊跡発→一般道5分 0.3㎞/132㎞→
11時29分 津島神社駐車場着
【【重文】堀田家住宅】
[12][左上]【重文】堀田家住宅 解説板にて
[左下]同 勝手口近くにて
[右上]同 帳場にて
[右中]同 床の間にて
[右下]同 2階にて
12時02分 堀田家住宅発→徒歩1分
12時03分 津島神社着
【津島神社】
[13][左上]津島神社 大鳥居前にて
[右上]同 拝殿前にて1
[左下]同 同上2
[中下]同 御朱印
[右下]同 津島神社由緒あらまし
解説板
12時32分 津島神社駐車場発→一般道5分 0.6㎞/133㎞
12時37分 清正公社着
【清正公社】
[14][左上]清正公社
[右上]同 前にて
[左下]同 拝殿の「清正公」扁額
[中下]同 拝殿から本殿を望む
[右下]同 拝殿にて
12時43分 清正公社発→一般道27分 16㎞/149㎞→
13時10分 一宮市三岸節子記念美術館着
【一宮市三岸節子記念美術館『墨は流すもの=丸木位里の宇宙=』展】
[15][左上]一宮市三岸節子記念美術館入口横の本企画展看板前にて
[右上]館内受付横の本企画展写真撮影コーナー
[左下]本企画展leaflet
[中下]丸木位里(1901-95)『臥牛』1947年頃
[右下]同『ドナウ』1982年
【三岸節子『常設展』】
[16][左上]三岸節子『花(ヴェロンにて)』1988年
[右上]同『スペインの白い町』1972年
[左下]同『花と魚』1952年
[中下]同『花』1989年
[右下]同『小運河の家(1)』1972年
三岸節子の作品は、本物を直接見てみたくなる
一昨日(2020/09/11)に、昨年09月21日に見た想い出の作品群を blog で眺めていたら無性に見たくなり、今日立ち寄って見て来た
14時00分 一宮市三岸節子記念美術館発→一般道109㎞/累計258㎞
16時50分 帰宅〔走行距離計258㎞〕(了)
【後記】今日は、【時習26回3-7の会】【09月の想い出】から 2019年09月28日(土)【時習26回3−7の会 0776】~〔前略〕「09月21日:一宮市三岸節子記念美術館『常設展』〔中略〕「ホトトギス派俳人四S~山口誓子」の2つを順次ご紹介する
↓ ↓ ↓
https://si8864.blogspot.com/2019/09/26-077614-3-309210922.html
【一宮市三岸節子記念美術館『常設展』】
[17][左上]岡田三郎助『三岸節子』像 1923年
[右上]三岸節子(1905-99)『自画像』1925年
[左下]若い頃の三岸節子の写真
[中下]若い頃の森光子(1920-2012)の写真
[右下]同『花・果実』1932年
三岸節子の絵は、元気いっぱいで、構図・色彩の dynamic さと balance の良さが優れていて、小生大好きである
だから年に数回は此処の美術館を訪ねている
三岸節子は‥、日本洋画界の草創期に、浅井忠 (1856.07.22-1907.12.16)、黒田清輝
(1866.08.09-1924.07.15)、藤島武二 (1867.10.15-1943.03.19)等と共に活躍、そして同じく洋画家の藤島武二、日本画で京都画壇の重鎮、竹内栖鳳 (1864.12.20-1942.08.23)、同じく日本画家で日本美術院創設者の横山大観(1868.11.02-1958.02.26)と共に昭和12年、第1回文化勲章受賞者で、女性像を得意としていた【岡田三郎助(1869.01.22-1939.09.23)】が model に選んだだけのことはあってかなりの美人である
若い頃の「三岸節子」と女優の「森光子」、何となく似ていると思いませんか?
【ホトトギス派俳人四S~山口誓子(1901-94)】
「ホトトギス」同人で同派を代表する俳人「四S(=しエス)」阿波野青畝・高野素十・水原秋櫻子・山口誓子の山口誓子(やまぐち せいし(1901.11.03-1994.03.26))の作品を、以前に何回もご紹介したが、傑作で時宜を得ているので今日も紹介したい。
つきぬけて天上の紺
曼珠沙華 山口誓子
此の句について、山口誓子著『自選自解
山口誓子句集』にて次の様に述べている。
「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)の句である。曼珠沙華は、彼岸花とも死人花(しにんばな)ともいう。死人に関係ある花だから、縁起のいい花ではない。人々は、その花を忌むべき花と考えていた。俳句の世界では、紅蘂(しべ)の花を美しとして、愛した。
戦後、曼珠沙華は米国等に輸出され、その紅蘂が米国人の気に入って、美しい花、愛すべき花とされた。日本の人々は、それを見てやっと、曼珠沙華に一目置くようになった。
「つきぬけて天上の紺」は、くっつけて詠む。つきぬけるような青天とは、昔からいう。それを私は「つきぬけて天上の紺」といったのだ。
そんな青天に、曼珠沙華は、紅い蘂を張って、すっくと立っている。」〔昭和16年作/『七曜』所収〕
[18][上][左下][中下]「つきぬけて天上の紺曼珠沙華」image 通りの写真scene 3枚
[右下]2018年09月30日 拙宅に咲いた彼岸花(紅&白)
【
をりとりて はらりとおもき すすきかな 蛇笏 】
先日(2020年09月10日)、飯田蛇笏(1885-1962)の作品の中から、最高傑作の誉れ高い「芋の露連山影を正しうす」をご紹介した
しかし、蛇笏の作品の中で、知名度という点では、此方の作品の方が勝っているかもしれない
昨(2019)年12月10日に見た豊橋市上下水道局の南側にある、豊川に合流する直前の朝倉川河畔に群生していた秋の七草の一つでもある尾花(=ススキ)をご覧頂き乍ら此の名句の良さを実感されたい
をりとりて はらりとおもき すすきかな 蛇笏
[19][左上]一直線の「すすき」の茎
[左下]「はらりとおもき」尾花の質感が伝わってくる写真
[中下]はらりとおもき「『すすき』かな」の image 写真1
[右下]同上2
【小生 comment 】
此の句は、「ひらがな17文字」だけで構成されている。
ススキを折り取って、其の時手先に感じられた薄の穂の重さが「はらり」という動きの表現で絶妙に此の句を詠んだ者に伝わって来るのだが、其れは平仮名だけの表現が相応しい。
添付写真をご覧頂いて、此の名句を image して頂けたでしょうか?
では、また‥〔了〕
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