■皆さん、お変わりありませんか?
今泉悟です。今日も【時習26回3−7の会 0829】号をお届けします。
今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『あら野』から〔第47回/巻之五~第451句~460句〕」をご紹介する。
451 夜(よ)をこめて雪舟(そり)に乗(のり)たるよめり(注1)哉 長虹(注2)
【意】雪国の嫁入り / 花嫁が橇に乗せられ真っ白な雪の上を行く
/ 当時嫁入りは宵に行われた / 提灯や松明の灯りに照らされ、美しい行列が進む /「夜(よ)をこめて」は清少納言の和歌で名高い歌語
【解説】季語:雪舟=晩冬 /
(注1)よめり:「嫁入り」のこと
(注2)長虹(ちょうこう(生没年不詳)):尾張国名古屋城北(名古屋市東区杉村町西杉)、杉の薬師堂(現・解脱寺)住職 / 芭蕉が『笈の小文』を終え、『更科紀行』に旅立つ間名古屋に滞在した1688.08.15(貞亨05年07月20日)、同所にて歌仙興行 /「粟稗にとぼしくもあらず草の庵」等を詠む
452 馬屋(うまや)より雪舟(そり)引(ひき)出(いだす)朝(あした)かな 一井(注1)
【意】今朝は大雪なので馬を諦め、厩の隅にかけてある橇(そり)を取り出した /
【解説】季語:雪舟=晩冬 / 馬屋(=厩)にいる馬の息や、馬小屋の温かさが伝わって来る句
(注1)一井(いっせい(生没年不詳)):尾張国名古屋の門人
/ 芭蕉は、1688.01.11(貞亨04年12月09日)、『笈の小文』の旅の途次、一井宅に招かれ、「旅寝よし宿は師走の夕月夜」を発句に熱田の門人等と七吟半歌仙(熱田三歌仙)を巻いた
453 雪舟(そり)引(ひく)や休(やす)むも直(すぐ)に立(たち)てゐる 亀洞(注1)
【意】橇引きは橇を引く為にずっと前傾姿勢で進んで来た / だから休む時は体を前掲姿勢から直立して腰を伸すだけで休憩になるのだ
【解説】季語:雪舟=晩冬 /「直(すぐ)に」はぴんと直立しているという意
(注1)武井亀洞(たけい きどう(?-1687(貞亨04年11月))):尾張国名古屋の人 /『春の日』に初出 / 名古屋蕉門の越智越人(1656-1739(?))の弟子と云われている /『あら野』・『庭竈集』等に入句
454 つけかへておくるゝ雪舟(そり)のはや緒(を)(注1)哉(かな) 含呫(注2)
【意】「早緒」というから、着ければ速くなると思ったが、切れて仕舞い、綱を取り替えている間に却って遅れて仕舞った
【解説】季語:雪舟=晩冬 /
(注1)はや緒(=早緒):、橇(そり)や車の引き綱のこと / 本句は「たゆみつつそりの早緒も着けなくに積りにけりな越の白雪 / 西行」(山家集)の parody /
(注2)含呫(がんてん(生没年不詳)):人物について詳細不詳 /『あら野』に多数入句
455青海(あをうみ)や羽白(はじろ)黒鴨(くろがも)赤(あか)がしら 白炭ノ 忠知(注1)
【意】「青」海原に、白・黒・赤、色とりどりの鴨がいて賑やかなことである
/「あら野」の選者も、本句作者の肩書「白炭」ノと紹介し興じている
【解説】季語:羽白・黒鴨・赤がしら=三冬 /季語:羽白・黒鴨・赤がしらはいずれも鴨の一種
(注1)神野忠知(じんの ただとも(1623(?)-1676.12.31(延宝04年11月27日(享年54歳))):江戸の人
/ 通称:長三郎 / 談林俳諧が興隆した頃の俳人 / 『佐夜中山集』『あら野』『如意宝珠』等に所収 /「白炭や焼かぬ昔の雪の枝」の句が有名になり「白炭の忠知」と称された
456舟(ふね)にたく火(ひ)に聲(こゑ)たつる衛(ちどり)哉(かな) 亀洞
【意】浜千鳥は、夜の浜辺に友を呼び求めて鳴く / 其れが、いま出漁の仕度をする舟の灯りに向かって呼びかけて鳴いている様に聞こえる‥
【解説】季語:鵆(=(千鳥(ちどり)))=三冬 /
457朝鮮(てうせん)を見(み)たもあるらん友千鳥(ともちどり) 村俊(注1)
【意】千鳥は昼間外海に出て、日暮・夜間に浜辺に帰って来て友を呼び鳴く
/ 其の千鳥の中には、遠く朝鮮迄飛んで行き彼地を見て来たものもいるだろうナ
【解説】季語:友千鳥=三冬 /
(注1)村俊(そんしゅん(生没年不詳)):尾張国名古屋の人
/『あら野』に2句入句
井(ゐ)を掘(ほ)る者は六月(ろくぐわつ)寒(さむ)く、米(こめ)つくお(=を)とこは冬(ふゆ)裸(はだか)かなり
【意】井戸掘り(職人)は、真夏6月に地中深く寒い思いをし、酒米の米搗(つ)き男は真冬に裸になって汗をかく
458 汗(あせ)出(だ)して谷(たに)に突(つき)こむ氷室(ひむろ)哉(かな) 冬松(注1)
【意】谷間に設けられた氷室 / 真冬に氷の貯蔵作業をした其の氷室で、いま汗をかき乍らの作業をしている
【解説】季語:氷室(ひむろ)=晩夏 / 事は極端に達すれば翻転する理に興じている
(注1)冬松(とうしょう(生没年不詳)):人物について詳細不明
/『あら野』等に入句
459 海鼠腸(このわた)(注1)の壺(つぼ)埋(うづ)めたき氷室(ひむろ)哉(かな) 利重(注2)
【意】海鼠腸を一壺でいい、宮中や殿様に献じるモノと一緒に此の氷室に入れて置いて貰い、夏に食べたいものだ
【解説】季語:海鼠腸(このわた)=三冬 / 当時、氷室の貯蔵品は主として封建領主や皇室への献上品を貯蔵するためのもので、庶民には叶わぬことであった
(注1)海鼠腸(このわた):ナマコの腸(はらわた)の塩辛のこと
(注2)利重(りじゅう(生没年不詳)):尾張国名古屋の人
/『あら野』に入集
460 炭竃(すみがま)の穴(あな)ふさぐやら薄(うす)けぶり 亀洞
【意】炭焼きは、竈の口から点火した後、口を塞ぎ、小さな穴から煙を出し、其の煙が徐々に薄く変化する頃合いを見て穴をも密閉し蒸焼きにする(=吸気口の蓋(ふた)を閉め、空気量を減らして燃焼させ、竈から出る煙が薄くなると竈の入口を密閉して乾留する)/ 此の間、5日~1週間
/ 熱が常温に低下する迄乾留を続けると炭が完成 / 本句は、丁度最後の竈の吸気口を閉める場面を描写している
【解説】季語:炭竃(すみがま)=三冬 / 炭竃の煙は、古来和歌に詠まれて来たが、此の場面を具体的に作業風景として表現しているところが俳諧
【小生 comment 】
次回は、俳諧七部集『あら野』から〔第48回/巻之五~第461句~470句〕をご紹介する。お楽しみに!
■さて今日最初の話題は、「松尾芭蕉『奥の細道』の第17回目」だが、其の前に1つ、前《会報》で松尾芭蕉『奥の細道』の第16回【小松】をお届けした際に一緒にご紹介することを失念していた《会報》「2016年11月 06日(日)【時習26回3-7の会 0625】~〔前略〕「10月29~30日:『城郭&史跡巡り~石川・福井〔城・城跡、苔庭、そして芭蕉【奥の細道】の足跡〕を訪ねて』実施報告〔前編〕」」についてご紹介する。
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2016年10月29~30日の両日、『城郭&史跡巡り~石川・福井〔城・城跡、苔庭、そして芭蕉【奥の細道】の足跡〕』を訪ねて来たのでその模様から其の一部をご紹介する。
《行程表》
【初日(10月29(土))】
05時50分 中嶋宅発
→〔12.7km〕→06時15分
青木〔中岩田〕宅発 →〔1.7km〕→
06時20分 今泉宅発
→〔9.6km〕→06時45分
谷山宅発 →〔11.7km〕→
07時05分 東名高速
音羽蒲郡IC → 〔281.5km 高速道路料金〕→【累計317.2km】
[01]北陸自動車道 女形谷PA 近くで見かけた虹!
我々の旅を祝福してくれる様な美しい虹であった。
10時50分 ①【多太神社】着
〒923-0955 石川県小松市上本折町72
☎0761-22-4089/拝観料:宝物館@400円【累計/1,500円】
[03]斎藤実盛の兜(replica)
此所(このところ)、太田(=(多太)ただ)の神社に詣(もうづ)
真盛(=実盛)が甲(かぶと)・錦の切(きれ)あり〔中略〕
真盛討死の後、木曾義仲願状(がんじょう)にそへて、此社(このやしろ)に
こめられ侍(はべる)よし、樋口の次郎が使(つかひ)せし事共(ことども)、
まのあたり縁起にみえたり
むざんやな
甲(かぶと)の下の きりぎりす 芭蕉
11時30分 多太神社
発 →〔10.5km 20分〕→
11時50分 那谷寺駐車場
着 石川県小松市那谷町ユ122
11時50分 同所
発 →〔93m 徒歩2分〕→
11時55分 食事処『花山(はなやま)亭』着
‥〔那谷寺護摩豆腐をのせたごま豆腐うどん
@700円〕‥
12時40分 同所
発 →〔93m 徒歩2分〕→
12時45分 ②【自生山
那谷寺(なたでら)】着 小松市那谷町 ☎0761-65-2111
入場料:600円+駐車場:有料
真言宗別格本山/花山法皇が「【那】智+【谷】汲山華厳寺」の2字から「那谷寺」と改称
[04]奇岩遊仙境
「花山の法皇、三十三所の順礼とげさせ給ひて後、大慈大悲の像を安置し給ひて、那谷と名付給ふと也
那智、谷汲(たにぐみ)の二字をわかち侍(はべり)しとぞ
奇石様々に、古松(こしょう)植(うえ)ならべて、萱ぶきの小堂、岩の上に造りかけて、殊勝の土地也
石山の 石より白し
秋の風 芭蕉
13時40分 同所
発 →〔12.4km 20分〕→
14時00分 ③【大聖寺(だいじょうじ)城跡】着 加賀市大聖寺錦町 (錦城山公園の東)
1615(元和元)年一国一城令で廃城/1639(寛永16)年 前田利治が前田藩支藩
として7万石で大聖寺藩を立藩、跡地に大聖寺陣屋を設置/入場料なし/駐車場(10台)料金不明 →
14時30分 同所
発 →〔01.1km 3分〕→【累計341.2km】
14時35分 ④【熊谷山
全昌寺】着 〒922-0807 石川県加賀市大聖寺神明町1
全昌寺については、次号《会報》にてお伝えするつもりである。
■続いては、「松尾芭蕉『奥の細道』の第17回目である。
前《会報》【0565】でお届けした【小松】は七月ニ十四~六日(新暦09月07~09日)「近江屋」に3泊した処をお届けした。
15年09月18日(金)【時習26回3-7の会0566】~「『奥の細道』第17回‥【那谷(寺)】【山中】」〔後略〕
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http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/260566170905col.html
前回にも説明したが、その後【小松】には、再び八月五~六日(新暦09月18~19日)に戻って来ている。
今回は、【小松】に戻って来る間の七月二十七日~八月四日(新暦09月10~17日)迄の8日間巡った【那谷寺】と温泉地【山中】についてお届けする。
七月二十七日~八月四日(新暦09月10~17日):「山中/泉屋久米之助宅に8泊す」
〔新暦09月10日:快晴、夕方山の方を夕立通る/11日:快晴、夜に入り雨降る/12~15日:快晴/16日:雨折々降る、暮に及び晴、夜中降る/17日:朝雨止む、巳の刻(午前十時頃)又降りて止む、夜ひ入り降る〕
【那谷(寺)】
《原文》
山中(注1)の温泉(いでゆ)に行(ゆく)ほど、白根(しらね)が嶽(だけ)(注2)跡にみなして(注3)あゆむ。
[08]那谷寺から吉崎御坊跡.へ向かう途上で見た白山2005/04/24
左の山際に観音堂(注4)あり。
花山(かざん)の法皇(ほふわう)(注5)、三十三所の順礼(注6)とげさせ給ひて後(のち)、大慈大悲(だいじだいひ)の像(注7)を安置し給ひて、那谷と名付給ふと也(なり)。
那智(注8)、谷汲(たにぐみ)(注9)の二字をわかち侍(はべり)しとぞ。
奇石(きせき)さまざまに、古松(こしょう)植(うゑ)ならべて、萱(かや)ぶきの小堂(せうだう)、岩の上に造りかけて、殊勝の土地(注10)也(なり)。
石山の石より白し秋の風
[11]石山寺 多宝塔前にて〔社員旅行〕2013/11/30
《現代語訳》
山中温泉(注1)に行く道すがら、白根が嶽(注2)を背にして(注3)歩んでいく。
左の山際に観音堂(注4)がある。
花山法皇(注5)が西国三十三か所の巡礼(注6)をおとげになって後、人々を救う大きな心(大慈大悲)を持った観世音菩薩の像(注7)を安置されて、「那谷」と名付けられたということだ。
三十三か所の最初の札所である那智(注8)と最期の札所である谷汲(注9)から、それぞれ一時ずつ取ったということだ。
珍しい形の石がさまざまに立ち並び、古松が植え並べられている。萱ぶきの小さなお堂が岩の上に建ててあり、景色のよい場所(注10)である。
【意】〔説1〕この那谷寺境内には多く奇石の白い石山があるが、近江の石光山石山寺の石よりも白く曝(さらさ)れている
だが、其処へ吹き渡る秋風は山(=境内)全体の白さが一層引き立たせて、厳かな雰囲気を醸成していることだ
〔説2〕この那谷寺掲題は、様々な奇石がある石山で、白く曝れている
だが、この(=那谷寺の)石山の石よりも、其処へ吹き寄せる秋風は一層白く感じられ、厳かな雰囲気を醸し出している
季語「秋の風」で秋
【解説】本文では、「小松」→「那谷寺」→「山中温泉」の順路になっている。
しかし『曽良旅日記』に拠ると、実際には七月二十二日(新暦09月10日)小松を発ち、夕刻、山中温泉に到着。
同地の「泉屋久米之助」宅に八月四日(同09月17日)迄8泊滞在。
八月五日(同09月18日)那谷寺に赴いている。
即ち、「山中温泉」⇔「那谷寺」が、実際の行程と本文の掲載順が逆になっている。
(注1)山中の温泉(いでゆ):加賀国江沼郡黒笠庄山中村(現・石川県江沼郡山中町)の温泉/小松の南西約24kmの地
(注2)白根が嶽:加賀と飛騨の国境に聳える白山(はくさん(標高2,702m))のこと
/ 富士山・立山と共に「日本三名山」の一つ/歌枕「白山(しらやま)」
(注3)跡にみなして:後方に見る様にして/ただ実際は、小松→那谷→山中へ行く芭蕉一行には東南に見え、後方には見えない
(注4)観音堂:此処では那谷寺(=真言宗 別格本山)を指す
岩窟内部に千手観音を安置し、その前に「大悲閣」という御堂がある
養老元(717)年、泰澄大師が開山/自生山 岩屋寺と号した
寛和(かんな)年間(985-87)に花山法皇が当地に行幸され「那谷寺」と改称
寛永年間(1624-44)に藩主前田利常(1594-1658)が再建
境内の岩山の形状が奇観で景勝の地として知られる
(注5)花山法皇(968-1008):第65代天皇(在位984-86)
村上天皇(926-67)の第二皇子の冷泉天皇(950-1011)の第一皇子
寛和の変:寛和02(986)年06月23日、藤原兼家(929-90)の画策に拠り天皇を退位させられた事件
花山法皇は、この事件以後、観音菩薩を祀る寺院三十三ヵ所を巡拝されと伝えられる
この伝承が「西国三十三ヵ所」順礼の起源となったという俗説があるが、確証はない
(注6)三十三所の順礼:西国三十三ヵ所の順礼のこと
第1番札所「紀伊国 那智山青岸渡寺」~第33番札所「美濃国谷汲山華厳寺」に終わる
(注7)大慈大悲の像:「大慈大悲」=広大無辺の慈悲、特に観世音菩薩の慈悲を言うことが多い
観世音菩薩の像
(注8)那智:第1番札所「紀伊国 那智山青岸渡寺
(注9)谷汲:第33番札所「美濃国谷汲山華厳寺¥」
(注10)殊勝の土地:神聖で厳かな気持ちになる様な土地
【山中】
《原文》
温泉(いでゆ)に浴す。其功(=効)有明(注1)に次(つぐ)と云(いふ)。
山中(注2)や菊はたおらぬ湯の匂
[12]山中温泉 山中座 菊之湯 の前にて中嶋君と2005/04/24
あるじとする物は、久米之助(注3)とて、いまだ小童(せうどう)也(なり)。
かれが父俳諧を好み、洛(らく)の貞室(ていしつ(注4)、若輩のむかし、爰(ここ)に来りし比(ころ)、風雅に辱しめられて、洛に帰て貞徳(ていとく)(注5)の門人となつて世にしらる。
功名の後、此一村(このいっそん)判詞(はんじ)の料(れう)(注6)を請(うけ)ずと云(いふ)。
今更(いまさら)むかし語とはなりぬ。
曾良は腹を病(やみ)て、伊勢の国長島(注7)と云(いふ)所にゆかりあれば、先立(さきだち)て行(ゆく)に、
行(ゆき)ゝてたふれ伏(ふす)とも萩の原 曾良
と書置(かきおき)たり。
行(ゆく)ものゝ悲しみ、残るものゝうらみ、隻鳧(せきふ)(注8)のわかれて雲にまよふがごとし。
予も又、
今日(けふ)よりや書付(かきつけ)消さん笠の露
《現代語訳》
温泉に浴した。この温泉の効用は有馬温泉(注1)に次ぐ程だという。
【意】山中温泉(注2)は素晴らしい
湧き出る湯の匂いは、あの菊慈童の伝説の菊を手折る必要もない立ち込めている
十分に長寿の効き目がありそうだヨ
季語「菊」で秋九月
【解説】「山中や」は、山中温泉を讃える言葉
「たおら」は「たをら」が正しく、「たをる(=手で折る)」の未然形
この句は、中国の故事(注)を踏まえている
我国でも、『太平記』巻十三「龍馬進奏事(りうめ しんそうのこと)」、謡曲『菊慈童』で知られる
(注)周の穆王(ぼくおう)の寵童 慈童が、罪に拠りテツ(麗+おおざと)県という深山に流された
が、其地で菊の下露を吸い、800年(←謡曲では700年)の長寿を保ったという故事
又、謡曲『菊慈童』は、菊の露の力で700年の長寿を保つ童を、魏の文帝(曹丕)の勅命で探索しに行く話
「菊の香も馥郁((ふくいく)=良い香の漂う様)と漂っているが、延命の花「菊」を手折る必要もない程、山中温泉の効能は凄い」と讃えている
即ちこの句は、芭蕉が山中温泉滞在の記念に懐紙に認(したた)めたもの
時は正に「菊」の時節で、謡曲『菊慈童』の故事を引用し、温泉の効用を讃え、「菊の香」と「湯の匂い」を対比させた芭蕉の久米之助への挨拶吟である
宿の主人は久米之助(注3)といって、いまだ少年である。
その父は俳諧を好み、京都の安原貞室(注4)がまだ若輩であった昔、此処に来た頃、俳諧の席で久米之助の父から恥(はずかしめ)を受けたことがあり、京都に帰って松永貞徳(注5)の門人になって励み、世間に知られる立派な俳諧師となった。
そういう訳で、功成り名遂げた後も、貞室はこの山中の地の人々からは俳諧の添削料(注6)を受けなかったという。
この話ももう昔話になって仕舞った。
曾良は腹を患い、伊勢の長島(注7)という所に親戚縁者がいるので、其処を頼り一足先に行くことになり、その際に
【意】自分は師翁に別れ先立って行くが、病身なので歩いた末に行き倒れになるかもしれない
でもいい、後悔しない
それが、今が盛りの萩の原であったなら本望である
季語「萩」で秋七月
【解説】この曽良の句の〔初案〕は「跡あらむたふれ臥(ふす)とも花野原」→〔再案〕「いづくにかたふれ伏(ふす)共萩の原」
この〔再案〕に芭蕉の推敲が加わったものと思われる
という句を書き置いて行った。
先立って行く者の悲しみ、残る者の無念さ、それは恰も二羽で一緒に飛んでいた鳧(けり)が離れ離れになって(注8)、雲の間に迷う様なものである。
其処で私も又、
【意】今日からは、私も一人旅を続けることになる
これ迄笠に書き付けて来た「乾坤無住、同行二人」の文字を笠にかかる露で消して仕舞おう
寂しいことだ
季語「露」で秋七月
【解説】〔初案〕「さびしげに書付消さんかさの露/はせを」を、『奥の細道』執筆時に改めたものとみられる
「書付」は、巡礼者が笠に書き付ける「乾坤無住同行二人」の文字
「同行二人」の書付を「笠の露」で消して仕舞おう、という訳だが、「露」は季語であると共に別離の「涙」の意をも表している
(注1)有明:曽良本・柿衛本に「有馬」とあり正しくは「有馬」/有馬温泉は兵庫県神戸市北区にある日本三古湯の一つ
(注2)山中:山中温泉/現・石川県加賀市
(注3)久米之助:山中の温泉宿「泉屋甚左衛門」の幼名(芭蕉来訪時14歳)
この時入門、桃夭(とうよう)の俳号を与えられ、宝暦元(1751)年没(享年76歳)
(注4)洛の貞室:安原貞室(1610-73)/名は正明(まさあきら)/通称:鎰屋(かぎや)彦左衛門/寛永02(1625)年
松永貞徳に俳諧を学ぶ/後に二代目貞徳を名乗る
(注5)貞徳:松永貞徳(1571-1654)/京都の人/俳人・歌人・歌学者/貞門派俳諧の祖
(注6)判詞の料:「判詞」は、歌・句などの優劣の判定を述べた言葉/「料」は、料金
(注7)伊勢の国長島:現・三重県桑名郡長島町/当時、松平佐渡守忠充1万石の城下町
(注8)隻鳧:「隻」は、対になって居る一方
即ち二羽いた鳧が別れて一羽になった状況を言う/「鳧」」
[13]鳧(けり)
【小生comment】
「石山の石より白し‥」の「石山」は、果たして「近江石山寺」か「那谷寺」なのか?
因みに、近江「石山寺」境内にある硅灰石を含んだ結晶質石灰岩の奇岩は、「石山寺硅灰石」として天然記念物に指定されている。
「硅灰石」は本来「白亜」の輝きがあるという。
一方、「那谷寺」の奇岩は、石英粗面(そめん)岩質の凝灰岩から成っている「灰白色」である。
実際、小生は両所共訪れたことがある。
撮影時年(2005年と2007年&20013年)が異なるので何とも言えない。
が、添付写真[02]の「那谷寺」の奇岩と、[03][04]の「石山寺」の奇岩をご覧になって如何でしょうか?
山本健吉氏は、著書「日本の古典に親しむ7~『奥の細道』」【那谷寺】で次の様に述べている。
寺には石英粗面岩質の凝灰岩からなる灰白色の岩山があり、岩窟に観音を祭っている。
その白く曝された石拠りも吹き過ぎる秋風は更に白い感じがする、といったのである。
四季を色に見立てた時、秋に白色(=無色)を配する中国の考え方に基づき、秋風を「色無き風」とも言っている。
それにこの時、芭蕉が秋風を白いと感じたのは、気持ちの底に長い道中を連れ立ってきた曾良と別れたという悲しみがあって、索漠とした思いを深くしていたのであろう。
多くの注釈がこの石山を近江の石山ととり、石山寺の石より那谷寺の石が更に白い、という意味にとっているが、そういう比較は詩としてつまらない。
山本氏の感想は、小生強く共感出来るものがある。
確かに、芭蕉は大津〔石山・膳所・儀仲寺〕と大変深い縁があるが、この句の「石山」即、「石山寺」というのは穿ち過ぎだと思う。
此処では、「那谷寺の石山より白い、秋の風」だと解釈した方が自然な様な感じがする。
■続いての話題である。
先ず最初は、2014年04月13日開催の【時習26回生卒業40周年記念事業】第3回豊橋支部幹事会に続いて開催した翌月の05月18(土)~19(日)に実施した記念懇親会開催地『京都事前踏査旅行』の模様について懐かしさを感じ乍らお伝えする。
2013年05月と言えば、もう7年3箇月前の昔日の事だが、写真を見返していたら、写真に写っていた事柄の夫々が恰も昨日の様に思い起されて来た。
猶、懇親会・旅行終了後に参加された皆さんに配布した記念DVDに up した写真以外にも色々な写真を今回初公開するつもりなのでお楽しみに!(^^;
添付写真の5枚は以下の通り‥
【2013年05月18日 京都事前踏査1:午前の部】
[14][左上]京都伏見・神聖酒蔵
鳥せい本店を起点に伏見酒蔵と幕末史跡巡りのroute
[左下]寺田屋の前にて
[右上]宇治川派流沿いに歩く
[右中]宇治川派流の十石舟
[右下]出発地の鳥せいに帰り、昼食を注文後のひととき〔今回初公開!〕
2013年5月26日(日)【時習26回3-7の会 0447】~「《時習26回生卒業40周年記念旅行兼懇親会》に向けての『京都下見旅行』実施報告」
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http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/26-04472640-666.html
【2013年05月18日 京都事前踏査2:午後の部】
此の事前踏査は、以下にお示しした一泊二日に亘る『京都事前旅行』行程表に従い、初日の午後は、全体行動と分担行動に分け、二日目は全員一緒に行動する様に計画し実施した。
2013年5月17日(金)【時習26回3-7の会 0446】~「《時習26回生卒業40周年記念旅行兼懇親会》に向けての『京都事前旅行』行程表について」〔後略〕
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写真は、水藤君【3-6】と二人で、京都市左京区を踏査。
具体的には、京都を事前踏査した其の年、NHK大河ドラマ『八重の桜』が放映されており、翌年の Optional Tour の有力候補として、新島襄・八重夫妻の舞台となった、同志社女子大、二人の住居・墓等が挙がった。
同志社女子大は、翌19日に全員で踏査することになっていたので、初日18日は、小生、水藤君と、左京区鹿ケ谷若王子山町にある「新島襄(1843-90)・八重(1845-1932)夫妻の墓」や、八重の国許である会津藩の藩主・松平容保(1836-93)が28歳の1862年、京都守護職に就き、京都の治安を守った際に駐屯地となった、左京区黒谷にある金戒光明寺等を訪れてみた。
二人は、此の2つの史跡を core に、周辺の観光名所として「永観堂」「哲学の道」も踏査した。
[15][左上]禅林寺(=永観堂)多宝塔を back に水藤君と
[右上]新島襄・八重夫妻の墓地にて水藤君と
[左下]哲学の道にて
水藤君と
[中下]金戒光明寺
會津墓地へ 水藤君と
[右下]金戒光明寺
三重塔を back に水藤君と
【2013年05月18日 京都事前踏査3&4:夕べの部】
[16]祇園の舞妓さんを交えての「料亭【鶴清】での川床」での夕べの宴 scene1~5
夕べの宴は、18時00分に始まった。
今回のMain Event は、祇園の花街から夢に迄見た「舞妓さん」を呼んであることだ。
舞妓さんは、自身の置屋を出発してから置屋へ到着する時間計120分単位での支払いだった。
会場の鶴清は地の利に恵まれているので、18時15分には舞妓さんのお目見えとなった。
彼女に、其の当時の舞妓さんの人数と、彼女の出身地を尋ねてみた。
舞妓の数は66人、彼女は埼玉県飯能市の出身だそうだ。
[17][左上]祇園の舞妓さんを交えての「料亭【鶴清】での川床」での夕べの宴の仕上げ「全体写真1」
[右上]同上2
舞妓さんは、20時00分に置屋に帰る関係から、19時50分には帰って行った
[17][左下]来(2014)年6月開催の懇親会会場「料亭【鶴清】」の大宴会場
‥此の舞台で舞妓さんに踊って貰う予定‥
[中下]問題は、畳の上に此の椅子と机を置いて芸妓さん・舞妓さんの踊りを見るか‥
[右下]昔からの、畳の上に座って芸妓さん・舞妓さんの踊りを見るか‥議論になった
其の結果は、皆さん、御記憶の通り、従来の畳に座ることになった。
【2013年05月18日 京都事前踏査5:夜(二次会)の部】
[18][左上]福井君【3-9】が大学院時代に常連として通ったという、祇園にあるスナック「寿満子」
福井君も、暫くぶりの訪問らしくちょっと tension 高め!?
[右上]スナック「寿満子」にて
二次会開始にあたり、福井君の思い出話を含めた熱い一言披露!
[左下]二次会を終えて1
二次会会を終え、会場「寿満子」を出たら、舞妓さんが通り過ぎて行く‥流石に京都・祇園だ!
[中下]同上2
宵闇の中でも、京都・祇園の弁柄(べんがら)色の料亭の壁の色は情緒があっていい‥
[右下]同上3
明(19)日の事前踏査の日程も盛り沢山なので、みんな後ろ髪を引かれる思いで21時45分に「寿満子」をあとにした
時習26回生卒業40周年記念懇親会を京都で開催するという小生の意見が豊橋支部幹事のみんなから承認されたことが嬉しかった。
勿論、幹事会等にはみんな極力都合をつけて参加くれて、遣るべきことが着実に決まりキッチリと進んで行けたことは、幹事のみんなの協力があったことは言うまでもない。
そしてなかでも、此の懇親会を挙行するに当たり、小生が代表幹事に就いた時から、中嶋君【3-2】が全面的に応援してくれると約束してくれていたのが大変心強かった。
何となれば、彼は、大学時代から、一時英国へ留学していた時期を除くと、20年以上京都に住んでいて当地のことについて知り尽くしていたからだ。
会場の料亭旅館『鶴清』も、彼の京都に於ける広い人脈から仕入れた情報で実現出来たのである。
そして、個人ではまず実現出来なかったであろう、祇園の芸妓・舞妓さんを宴に呼んで懇親会を催すという夢みたいなことを自分の手で実現出来る喜びを噛み締め乍ら準備を進めて行った。
2013年05月18~19日に実施した「時習26回生卒業40周年記念懇親会&旅行in京都2014」に向けての豊橋支部幹事合同の事前踏査二日目の模様についてお届けする。
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【智積院での朝のお勤めに参加して】
此の日は、小生の予定には上げてなかったが、井垣君の提唱で数名が智積院にて催されている朝のお勤めに行くというので、小生もやゝ遅れて出発し、午前6時少し前に彼等一行に追い付いた
06時00分 智積院着
[右上]智積院前の路を歩く井垣君一行
[左下]お勤めの会場「金堂」へ向かう
[中下]「金堂」に隣接する、護摩のお勤め会場「明王殿」へ
[右下]智積院のロビー
朝のお勤めは、06時40分頃には終了し、料理・旅館「鶴清」へ戻った
08時30分「鶴清」での朝食
【「鶴清」での朝食】
[右上]朝食会場に集まった面々1
[左下]同上2
[中下]料理・旅館「鶴清」の玄関から外を望む
09時40分「鶴清」を出発
10時30分 出町「ふたば」に立ち寄る
[20][右下]出町「ふたば」の名物「豆大福」を買う面々
10時40分 同支社女子大学着
【同志社女子大学「栄光館」】
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[21][左上]同志社女子大学
東門前の旧五摂家の一つ「二条家邸跡」石碑
[右上]同 栄光館前にて1
[左下]同 同上2
[右下]同 同上4
10時48分 同志社女子大学
正門発
11時02分 蛤御門着
【蛤御門(はまぐりごもん)】
[右上]同 同上2
[左下]同 石碑
[中下]同 門の弾痕に見入る面々
[右下]同 解説板
11時10分 蛤御門発→
11時35分 新島襄旧邸着
【新島襄旧邸】
[右上]同志社校友会
新島会館ロビーで束の間の休息をとる面々
[左下]同支社キャラクター「八重さん」
[中下]新島襄旧邸内部1
[右下]同上2
12時10分 新島襄旧邸発→料理・旅館「鶴清」帰着→車に乗り換え→昼食→
14時30分 東福寺駐車場着
14時35分 東福寺
臥雲橋着
【東福寺
臥雲橋から通天橋遠望→光明院】
[24][左上]東福寺
臥雲橋から新緑が美しい「通天橋」遠望
[右上]同 臥雲橋にて1
[左下]同 同上2
14時39分 東福寺
臥雲橋発→
14時44分 東福寺塔頭
光明院着
晴れ男の小生だったが、五月雨が降って来た。
此の時季、そぼ降る五月雨も情緒あって絵になる!
[24][中下]光明院
山門
[右下]同 波心庭1
昭和の庭師、重森三玲(1896-1975)が作庭した傑作で絶景である
【光明院〔波心庭〕→東福寺「三門」→東福寺方丈庭園】
[右上]同 同上3
五月雨が、しっとりと苔を濡らす美しい情景を眺めて拙歌が一首浮かんだ‥
此の拙歌は、添付写真[30][31][32]と共に「時習26回生卒業40周年記念懇親会&旅行in京都2014」記念DVDに up した。
苔庭や
そぼ降る雨に 映(は)ゆる君 想ひ起こさば 恋しかるらむ 悟空
[25][左下]東福寺【国宝】三門を back に1
[中下]同 同上2
[右下]同 本坊庭園
此の東福寺庭園も、光明院・波心庭と同じく、重森三玲の策定に拠る。
16時30分 東福寺駐車場発→途中SAにて夕食
20時半頃 豊橋着 解散〔了〕
「時習26回生卒業40周年記念旅行兼懇親会in京都」京都事前踏査に続いて、翌月2013年06月15日に開催したクラス会についてである。
【2013年06月15日開催【時習館高校【1年4組】クラス会】開催報告】
[26][上][下]2013年06月15日開催【時習26回1-4】クラス会 at Try Again in 豊橋
此の【1-4】「クラス会」は、ある意味偶発的に催された。
何故なら、当初は【1-4】の「クラス会」を開催するつもりはなかったからである。
事の発端は、昨日Facebookでお伝えした「時習26回生卒業40周年記念旅行兼懇親会」京都事前踏査(2020/05/18-19実施)後の幹事会の運営方法を考えていたことに始まる。
「豊橋支部幹事会」の幹事は現状22名いるので、都度招集するには人数が多過ぎる。
運営は数名の幹事で行い、作成案を幹事会で決議するのが合理的・効率的で望ましい。
そう、他の幹事会membersからも助言を貰っていた為、小生が頼りにしている水藤君【3-6】と中嶋君【3-2】に相談、「一度会おう」ということになった。
其の時、小生の頭に閃いたのが時習26回生【1-4】というkey wordだ。
我等3人は【1-4】のclassmatesだったからだ。
豊橋支部幹事会 members 22人の中では、飯田君【3-2】と林K子さん【3-7】も【1-4】のclassmatesだ。
此処で、話はドンドン拡大して行き、当該5人の他、此れも過日 Facebook でご紹介した前(2012)年07月07日に故・山田裕則君を偲ぶ会に集まった【1-4】仲間の安形君【3-2】と宮田君【3-2】にも声をかけ、更に岩瀬君【3-4】、波田野君【3-8】、鈴木H君【3-9】、竹下(相楽)君【3-10】の4人にも‥と、総数11人迄に拡大。
結果的に、当日急用等で安形君、飯田君、水藤君の3人は欠席となったが、残り8人が何年振りかに一堂に会した大変懐かしい【1-4】のクラス会となった。
そもそも高校3年次ではなく、何故1年次の【1-4】クラス会が屡々開催出来るのかというと、此れも過日お話したが、岩瀬君【3-4】が高校卒業以来十数年間ずっと幹事を引き受けてくれて【1-4】クラス会を開催してくれていたお陰である。
時習26回生【1-4】クラス会には、【2637の会】membersでは、林さんのほか、神奈川県在住の渡辺さんも、時々参加してくれていた。
そんなこんなで、06時丁度に始まった【1-4】クラス会は大変盛り上がり、閉会予定時間20時を30分以上もoverしての散会となった。
後日、岩瀬君が「まあ。よく、あんなに長く堅い話ができたものですね
/ これからもちょくちょくやりましょう」という感想をくれたが、正にそういうクラス会だった。
何せ、小生を除く男6人は、06月15日のクラス会開催当時、兼職を含む延べ人数だが、大学教授2人、県立高等学校校長1人、弁護士1人、医者2人、政令指定都市の総務課長1人というお堅い、そしてエライ方々だったから‥。(笑)(^^;
時習館高校【1年4組】クラス会開催から4箇月余り経った2013年10月27日に、我等が母校時習館高等学校にて開催された催事についてご紹介する。
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【2013.10.27『Jishukan Open Forum 2013』】於:時習館高校の各教室
2013年10月27日(日)は、母校時習館高校で「時習館創立120周年記念事業」の式典と「Jishukan Open Forum 2013」が、我等が母校時習館高等学校にて開催され、同期の一人が講演者に会なっているので応援も兼ねて拝聴して来た。
講演会「Jishukan Open Forum 2013」は、式典の終了後の「13時20分~14時10分」と「14時30分~15時20分」の2時限の授業形式で催された。
時習16回生~40回生の25年次に亘るOBの代表各1人が講演者になっている。
我等が26回生からは、(2013.10.27)現在・関西地区の某テレビ局で部長を務めている鈴木Y君【3-8】(写真前例中央)が「三河文化の来し方行く末」という演目で講演した。
[27] 講演授業終了後に鈴木Y君を囲んで聴講者との全体写真
今から丁度10年前の2010年5月のお話‥
【2010年05月22日『時習26回【3-8】担任 滝川先生による土曜講座』に参加して】
今日最初の話題は、掲題・副題にある様に、05月22日(土)10時半から正午過ぎ迄、豊橋西駅至近のサーラビル〔旧中部ガス本社〕2階ある社会人向け土曜講座「サーラときめきアカデミー(Academy)」で『我等が時習26回【3-8】担任滝川元雄先生が講師を務める土曜講座』に参加して来たことについてご報告させて頂く。
此の講座は、月2回×3箇月が=6回が1クール(cours)で、現在3cours目。あと06月05日(土)と19日(土)の2回ですが、次の4cours目もあるとのことなので其れも楽しみだ!
題材は、『江戸時代の農村を中心とした社会制度』について、「江戸幕府による農民の治め方の仕組みを理解した上で、その制度がご当地、三河に於いてどの様に適用されていたか」を勉強するものである。
村方三役〔【名主・庄屋】【組頭】【百姓代】〕、年貢額の算定方法の『検見(けみ)法』と『定免(じょうめん)法』の違い、を初め、1649(慶安02年)年に発布されたとされる「慶安の御触書」等について勉強した。
此の「慶安の御触書」は、32ヶ条文と奥書から成っており、微に入り細に入り、農民の生活の仕方を、質素倹約して年貢米等を確り生産出来る様に規定しているのには恐れいった。(笑)
其の中の一文がとても面白いのでご紹介する。
こんなこと迄指導するとは江戸幕府もチョット遣り過ぎ‥!?(笑)
〔前略〕女房はおはたをかせぎ、夕なべを仕(つかまつ)り、夫婦共にかせぎ申すべし
然れば、みめかたちよき女房なり共、夫の事をおろそかに存じ、大茶をのみ、物まいり、遊山ずきする女房を離別すべし、さり乍ら、子供多くこれ有りて、前簾恩をも得たる女房ならば格別なり。又みめさま悪しく候とも、夫の所帯を大切にいたす女房をば、いかにも懇(ねんごろ)に仕るべき事
敢えて、訳文を付けなかったけど如何でした?
滝川先生の講義に拠るとても楽しい90分間だったと記憶している。
先生は、早稲田大学OBで、学部は文学部だったかな?
何でも図々しい小生、講義が終了後、先生に了解を戴き記念写真を一緒に撮らせて頂いた。
ソコソコのズーズーしさは、寧ろいいと今確信している。
何故なら、今、こうして10年前の懐かしいひとときを顧みることが出来、皆さんにもご紹介できるからだ
滝川先生は、昭和10年生まれとのことで、我々より丁度20歳年上だから、此のスクール開催時は満75歳. 先生は、ご覧の様に髪こそ白髪だったが、顔の色艶も良く大変若々しくお元気でいらっしゃった。
しかし小生、滝川先生の近況は存じ上げない。
同じ早稲田大学OBの、【3-4】担任の藤掛先生や【3-7】担任、鈴木鉄三先生が鬼籍に入られたので気にかかる。
現在もお元気でいらっしゃるだろうか?
ご存知の方がいたらこのFB不老荘でも、小生のFBでもいいので教えて頂ければ幸甚の到りである。
【2010年04月10日(土)『時習26回ミニ同期会』】
[29][左上]=時習26回同期の手塚君と=
2010年04月10日(土)17時半から、有志による【時習26回ミニ同期会】を豊橋駅前にあるトライアゲインにて開催した。
此の時の参加者は、飯田君【3-2】、水藤君【3-6】、林K子さん【3-7】、手塚君【3-10】と小生の5人。
手塚君を除く4人は、旧【1-4】のclassmates。
手塚君と小生は、同じ旧行勤務の仲間で旧知の間柄。
小生、30歳代初めの東京・千代田区大手町にある東京本部の融資部事業調査室勤務時代、彼は国際関係部に所属し、小生は7階、彼は18階に勤務していた。
此の写真を撮影した時代は、旧行の retail 業務の小生が田原支店、彼が新城支店の責任者として、同じ豊橋地区の部支店長会の同僚として親しくさせて頂いていた。
又、手塚君は、水藤君や林さんと中部中学校の同窓同期仲間である。
此の集いでは、其の当時、時習館高校で数学の教鞭をとっていた飯田君から其の当時の最新の時習館の話を聞かせて貰った。
例えば、当年度から校長が替わり、「@65分/時限×5時限 → @50分/時限×7時限」へと時間割編成が変更、前年で第2回目となる「全国数学選手権大会」で時習館高校が全国制覇を二年連続で成し遂げた話等々をジックリと‥。
此の時習26回生5人の同期会は滅茶苦茶盛り上がり、気が付いたら23時。
トライアゲインのママには申し訳なかったが、あっと言う間に5時間半が経っていた。
【2011年10月03日『旧銀行時代の同期等と』】
[29][右上]=旧行同窓の手塚君と
小生、上記同期会から1年半後の2011年10月03日、トライアゲインにて旧銀行時代の同期等と4人で飲み会を開催した。
此の時集った4人は、写真右から2人目の山田君を
core に浅からぬ縁で結ばれた仲間だった。
何となれば‥
(1)
4人のうち、小生を除く3人は旧行の国際畑での仲間
(2)
手塚君と小生は【時習26回】の同期
(3)
手塚君の右隣の山田君は小生と大学の同期
(4)
山田・手塚・今泉は旧行 retail の部長と店長の間柄
(5)
写真右端の加藤君は山田君と東海高校の同窓同期で親友
‥といった具合に‥
そして、我等4人は全員既に旧行を退職し第2の人生を歩んでいる。
18時00分時から飲み始めて21時半迄楽しい同期の語らいのひとときを過ごすことが出来た。
気の置けない同期の仲間との語らいは本当に愉快である。
此の会も、名古屋在勤在住の山田君が arrange してくれて、「偶には‥」と小生のいる豊橋にてわざわざ開催してくれた。
山田君の温かい心遣いに深く感謝した次第である。
此の頃は小生、ほぼ毎週、何らかの形で、高校・大学・旧行時代の仲間と会っていて楽しかった。
其れだけ体力もあったということだナ‥。
[29][左下]2010年04月17日(土)【時習26回卒業40周年記念旅行へ向けての集い〔第1回〕】
此の模様は、既に報告済なので、写真のみ up する。
[29][中下][右下]2010年04月21日(水)『新東名高速道路建設現場視察会』に参加して時習26回生同期等と
写真[中下]伊東君【3-7】、[右下]大場君【3-9】
2010年04月21日(水)13時00分~18時過ぎにかけて、地元団体主催の『新東名高速道路建設現場視察会』に参加して来た時にも二人の時習26回生の同期と偶然一緒になった。
13時過ぎに Bus で豊橋駅前を出発した我等は、まず、その Bus の中で、NEXCO中日本の課長さんから、所管の「新東名高速道路」工事の現状について、説明を受けた。
そして、最初に向かったのが、現在は開通して稼働している「鳳来 tunnel」工事現場であった。
其処で起きた happening は、まず【2637の会】仲間の伊東君【3-7】に会ったこと。
そして其処で小生、伊東君から紹介して貰ったのが、大場君【3-9】だ。
ホント、人と人との縁は摩訶不思議である‥。
此処からは、2009年~2013年迄の「時習26会ゴルフ会」の皆さんをご紹介していく‥
[30]2009年11月08日『時習26会ゴルフコンペ』記念写真
[31]2010年11月14日『第24回・時習26会ゴルフコンペ』記念写真〔サン・ベルグラビアCC〕
[32]2011年04月03日『第25回・時習26会ゴルフコンペ』記念写真〔キャッスルヒルCC〕
[33] 2012年04月22日『第27回時習26会ゴルフコンペ』記念写真〔額田ゴルフ倶楽部〕
[34] 2012年10月28日『時習26会コルフコンペ』記念写真〔額田ゴルフ倶楽部 西コース〕
[35] 2013年04月21日『時習26会ゴルフコンペ/2013年春期』記念写真〔額田ゴルフ倶楽部
東コース〕
[36] 2013年11月10日『時習26会ゴルフコンペ/2013年秋期』記念写真〔ザ・トラディションGC〕
続いては再び『時習26回生卒業40周年記念懇親会』関係の話題である。
2014年02月15日(土)に「時習26回生卒業40周年記念懇親会 in 京都2014」に向けて~『懇親会初日optional tour 事前踏査』して来た模様についてと、翌02月16日(日)時習館高校 会議室にて開催した「時習26回生卒業40周年記念懇親会に向けて~『豊橋支部幹事会』開催報告」についてお伝えする。
大変文章が長いのでかなり割愛したが其れでも長くなって仕舞った
/ ご容赦あれ。
実施した事前踏査を踏まえ、『懇親会初日 optional tour course 』を以下の通りに一部変更した。
そして、其れ等の案は、翌日
母校時習館高校会議室にて開催された「豊橋支部幹事会」にて承認された。
【
幹事が同伴する推奨course‥《金閣寺→龍安寺( →仁和寺→四条河原町 )を巡る》 】〔詳細略〕
【 懇親会会場となる料理旅館『鶴清』を集合場所とする 】〔詳細略〕
当初案では、市営地下鉄烏丸線「北大路」駅から徒歩で‥→(1800m)「大徳寺 高桐院」→(1600m)→「鹿苑寺 金閣」→(200m)→昼食処「権太呂」→(1300m)→「龍安寺」→(400m)→「龍安寺駅」→京福電鉄 北野線〔「帷子ノ辻駅」経由〕→京福電鉄 嵐山本線→「太秦広隆寺駅」→(200m)→「広隆寺」の4つの寺院巡りを考えたが、実際に歩いてみると、「北大路」駅→「大徳寺
高桐院」→「金閣寺」迄の3.5kmの移動時間が通算で約1時間かかり結構シンドイことが解った〔詳細略〕
[37]大徳寺高桐院にて中嶋君(左)と小生
【小生comment】
02月15日は生憎の雨天だった。〔中略〕
事前踏査をして良かった。〔中略〕
此れを踏まえ、「懇親会」翌日のoptional tourも「東福寺→伏見稲荷大社→伏見酒蔵」も事前踏査が矢張り必要かな、と感じた。
続いては、翌02月16日(日)時習館高校 会議室にて開催した「時習26回生卒業40周年記念懇親会に向けて~『豊橋支部幹事会』開催報告」についてである。
【
承認 】1.初日の【複数の】optional tourの候補先選定 及び そのうち1courseを推奨courseとする件〔中略〕
【
承認 】2.懇親会二次会会場を「ミュンヘン」とする
【
承認 】3.二日目のoptional tourの候補先と昼食場所の選定
「東福寺 臥雲橋‥通天橋遠望」→「東福寺 国宝「三門」前にて記念写真」→「東福寺 塔頭『光明院』」→「伏見稲荷大社」→「深草駅」発〔@200円‥京阪本線準急→「中書島駅」→「昼食処 京の台所『月の蔵人』」→「12時45分 懇親会旅行の中締め」→「寺田屋」→「宇治川派流・十石舟乗船場」→「月桂冠大倉記念館」→【解散】
【
承認 】4.会費の事前徴収範囲:懇親会と宿泊費を事前徴収する
【
承認 】5.申込者辞退に伴う、事前徴収した会費のcancel方法
【
承認 】6.舞妓&芸妓&地方(じかた=三弦弾)の内訳について
地方1名、舞妓2名、芸妓1名の4名とする〔地方=舞妓=芸妓=@43,000円〕→参加者が86人なら、@500円で1人招聘出来る
∴4人=2,000円(@500円×4人)‥→・地方&舞妓&芸妓1人当たり参加者21.5人を相手する人数割になる
※ 地方・舞妓・芸妓は、cancelが出来ない。現状、地方1人、舞妓2人 予約済
※ 残り1人は芸妓とし、参加人数を見極めた上 招聘するか否かを決定する‥→【結果】芸妓2名を追加し、全5人招聘した
【
承認 】7.宿泊施設について、部屋割り方法のルールづくり
【
承認 】8.次回『案内状』出状予定日と締切日:「案内状の配信」を3月下旬~末日迄、「回答期限」を4月末日とする
事前振込期限を5月20日(火)とする
京都リッチホテル・鶴清への内金 事前振込期限を5月末日とする
詳細は割愛したが、疑問点や懸案が次から次へと湧いて来る様に出て来て大変だった。
2020年09月05日(土)は、「平野美術館」→「秋野不矩美術館」→「二俣城跡」→「鳥羽山城跡」を巡って来た。
05時00分 起床→腹筋2,000回→06時00分 2.5kg木刀素振り60分→
07時10分 入浴→朝食→08時30分 拙宅発→一般道 45分 40km→
09時30分 補聴器センター:補聴器の maintenance→09時45分
同所発→一般道 5分 1㎞/41㎞→
09時55分 平野美術館着
10時00分 平野美術館『どうぶつ大集合』展
【平野美術館『どうぶつ大集合』展】1
[右上]同上2
[左下]平野美術館入口にて
[中下]陳珮怡(チン ペイイ)『沐月』
[右下]渡辺崋山(1793-1841)『猛虎図』1838年
[左下]野々内良樹『緑映』
[右上]小林清親『蝶に猫図』1897年頃
[右中]竹内栖鳳『宇佐支』1927年頃
[右下]伊藤髟耳(ほうじ(1938- )『庄屋さんの家族』2006年
10時44分 平野美術館発→一般道46分 22㎞/63㎞→
11時30分 浜松市秋野不矩美術館着
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【浜松市秋野不矩美術館『秋野不矩
色ふる筆の跡Ⅰ』展】
[40][左上]浜松市秋野不矩美術館
駐車場付近の本企画展看板にて
[左下]同 建物前にて
[右上]秋野不矩(1908-2001)『青年立像』1956年
[右中]同『廃墟Ⅱ』1989年
[右下]同『帰牛』1995年
12時08分 浜松市秋野不矩美術館発→一般道8分 1㎞/64㎞→
12時16分 二俣城跡駐車場着
【二俣城跡】
[右上]同 同上2
[左下]同 二の丸・本丸前にて1
[中下]同 同上2
[右下]同 二の丸にて
[右上]同 本丸にて1
[左下]同 同上2
[中下]同 本丸天守台前にて1
[右下]同 同上2
12時50分 二俣城跡駐車場発→7分 一般道600m/65㎞→
12字57分 鳥羽山(とばやま)城跡駐車場着
【鳥羽山城跡】
[右上]同 大手道入口にて
[左下]同 鳥羽山城跡
解説板
[中下]同 富安風生句碑にて
「天龍の へりに椅子おく 夕涼み 風生」
[右下]同 本丸にて
13時30分 鳥羽山城跡発→一般道75分 47㎞/112㎞→
14時45分 帰宅〔走行距離計112㎞〕〔了〕
2020年09月06日(日)は、豊橋市と豊川市の境近くにある「当古橋(とうごばし)」迄の往復16㎞を4時間程かけて walking して来た模様についてお伝えする。
05時00分 起床→腹筋2,000回→06時00分 2.5kg木刀素振り60分→
07時10分 入浴→朝食→08時34分 拙宅発→徒歩→
【当古橋への walking 16km】
[右上]当古橋
袂の「豊川」を示す看板
[左下]同にて1
[中下]同上2
[右下]同上3
[45][左上]当古橋を東から西へ渡り南進して直ぐ豊川河畔にて
[右上]豊川と豊川放水路を back に
全長6.6kmの豊川放水路は、1965(昭和40)年07月に通水を開始して今年で55年が経過
1965(昭和40)年07月に通水した時は、八町小学校4年次で、午前中だったか、全校生徒向けに「豊川放水路が今通水を開始した」旨の校内放送が流され聞いたことを今でも覚えている
この55年間、一度の氾濫もなく、豊橋に安寧を齎してくれた
[45][左下]「羽衣の松」にて
[中下]「羽衣の松」解説板
[右下]今日の walking の結果
約20分の休憩を含め04時間06分で16㎞を踏破〔歩数20,905歩 / 平均歩速は4.24km/時〕だった
Walking
の後、昼食を摂り、昼寝して閉館直後の後片付けの
最中の16:05に豊橋市美術博物館を訪れた
【豊橋市美術博物館『第42回豊橋美術展』を見て】
[左下]同 館内入口の本企画展 banner 前にて
[右上]同 展示されていた小生叔父貴の作品
今泉勇(1930- )『宮島大鳥居』
以下に、叔父貴の水彩画作品2点を紹介する
[右中]今泉勇『面の木
紅葉』〔光生病院へ寄贈〕
[右下]同『面の木
紅葉』〔拙宅蔵〕
叔父貴は、冨安昌也先生の弟子だけあって矢張り確かな技量を感じさせる
【後記】今日は、今の時節「白露」に因んだ名句を2句お示しして締め括る。
今(2020)年は、09月07日に「白露」を迎えた
「白露」というと『露』!
其の「露」を theme にした名句というと、川端茅舎(1887-1941)の「金剛の露ひとつぶや石の上」と共に飯田蛇笏(1885-1962)の「芋の露 連山影を正しうす」が直ぐ浮かぶ
此れ等の2句は、昨年の此の時季にご紹介したが、素晴らしい名句なので再度ご紹介してみたい
今日は、先ず川端茅舎(1897.08.17-1941.07.17)の作品についてご紹介したい
金剛の露ひとつぶや石の上 茅舎
俳人草間時彦(1920-2003)著「俳句十二か月」の九月の処で草間氏は次の様に紹介している
「川端茅舎は露の茅舎と呼ばれた。露の句が多かったし、また、その句はすべて、名作だったからである
昭和八年刊の『川端茅舎句集』の四季別の秋の部の冒頭には露の句が26句並んでいる。
この「金剛の露ひとつぶや石の上」の句はその中の一句で、しかも、露の句の代表作というべき句である〔中略〕
石の上の一粒の露の玉を凝視した茅舎は、その露が朝日を受けて光るのを、宝玉のごとくに見た〔中略〕
金剛は梵語から転じた仏教語で、金剛界の諸仏に冠する語である〔中略〕
儚い散りやすい露の玉を金剛不壊(ふえ)と見た茅舎の眼にはその露が生きているもののように見えたのだった〔中略〕
(俳人)石田波郷(1913-69)はこの句の短冊を書斎の柱に掛け「時に心迷ふとき、この短冊を見てゐると、迷の雲はうちはれてくる思ひがする」と述べている〔後略〕」
「白露」では、次の作品も彼の代表作だ。
白露に阿吽(あうん)の旭(あさひ)さしにけり 茅舎
(俳人)秋元不死男(1901-77)は、著書「俳句入門」で‥
「‥「阿吽の旭」という表現に思いをこらせば、此の句のもつ、みなぎった自然のエネルギーが、はずみのある声調のなかでうたいあげられている力強さと緊張感を覚えずにはいられないはずである〔中略〕
白露も精気に満ち、朝日も精気にあふれ〔中略〕いいようもない天地一瞬の、接触の気合いが、「阿吽の旭」のなかにある〔後略〕」と述べている。
川端茅舎の略歴を以下に記す
彼は
は、日本画家の泰斗 川端龍子(1885-1966)の異母弟
若い頃、藤島武二 (1867-1943)絵画研究所に通い、更に岸田劉生 (1891-1929)に弟子入し、のち茅舎自身の作品が春陽会に入選するなど西洋絵画の腕前も確かであった
しかし師の岸田の死後は、茅舎自身が結核(=脊椎カリエス)に罹患した病弱な身であった為、仏道に傾注すると共に俳句の道に本格的に入って行った
「ホトトギス」への投句で雑詠の巻頭句選ばれる様になり、1934年に同人となった
彼は、阿波野青畝 (1899-1992)、高野素十 (1893-1976)、水原秋桜子 (1892-1981)、山口誓子 (1901-1994)等 4S の後、松本たかし (1906-1956)、中村草田男 (1901-83)と並び称された「ホトトギス」の代表的俳人である
高浜虚子は、茅舎を「花鳥諷詠真骨頂漢」と高く評価している
1941年07月 肺患の悪化に拠り死去〔享年43歳〕
川端茅舎は、師・虚子が「花鳥諷詠真骨頂漢」と評した鋭い観察眼を持つ一方、仏道の仏教用語や「‥の如く」を使った比喩の句の名句を数多く残している
ご紹介した二句から茅舎の鋭い感性と、名句が表す高い芸術性や精神性を感じ取って頂ければ、と思う
[47]2019年08月28日に Facebookに up した「露」の写真
今日続いては、以前にもご紹介したが、飯田蛇笏氏の此の作品について、我等が時習館高校の大先輩にあたる富安風生(1885-1979)氏が著書「大正秀句」で思い出を語っているので再びご紹介してみたい
因みに、冨安風生氏は、我等が母校時習館高校の前身〔旧制愛知第四中学校第4回生(1903(明治36)年卒)〕の大先輩で、本名は「冨安謙次」(本名はウ冠の「富」ではなく、ワ冠の「冨」)
1929年『ホトトギス』同人 / 1936年1月~37年5月 逓信省(=のちの郵政省)事務次官
我等が時習館高校在学時代の朝倉勝治(1930- )先生の前任の美術科教諭であった冨安昌也(1918-2013)先生の大叔父に当たる
/ 此のことも既にお話した
富安風生氏は、著書「大正秀句 (新版 日本秀句)〔春秋社刊〕」 で「飯田蛇笏」のところで「(小生補足)(‥飯田蛇笏という一人の‥)俳句作家が文学の専門家(同左)(‥芥川龍之介(1892-1927)‥)からこれほどの理解をもたれる例はザラにはない」と讃えた後、次の様に述べている。
「蛇笏の遺した大きな句業績のうちから、強いて一句を挙げねばならぬとしたら
芋の露 連山影を正しうす 蛇笏
とすることに、何人も異存はないであろうし、全く頭の下がる一代の秀句である。あたかもそれは大正三年(小生補足)(‥蛇笏氏29歳の時の‥)の作でもある。〔中略〕
蛇笏は明治37年、19歳の時、志を文学に立てて早稲田の文科に入学した
学問を捨てて郷里に帰ったのは24歳の時である
遊学中早稲田においては高田蝶衣(1886-1930)の後を受けて早稲田吟社の首脳であったが、詩も熱心であったし、小説にも関心があった
一口に言って思想的に当時の自然主義の影響の下にある一文学青年だったのである〔中略〕
わたしは蛇笏と同庚(=(意 : おないどし)であり、わたしがわずかに十日早く生まれているだけである
飯田蛇笏。明治18年4月、山梨県生。1962(昭和37)年没(享年77歳)。」
【小生注】本書「大正秀句」で飯田蛇笏氏の思い出を語った執筆時(昭和39年刊)、風生氏は80歳
風生(1885-1979)氏自身は1979(昭和54)年享年94歳にて長寿を全うされた
風生氏が絶賛した飯田蛇笏氏の名句の情景を2枚の写真を使って image してみたのでご覧下さい
本作品は、ホント、気品があって、近景の「芋の露」、遠景の「連山(=八ヶ岳連峰)」が透き通った早朝の明るい陽射しの下で鮮やかに三次元空間として目に浮かんで来る、稀代の名句と言っていい!
[48]
Facebook に up した「連山(=八ヶ岳連峰)」と「(里)芋の露」
では、また‥〔了〕
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