◼️皆さん、今日も【時習26回3−7の会 0909】をお届けする
. 今日お届けする話題は、前《会報》【0908】の続編で、続編は【0910】でも終わらず【0910】迄続く
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. 今回は、今は少し昔の 物語から、2009/02/22 0:02:42【時習26回3-7の会 0226】~「茨木のり子『自分の感受性くらい』」〔後略〕についてである
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. 先日、茨木のり子の『わたしが一番きれいだったとき』をお届けして間もない2022年5月13日にNHK総合で、NHK名古屋制作の『ふるさとに生きた「茨木のり子」を探して』が放送された
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[01][左][右上][右中][右下]茨木のり子
. うち写真[左][右上][右中]は、NHK名古屋制作の『ふるさとに生きた「茨木のり子」を探して』から‥‥
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. 茨木のり子の著名な詩『自分の感受性くらい』をご紹介する
. 茨木のり子の詩と言えば、先日ご紹介した「わたしが一番きれいだったとき」が有名ですが、茨木氏の作品を良く知っている人によると、この「『自分の感受性くらい』のほうが好きだ」と言う声を耳にする
. 其処で今日は、この作品を大岡信氏の【解説】(「現代詩の鑑賞101」より)と共にご紹介します
. では、どうぞ‥‥
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. 自分の感受性くらい 茨木のり子
.
. ぱさぱさに乾いてゆく心を
. ひとのせいにはするな
. みずから水やりを怠っておいて
.
. 気難しくなってきたのを
. 友人のせいにはするな
. しなやかさを失ったのはどちらなのか
.
. 苛立つのを
. 近親のせいにはするな
. なにもかも下手だったのはわたくし
.
. 初心消えかかるのを
. 暮らしのせいにはするな
. そもそもが ひよわな志にすぎなかった
.
. 駄目なことの一切を
. 時代のせいにはするな
. わずかに光る尊厳の放棄
.
. 自分の感受性くらい
. 自分で守れ
. ばかものよ
.
【解説】
. 「自分の感受性くらい」は、同題の詩集(1977年)所収
. この詩も「……のせいにはするな」のフレーズが繰り返し現れ、「うた」の要素を強めている
. ここにはまことに小気味よく同時代の若者に向けて発せられたメッセージがある
. いやこれを聞いて身に覚えのある人は若者に限られまい
. 本当にそうだ、私も思う
. 私も、「初心消えかかるのを / 時代のせいに」したくなりがちな者である
. 茨木のり子に喝を入れられて、しかし不快に思う人はまずないだろう
. 今日喝を入れて叱ってくれる人は滅多にいない
. 「ばかものよ」
. ありがたくこの親愛感あふれる言葉を受けようではないか
. これは茨木の「対話」志向が直接的に現れている作品で、今日このような詩の書き手は少数派に属する
. (中略)とくに若い人のあいだには少ない
. 傷つくことを恐れ、他者に差し出す手、近づく一歩に戸惑うからである
. その人の生きる姿勢と詩は本来密接に結びついているものである
. 詩は志でもある(中略)
. こういう姿勢は次に引くエッセイの断片からも読み取ることができるだろう
. どんなことでも、自分たちに関したことは、自分たちにも責任があるとする考え方である
. 此処では男性に対する女性の考え方を述べているのだが‥‥
. 「何かにつけ男性対女性という敵対関係では捉えられず、女の問題は男の問題であり、男の問題は女の問題であるという、いわば表裏関係が私の中には形づくられているようなのだ
. たとえば戦争責任は女には一切関係ないとは到底思えず、日本が今尚ダメ国ならばその半分の責任は女にあるというふうに」(「はたちが敗戦」)〔了〕
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◼️続いても今は少し昔の物語から、2015年9月13日(日) 【時習26回3-7の会0565】~〔前略〕「ハンナ・アーレント著『全体主義の起源Ⅰ【反ユダヤ主義】』を読んで」をご紹介する
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. では、ハンナ・アーレント著『全体主義の起源Ⅰ/反ユダヤ主義』についてである
. 本書は、以下の構成になっている
.
※ 緒言〔1968年の英語分冊版より/ハンナ・アーレント(1967年07月)〕
※ 序文/カール・ヤスパース〔ドイツ語版より(1955年)
※ まえがき〔ドイツ語版より(1955年)〕
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第一章/反ユダヤ主義と常識
.
第二章/ユダヤ人と国民国家
. 1.解放の曖昧さとユダヤ人の御用銀行家
. 2.プロイセンの反ユダヤ主義からドイツにおける最初の反ユダヤ主義政党まで
. 3.左翼の反ユダヤ主義
. 4.黄金の安定期
.
第三章/ユダヤ人と社会
. 1.例外ユダヤ人
. 2.ベンジャミン・ディズレイリの政治的生涯
. 3.フォブール・サン=ジェルマン
.
第四章/ドレフュス事件
. 1.ユダヤ人と第三帝国
. 2.軍・聖職者 対 共和国
. 3.民衆とモッブ
. 4.大いなる和解
.
. 本書は、ハンナ・アーレントの代表作『全体主義の起源』三部作〔Ⅰ反ユダヤ主義/Ⅱ帝国主義/Ⅲ全体主義〕の第一作
. ナチス・ドイツに代表される『全体主義』が「歴史的必然」として、どの様な経緯で現れたのかを、19世紀の欧州に於ける「反ユダヤ主義」に焦点を当てて論じたのが本作である
. アーレント自身の言葉を借りて言えば、「この本は宮廷ユダヤ人からドレフュス事件に至る迄の中欧に於けるユダヤ人の歴史を、それが反ユダヤ主義の誕生と関連し、又反ユダヤ主義の影響を受けた範囲内に於いて分析(「緒言」1967年07月‥P.x(=10))」している
.
. 『反ユダヤ主義』が、近世以降顕在化したのは、「フランス革命」であると、アーレントは指摘する
. 以下、「第一章/反ユダヤ主義と常識」拠り引用する
.
. 国民国家の没落と反ユダヤ主義運動の伸張が時を同じくするという事実を、一つだけの原因に帰することは難しい
. この様な同時現象は常に複雑なものであって、こうした現象に対した場合歴史家はいつも、どの様な要素を〈原因〉として取出し、時代のどの様な特徴に〈時代精神(ツァイトガイスト)〉を見ようとするかは自分の自由に任されているといった状況に陥って仕舞う
. 〔中略〕此処で我々役に立ちそうなその様な経験の一つは、(アレクシ・ド・)トクヴィル(Tocqueville(1805-59))がFranceで大革命の初めに突然堰を切った貴族階級に対する一般の憎悪の理由と動機とを探った時に行ったあの大きな発見である(『アンシャン・レジウムと革命/第2巻第1章』)〔中略〕
. トクヴィルの説明はこうである
. France 貴族階級の権力喪失は資力の減少を伴わなかった
. その為民衆は権力を持たぬ過大な富と支配機能を持たない決定的な社会的特典とに突然対面したのである
. 民衆の憤激を掻き立てたものは、全く文字通りの意味で余計である余計であった
. 処が権力というものは決して余計ではあり得ない
. 何故なら、厳密に考えれば権力というものは一人の人物の所有になるものではなく、他の人々との関係に於いてある以上、人間間(かん)にのみ存在するものだからである〔中略〕
. 抑圧の下にあっても尚被支配者は、権力が共同社会の中で或る機能を持っていることを感じている
. だからこそ貴族階級は司法の権力を専有している限り、専横な振舞をしその権力を濫用する場合でも許容されるばかりか尊敬されたのである
. 貴族階級が絶対君主制の下に於けるその特権を失い、それと共に搾取し抑圧する特権をも失った時初めて、民衆はこの階級を寄生的なものと感じたのだ
. 貴族階級はもはや何の役にも立たず、支配することなどは全然出来なかった
. 換言すれば、堪え難く感じられたのは抑圧そのもの、搾取そのものではまずなかった
. それより遥かに人々の怒りを唆(そそ)るのは、明確な機能を全く持たない「富」だった〔中略〕
. この原則の事例としては反ユダヤ主義に優るものはまずあるまい
. 反ユダヤ主義は、ユダヤ人が社会生活の中でのその機能とその影響力を失い、「富」の他にはもはや何ものも所有しなかった時にその絶頂に達したのである
.
. 以下、本書の要点を纏めてみると‥
. ユダヤ人は、「離散(Diaspora)」に拠り、欧州各国に分散したが、キリスト教が禁止した金融業で「富」を形成した
. ロスチャイルド家に象徴される様なユダヤ人大富豪達である
. 大富豪となったユダヤ人は、絶対王政の下で、国王と蜜月関係を構築して来た
. ゾンバルト『恋愛と贅沢と資本主義』でも指摘していたが、「富」を蓄積したユダヤ人は、娘を貴族に嫁がせ、貴族の姻戚となっていった
. しかし、France 革命以降、国民国家が成立すると、貴族階級の没落と共に、権力を持たず「富」だけ有するユダヤ人に国民国家の大衆はユダヤ人への嫌悪感を顕(あらわ)にする
. その表象的な事件が18世紀末に France で起きたドレフュス事件である
. 身分制度が崩壊して、国民がみな平等となると、差別の対象は人種問題になる
. 米国の黒人問題、ユダヤ人問題がその典型と言える
. さて、「全体主義の起源」の第2弾は「Ⅱ帝国主義」である
. 次回《会報》でお届けしたいと考えている。次号をお楽しみに!(^-')b♪
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[02][左]ハンナ・アーレント著『全体主義の起源Ⅰ/反ユダヤ主義』
[右]ハンナ・アーレント
.
【小生 comment】
. 次回は、「ハンナ・アーレント著『全体主義の起源Ⅱ【帝国主義】』を読んで」をお伝えする
. お楽しみに!〔了〕
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◼️次も今は少し昔の物語から、2015年9月18日(金) 【時習26回3-7の会0566】~〔前略〕「ハンナ・アーレント著『全体主義の起源Ⅱ【帝国主義】』を読んで」をご紹介する
.
. 今日は、昨日に続きハンナ・アーレント著『全体主義の起源Ⅱ/帝国主義』についてである
. 本書は、以下の構成になっている
.
※ 緒言〔1968年の英語分冊版より/ハンナ・アーレント(1967年07月)〕
.
第一章/ブルジョアジー(bourgeoisie)の政治的解放
. 1.膨張と国民国家
. 2.Bourgeoisieの政治的世界観
. 3.資本とモッブ(mob)の同盟
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第二章/帝国主義時代以前における人種思想の発展
. 1.貴族の「人種」対 市民の「ネイション(Nation)」
. 2.国民解放の代替物としての種族的(フェルキッシュ)一体感
. 3.ゴノビー
. 4.「イギリス人の権利」と人権との抗争
.
第三章/人種と官僚制
. 1.暗黒大陸の幻影世界
. 2.黄金と血
. 3.帝国主義的伝説と帝国主義的性格
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第四章/大陸帝国主義と汎民族運動
. 1.種族的(フェルキッシュ)Nationalism
. 2.官僚制――専制の遺産
. 3.政党と運動
.
第五章/国民国家の没落と人権の終焉
. 1.少数民族と無国籍の人々
. 2.人種のアポリア
.
. 本書は、ハンナ・アーレントの代表作『全体主義の起源』三部作〔Ⅰ反ユダヤ主義/Ⅱ帝国主義/Ⅲ全体主義〕のうちの第ニ作
. 本書は、「全体主義の起源Ⅰ/反ユダヤ主義」の続編
. 「反ユダヤ主義」の萌芽→伸張と保護時を同じくした19世紀末から今世紀初頭にかけて「帝国主義」が台頭した
. アーレントは、当該「帝国主義」体制の下で、『人種主義』が擡頭した経緯を詳しく論じている
. 彼女の主張している処を纏めると‥
.
. 「帝国主義」が拡大したのは、欧州資本主義諸国の工業化が自国の国境ぎりぎり迄拡大し、国境がそれ以上の膨張の障害となるばかりか、工業化課程全体にとって最も深刻な驚異となり得ることが明らかになった時だった
. 経済自体に強いられて bourgeoisie は政治化した
. 工業生産の不断の成長に立脚する資本主義制度を存続させる為には、経済に必要な膨張を「国民国家」の対外政策の基本とさせるほかなかったのである
. 「大企業と超国家組織との精神が政治を捉えて仕舞った〔フリードリッヒ・ナウマン〕」(P.7「第一章/bourgeoisieの政治的解放~1.膨張と国民国家」より)
. 「帝国主義」が、国境を越えた膨張主義、換言すれば「反国民国家」的動機を有していたこと、これが『人種主義』に於いても、その起源に於いて『反国民国家』的であったと言う論点に注目したい
. 19世紀末から第一次世界大戦にかけて成長した「帝国主義」一方、「国民国家」の衰退は不可避なものとなっていった
. それは、第一次世界大戦終結後のヴェルサイユ条約で明らかになった
. それは、西欧の「国民国家」は全欧州に拡大し得ないものであるということであった
. つまり、欧州は150年以上にも亘って、全人口の殆ど四分の一については適用不可能な国家形態の中で生きて来た訳である
. 「国民国家」の原理の全欧州での実現は、「国民国家」の信用を更に落とすという結果を齎したに過ぎなかった
. (P.244「第五章/国民国家の没落と人権の終焉」)
. そして、「国民国家」の衰退は、当該「国民国家」内の少数他民族への人権抑圧へと進んでいく
. これが同時期、国家を持たないユダヤ人への「反ユダヤ主義」へと繋がっていく
.
[03][左]ハンナ・アーレント著『全体主義の起源Ⅱ/帝国主義』
[右]ハンナ・アーレント
.
【小生 comment】
. 次回は、「ハンナ・アーレント著『全体主義の起源Ⅲ【全体主義】』」をお届けする、と言いたい処だ、がまだ読み切れていないので、残念!
. では、また!〔了〕
.
◼️次にお届けするのは、ジェームズ・アレン(James Allen(1864-1912))の『「原因」と「結果」の法則』(坂本貢一訳)についてである
. 訳者の坂本氏が「訳者まえがき」で次の様に紹介している
.
[04][左]James Allen
[右]ジェームズ・アレン(James Allen(1864-1912))著『「原因」と「結果」の法則』(坂本貢一訳)
.
. 本書は、英国が生んだ謎の哲学者、James Allenによって、ほぼ一世紀前の1902年に書かれたもののであるが、世界中で今尚着実に売れ続けているという驚異的なlong seller(←但し「和製英語」(以上【小生注】))書である
. この世界の歴史上最も多くの読者を獲得して来た自己啓発書だと言って間違いないであろう
. 読んでみると確かに「How to本」の先駆けの雰囲気が漂う
. 著者Allenが「はじめに」の処で、「自らの手で、『自分こそが自分の人生の創り手である』という真実に気づくのを促すことにある」と述べ、以下「思いと人格」「思いと環境」「思いと健康」「思いと目標」「思いと成功」「ビジョン(vision)」「穏やかな心」という7つの項目に分け説明している
.
. 【vision】ではこう述べている
. 気高い夢を見ることだ
. 貴方は、貴方が見た人間になるだろう
. 貴方の理想は貴方の未来を予言する
.
. 「夢」は「現実の苗木」
. 現世で達成された偉業の全てが、最初は単なる夢に過ぎなかっ
. あらゆる「成功」が「『努力』の結果」である
. そして、「『努力』の大きさ」によって「『結果』の大小」が決定する
. そこに如何なる偶然も介在しない
. 「物質的・知的・精神的『達成』」の全てが、「『努力』の果実」なのである
. それらは、「成就した『思い』」であり、「達成された『目標』」であり、「現実化された『vision』」である
. 貴方の『vision』にしたがって、貴方の人生は形づくられる。それこそが、貴方がやがて成るものなのである
.
【小生comment】
.
. 「不断の努力の積み重ね」が「原因」
. そしてその「原因」により良い「結果」が齎される
. 正に『「原因」と「結果」の法則』である
. 小生、本書を読んだら、有名な格言を思い出した
.
. 小生、とても気に入っている言葉である‥
.
. 「心」が変われば「行動」が変わる
. 「行動」が変われば「習慣」が変わる
. 「習慣」が変われば「人格」が変わる
. 「人格」が変われば「運命」が変わる
.
. 『宿命』は、「前世から定まっている『運命』」であり、変えることは不可能である。しかし‥
. 『運命』は、「将来の成り行き」であり、William Jamesも言っている通り、変えることが出来る
. 「不断の『努力』の積み重ね」により、「より良い『運命』」を創り上げ、「より高いQOLを造り上げたいものである
. では、また‥‥(了)
.
◼️次の話題は、2022年05月19日(木)、愛知県芸術劇場コンサートホールであった「辻井伸行 Pf 独奏によるショパン作曲 ピアノ協奏曲第1番&第2番コンサート」についてである
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【JR豊橋駅→JR名古屋駅】
.
[05][左]名古屋駅〔大名古屋ビルヂング〕前にて1
[右上]JR豊橋駅新幹線 platform にて
[右中]同駅に入線する新幹線
[右下]JR名古屋駅 platform にて
.
【JR名古屋駅→愛知県芸術文化センターへ】
.
[06][左上]名古屋駅〔ミッドランドスクエアを back に〕前にて2
[右上]名古屋駅〔ホテルマリオット〕を back に
[左下]愛知県芸術文化センターを back に1
[中下]同上2
[右下]同上3
.
【愛知県芸術劇場コンサートホール】
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[07][左上]愛知県芸術劇場コンサートホール入口にて
[右上]愛知県芸術劇場コンサートホールホワイエにて1
[左下]同上2
[右下]愛知県芸術劇場コンサートホール内 小生の座席前にて1
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【愛知県芸術劇場コンサートホール】
.
[08][左]愛知県芸術劇場コンサートホール内 小生の座席前にて2
[右上]辻井伸行 ショパン・スペシャル program と小生の座席番号〔←最前列の中央14番!〕
[右中]小生の座席から演台を見て1
[右下]同上2
辻井伸行君を眼前で見られるのが嬉しい!(^^;
.
【愛知県芸術劇場コンサートホール】
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[09][左上] 辻井伸行 ショパン・スペシャル program の中身
[右上]辻井伸行のショパン作曲 ピアノ協奏曲第2番他のCDを手に
[左下]コンサート終了後、オアシス21にて、名古屋テレビ塔を back に1
[右下]同上2
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【小生 comment 】
. 今日の辻井伸行君のショパン作曲 ピアノ協奏曲第1番&第2番は、最高に素晴らしい演奏だった
. 彼は、矢張り天才だ!
. 席が、最前列の中央の 14番だったから、小生の2m前に辻井伸行君が piano を演奏しているのをしっかりと見る、聴くことが出来た
. 全盲の辻井君がこんな完璧な演奏をするなんてことは信じられないが、目の前で其れを実演してくれたことで「本当なんだ〜」と驚愕しきりだった!
. 指揮者は、先日5月5日に、ライフポートとよはしで指揮した現田茂夫氏で、管弦楽団は大阪フィルハーモニー交響楽団だった
. Encore曲は2曲、何れもショパンのスケルツォ第4番と子守唄で、此等も素晴らしい演奏だった!〔了〕
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◼️此の(2022/05/21)日は、今年長女の次男が数え五歳の七五三を迎えるので、其の晴れ姿の事前撮影の為に、横浜市緑区十日市場にある写真撮影所に来ている
. 先ず、主人公の孫息子が着替える前に、彼の姉が袴姿に!
. なかなか可愛い
.
【孫息子 五歳の七五三事前撮影】
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[10][左][右上][右中][右下]孫娘の袴姿
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[11][左][右上][右中][右下]孫姉弟の two shots
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[12][左上][右上][左下][中下][右下]スタジオにて映画スターみたいに
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【孫娘と two shots】
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[13][左上]孫娘の晴れ姿
[右上][左下][右下]孫娘と
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. 撮影終了後、愚娘の partner のご両親とも一緒に寿司屋で昼食を摂った後、小生はひとり新幹線JR新横浜駅からJR豊橋駅ゆきに乗り込んだ
. 此の日は、夕方、豊橋のアイプラザ豊橋でもう一つ仕事があったのだ
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[14][左上]出発地のJR横浜線「成瀬駅」前にて
[右上]成瀬駅改札口にて孫たちとのお別れ
[左下]JR横浜線「成瀬駅」→アイプラザ豊橋迄の時刻表
[中下]新幹線JR新横浜駅 platform にて
[右下]同上2
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[14-1]此の日の夕方の仕事で断念した ソフィー・デルヴォー Fagotto Recital の leaflet
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◼️翌05月22日(日)は、6時00分に起床して、腹筋、木刀素振り、入浴、朝食を摂り、11時07分に拙宅を出発して、三井三井住友海上しらかわホールヘ向かった
. ロシアの pianist ニコライ・ホジャイノフの Recital を聴く為だ
. ホジャイノフのわRecital は、昨年末12月18日が、コロナ禍で 5箇月延期になったが、晴れて演奏会が可能となって嬉しかった
.
【三井住友海上しらかわホール「ニコライ・ホジャイノフ Piano Recital 」】
.
[15][左]拙宅玄関前にて
[右上]「ニコライ・ホジャイノフ Piano Recital 」leaflet
[右中]豊鉄競輪場前→三井住友海上しらかわホールへの時刻表
[右下]豊鉄競輪場前に入線する路面電車
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[16][左]「ニコライ・ホジャイノフ Piano Recital 」leaflet
[右上]JR新幹線豊橋駅 platform にて1
[右中]同上2
[右下]「ニコライ・ホジャイノフ Piano Recital 」leaflet & tickets
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[17][左上]JR新幹線名古屋駅 platform にて
[右上]名古屋駅前、大名古屋ビルヂングを backに
[左下]名古屋伏見の御園座を back に
[右下]三井住友海上しらかわホール前にて1
.
[18][左]三井住友海上しらかわホール内演台の piano をback に1
[右上]三井住友海上しらかわホール前にて2
[右下]三井住友海上しらかわホール内の小生の座席から piano を望む
.
[19][上]三井住友海上しらかわホール ホール内演台の piano をback に2
[左下]同 ホワイエにて1
[中下]同 同上2
[右下]同 会場入口にて
.
. Encore 曲 8曲は、ホジャイノフ自身も気分が乗っていたのだろう!
. 充実したChopin Zyklus の matinée だった
.
1 Chopin / Waltz Op.64-2
2 同 / nocturne No.13 in c minor
3 Scriàbine / étude in c sharp minor Op.42-5
4 Verdi(1813-1991) / Liszt: Rigoletto - Paraphrase
5 Puccini / Madame Butterfly 〜 humming chorus〔ホジャイノフ編曲〕
6 Scriàbine / étude No.12 in d sharp minor Op.8
7 Rachmaninoff / Prelude in g minor Op.23-5
8 Debussy, / Claude Achille:Suite bergamasque "Clair ddelune"〔月の光〕
.
[20][左上]「ニコライ・ホジャイノフ Piano Recital 」program 演奏曲目一覧
[右上]JR新幹線名古屋駅 platform にて1
[左下]同上2
[右下]三井住友海上しらかわホールから競輪場前迄の時刻表
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[21][左上]JR新幹線名古屋駅 platform に入線するひかり656号を back に
[右上]JR豊橋駅構内「うどん・そば 壺屋」の、小生大好きな「冷やし山かけ月見蕎麦」1
[左下]「冷やし山かけ月見蕎麦」を食する小生1
[右下]同上2
.
【小生 comments 】
. 今日も、out door の充実した一日を過ごすことが出来た
.
. 風薫る 君との青春 想ひ出し 熱きひととき 夢む新たに 悟空〔了〕
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◼️続いては、今は少し昔の物語から「2008/01/13 18:29:10【時習26回3-7の会 0148】~〔前略〕「1月12日:NIKKEIプラス1『若く見える条件は?』」「冨安昌也先生著『続・草木虫魚』」」の2つご紹介する
.
【01月12日:NIKKEIプラス1『若く見える条件は?』】
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[22]2008/01/12 NIKKEIプラス1『若く見える条件は?』
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. 『若く見える条件ベスト10(10位が2つあるので全部で11)を全てお示しすると・・
.
1位:肌に張りがある( 女性の4割強、男性も各年代で約3割が選んだ。)
2位:フットワークがいい( 男女とも3人に1人が支持。)
3位:新しいことに挑戦できる( 年代が上がるほど選ぶ人の割合が高い。)
4位:表情が生き生きとしている( 充実した気持ちの張りが表情に現れる。「見ているだけで清々しい気持ちになる」 )
5位:好奇心が旺盛( 各年代で男性に比べ女性が多く選んだ。「好奇心がなくなれば老け込むだけ」(39歳女性)の声も )
6位:話し声や笑い声が元気( 20-30代の女性の約3割が選んだ。「元気に話して、笑うと、気持ちも明るくなる」 )
7位:目標や夢がある( 日々の生活の原動力になる。「88歳の父は生涯現役。今も新技術の開発に余念がない」 )
8位:歩き方が軽やか( 老化は足元から。「歩くスピードが遅く、背中が曲がっていると年寄りに見えるから注意」 )
9位:体形がスリム( 加齢とともに肉体は重力に逆らえず。「体重は変わらなくても、体の線は変わりやすいもの」 )
10位:自分流にオシャレを楽しむ( 服装に流行をワンポイント採り入れる人が多い。「自分流のオシャレは自己表現の一つ」 )
10位:異性への関心を失わない( 女性より男性で選ぶ人が多い。「100歳の知人曰く。色気と食い気が若さの秘訣」 )
.
. 肌の張りを保つには日々のスキンケアが必要だが、それがすべてではない
. 「バランスの取れた食事や十分な睡眠など、健康に暮らすため当たり前のことをきっちり続けることが大切」
. 上位の項目を見ると、人が若さを判断する条件は外見、内面、行動の三つに大別できる(中略)「誰もが老いを避けることはできない。だがその表れ方には個人差があり、日々の心掛けが大きくものをいいます」
.
【筆者comment】
. 小生も、『若く見える条件は?』については、大変強い関心を持って対処している
. 加齢とともに、肌にシミが多く出る様になり、少々悩んでいる
. そこで、1ヶ月ほど前から朝晩、廉価ですがニベアクリームを塗りマッサージをする様になった
. その効果の方は、まだだが・・(笑)
. いずれにしても、若さを維持して行くためには、「『若く見える条件』ベスト10」は納得できるものなので、全項目実践する様に頑張りたいと思う(笑)
.
【冨安昌也先生著『続・草木虫魚』】
.
[23][左]冨安昌也先生著『続・草木虫魚』
[右]冨安昌也『立春』2000年
.
【後記】今日の締め括りは、「冨安昌也先生著『続・草木虫魚』」をご紹介します
. 冨安先生は、大正7年11月7日生まれ
. 現在満89歳になられるが矍鑠とされ大変お元気である
. 先生は昭和22年旧制豊橋中学(現・時習館高校)の美術科教師として(我々がお世話になった朝倉先生の前の時代)永らく教鞭を執られた
. ご縁あって、先生は、小生が今(2008年当時)勤めている会社が事務局を務めている工業団地「自治会」の審査委員として長年に亘り大所高所からご教授頂いている
. 添付写真は、先生から頂戴した著書である
. そして、その中に、昭和25~26年「豊橋文化」誌上に毎号掲載された冨安昌也画『豊橋風景画集』があり、その一頁目に、丸山薫の詩とともに『石巻山遠望』のスケッチが掲載されている
. そこで、その「丸山薫の詩『ポケットの街』」をご紹介したい
.
. 因みに、丸山薫は、四季派の詩人たち「室生犀星、永井龍男、竹中郁、神西清、嘉村礒多、三好達治、吉村鉄太郎、佐藤春夫、堀口大学、小林秀雄、中原中也、丸山薫、菱山修三、横光利一、牧野信一、 葛巻義敏、丸岡明、河上徹太郎、滝井孝作、増田篤夫、山下三郎」の一人で豊橋市多米町蝉川を終の住処にした、我々が【時習26回3-7】時代に愛知大学文学部教授だった
. そして、豊橋を知らない人の為に補足すると、其の愛知大学豊橋校舎は、我等が母校時習館高等学校の国道259号線を挟んだ東側向かいにある
.
ポケットの街 丸山薫
.
. ぼくの両腕の中に在る街
. 掌のひらの上にのっかる街
. 気軽く丸めて
. ポケットにはいる街
.
. 放浪のくらしの半ば
. 永い旅さきで
. ふと さぐるその底に
. タバコの空箱といっしょに
. 時折 指にふれる街
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. 思い出の街
. 思い出の空
. ― 山と川
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【筆者comment】
. 気軽く丸めてポケットにはいる街・・タバコの空箱といっしょに時折指にふれる街
. そんな街だが、懐かしく思い出される街
. 思い出として脳裏に確りと記憶されている、空と山と川
. 懐かしいわが街「豊橋」
. 軽妙で心地よい余韻が残る、感じのいい詩ですね・・
. もう一つの添付写真は、母校『時習館高校』の正面玄関前にある山茶花の樹です
. この絵は、今、地元大手ガス会社にあります
. では、また‥〔了〕
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. 今日も、今は少し昔の物語から、2016/03/27 23:04:06「【時習26回3-7の会 0593】~03月20日:埼玉県立近代美術館『原田直次郎』展を見て」をお届けする
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◼️今日は、2016/03/27 23:04:06【時習26回3-7の会 0593】から、2016年03月20日の埼玉市と東京にある5つの美術館巡りの中から、前《会報》にてお届けした(4)竹橋/東京国立近代美術館に続いて、その日の最初に訪れたさいたま市(旧浦和市)にある(1)埼玉県立近代美術館『原田直次郎』展の模様をお伝えする
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【2016年03月20日:埼玉県立近代美術館『原田直次郎』展】
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. 会場の埼玉県立近代美術館は、京浜東北線「北浦和」駅から西へ徒歩3分の至近距離にある北浦和公園内にある
. 豊橋駅を07時00分のひかり号で08時40分に東京駅着
. 京浜東北線に乗換えて、北浦和駅に09時40分に到着
. 北浦和公園内にある埼玉県立近代美術館に09時45分に到着
. 公園内を少し散策して、開館を待ち、10時00分の開館と同時に入館した
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[24][左上]埼玉県立近代美術館『原田直次郎(1863-99)』展leaflet
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[右上]原田直次郎展図録・新関公子『森鴎外と原田直次郎』・森鴎外『舞姫』『うたかたの記』他三篇
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[左下]ドイツ・ミュンヘン留学時代(1884-87)の原田直次郎
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. 小生、原田直次郎(1863.10.12-99.12.26)という画家については、是迄恥ずかし乍ら、前《会報》でお伝えした東京国立近代美術館に寄託されている国の【重文】「騎龍観音」(添付写真[20])の作者であること位しか知らなかった
. しかし、本展覧会を見て、原田直次郎に関する著作物、新関公子『森鴎外と原田直次郎』と『本展図録』を読んで、日本の明治時代に於ける、日本西洋絵画発展に少なからず、いや、大きく貢献した、高橋由一の後継者としての日本人西洋画家であることを教えて貰った
. 原田直次郎自身は、36歳という若さで、正岡子規と同じ病である結核と結核性の脊髄病で早世した
. が、彼が留学先のドイツ帝国ミュンヘンから1887年07月帰国した(直次郎23歳)以降、当時、岡倉天心(1863-1913)とフェロノサ(1853-1908)に拠る国粋化する日本美術界に敢然と立ち向かったことを我々は理解する必要がある
. 日本人に拠る洋画に多大な貢献をする黒田清輝が留学先のFranceから帰国するのは1893年。
. それ迄の間、日本に於ける西洋絵画興隆に向け心血を注いだ原田直次郎であった
. 直次郎とその一家と生涯の友 森鴎外(1862.02.17-1922.07.09)についての略歴を以下に記す
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[右下]直次郎の父 吾一(一道)(1830-1910)
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. 1830(文政13)年 原田直次郎の父一道(かずみち)は、備中浅口郡大島村(現・岡山県笠岡市西大島)の医者の家に生まれ
. 名は、駒之進、敬策、吾一、維新後は一道と称した
. 1853年 一道は江戸に出て、蘭学の伊東玄朴に入門する傍ら、高島龍砲術を習った
. 1856(安政03年)年 幕府の蕃薯調所教授手伝に就任し、岡山藩支藩鴨方藩の藩士となる
. 同時に講武所に出仕、同僚の村田蔵六(のちの大村益次郎)と西洋兵書の翻訳研究に励む
. 福沢諭吉が英語習得に大村益次郎を誘うと断られ小石川にいる原田敬策に声をかけると大賛成したと『福翁自伝』にある
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【2016年03月20日:埼玉県立近代美術館『原田直次郎』展】2
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[25][左上]直次郎の長兄 豊吉(1861-94)
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. 1861年01月(万延元年11月) 富塚順作の長女あい との間に長男豊吉が生まれる
. 1863年10月(文久03年08月) 次男直次郎が、小石川町の富塚家で生まれる
. 1863年暮 一道は、文久遣欧使節団に随行
. 1866年 帰国する迄一道は、オランダのハーグにある兵学校に留学
. 1869(明治02)年 大村益次郎が暗殺された後、一道が明治政府の陸軍所・兵学校教授となる
. 豊吉・直次郎兄弟は、父に従い、共に大阪開成学校でFrance語を学び、保田東潜から漢学を学ぶ
. 1871(明治04)年 一道は、岩倉具視を全権にした遣外使節団の一員として随行
. 一道帰国と共に、豊吉・直次郎兄弟は、東京外国語学校に入学し、France語を学ぶ
. 1874(明治07)年 兄 豊吉は13歳でドイツに留学〔Heidelberg大学で地質学・ミュンヘン大学で古生物学を学ぶ〕
. ミュンヘン大学時代に、直次郎の師となるガブリエル・フォン・マックスと親交を結んだ
. ミュンヘン大学で学位を取得し、ウィーン帝国地質調査所で働く
. 砲兵廠に勤め陸軍大佐となった一道は、西南戦争での勲功が認められ陸軍少将に昇進
. 1883(明治16)年 豊吉は、足掛け9年の留学を終え帰国
. 帰国後、農商務省に入省
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[25][右上]原田直次郎『高橋由一像』1893年
. 同年 直次郎は、日本洋画界の最高峰、高橋由一(1828-94)の門下生となる
[25][左下][07]同『神父』1885年
[右下]同『ドイツの少女』1886年
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[26][左上]同『靴屋の親爺』1886年
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[右上]ガブリエル・フォン・マックス『煙を出す壺を抱く女性』制作年不詳
[左下]ユリウス・エクステル『ある日本人の肖像』1884-85年
[右下]原田直次郎『風景』1886年
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[27][左上]ミュンヘンにて(左:岩佐新/中:原田直次郎/右:森鴎外)1886年08月27日
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[右上]ミュンヘンにて友人らと(後列左から2人目:森鴎外/前列中央:原田直次郎)1886年11月(推定)
[左下][15]カフェ・ミネルヴァ(正面建物の1階)1895年頃
. 同年10月 森林太郎(のちの鴎外)が陸軍省派遣留学生としてドイツ・ベルリンへ留学(当時22際)
. 1886年03月 森鴎外、ミュンヘンへ〔この頃、直次郎と知り合う〕
. 同年06月13日 バイエルン国王ルートヴィヒ二世の謎の溺死事件が起きた
. ※ この謎の事件について、東京藝術大学名誉教授の新関公子氏は著書【森鴎外と原田直次郎】の『うたかたの記』成立の経緯で次の様に述べているので、一部引用してご紹介したい
. 『うたかたの記』導入部の、原田(直次郎)がモデルとされている日本人画家巨勢(こせ)とその友人エクステルが、美術学校向かいのカフェ・ミネルワに現れて画学生たちの談笑の輪に入っていく場面には、その様な風俗の現場を小説に書く意図を持って執拗に観察していたに違いないと思わせるリアリティがある
. 恐らく鴎外は(1886年)03月から06月の間に、画学生とモデルの恋愛という比較的ありふれた設定の物語を構想し、原田に美術学校事情などを取材していたのではないだろうか
. 処が、06月13日にバイエルン国王ルートヴィヒ二世の謎の溺死事件が起き、journalismが沸いた。
. この美貌でワグナー狂で精神病的気質の王の死は一方ならず鴎外の関心を引き、この事件も構想中の物語の中に取り込もうと、発想が途中で変化したものと思われる〔P.16〕〔後略〕
. 『原田とのミュンヘンでの出会い‥‥森林太郎から鷗外への転身』
. 〔前略〕森林太郎は立身出世courseを此処迄は何の懐疑もなくひた走ったのだったが〔中略〕、家族を離れて漸く自我に目覚め、苦悩しつつ1886年03月、ライプツィヒからドレスデンを経てミュンヘンに修学の地を移した
. 其処で程なく画学生原田直次郎と出会うのである
. 原田の世界は林太郎には驚くばかりだった様だ。
. 原田直次郎の父一道は、岡山の出身で蕃薯調所に学び、幕府の遣仏使節団に随行して明治維新の5年も前に欧州の地を踏み、4年の留学後開成所教授となり、明治に入ると岩倉遣欧使節団に随行したり、要職を歴任し、遂には陸軍少将となり、男爵にも叙せられている
. そんなエリートの子弟ならば官界を目指すのが当然と思われるのに、彼は実用の役に立たない絵を学びに来ていた
. 将来に出世の保証もないというのに、彼は制服を着ていない
. 上司に行動報告の義務もない
. あまつさえ、ドイツの少女マリイと同棲迄している
. そして、France語を流暢に話し、高尚な美や芸術を論じている
. 官費留学生の鷗外には望むべくもない自由の雰囲気が原田の周辺には漂っていた。
. 家名を上げるには官職以外にないと思い込んでいた林太郎に、突然「芸術家」という人生のあることが知れたのである
. 読む側から書く側へ
. 林太郎から鷗外への転身は早かった〔中略〕
. 日本人画家巨勢とモデルの少女マリイとルートヴィヒ二世の登場擦る『うたかたの記』の一部は、ミュンヘンで書き始められていたかもしれない
. しかし、鷗外に作家専業という発想は思い浮かばなかった様だ
. 国費を使って此処迄来た鷗外に軍服を脱ぐことは許されなかったし、鷗外自身、出世の階段を上り権力を持つことを嫌ってはいなかった
. それ故、軍医と作家の二兎を追う生き方は、既に此処で決断されていたのだろう
. そして、その決断は原田への羨望がきっかけなのである〔後略〕〔P.130-131〕
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[27][中下]原田直次郎『西洋婦人像(山本芳翠の作品模写)』制作年不詳
. ※ 添付写真[17]の山本芳翠の作品を直次郎が模写したのが本作品
[右下]山本芳翠『西洋婦人像』1882年
.
[28][左上]原田直次郎『毛利敬親肖像』1890年
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[右上]同『三条実美像』1893-98年
[左下]同【重文】『騎龍観音』1890年
. 此の【重文】『騎龍観音』の絵は、東京国立近代美術館の常設展 corner でいつでも見られるので嬉しい
[中下][21]同『貴顕御肖像』1892年
. 此れも、有名な明治天皇像である
[右下][22]同『庭』制作年不詳
. 1887(明治20)年 直次郎が帰国/『原田少将(=父 一道)の像』を発表
. 同年 東京美術学校の設置が決定される〔但し、洋画科はなし〕
. 1888年09月 森鴎外帰国
. 同年10月陸軍軍医学校教官に就任
. 1889年 東京美術学校開校
. 同年 長兄 豊吉、肺結核の為、東京帝国大学教授辞職
. 1890年 『舞姫』『うたかたの記』『文つかひ』上梓
. 1894年 長兄 豊吉、肺結核で死去(享年33歳)
. 1896年 東京美術学校に西洋画科が黒田清輝主導で発足
. 1898年 岡倉天心、東京美術学校長(在任1890-98)辞職
. 1899年12月26日 原田直次郎没
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【小生comment】
. 原田直次郎と森林太郎(鴎外)が、ミュンヘンで知り合い生涯の友となったのは1886年
. その時二人は、まだ23歳と24歳の若い青年だった
. 又、原田直次郎の長兄、豊吉が東京帝国大学理科大学教授に就任したのが、二人が知り合う2年前の1884年
. この時、豊吉も若干23歳の若さ
. 東京美術学校が開校された翌年の1890年、同校々長に就任した岡倉天心も27歳での就任
. 又、1896年、東京美術学校が西洋画科が設置された時、教員に採用された黒田清輝(1866-1924)は30歳
. 翌々年の1898年、黒田清輝は32歳の時、教授に就任している
. 事程左様に、明治時代に、近代日本を背負って立ったのは、20~30代の新進気鋭の俊英達だったのである
. 森鴎外が、生涯親友として敬慕した原田直次郎
. 途轍も無く優秀な鴎外が、一目置く直次郎とは、矢張りscaleの大きな、魅力ある大人(たいじん)だったのだろう
. 今回、原田直次郎と森鴎外のミュンヘン時代のこぼれ話を知ってから、鴎外の『舞姫』『うたかたの記』を読んでみた
. するとどうだろう?
. 『舞姫』に出て来る主人公、太田豊太郎が森鴎外をモデルとされていたという単純なものでないことが解った
. 部分的には明らかに原田直次郎とマリイとの関係を豊太郎とエリスに置き換えも出来る
. そして、豊太郎の帰国に助言した相沢健吉こそ、直次郎が帰国する際にマリイとの関係清算に尽力した森鴎外だと解釈出来る
. 乃ち、部分的に、鴎外は、豊太郎になり、相沢にもなっているのである
. 一方、『うたかたの記』は、正に原田直次郎とマリイを、巨勢とマリイに重ね合わせることが出来る
. そして、二人の関係を base に、小説としてロマンチックで且つ悲劇的要素を加える為に、ルートヴィヒ二世の事件を関連付けるべく、マリイの素性を宮廷画家の娘としたのだろう
. この様に、小説が出来上がる背景を知ってから読み直してみるのも面白いものである〔了〕
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【後記】先週05月21日、横浜へ行って撮影した愚娘家族&孫たちのアルバムが05月29日拙宅に届いた
. もう写真屋も、此処迄の優れた制作力がないと通用しなくなって来たのか?
. でも、消費者にとっては、自由競争社会の恩恵を享受出来る、我が国日本はいい国だネッ!
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[29][左上][右上][左下][右下]愚娘から送られて来た孫たちの七五三写真集
.
. では、また‥(了)
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