■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。今日も【時習26回3−7の会 0836】号をお届けします。
今日最初の話題は、松尾芭蕉(1644-94)「俳諧七部集『あら野』から〔第54回/巻之六~第521句~531句〕」をご紹介する。
牛馬四足是謂天 落馬首穿牛鼻是謂人(注1)
(注1)牛馬四足是謂天 落馬首穿牛鼻是謂人(ぎゅうばのしそくなるこれをてんという ばしゅにまといぎゅうびをうがつこれをひとという):荘子「秋水篇」からの引用 / 天然自然の四足の牛馬の、馬の首に綱を絡(=落(から))め、牛鼻に穴を開け輪を通したりするのは人間の所業だ、の意
521 一方(ひとかた)は梅(うめ)さく桃(もも)の継木(つぎき)かな 越人(注1)
【意】桃木の一方の枝先に梅の花が咲いている / 此れは人が桃木に梅木を接木したからだが、梅・桃の本性を損じていないので花を咲かせているのだ
【解説】季語:梅=初春、桃(の花)=晩春 /
(注1)越智越人(おち えつじん(1656-?)):北越の人 / 越智十蔵 / 別号:負山子、槿花翁など /『春の日』の連衆の一人、尾張蕉門の重鎮 /『更科紀行』に同行、其の儘江戸迄同道して一月後の作品『芭蕉庵十三夜』にも登場 / 芭蕉の、越人評は『庭竈集』「二人見し雪は今年も降りけるか」の句の詞書に、「尾張の十蔵、越人と号す。越後の人なればなり。粟飯・柴薪のたよりに市中に隠れ、二日勤めて二日遊び、三日勤めて三日遊ぶ。性、酒を好み、酔和する時は平家を謡ふ。これ我が友なり」とある通り、好感を持っていた /『笈の小文』で伊良子岬に隠れている杜國を尋ねた際も越人が同行
藏舟於壑 藏山於澤 謂之固 然而夜半有々力者 負之而走(注1)
(注1)藏舟於壑 藏山於澤 謂之固 然而夜半有々力者 負之而走(ふねをたににかくし さわをやまにかくし これをかたしという しこうしてやはんちからあるもの これをおいてはしる):荘子「大宗師:篇」/ 舟を山岳(=谷深く)に収蔵し、山を大沢に収蔵する様な堅固な用心をしたところで、天地の変化の理の前では、簡単に壊されて奪い去られて仕舞う /「万物変化流転の原理に目覚めよ」と諭す意
522 からながら師走(しはす)の市(いち)にうるさヾい
【意】サザエは固く殻を閉じ安心仕切っている様だが、其の殻ごと師走の市で売られて仕舞うことを知らない
【解説】季語:師走=暮 /
絶聖棄知 大盗乃止(注1)
(注1)絶聖棄知 大盗乃止(せいをたちちをすつれば だいとうすなわちやむ):荘子「胠篋(きょ(う)きょう)篇」/ 聖人が説く仁義等というものは、自然の摂理に反したものだから、其処から悪も生まれる / 聖人・英知人とかいうものを根絶すれば、悪人も居なくなる、の意
523 七夕(たなばた)よ物(もの)かす(注1)こともなきむかし
【意】今日の七夕に、貸小袖する等と人々は言うが、星合其の事は、人間の知恵が物をカスとか借りるとかいうことを考え出すよりもずっと以前からあったものなのだ
【解説】季語:七夕=初秋 /
(注1)物(もの)かす:七夕の日に、衣装を曝すことを、星のかし物・かし小袖等という
鋭者夭(注1)
(注1) 鋭者夭(ときものはいのちみじかし):古文後集・古硯銘の語 / 筆が鋭い故に長持ちしないことをいう
524 散(ちり)はてゝ跡(あと)なきものは花火(はなび)哉(かな) 桂夕(注1)
【意】花火は、華やかで鋭い火花を散らして楽しませてくれるが、瞬時に燃え尽きて仕舞う
【解説】季語:花火=初秋 /
(注1)桂夕(けいせき(生没年不詳)):人物について詳細不詳
鈍者壽(注1)
(注1)鈍者壽(にぶきものはいのちながし):古文後集・古硯銘の語 / 硯は、墨や筆に比べて鈍いものだが、最も長持ちすることをいう / 前句「鋭者夭」と対の関係の前詞になっている
525 鶏頭(けいとう)の雪(ゆき)になる迄(まで)紅(あかき)かな 市山(注1)
【意】鶏頭の花は、散ることがなく雪が降る頃迄赤い花をつけている / 見どころのない花だが、却って長命で人を楽しませてくれる
【解説】季語:鶏頭=三秋 /
(注1)市(しざん(生没年不詳)):尾張国の人 / 人物について詳細不詳
藤房(注1)
(注1)藤房(ふじふさ):鎌倉時代末期の正二位中納言 / 万里小路宣房の子 / 後醍醐天皇に諫表を献じたが聞き容れらぬと知るや、即、洛北の岩蔵に隠遁、出家した(『太平記』)
526 ほとゝぎす鳴(なき)やむ時(とき)をしりにけり 一井(注1)
【意】ホトトギスは時節には姦しく鳴くが、季節が過ぎるとさっと鳴きやむ / 其れが宣房出家の潔さに通じる / 歌枕「岩蔵山」はホトトギスの名所としても有名
【解説】季語:ほととぎす=初夏 /
(注1)一井(いっせい(生没年不詳)):尾張国名古屋の蕉門 / 芭蕉は、貞亨04年12月09日、『笈の小文』の旅の途中、一井宅に招かれて、「旅寝よし宿は師走の夕月夜」を発句に熱田の門人らと七吟半歌仙(熱田三歌仙)を巻いた
師直(注1)
(注1)高(こうの)師直(もろなお(?-1351)):南北朝時代の武将 / 足利尊氏の執事 / 武蔵守 / 幕府創設から幕政に参加、北畠顕家・楠木正行を討った / のち高氏の弟・足利直義(ただよし)を出家に追い込み権勢をふるったが、直義の逆襲にあい、上杉能憲(よしのり)に武庫川で一族とともに殺害された / また、浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」中の人物 / 塩谷判官の妻に懸想(けそう)し計略で塩谷判官を惨殺したことで知られる
527 うつくしく人にみらるゝ荊(いばら)哉(かな) 長虹(注1)
【意】かの塩谷判官は、美しい妻を持ったが故に高師直に殺された / 荊(いばら)の様に、美しいものは気付かぬうちに周囲の者を傷つけることだ
【解説】季語:荊(いばら)=初夏 /
(注1)長虹(ちょうこう(生没年不詳)):名古屋城北(名古屋市東区杉村町西杉)、杉の薬師堂住職(現・解脱寺) /芭蕉が『笈の小文』を終え、『更科紀行』に旅立つ間名古屋に滞在した1688年(貞亨05年07月20日)、此処で歌仙興行 /「粟稗にとぼしくもあらず草の庵」等を詠んだ
一休(いっきう)(注1)
(注1)一休宗純(1394-1481):室町時代の臨済宗大徳寺派の僧 / 出自は後小松天皇の落胤とする説が有力
528 いろいろのかたちおかしや月の雲 湍水(注1)
【意】月にかかる雲を見ていると、その千変万化する様子につい感動する / 煩悩の中を生き、其の煩悩に拘泥することなく生涯を全うした名僧一休禅師を思い出す
【解説】季語:月=三秋 /
(注1)湍水(たんすい(生没年不詳)):尾張国の人 /『あら野』等に入句
法然(ほふねん)
529 鳴(なく)聲(こゑ)のつくろひもなきうづら哉(かな) 鼠彈(注1)
【意】鶉の鳴き声は正直な声だが、あまり上品な声とも言えない / 恰も比叡山随一の学僧と称された法然上人が、其の名利を捨て去り念仏称名に打ち込んだ様に、鶉はただ只管鳴いているだけだ
【解説】季語:うづら(鶉)=三秋 /
(注1)鼠弾(そだん(生没年不詳)):尾張国名古屋浄土寺の僧侶 /『あら野』・『あら野後集』・『其袋』等に入句
山岩(やまのいは)
530 おくやまは霰(あられ)に減(へ)るか岩(いは)の角(かど) 湍水
【意】低地の岩は人や馬の足に踏まれ、或いは植物に侵食され崩壊していくが、奥山の岩はそういうことは無く、霰にやられること位か
【解説】季語:霰=三冬 /
海岩(うみのいは)
531 苔(のり)とりし跡(あと)には土(つち)もなかりけり 同
【意】岩場に付いた岩海苔を採取して行った跡は、磨き立てた様で土や砂の類も無くて綺麗になっている
【解説】季語:苔(=海苔)=初春 /
【小生 comment】
次回は、俳諧七部集『あら野』から〔第55回/巻之七~第532句~540句〕をご紹介する。お楽しみに!
■続いては、《会報》前号10月17-18日(土-日)に巡った「琵琶湖一周一人旅」〔二日目〕の10月18日(日)についてご紹介する。
「『今津サンブリッジホテルの南方琵琶湖湖畔』『白鬚神社』『唐崎神社〔唐崎の松〕』」「園城寺『観音堂・梵鐘・金堂(本堂)』」『義仲寺』『膳所城跡』『瀬田唐橋』「石山寺『蓮如堂・多宝塔』」『幻住庵』を巡った。
2020/10/18「琵琶湖一周の一人旅〔二日目〕」は以下の通り行動した
05時15分 起床→腹筋2,000回=60分
06時20分 入浴・仕度
07時00分 朝食
07時35分 check out
07時40分 今津サンブリッジホテル発→一般道32分 21k/366km→
【今津サンブリッジホテル&ホテルより南に程近い琵琶湖湖畔にて】
[16][左上]ホテルでの朝食「和定食」‥食事開始後撮影(食べかけ)‥
[右上]出発直前、今津サンブリッジホテルをbackに
[左下]ホテルを出発後、琵琶湖畔沿いに南下して程近い湖岸にて撮影
[中下]同上2
[右下]同所より今津サンブリッジホテル遠望
08時12分 白髭神社着
【白髭神社】
全国にある白鬚神社の総本社とされ、「近江の厳島」とも称される
祭神は、猿田彦命(さるたひこのみこと)
元々の祭神は比良山の神であると伝わる
第11代 垂仁天皇25年に倭姫命により社殿が建立されたのが創建と社伝にある
[17][左上]白髭神社 琵琶湖上の鳥居を back に1
[右上]同 同上2
[左下]同「白鬚神社周辺案内図」「白鬚神社境内案内図」を back に
[中下]同 境内案内図
[右下]同 拝殿を back に2
08時22分 白髭神社発→一般道 44分 26km/392km→
09時06分 居初氏庭園「天然図画亭」着
【天然図画(てんねんずえ)亭】
居初氏庭園と書院は、茶人藤村庸軒(1613-99)によって作られたもの
作庭には庸軒の門人で堅田の郷士の北村幽安も関わっている
主屋から琵琶湖湖畔側の東へ廊下で繋がった数寄屋造の「書院(茶座敷)」があり、『天然図画亭』と称する
此処は、近江八景「堅田の落雁」で有名な「満月寺・浮御堂」が南へ100mと程近い
天然図画亭邸は、外観からは古風な一般住宅の様に見える
拝観料は@500円
応対してくれたのは此の家の主ろ思われる穏やかな感じの女性
其の方から写真撮影もしてくれるというのでお言葉に甘えさせて頂き、至福の40分程を過ごした
[18][左上]天然図画亭「主屋」 外観
[左下]同 亭内庭園に至る中庭の案内看板
[右上]同「書院(茶座敷)」を back に
[右中]同 庭園を back に1
[右下]同 同上2
[19][左上]天然図画亭 湖畔側石垣上から「書院(茶座敷)」を望む
[左下]同「書院(茶座敷)」縁側から庭園にて
[右上]同 八畳座敷(茶室)「書院」内から庭園と借景の琵琶湖遠望
[右中]同 同上の〔点前座〕
[右下]同 同上の〔床の間〕
09時48分 天然図画亭発→一般道22分 10km/402km→
10時10分 唐崎神社着
【唐崎神社&近江八景『唐崎の松』】
舒明天皇6(633)年 琴御館宇志丸宿禰が当地に住み「唐崎」と名付けたと伝わる
祭神は宇志丸宿禰の妻 / 当社は、持統天皇11(697)年 創建と伝わる
境内には、宇志丸宿禰が植えたのが始まりとされる「唐崎の松」がある
境内から琵琶湖を背景に「唐崎の松」を描いた歌川広重の「唐崎の夜雨」が『近江八景』の図柄として有名
[20][左上]唐崎神社 本殿前にて
[左下]唐崎の松 前にて
[右上]同 柵横にて
[右中]滋賀県指定名勝「唐崎」解説板
[右下]唐崎神社 御朱印
【広重『近江八景』より訪れた五景】
今回の一人旅では、『近江八景』のうち、四景~五景ゆかりの地を訪れることが出来満足だった
[21][左上]広重『近江八景』~『堅田落雁』
[右上]同『近江八景』~【 『唐崎夜雨』 】
[左下]同『近江八景』~『三井の晩鐘』
[中下]同『近江八景』~『瀬田夕照』
[右下]同『近江八景』~『石山秋月』
10時25分 唐崎神社発→一般道 9km/411km
10時40分 長等山 園城寺〔三井寺〕駐車場着
【園城寺〔三井寺〕観音堂】
西国三十三観音霊場の第十四番札所である
[22][左上]園城寺〔三井寺〕大門〔仁王門〕手前の交差点
[右上]同 観音堂への参道手前の「西国三十三観音巡礼第十四番札所」石碑にて
[左下]同 同所の景
[中下]同 観音堂前にて
[右下]同 金堂(本堂)(左)&観音堂〔西国三十三観音〕(右)御朱印
11時05分 園城寺〔三井寺〕観音堂発→一般道 徒歩200m→
11時14分 園城寺〔三井寺〕金堂(本堂)着
【園城寺〔三井寺〕金堂(本堂)&三井の晩鐘】
[23][左上]園城寺〔三井寺〕金堂(本堂)前にて
[右上]同 三井の晩鐘1
[左下]同 三井の晩鐘前にて
[中下]同 三井の晩鐘 解説板
[右下]同 三井の晩鐘2
【園城寺〔三井寺〕大門(仁王門)】
[24][左上]園城寺〔三井寺〕金堂側から見た大門(仁王門)
[右上]同 大門(仁王門) 解説板
[左下]同 同 前にて1
[中下]同 大門(仁王門)
[右下]同 同 前にて2
11時40分 園城寺〔三井寺〕駐車場発→一般道 15分 2km/413km→
11時55分 義仲寺 近隣駐車場着
【義仲寺】
当院には、木曽義仲の墓・巴御前塚・松尾芭蕉の墓がある
芭蕉ファンには、所縁深い寺院であり、小生は2回目の訪問である
[25][左上]義仲寺 前にて
[右上]同 入口前にて1
[左下]同 同上2
[中下]同 略誌
[右下]同 木曽義仲の墓
[26][左上]松尾芭蕉「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」句碑にて
[右上]松尾芭蕉の墓にて
[左下]菅沼曲水〔『幻住庵』を提供した近江蕉門の重鎮〕の墓にて
[中下]義仲寺境内の句碑案内 leaflet
[右下]松尾芭蕉「行春をあふみの人とおしみける」句碑横にて
12時24分 義仲寺 近隣駐車場発→一般道 3㎞/416㎞→
12時35分 膳所城跡公園着
【膳所城跡公園】
関ヶ原の戦に勝利し徳川家康は、翌、慶長6(1601)年 大津城を廃し膳所崎に膳所城を築かせた
膳所城は、天下普請の江戸城、大坂城、名古屋城等の先駆けとなった城
縄張りは藤堂高虎で、琵琶湖の中に石垣を築き、本丸西隅に4重4階の天守が築かれた
家康がこの地を選んだ理由は「瀬田の唐橋を征するものは天下を征する」と言われた瀬田の唐橋に近い場所であったからだと云う
築城年に旧吉田(現・豊橋市)多米町一帯の領主出身で、大津城主の戸田一西(かずあき)を3万石で入城させ膳所藩が立藩した
戸田一西の子の戸田氏鐵は元和3(1617)年 摂津国尼崎藩に転封後、大垣藩10万石初代藩主とり、子孫は明治維新を大垣で迎えた
戸田氏鐵に代わって伊奈本多氏の本多康俊が三河国西尾藩より入城
康俊の子、俊次は元和7(1621)年 再び西尾へ転封
代わって、伊勢国長島藩より菅沼定芳が入城し寛永11(1634)年 丹波国亀山藩に転出
下総国佐倉藩より石川忠総が入城、子の憲之は慶安4(1651)年 伊勢国亀山藩に転封
石川氏の後、再度西尾藩より本多俊次が7万石で入封、爾来、13代220年間、伊奈本多氏の居城となり明治維新を迎えた
[27][左上]城下町 膳所案内絵図横にて
[右上]膳所城跡 本丸〔模擬門〕前にて
[左下]同 本丸内 膳所城址石碑前にて
[中下]同 同 滋賀県歌人協会初代会長 伊藤雪雄 石碑にて1
[右下]同 同 同上2
12時51分 膳所城跡公園近隣駐車場発→一般道
13時00分 瀬田の唐橋着
【膳所城跡公園→瀬田の唐橋】
瀬田の唐橋は、京都の宇治橋、山崎橋と並び、日本三大橋の1つ
近江八景の1つ『瀬田の夕照(勢田夕照))としても知られる
[28][左上]膳所城跡公園 本丸より二の丸・三の丸方面を望む
[左下]瀬田の唐橋 欄干にて
[右上]同 欄干1
[右中]同 同上2
[右下]同 近くより瀬田の唐橋を望む
13時19分 瀬田の唐橋発→一般道10分 3km/419km→
13時29分 石山寺駐車場着
【石山寺】
石山寺(いしやまでら)は、滋賀県大津市にある東寺真言宗の寺院 / 山号は石光山
本尊は如意輪観世音菩薩 / 開山:良弁
西国三十三所観音霊場第13番札所である
[29][左上]石山寺 東大門前にて1
[右上]同 同上2
[左下]同 蓮如堂前から【国宝】多宝塔遠望
[中下]同 蓮如堂前にて
[右下]同【国宝】多宝塔1
[30][左上]石山寺 本堂
[右上]同 多宝塔2
[左下]同 多宝塔を back に
[中下]同 東大門前にて3
[右下]同 芭蕉句碑「石山の 石にたばしる 霰(あられ)かな」前にて
14時17分 石山寺駐車場発→一般道15分 4㎞/423㎞→
14時32分 幻住庵近隣駐車場着
【幻住庵】
元禄2年9月6日に大垣にて「奥の細道」の旅を終えた芭蕉は、翌元禄3(1690)年3月頃、膳所の義仲寺無名庵に滞在
近江蕉門で膳所藩重鎮の菅沼曲水(1659-1717)の薦めで同年4月6日~7月23日の約4ヶ月間此の幻住庵に隠棲
「石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山といふ」の書き出しで知られる『幻住庵記』を著した
此の庵は、曲水の伯父幻住老人(菅沼定知)の別荘で、没後放置されていたのを曲水が手直しし芭蕉に提供したもので近津尾神社境内にある
[31][左上]幻住庵 周辺案内図 横にて
[左下]同 門前にて
[右上]同 内部から庭を望む
[右中]同 床の間前にて
[右下]同 縁側にて
[32][左]御朱印「義仲寺〔松尾芭蕉〕」
[右]御朱印「石山寺」
15時00分 幻住庵近隣駐車場発→一般道→瀬田東IC→京滋バイパス→名神高速→東名高速→音羽蒲郡IC→一般道3時間00分 212㎞/635km→
18時00分 帰宅〔走行距離計635km〕(了)
では、また‥〔了〕
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